二十六話 触手
望が入った『社長室』は、革製のソファが向かい合う様に置かれ、ガラス製のテーブルが置かれている応接室の様な室内だったようだ。
奥にある社長の机と椅子。そして黒いパソコン。近くに置かれているジャケット掛けと置物を置く家具。それらはきっと、終末世界になる前の世界ではもっときれいに置かれていただろうが、それも『感染』者が蔓延る世界になり、綺麗とは程遠い惨状と化していた。
壁に飛び散る血しぶきの跡。
あたりに散乱している壊れかけの家具と床に散らばっている何かの破片。
ソファの皮もはがれ、歯形がつき、きっと『感染』者に向けて持ち上げ投げつけたのだろう。腕を乗せるところが壊れて転がっている。
もう一つのソファは爪で引っ掻いたであろう跡があり、それはもう一つの扉の近くにあり、家具と机、金属製の何かと一緒になって転がっている。
きっと扉を抑えるために置いたのだろうが、窓を突き破ったことでそれも無駄になってしまっている。
幸い隣の部屋に『感染』者の気配はない。
あたりを見ていた望は、握りしめていたツルハシを持ち直し、安堵のそれを小さく吐きながら呟く。
「『社長室』のプレートを見て入ったけど、ここもダメみたいだな………。生存者は、期待しないでおこう。今は………」
呟きながら入った望は、入ったその室内を見回し、『感染』者がいないかどうかを目視で確かめる。
床、部屋の端、そして隣の部屋を出入り口のドアの近くで見る。
『感染』者。そして噛まれた死体は――無し。
隣の部屋は開いたドアから覗き、その下と奥も見る。奥は暗くて見えないが、目視で見た限りいない。
「ほ」
再度安堵を零す望。そしてカードキーが入っているであろう机を見下ろした。
「きっと、貴重品は机の中に入って………はぁ?」
机を見て、引き出しを手あたり次第見ようとした望だったが、机の状態を見て驚愕と苛立ちを含んだそれを吐き出してしまった。
無理もない話だ――机の引き出しは壁側にぴったりとくっついている。しかも机にのしかかるようにソファとどこから持ってきたのか鉄製のファイル棚。机の上にはなぜかコピー機と言う完全にアンバランスなものが置かれている。
本当なら鉄製のファイル棚を置けばいいので半と思ってしまうのだが、きっと焦っていたのだろう。そこまで考える余裕はなく、何が何でも重いものをドアの前に置いたに違いない。
………つまり、考えずにどんどん置いた結果がこれだ。
それを見て望は内心………。
――なんで引き出しを壁側にしたんだよっ!
声に出してしまいそうなくらい苛立ちを露にしてしまいそうだった。感情的になってしまいそうだったが、それを深呼吸で押さえつつ、望は息を吐きながら机の端をしっかりつかむ。
――いや、机が何だってんだ。普通に静かに動かせば何とかなるだろ。
――それに近くに『感染』者はいなかった。見たけどいなかったんだ。少し音を出しても大丈夫だと思うけど、音を立てずに、ゆっくり動かそう。
掴んでから望は細心の注意を払い、手と腕に力を入れて机の片方を持ち上げた。
持ち上げたと言っても、少しだけ地面から浮かせただけ。一人しかいない状況の中で物が入っている机を動かすなんてことは無謀だ。
しかも引き出しに入っているかもしれないそれを取るためだけに動かすだけで、全部を動かすなんてことはしない。
体力を温存しつつ、持ち上げては少しだけ移動して、隙間を作ってから探そうと試みる望。
何とか引き出しを開けることができる隙間を開けてから、なるべく音を出さずに望は引き出しに手を掛ける。
――ず、がたがたっ――
「っ」
木と木が擦れるような音。そして中で転がる色んなものがぶつかる音
普段通りであればあまり気にしない音。かろうじて『感染』者にも聞こえていないかもしれない音なのだが、それでも気にしてしまう様な緊張感。
引く音はいいが、問題は中に入っている物だ。あまりにスカスカないせいなのか、それともなかにボールペンや名刺入れが入っているのかわからないが、転がっているせいで音が大きくなってしまう。
――きっと動かした時に中でシャッフルされて、整えられていたものが崩れたんだな………。
――特に中に入っているボールペンの音。これはかなりやばいかもな。
――携帯の音で反応する『感染』者だから、小さな音なんて聞こえないと思うけど、用心して………、用心して………。
いつどこで聞いているかわからない。
目視で見たからと言って、それが正しいなんて言う確証もないのだ。
望は少しずつ息を吐き、音を出さないように呼吸を整えながら再度それを引く。
――ず、ず、ず――
――ごとごと、がたた――
細心に注意を払っているにも関わらず、音は小さく放たれている。放たれると同時に大きな音も連動して動き、存在を示して来る。
あまり気に留めていなかった日常の音で、ここまで神経をすり減らすなんて思ってもみなかった。
――いない、よな?
――大丈夫だよな?
望は再度目視で隣の部屋に繋がっているドアの割れた窓から顔を出して見る。
よくよく見るとそこは色んな棚が置かれている場所で、ここも資料室なのだろうと認識した望は、再度目視で億を見る。
奥は暗いが、音もしない。人影、気配もない。
確認した後で望はもう一度意を決して――机の引き出しに手を掛け、細心の注意を払って引き出しを動かした。
――ず――
また木と木が擦れる音。
そして――
目の前に、黒い何かが横切り、残っていたガラスの破片も相まって望の視界が一気に危険に染まってしまった。
〓 〓 〓
一瞬、望は理解できなかった。
引き戸を開けようとした時、隣の部屋から突如として現れたそれは、割れた窓から入って来たのかと思ったと同時に、ドアごと破壊し、周りにあったソファや棚もいとも簡単に壊してしまったのだ。
勿論社長の机もだ。
一瞬の出来事に感じてしまうそれは、望の緊張感をフル稼働させるほどの光景で、望はバランスを崩してよろけてしまうも、そのまま体制を立て直して手に持っていたつるはしを投げるように手放す。
投げた方向は――ガラス製のテーブル。
このままではまずい。
自分が助かる方法を最優先にした結果、望は武器を手放して隠れることにしたのだ。
隠れるところは考えていない。見てもいない。
だからもう目に入った場所に隠れるしかない。
そう思い、望はつるはしを囮にしたのだ。これでうまくいくとは思えないが、それでも大きな音を出すそれを投げたのだから何とかなるかもしれない。
望が投げたつるはしはそのままガラス製のテーブルに向かって落ちていき、『ガシャンッ!』と大きな音を出して割れて壊れ――たと同時に、黒い職種のようなものがガラス製のテーブルに追い打ちの攻撃を仕掛け、あろうことかつるはしの鉄の部分をひん曲げてしまうほどの威力の叩きを繰り出したのだ。
大きな音と叩く音が耳を劈く中、望はそのまま壁の端にあったソファの影になって隠れ、息を殺して攻撃が止むのをじっと待った。
声を出さず、息を吐く音も放たないように、己の口を自分の手で強く押さえつけて――
黒い触手は音が無くなったその場所からしゅるりと離れ、少しの間その場所のとどまっている。
触手の先に何かがあるのだろうか。その先を目で見るようにきょろきょろと動かしては辺りをうろついている。
望の近くにも来て、望の足元に近付いて来る光景に、心臓が跳ね上がるようなそれを感じてしまう。
足元に蛇がいるような、何か悍ましいものに襲われる時って、こんな感じなのか? そう思ってしまった望だが、そんなことを考えているほど余裕ではない。
触手の攻撃はつるはしの鉄の部分を曲げてしまうほどの威力なのだ。
人間がそれを受けてしまえば鯖折まっしぐらになってしまうだろう。もしくは真っ二つか、それか胴体に穴が開くか。
どれも嫌な末路なので受けたくない望は声を殺してそれが引くのを待つ。
蛇の頭のように辺りを見ているのかわからないそれは、少しの間望の足元をうろつく。
うろつき、更に望に近付こうとした時、触手は脊髄反射の如く跳ね上がる。
跳ね上がると同時に触手は一目散で壊れたドアの向こうへと引っ込んでいく。
そんな光景を見た望は驚きながら忍び足で壊れたドアに近付き、薄暗い部屋から顔を第sて辺りを見渡すが、黒い触手はどこにもいなかった。
暗いせいもあって見つけられなかったが、まだいるかもしれない。それを予想しつつ、望は完全に大破してしまった机を見て、そして視界の端に写り込んだそれを見て望は目を光らせた。
彼の視界に入ったそれは――社長のカードキーだった。
――やっぱり、机の中に保管してあった。壊れなくてよかった。
荒木があの時見せてくれたものと同じ物を見つけた望は、静かにカードキーを拾い、安堵のそれを心の中で零しながらその場を忍び足で後にする。
まだいるかどうかはわからない。わからないが、わかったことはある。
わかったことは二つ。
一つは、『感染』者は何らかの条件が揃うとなのかわからないが、瞳孔が白くなり、怒りを露にする個体がいる。
二つは、人の形をした『感染』者以外も危険であること。
これに関しては希たちにも話さなければいけないと思い、望は社長室のドアに手を掛け、ゆっくりと、音を立てずにドアを開けて後にした。
手にした希望と、新たに知ってしまった絶望を希たちに伝えるために――




