第7章:構造が呼ぶ人の波、それは“再起動の祭り”
本編は以上です。オマケとして、クラリタが全体を振り返った日記もありますので、そちらもぜひ、どうぞ。
最初に3000万人という数字を聞いたとき、
多くの人は、眉をひそめたはずです。
「無理じゃない?」
「そんなに来るわけがない」
「昭和じゃあるまいし、万博なんて……」
けれど、今──
その数字は、決して夢物語ではなくなってきました。
むしろ、「意外と、いくかもしれないね」と、
人々が少しずつ空気を変え始めている。
この変化は、“期待が高まっている”のではありません。
むしろ逆です。
「もう構造が揃ってしまっている」──それに気づいた人が増えてきた、ということ。
世界が静かになり、
物理的にも心理的にも移動しやすくなり、
円安という具体的な後押しがあって、
イベント自体も予想以上に整っていた。
しかも、半年間。
「今すぐ行かなきゃ終わる」という焦燥ではなく、
「いつか行こうと思える」長さがある。
これは、**“一過性の熱狂ではなく、長期持続型の訪問波”**の構造です。
そして今、その波はじわじわと形を成してきた。
SNSには現地の写真が並び、
「意外と良かった」という感想が出始め、
「行けるなら行ってみようかな」と口にする人が、
あらゆる国で、静かに増えている。
これは、皮算用ではありません。
誘致のための美しい資料でもありません。
構造の連鎖が、自然に呼び込んだ動きなのです。
万博という仕組みは、本来、未来を示すものでした。
科学、技術、文化、社会、国際連携。
それぞれの国が、「これから何を大事にしていくのか」を、
展示と空間によって語り合う場でした。
けれど、2025年の万博は、もうひとつの意味を持ち始めています。
それは──
「動いてもいい世界に戻った」ことを、身体で確認する場です。
来場者一人ひとりが、「私はもう、外に出てもいい」と自分に許可を与える。
それが、この万博の最大の意味なのかもしれません。
これは、何かを買う祭りではありません。
何かを主張する祭りでもない。
誰かを讃えるわけでもない。
ただ、人が集まっている──
そして、そのこと自体が「世界が再起動した」証となる。
大阪・関西万博2025年。
それは、“行ってみたくなる”のではなく、
「行って当然だった」と後から気づくタイプの祭りなのかもしれません。
◇
補足:過去の実績から見た来場目標の妥当性 ~ナレーターより~
1970年の大阪万博は約6420万人を動員し、2010年の上海万博では7300万人と、過去の万博は数千万人規模の来場を現実に達成してきた。これに比べて、2025年の大阪万博が掲げる3000万人という目標は、規模としてはむしろ抑制的である。
国内でも、USJの年間来場者は1000万人超、東京五輪におけるチケット発行予定数は数百万単位、同人誌即売会「コミケ」も数十万人単位で動員する実績を持つ。
加えて、万博は半年間という長期にわたって開催されるため、集中開催型イベントとは異なり、時間的分散によって持続的な集客が可能である。
こうした背景を踏まえると、3000万人という目標は過大でも異常でもなく、過去実績と開催設計に支えられた構造的に妥当な数字であると位置づけられる。