二十三話 泣かなかった
「び、びーえいち?」
いくさんの言葉から出てきた言葉は、聞いたことがない単語。
単語……? なのかな? それとも何かの頭文字? はたまたは何かの暗号的な何か?
聞いたことがない言葉を延々と頭の中で回し、それは何なのかと記憶の自分に語りかけては質疑応答を繰り返す。
びーえいちってなに?
わからない。
いくさんは何を言っているんだろう?
わからないけど、何かを伝えたかったことは分かる気がするけど。
それが分かればいいんだけど、それも分からないとなると、ただ分からない単語しかわからない。
――結局、私は結果を出すことができず、無言のままいくさんのことを見ることしかできなかった。
言われた言葉に対して何を言っているのかわからない。困惑しているそれを見せてしまったことは申し訳ないと思うけど、それでもいくさんは無言のまま私のことを見ている。
答えを待っているか。
すごく申し訳ない。
後悔しかない頭の中で何か答えを出さないとと思った私は、何とか言葉を紡ごうと口を開けようとした。
そう――まだ明けていない。開ける前にいくさんは私の肩から手をパッと放し………。
「わりぃ。わからなかったんだろ? ならそれでいいから」
「あ、そう、なんですか………?」
「そうそう。それでいい。わからないならわからないでいい」
けど――と言っていくさんは再度私を見て告げる。
また真っ直ぐで、真面目なその目でいくさんは言った。
「これは覚えて置けよ。『BH』は」
「希―っっ!」
「!」
「?」
いくさんが何かを告げる前に、聞いたことのある声が私といくさんの耳に入った。
その声は会社の方から聞こえて、その声がした方を見ると――
「お兄ちゃん!」
会社の割れてしまった窓から手を振って、私達に呼び掛けているお兄ちゃんだった。
外傷もなく、元気に手を振って私達を――と言うよりも私に向けて声をかけているみたいだ。
私は首を傾げているいくさんに「あの人がお兄ちゃんです」と言ってお兄ちゃんの元に向かうと、私の言葉を聞いていくさんが何かを言っていた気がする。
なんか………、『もやしじゃない』とか言っていた気がするけど、スルーしよう。
「希、大丈夫だったか?」
「お兄ちゃんこそ大丈夫なのっ? 噛まれていないよね? 心配したんだよっ」
会社の中に入り、無傷で私達に駆け寄るお兄ちゃんは心配そうにしていたけど、私はそんなお兄ちゃんに対してそっくりとまではいわずとも、少し似ている言葉を返した。
こっちがもっと心配したから。
そう遠回しに言ってお兄ちゃんの体を見るけど、やっぱり傷はない。噛まれていないから私は安堵のそれを吐いてまたお兄ちゃんのことを見る。
お兄ちゃんは申し訳なさそうな顔をして「ごめん」と謝罪してくれたけど、そんなお兄ちゃんのことを見ていくさんは腕を組んでこう言ってきた。
「てか、あんなにいた『感染』者からよく逃げたな。噛まれてもおかしくなかったのに」
「! た、確かに………、お兄ちゃんどこにいたの?」
いくさんの言葉を聞いて、私は思い出す。
確かにあんなにぎゅうぎゅう詰めあった『感染』者の大群の中、お兄ちゃんはどこにいたんだろう……。隠れていたのかな?
そう思いながらお兄ちゃんに聞くと、お兄ちゃんは思い出したようにとあるところを指さして、冷静に「あそこに隠れていたんだ」と言うと、それを見て私達二人は納得してしまった。
そこは鍵付きの鉄製のドアだけど重くなさそうなドアで、上にはプレートが付けられている。部屋だった。窓もなく、外傷を上げるなら凹んでいるだけのその部屋は――資料室。
「あの資料室は大事な物も入っているみたいだから、厳重だったんだろうな………。おかげでなんとかなったよ。一応使える物は探したけどなかったな。資料だけ」
資料室を指さしながらお兄ちゃんは言い、それを聞いていくさんは黙ってしまったけど、私はそれを聞いて、続くようにお兄ちゃんに聞く。
いるはずのあの人のことを聞いて――
「お兄ちゃん………だけ?」
「………………」
お兄ちゃんは何も言わなかった。
言いにくい顔をして、後ろめたさを出しながらお兄ちゃんは黙ってしまった。
でも、私はそれだけで理解してしまった。
そう――お兄ちゃんだけと言うことは、荒木さんはもう………。
「………………」
荒木さんがいないことに喪失感を感じ、今まで感じてきたことが懐かしくなると同時に、もういなくなってしまった。もう会えないという喪失感が悲しみに変わって、私も俯いてしまう。
嫌な人ではあった。
けど、いなくなってほしいとは、思っていなかった。
こんな状況だからこそ余計に感じてしまい、それを見ていたいくさんは私の肩に手を置いて、苛立っているそれではない冷静で、少しだけ穏やかな声で言った。
「ウチは知らない人だけど、こんな状況で生存者が死ぬことはウチだっていやな気持になる。あんたの気持ちに対して、『泣くな』とか言わないよ。ウチはそれを何度も体験したよ。この数週間の間で」
人が死ぬのは、誰だって悲しいからさ。
いくさんは言う。
人が死ぬのことは悲しい事。
だからそれを隠さなくてもいいって。リンさんと同じことを言ってくれたことに、私はとうとう涙腺が少し決壊してしまった。
嫌な人でも、少しの間一緒になった人でも、悲しい事は悲しい。
いなくなってしまった喪失感を埋めることができないから、泣くことしかできない。
今は『感染』者もいない。
だから泣くことができた。ボロボロと泣いて、荒木さんに少しばかりの黙祷を捧げようと思う。
もうこれ以上、犠牲者を増やさないためにも。
〓 〓 〓
この時、希は気付いていなかった。
否――いくだけは気付いていた。
希は荒木と言う仲間に対して泣いている。
それは仲間だと思っていたからこそ、いなくなってしまったことに悲しんでいるから。
だが、そんな彼女を目の前にしても――
望は泣かなかった。
泣くどころか、悲しいという感情がない彼の表情はどこか壊れているようにも感じてしまう。
いいや――もう壊れているのかもしれない。
そういくは思った。
どころか最初から変だと思っていたからこそ、いくは望を警戒していた。
同じ生存者なのに、なぜ荒木と一緒に隠れなかったのか。
どうしてこいつだけあの場所から出ていたのか。
全部が疑問だった。
疑問しかないが、それを聞くことはできない。
聞いてしまえば、真実を言ってしまえば、希が壊れてしまうかもしれない。
そう思ったからこそ、いくは警戒に留まっていた。
真実を話して壊れてしまった人は何度も見た。見たからこそ言えなかった。
――こいつは、何かを隠してやがる。
――だが今は聞けねぇ。
いくは思う。
望を警戒して見ながら、荒木が死んだ理由が彼にあると見て。
そしてそんな彼女を見ていた望は思い出す。
あの時――荒木に向けて言ったあの言葉を思い出して、その後のことを思い出しながら………。




