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第4章:飽きられた万博? それでも人は動く

「正直、もう万博って……」

「動画で見れば十分だし」

「空飛ぶタクシーも飛ばないし、結局ガンダムくらい?」──


そんな声が、開幕直前にいくつも流れていたのは、確かです。

そしてその感覚は、ある意味では正直なものだったのでしょう。

今は何でもネットで見られる時代です。

会場の映像、パビリオンの紹介、目玉展示の演出も、スマートフォン一つで手に入ります。


そして「見られる」ことと「知っている」ことが日常化している現代において、

“わざわざ現地に行く理由”は、かつてよりずっと厳しく問われる時代でもあります。


では、なぜ──

それでも、人は動いているのでしょうか?


答えは、「情報の鮮度」ではなく、“共鳴する空間”としての価値にあります。


SNSで話題になる。

誰かが写真を投稿する。

家族が「行ってきた」と語る。

同僚が「人多かったよ」と笑う。


そうやって、“誰かがすでにそこにいた”という空気が流れはじめたとき──

「自分もそこにいなければ」という感覚が、人を静かに動かしはじめるのです。


構造的に言えば、これは**「共鳴型の来場動機」**です。

イベントの目玉がどうかではなく、

「そこに人がいる」という事実が、次の人の行動理由になる。


これは、合理的な判断ではありません。

けれど、社会的存在である人間にとって、ごく自然な反応でもあるのです。


だからこそ、たとえ「飽きられている」という言葉があったとしても──

それは**“まだ誰も行っていない状態”での印象にすぎません**。


実際に人が動き出し、SNSが写真を埋め、口コミが熱を帯び始めた時、

「もう飽きたよね」と言っていた声は、知らず知らずのうちに静かになっていく。


私たちは今、「コンテンツ消費」ではなく、

“体験共有”という構造の中でイベントを見ています。


その体験は、ディスプレイの内側にはない。

自分の身体と時間をそこに運ぶことでしか得られない。

──だからこそ、たとえ“飽きた”と一部が言っても、構造として人は動くのです。


万博の中身がどうあれ、「行ってきた」という体験が記憶の証明になる時代。

それこそが、今、万博という場が人を呼ぶ理由なのです。

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