二話 母
お母さんは、優しいけど厳しい人だった。
元々真面目で、少しだけ神経質なところもあるお母さんだけど、優しくて、小学校の時の授業参観は必ず来ていた。
一緒に手を繋いで帰った時も、私の言葉をちゃんと聞いて、『すごいね』とか、『頑張ったね』って言ってくれたお母さん。
中学校に入学してからも、私のことを応援してくれたお母さん。
引きこもりになって、関わろうとしなかった私に真摯になって話して、諭して、励ましてくれたお母さん。
家族の中で、一番私を心配してくれたお母さん。
お母さん。
お母さん………。
その、お母さんが……。
どうして………?
どうして?
どうしてこんなことに………?
〓 〓 〓
「簡潔に言う。希ちゃん。君が寝ている間に――今世界は壊れてしまった。全世界に散らばったウィルスの所為で、『感染』した人がゾンビになる世界になってしまった」
それは、私は考えていなかったことで、斜め上の展開が私に襲い掛かって来たかの様な内容だった。
ゲームの世界でゾンビを打ちまくるとか、ホラー映画でもかなり王道と言うか………、そもそもウィルスの所為で『感染』が拡大して、それでゾンビになって世界が滅んだ?
いや………、全然理解が追い付かない。
二週間寝ていたこともあって全然理解できないし、と言うかあれから二週間と言うことは……四月二十一日だよね? え? あれからずっと私寝ていたの? こんな状況の中、ずっと寝ていたの?
寝ていた事実もそうだけど、なんだか申し訳なさと迷惑をかけてしまった罪悪感で心がつぶれてしまいそう……。もう圧死したいくらいの罪悪感だ。
でも、そんな私の心に更なる追い打ちをかけるように、リンさんは告げた。
ずっと……、無意識に考えないようにしようとしていた。あのことについて――曖昧で、結論が分かる様な言葉で。
「君達だけだよ。生き残ったのは――」
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「え?」
リンさんの言葉を聞いた私の返答は、それだけ。
もう何もかもが訳が分からないと言ってもおかしくない様な言葉の数々。
ゾンビとか、世界が崩壊したとか………、そんなのフィクションの世界だ。
だって、ゾンビって、ゾンビってあのゾンビだよ? そんなものが現実で起きるとかありえない。
でも、リンさんは嘘をついているような顔をしていない。真剣そのものだ。
その顔を見て、私は何も言い返すことができなかった。
たった一言の……、一文字の『え』しか言えなかった。
私のことを見ていたお兄ちゃんは、茫然としてしまった私のことを見て、もう一度肩に手を置きながら言ってきた。
「実は、二週間前、大学に行こうとして電車から降りた後くらいに、お父さんから電話があったんだ」
「お父さんから………?」
「そう」
お兄ちゃんは続ける。
あの日、あの時何があったのかを――
「お父さんは焦っている様子で、『今すぐ家に帰れ』って言って、俺の言葉を聞かずに『お母さんと希と一緒にどこか遠くへ逃げろ』って言ったんだ。すごい慌てていて、らしくないお父さんの言葉に、なんか嫌な予感を感じてさ………、大学に行かずに戻ったんだ。そしたら………家のドアが壊れていて、家の中も滅茶苦茶だった。血も飛び散っていて、お母さんを呼んでも返事がない。何があったんだって思って、希がいる二階に向かったら、希が倒れていたんだ。血がついていたから、俺………、焦って、急いで病院に行かないとって思っていたら、突然襲われたんだ。多分、『感染』した人だと思う。その人に噛まれそうになって、無我夢中で希を背負ったまま走っていたら、リンさんに助けられたんだ」
それで、今はここで救助を待っている。
お兄ちゃんは言ってくれた。
震える口で、あの時のことを説明しているお兄ちゃんの顔には、後悔の顔しかなかった。
「お、お兄ちゃん。ごめん………私の所為で」
私も、後悔しかなかった。
だって、私がいなかったら、お兄ちゃんが怖い目に合うことはなかったのに……。
そう思った私はお兄ちゃん謝る。謝った私を見てお兄ちゃんは「いや、お兄ちゃんも不甲斐なくてごめん」と言って――
「あの時、目の前のことしか考えていなかった俺にも非がある。だから確かめたんだ。希をここに匿って、その後に……」
「どうだったの………? お母さんは? お父さんは?」
「………お父さんは分からない。けど」
けど? けどの言葉を聞いた時、私はもう、言葉を失った――呼吸することしかできない人間になりかけていた。
リンさんの言葉を聞いてから、ずっと頭の片隅にあった。
そう思いたくないって願っていた気持ちが、そんなことないという願いが、どんどん崩れていく。
お兄ちゃんの言葉を聞くにつれて、それがどんどん大きくなっていく。
お母さんのことを思い出すたびに、お母さんとの記憶を思い浮かべるたびに、どろどろの赤黒いそれが覆い被さっていく。
お母さんの存在を消すように、濃く、濃く広がって………。
「お母さんは………、もう、だめだった」
もう、それだけで十分。
それだけ聞いて、私は茫然としたまま、泣いてしまった。
もう目じりが熱いとか、そんなの関係なしに、目からどんどん零れていく。
ぼろぼろ零れて、そのまま俯いて嗚咽を吐いて泣いた。
お兄ちゃんは肩に手を置いたまま何も言わなかった。リンさんはそんな私の背中に触れて、ゆっくり撫でながらお母さんのその後のことを言ってくれた。
最初に「辛いだろうけど、言わない方がいいかと思ったこともあった」と言って、リンさんは真剣な言葉を続けて言ってくれた。
「でも、伝えないとだめだと思ったんだ。希ちゃんのためにも。そして――これからのためにも」
だめだと思った。
その言葉を聞いた私は泣きながら、嗚咽を吐きながらリンさんのことを見る。
リンさんはそんな私を見て、スーツのポケットに手を突っ込みながら続きを口にした。
なんで伝えなければいけないの? そんなことを思いながら私は耳を傾けると、リンさんは言った。ポケットに入っていたであろうそれを見せながら………。
「お母さんは、幸い『感染』していなかった。お母さんは最後の最後まで、『感染』した奴に対抗していたらしい」
「………え?」
感染、していなかった?
お母さん、感染していなかったのに、どうして………?
私の困惑をよそに、リンさんは続ける。
お母さんのその後の――憶測を。
「あの後すぐ――望くんと一緒に家に行った時、リビングに倒れている『感染』者の上に覆いかぶさるように、お母さんが倒れていたんだ。一応どうなっているか簡単に見たが、噛み付いた痕跡はなかった。代わりにあったのは――首の骨折。これが死因だったと思う」
お母さんは、優しかった。
「『感染』者相手に、お母さんは魚を切る包丁を使って殺ったみたいだ。何度も突き刺した痕が『感染』者の背中にびっしりあったよ。勿論、最終的には頭にも突き刺さった跡があった」
お母さんは、厳しい人だった。
「希ちゃんを守るために、お母さんは、頑張ったんだ」
リンさんは私の手を取って、手に持っていたそれを渡してくれた。
それは――あの日、お母さんが付けていた……、あの時強盗の手についていた……シュシュ。
血まみれだったのか、変色して茶色くなってしまったそれを渡してくれたリンさんは、再度私を見て言う。
「希ちゃん。今は『受け入れろ』なんて言わない。『死んだのだからそれを背負って生きろ』とか、そんなことは言わない。こんなことを突然聞かされたのに、強要は流石に無理があるからな。望くんにも言ったら、最近になってやっと動けるようになったんだ。それが普通だ。無理にとは言わない。今は休んでくれ」
こんな状態だからこそ、今は心を休めな。
リンさんはそう言ってくれた。お兄ちゃんも頷きながら「ごめんな」と、私と同じように泣いて言う。
ずっと泣いていたんだ。お兄ちゃんも辛かったんだ。
辛いのに、お兄ちゃんは私のことを考えて動いて、考えて、言葉にしてくれたんだ。
そんなお兄ちゃんのことを考えて、リンさんの言葉を聞いて、お母さんの形見を受け取った私は、また泣いてしまった。
今度は嗚咽ではない。声を出して泣いた。
お母さんが死んでしまった。
その現実を胸に刻んで………………………。
〓 〓 〓
一気に押し寄せてきた現実は、私が見た夢だったのかもしれないという願いを滅茶苦茶にする。
お兄ちゃんも辛かったかもしれない。
泣くくらい辛くて、立ち直れないくらい落ち込んでいたんだから、辛かったに違いない。
リンさんも辛かったかもしれない。
これを最初に告げることはなかったと思ったかもしれない。
でも、リンさんは私達に教えてくれた。伝えてくれた。
憶測でも、想像でも、それでも――教えてくれたことに、心から感謝した。
お母さんは、最後までお母さんで、お母さんは最後の最後まで――私を守ろうとしたんだ。
その仮説を信じて、それを真実と思って………私達は、泣き続け
「――いつまでそこで座り込んでいるっ! さっさとこの避難所のために動けっ! 若造共っ!」