二十九話 雨は洗い流さない。
「リンさんっ!」
「リンさん!」
「――どういうつもりだ! リンッ!」
突然の行動をしたリンさんに、私達は驚きを隠せなかった。
つるはしを奪われたお兄ちゃんが一番驚いていたけど、それよりもなぜ、リンさんは一人であの中に入ってしまったのか。『感染』者が集まって来ている渦中に飛び込んだのか。
どうして――私達に逃げろって、言ったのかもわからないまま、私達はドアの向こうにいるリンさんに聞く。
『どうもこーもねーよ。さっさとここから離れろ。ここは私が食い止めるから、お前達は九十九中学校に行け。車はねーけど歩けない距離じゃない』
ドアの向こうからリンさんの声が聞こえて、それと同時に『感染』者の雄叫びと、殴って叩きつける音が聞こえる。骨が砕かれる音も聞こえて、もうリンさんは戦っているんだ。
「っ! リンさんっ! 私も一緒に」
『来るなっ! もう『感染』者まみれだ! 金剛寺! 早く二人を連れてここから離れろっ!』
リンさんに助太刀しようと、私は割れた窓から入ろうとしたけど、それを制止して、殴りつける音を出して戦っているリンさんの声が響き渡る。
リンさんの言葉を聞いていた金剛寺さんは、裏口のドアを拳で叩きながらリンさんの名前を呼んで――
「ふざけるなリンッ! お前を置いて行けるかっ! 俺も戦う! だから一人でなんでもするなっ! 囮になるなんて馬鹿なことをしないで来いっ!」
『ふざけてないし馬鹿なことをしているとは思ってないっ! 適任なんだよ! この状況で、私は!』
人を殴る音が耳に入るたびに、生々しさと痛々しさが伝わり、リンさんの呼吸も荒くなっていくそれを聞くたびに心臓がうるさくなってくる。
「何が適任だっ! お前ひとりでなんとかなる様な事じゃないっ! 命を捨てる様なものなんだぞっ!? お前が最もしたくなかったことじゃないのかっ!? みんなで生き残ろうと思わな」
『――もう『感染』してんだよぉっっっ!!!』
リンさんは叫んだ。
その言葉を聞いた瞬間、私とお兄ちゃん、そして金剛寺さんは、言葉が出なかった。
思考も真っ白になった。
『感染』している。
リンさんの口から出たその言葉を聞いて、全身の血の温もりが無くなっていくのを感じた。暑くないのに脂汗も出てきている。感情も悲しいとか、混乱とか、信じたくないとかの感情でぐちゃぐちゃ。
無言のままでいる私達をしり目に、リンさんは『感染』者と戦いながら言い続ける。
自分を無くさないために、黒い血を浴びながら。
『あの時、荒木の所為で地下に閉じ込められちまっただろっ? あの時『感染』者に引っかかれたんだ。足に爪の跡があった』
二回。人を殴る音が聞こえた。
『『感染』したみんなは、一日後に頭痛。二日後に吐き気。そのあと急変して変死した。でも、もう吐き気が治まんねぇんだ。出る方法を話していた時から頭も痛くて、感染のペースが速くなっているんだって思った』
一回。蹴り飛ばす音と何かが壊れる音が聞こえた。
『もう母親とか父親の顔も朧気で、忘れちゃいけないことも何度も忘れちまった。なんでカメラなんて持っているんだって思っちまったこともあるんだ』
三回。砕ける音と共に黒いそれが窓とドアの曇りガラスを汚す。
『もう、長くねぇって思ったから、こうするしかないって思ったんだ』
リンさんは言う。どんどん力なく放たれる声に、どんどんリンさんが離れていくようなそれを感じた私は、リンさんの名前を呼んで、窓からリンさんに声を掛けようとしたんだけど――
『見るなっ!!』
「――っ!? あ、わ」
リンさんの怒声に驚き、その拍子に後ろに傾いた時、背後にいたお兄ちゃんが私のことを後ろから抱きしめてその場から引き離す。
「おにいちゃん? お兄ちゃん待って! 待ってお兄ちゃん離して! 離してってば!」
「~~~~~~っっ!」
「お兄ちゃん離して! 離して! リンさん! リンさんっ! リンさんっっ!!」
力づくで、その場から離れていくお兄ちゃんの力に負けてしまう私は、足をばたつかせながらお兄ちゃんに『離して!』と言うけど、お兄ちゃんは離さない。
涙を流して、私のことを抱きしめながらお兄ちゃんは、少しずつだけど、どんどんその場から離れていく。私の静止を無視して、どんどんリンさんから離れていく。
手を伸ばしてリンさんの名前を呼ぶけど、距離は遠のくばかり。
『もう、『感染』者らしい顔になっているのかも、な………。視界が、半分、暗いヤ………』
「リン………っ! おいリン」
『こン剛じ――こレ』
金剛寺さんの声を聞いて、リンさんは窓からとあるものを放り投げてきた。それは地面に落ちて、カランっと音を立てて転がっていく。
転がったそれは――リンさんが使っていた釘バット。
最初見た時、こんな武器を使う人がいるのかと思っていた武器だけど、今となってはリンさんの相棒となっていた武器。
その武器を投げたということは………。
『フた人を………、た、た、頼………、ンだ』
「――っっ!! ああ、ああっ!」
金剛寺さんは釘バットを拾い、そのまま私達の元まで走ってくると、そのまま私達を抱えて駆け出してしまう。
拠点だった図書館を後にして、リンさんを置いて――
「金剛寺さんっ! 金剛寺さん待って! リンさん、リンさんがまだ………!」
「………っ! 金剛寺さん………! 早く」
「分かってる――わかってるっっ!!」
まって、まってまってまってまってまって!
まだ、まだあそこに………!
まだ――私、リンさんに感謝も何も言っていないっ!
まだ恩も返していないし、まだまだ話したいことも、隠していることも話せていないっ!
まだ、まだ、まだ…………!
「――リンさぁあああああああああああんっっ!!!」
〓 〓 〓
みんな、もう涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
金剛寺さんも、お兄ちゃんも、私も、みんな泣いていた。
みんな、リンさんを置いて行ってしまった。
それしかなかったかもしれないけど、それでも、リンさんと別れることは辛かった。
走っている最中――雨が降って来た。
雨が降ったとしても、走ることを止めなかった金剛寺さん。
濡れた状態でも走って、少しでもその場から離れて、涙と雨が混ざった水を落としながら、金剛寺さんは走った。
泣いて、リンさんの名前を叫んでいる私を下ろさないで………、ずっと。
リンさんの覚悟を無駄にしたくない。でもリンさんも一緒に逃げれたら、リンさんを置いて行けないという感情もあって、何が正解なのか、何が負正解なのかわからない状況で、私達は生きなきゃいけない。
生き残らないといけないんだ。
こうなってしまった世界で、一瞬の油断で『感染』者になってしまう世界で。
私は、生き残らないといけない。
リンさんの分まで、みんなの分まで、歩かないといけない。
〓 〓 〓
「チャント、逃ゲレたかな?」
ぽつりと、燐は呟く。
体中に付着している真っ黒いそれを見て、体中に迸る青い血管を視力がまだある右目で確認する。
小さな声で『汚レタな。洗ッテも落ちナイカモ』と、落胆した面持ちで言うと、彼女は手に持っていた壊れかけのツルハシを持ち直し、目の前にいる大勢の『感染』者を見て言う。
元々、この図書館拠点で共に暮らした者達だ。
全員ではないが、殆どが『感染』者になっている状態を見た燐は、小さく自嘲気味の笑いを吐き、乱れた髪をたくし上げながら思った。
もう視界の半分が黒い。
頭も正常に動いていない様で、異様な空腹を感じてしまうが、それでも彼女は、人間として残っている理性を繋ぎ止めるように思い出していた。
図書館を拠点にした時の出来事。
そして希たちと出会ったこと。
物資調達のために赴いたこと。
自分の武器造りのために釘バットを作ったこと。
できる限り、思い出せる範囲のことを必死になって思い出し、人間としての自分を無くさないように酷使して、彼女は言う。
奇声に近い雄叫びを上げる『感染』者多数相手に――
『――ぶ、こロす! こ、来いよぉ!』
燐の声を合図に、『感染』者たちが彼女に襲い掛かる。
それに応戦するように、燐もツルハシと言う心もとない武器を片手に構えて、迫り来る大群に噛み付く。
一秒でも長く、三人が逃げれる時間を稼ぐために。
雨は降り続ける。
降って、降って、涙も何もかもを洗い流すように降り続ける。
だが流せるのはそれだけ。
過去、苦しい今は、絶対に洗い流そうとせず、それを引き立てるように水の彩を作るだけ。
雨は降り続ける。
楽しい事は洗い流すくせに、苦しい事は流さない。悲しい事は溢れさせる。
ざぁざぁと、水の波紋を残して。
雨は降り続ける。
降り続けて、淀ませていく。
拠点:図書館――崩壊。
次の拠点:九十九中学校 (予定)




