四話 覚えること
「ふぅ……」
深い溜息と言うよりも、疲れてしまったそれを口から吐き出すように、渡すは深い深い溜息を吐いた。
体を覆う熱い熱気と、肌寒いそれが混濁して、体が熱かったり冷たかったりと、忙しないそれを感じながら私は体を吹いていた。
手には濡れたタオル。それを使って体についているであろう汚れや臭いにおいをできるだけふき取って、できるだけ清潔なそれにしようと小さい戦いを行う。
……一応言っておくけど、私は今、お風呂に入っています。
時間はお昼だけど、私は皆の好意――金剛寺さんやリンさんの好意に甘えて体を洗っている。
ていうか、二週間も寝ていたから、流石に体洗わないといけないよね。
「………一応、ライフラインは途切れていないんだ。水も出るけど、節約って感じで、あとはお湯……、もだよね。あ、電気も一応通っているんだ。多分、こんな状況だから、自家発電だよね」
あまり詳しくないけど、多分こんな感じかな……?
今私は体を洗う (厳密には拭く)ために図書館の中に作られた簡易シャワールームに入っている。
図書館にはこう言った設備はないので、余った個室にベニヤ板とかトタン板を使って簡易シャワールームを作ったみたいだ。
しゃがんだ状態で体を吹きながら辺りを見渡す。
少し湯気が立ってて見えづらいところもあるけど、上は金属製のバケツに無数の小さな穴を開けてシャワーみたいにしているけど、あまり使っていないみたい。近くに髪を整えるための割れた鏡と、使い古されたブラシが置いてある。
周りにあるシャンプーとかリンス、ボディソープ、あコンディショナーもある。なんでこんなに完備されてんだろう……。
でも、今は体を拭くこと。後は髪の毛を洗おう。
髪の毛だけは、水を使っていいよって言ってくれたし。
「………それにしても」
頭を洗い、程よく泡立ったことを手の感触で味わっていた私は、小さく呟いてしまう。
それは――お風呂に入る前、金剛寺さんとリンさんが話してくれたこと。
この世界がこうなってしまった、大まかで推測しかない説明を。
〓 〓 〓
金剛寺さんが入ってくれたことで、荒木さん (あの後リンさんから話を聞いてようやく漢字が分かった)からの威圧から逃れることができた。
もうあんなの、公開処刑としか思えない様な怒り方で、なんだか疲れてしまった………。
でも助かったことに間違いはないので、私は金剛寺さんにお礼の言葉を言うと、金剛寺さんは『大したことない』と返した。この時はなんだか強そうだなと思っていた私もいたし、この人がリーダーでよかったと思ってしまった自分がいた。
金剛寺さんは私が寝ていたことで知らないこともあるだろうということで、簡単だけど色んなことを説明してくれた。
頭が回らないことがあれば質問してもいい。
あとこれは――知っておかなければいけない内容だ。と、強く念を押されたので、私は出来る範囲で覚えようと金剛寺さんの話を聞くことにした。
まず――世界でパンデミックが発生したのは四月十八日。
この日こそが――世界が崩壊世界になった人も言われているらしく、日本はそれよりも早い段階でパンデミックが起きていた。
その日付は四月七日。
家に強盗が入ってきた日。
その日が日本が機能していた最後の日で、金剛寺さんとリンさんはそれより前から『感染』した人を目撃していたらしいけど、金剛寺さんもリンさんも、この時までは危険視していなかったみたいだ。
本格的に危ないと思ったのが四月五日くらいで、たった二日の間に、日本は崩壊した。
そして四月十八日――世界が終わった。
『感染』者――ゾンビによる感染拡大の所為で。
因みにゾンビの呼び方は『感染』者。ゾンビにしてはおかしな点があるからと言う理由でそう呼んでいるみたい。
つまり――ゾンビは違うってことだと思うけど、ここは追々考えるとのこと。
簡潔に、大まかな流れ、ゾンビもとい『感染』者のことは分かった。同時に――恐ろしいと思ってしまった。
一日や二日で感染が拡大することは分かっている。人が集まっているところで感染が広がれば、どんどん感染経路が広がって拡大する。なんとなくだけどわかっている。
でも、今回は違う。
もう世界が崩壊してしまった。人類がもういないかもしれない様な、激減どころの騒ぎではないくらい、人はいなくなってしまった。
もう常識が壊れてしまった。日常が壊れてしまったんだ。
私が、寝ている間に……。
しかも、私が起きたのは世界が崩壊世界になった三日後の四月二十一日。
もう、最悪とかでは済まされない様な状況に、私は頷くことしか、受け入れることしかできなかった。
次に話してくれたのが拠点。
生き残った人たちを休める場所として選んだのが――この図書館だったんだけど、他にも場所があったはずでは? と言う私の質問に対して、金剛寺さんは考えていたみたいだけど、最も安全だったのがこの図書館だったらしい。
他にもコンビニとか学校とか、色んなところに避難に適した場所があるのでは? と思っていた金剛寺さんだったけど、この地域の学校は全員『感染』している人たちでいっぱいで、コンビニとか、物資がある場所が殆ど狩り尽くされた後で、血まみれで危険だと判断したから拠点にしなかったらしい。
この近くのデパートも同じで、更には『感染』者まみれだったから、まだ大丈夫そうなこの図書館を拠点にしたそうだ。
たった数日の辛抱だから。
そう言い聞かせているって、リンさんは言っていたけど……、それがどうなるのかはわからないって、金剛寺さんは少し落ち込んでいるような音色で言っていたのが印象に残っている。
私は、正直に言えば――救助が来ればいいと思っている。
でも、世界が崩壊してしまった世界で、機能を果たしているのかもわからない。
きっと………、みんな疲れているはずだ。
ここにいる人たちは、きっと見えない希望に縋ることしかできなくなっている。
それは――私も同じ………。
最後は『感染』者に噛まれた場合の『感染』者かそうではないかの見分け方。
『感染』者はゾンビのように人に噛みついて来ることがある。それはゾンビと同じだ。
でも、すぐゾンビのようになるわけではなく、経過と共にゾンビになっていくらしい。
金剛寺さんはそれを見て知ったみたいで、リンさんとお兄ちゃん。そしてほかの人たちにもそれを共有して今に至っているみたい。
いろいろあったらしいけど、それ以上聞くことをしなかった。
私が興味本位で聞くことではない。そう思ったから。
『感染』の過程についてはざっくりいうとこんな感じ。
まず、噛まれてもすぐは痛いけど、引っ掻かれた時は痛くない。噛まれたらすぐに分かるけど、引っ掻かれた状態は分からないので、気付かない人が多い。
『感染』して一日目は人によりけりだけど、物忘れが激しくなる。脳の細胞が少しずつ壊されているから忘れてしまうって言っていたっけ……。
そして二日目は更に物忘れが激しくなって、過食をしてしまう。これは『感染』者にある初期症状みたいなものかもしれないって金剛寺さんが言っていた。
三日目からは頭痛と吐き気を訴える。そこからはあっという間で、激痛に耐えきれなくなって、止まることのない嘔吐と戦って、三分後に死んで、『感染』者になる。
大まかに聞いた内容はこんな感じだけど、実際噛まれた痕や傷跡に浮き出る真っ黒い血管を見れば分かることらしい。
あぁ。だから荒木さんは私が『感染』していないか確認しようとしていたんだ。それでもやっぱり……、あれはないよ……。完全にトラウマだ。
嫌なトラウマを思い出しながら、私は洗い終えた髪の毛をぱさぱさのタオルを使ってしっかり水分を取る。
ごしごし拭きながら私はおさらいと言う形で『感染』者の見分け方について思い出していく。
傷を見ればわかる『感染』者とそうでない者。
『感染』してたら殺されることは目に見えている。
金剛寺さんは言っていた。
『死にたくないから、隠す人もいる。それに気付けなかった』
『『感染』者に噛まれてしまった奴がいてな、そいつは『感染』したことを隠し、俺達はそいつを『感染』していない人と見てしまい、受け入れてしまった。結局そいつはそのまま『感染』者になり、五人噛まれてしまい、その五人を追い出す結果になってしまった』
『俺はもうあんな思いはしたくない。死なせたくない。見殺しにしたくない』
『荒木がしたことは酷い。だがあいつもあいつなりに『感染』したくない一心でやった。一人でも『感染』者を入れると、全員死んでしまうこともある』
『悪く思わないでくれ――希くん。一度体を洗ったら、自分の体を隅々まで見てほしい。その後でリンに見てもらうことにする』
『一応言うが、これは皆で生きるために必要な事なんだ』
「………そう、だよね」
体を洗い終えた私は呟きながら簡易シャワー室のドアを見つめる。
それはトタン板で作られたもので、窓は一切ないもの。
それを見つめながら私は理解していく。
これは必要な事なんだ。
今この世は、『感染』が蔓延した世界で、噛まれたらひとりどころかみんな死んでしまう世界。
ひっかき傷も許されない様なこの世界で生き残るために、自分の体に傷跡があるかどうかをみなければいけない。
連帯責任って言葉。学校でよく聞く言葉だったけど、今その言葉が私の肩にずっしりとのしかかって来る。
痛くないから大丈夫は、ダメな世界。
自分の体を隅々まで見て、初めて傷なしと見なされて安心できる世界なんだ。
「ゾンビ映画でも……噛まれた人がいてパニックになるっている場面あった気がする」
昔見た映画なんだけど、そんな場面あったなぁと思いながら自分の体の隅々まで見て…………。
………………………。ん?
ちょっと待って?
私は一旦見ることを止めて固まる。
固まりながら脳の回転をフル稼働させて、自分の記憶を漁りに漁って思い出していく。
噛まれたらダメなことは分かった。切り傷もだめ。
噛まれたり引っ掻かれたら『感染』することは分かった。
そこで私は思い出してしまった。
世界がこうなる前、日本がパンデミックになった時、私は『感染』した強盗に襲われた。
襲われたあの日、私は確か………。
思い出した瞬間、私はシャワー室から出ることを止めて、すぐにとある場所に早足で向かう。
走ったら転んでしまうから早足なんだけど、それでも私は急いでとある場所に向かっていた。
そう――シャワー室の近くにある割れた鏡がある場所。そこに向かって私は面と向かう様に鏡を見つめる。
写っているのは自分の顔。クマがひどく、くせっ毛で、いつ見てもひどい顔。でも今はそれどころじゃない。私が見たいのは――首元。
首元を凝視して、重点的に見て確認する。
見て、見て、見たけど……結局見えるのはただの首。
何の傷もないただの首なんだけど、私はそれに対して違和感を覚えていた。
思い出してしまった今となっては、どうして? って思ってしまう様な光景に、私は言葉を失ってしまいそうになった。
なんでなの?
そう思いながら私は首元を指で撫でる。
つるりとしたその肌に触れながら――私は言う。
「………ない」
そう。
無くなっていた。
あの日――『感染』した強盗に噛まれた傷が、きれいさっぱり無くなっていた。
噛まれたはずなのに、傷跡すらない首を見て………。