九話 本能的に
「――ゴォるぅウウウあああアぁああアアアァァっっ!!」
包丁が落ちた音を聞いて襲い掛かって来た『感染』者。
映画で見たゾンビのように手を前に突き出し、襲い掛かろうとしている体制で走って来る。
周りに飛び散る黒い血と、口から零れ出ている涎を見て――人間の顔とは思えない様な犬歯を剥き出しにし、すぐにでも噛み付こうとするその姿を見た私は恐怖で頭がフリーズしてしまった。
フィクションなら、この場合動くべきなんだ。
動いて、何とかするべきなんだ。
でも――現実なんてこんなもの。
動けないのが普通で、私もその一人で、噛まれる運命なのか
――ばぎっ!
「――!!」
突然耳に入って来た殴る音。
骨が折れた様な音を聞いたことで現実に戻ることができた。だから目の前を見ることができた。
目の前には、いつの間にか立っていたリンさんがいて――リンさんはホームランを打ったような体制で私の前にいた。
釘バッドに黒いそれをこびり付かせて――
「大丈夫?」
「! あ、はい」
リンさんに呼ばれて私は驚きながらというか、困惑しながらリンさんに言うと、私の方を振り向いて、癖のように流れる様な動きで釘バッドを肩に乗せる。
乗せると同時に『ぼたぼた』と滴り落ちる黒い血。
それを見た瞬間――あぁ、これは現実なんだと思い知らされると同時に、何もできなかったことに後悔と罪悪感、そして申し訳なさが私を襲う。
実際、何もできなかったのだから、結局足手まといなんだよね………。
思わずため息が出てしまい、そんな姿を見てリンさんは困ったように笑いながら『いずれ慣れる』と言って私のことを見るためにくるりと向きを変えた。
変えたと同時に、私は見てしまう。
笑顔で私を見ているリンさん――の背後で、呻き声を発生する顎を無くした『感染』者の姿。
すぐに噛みつかんばかりに襲い掛かろうとしているその姿を見て、私は思わず動いてしまった。
〓 〓 〓
私は、ここで選択を間違えてしまった。
声を発する――その選択ができなかった私の思考は、そのまま動くという選択をしてしまい、そのままリンさんに向かって走ってしまい、無意識に行動してしまうことになった。
頭ではわかってた。
頭ではリンさんに言わないとって思っていた。でもできなかった。
無我夢中で、襲い掛かろうとしてきた『感染』者に向かって私は、リンさんの左わき腹を通り過ぎ、姿勢を低くしながら手に持っていたバールを『感染』者の足に引っかけて転ばせる。
――ボギッ――
「あギぃああっ!?」
折れる音と共に引っかけられた『感染』者はそのまま床に膝をつけ、足カックンでもされたかのように姿勢が低くなる。
その光景を振り向きながら見ていたリンさんは驚きながら見ていたけど、私は無我夢中で、考えもしないまま私に気付いて振り向こうとした『感染』者に向けて、立ち上がると同時にバールの尖っている方を向けて――
思いっきりフルスイングした。
リンさんがしたホームランを真似て、何とか尖っている方を振るい、反射的に目を瞑ってしまったけどそのまま『感染』者の頭 (だと思う)に向けて振るって――
――どっ!
――ダァンッ!
――どちゃっ!
「……………」
「……………」
音を聞いて、無言のままでいる私とリンさん。
目を瞑ってしまい、音を聞いて少ししてから私は目を開けて周りを見ると、リンさんに襲い掛かろうとしていた『感染』者は………、体をびくつかせながら息絶えていた。
さっきまで見ていた死体と同じ。今度は本当に死んでいる姿で斃れていた。
短く息を吐いて、ゆっくりとした動作でバールを見る。
バールの尖った先には黒いそれはべっとりと付いていて、私の服にもそれが微量だけど付着している。
リンさんを見ると、リンさんは驚いた顔をして固まっていたけど、すぐに現実に意識を戻したのか『はっ!』と肩をびくつかせ、私に駆け寄りながら名前を呼んで、そのまま私の肩に手を置いて聞いて来た。
「さっきの動き――あれは何だ?」
引きこもりの動きとは思えないくらい機敏だったぞっ?
リンさんの純粋で困惑の疑問を受け取った私は、一瞬固まってしまうけどすぐに平静を装う様にこう言った。
へにゃりとした顔で、ぎこちないそれで――全然ごまかしきれていない笑顔で言ってしまう。
「えっと………、私も、驚いています」
本能的に出来たのかも。
そんな言葉を聞いて、リンさんは困惑のまま私を見ている。
嘘は、ついていない。
本当に本能的に動いた結果がこれで、私自身もう落ちただろうなって思っていた。
でもまだ落ちていなかった。どころか冴えていた。
自分の体にしみ込んだそれは、まだまだ健在なんだ。
それを痛感し、まだ残っている感触を思い出しながら乾いたそれを浮かべる。
人なんて殴ったことがない。殺したことなんてないその感触。
これが――人を殺した時の感触なんだ。
驚きと感じたくなかったそれを痛感しながら、私はリンさんのことを見る。
何も言わないけど、なにも聞いてこないリンさんを見て………。
「こ、この部屋には何もないから……、別のところを探します………?」
と、我ながら無理かもしれない別の話題に切り替える方法を行う。
無理過ぎるかもしれない。
そう思っていたけど、リンさんは少し無言になった後、すぐに頷いて――
「そうだな。話したくないことだってあるんだ。無理には聞かないよ」
と言って私の肩から手を離す。
離した後リンさんはもう一度周りを見渡し、床に落ちていた包丁を手に取ると、それを見せながらリンさんは言う。
私のことをしっかり見て、気味悪がる素振りなんてしないで――
「その前に、まずは新しい武器の調達だ。包丁とか、あとは攻撃できそうなものを片っ端から探してほしい。その後でここから出よう」
〓 〓 〓
燐と希が『感染』者に襲われていた頃――金剛寺、望、荒木は………。
「がぁアああああっ!」
現在進行形で『感染』者相手に戦っていた。
燐と希と別れてから、三人は二階の会員しか入れないプレミアムルームで物資と充電できる場所を探していた。勿論情報を得るための行動もしている。
していたが、その場所に入る前からもう三人は言葉を失っていた。
荒木は青ざめと同時に髪が数本抜け。
望はそれを見て言葉を失い。
金剛寺は舌打ちを零してお手製の槍を前に向ける。
空気を小さく裂く音が響き、辺りに張り詰める緊張が金剛寺の心臓を五月蠅くさせる。
無音室と言う場所では心臓の音も聞こえるというが、金剛寺はそれを何度も体験している。どころかこんなことはパンデミックになってから日常茶飯事になってしまっている。
望もそうだ。もう体が慣れてしまった。思考も慣れてしまった空間を見ながらつるはしを構えて臨戦態勢になる。
そう――二階は一階とは大違いの『感染』者であふれかえっていた。
呻く声と共に周りを徘徊し、個室となっている場所から何かを食い漁る音が聞こえる。何かにぶつかるとその場所に向かって走り、壁に突き当たる。
ゾンビ映画でよくある光景を、彼等は目の当たりにしている。
日常茶飯事でも、想定外であっても冷静を欠いてはならない。
だが、ここで冷静ではない男はやらかした。
「あ、ああああ」
「おい馬鹿………っ!」
この場で冷静ではなかった男――荒木は金剛寺の忠告を聞かないまま狼狽のそれを零し、手に持っていた武器を、鉄パイプを手から零してしまった。
しっかり持っていなかったからと言う理由では済まされないほどの狼狽と共に、彼は後ずさりしながらそれを手放し………。
――カーンッ!――
床に向けて音を立ててしまった。
最悪な事に、それはいい具合に響き渡り――音に反応する彼等の注目を集めてしまい………。
『グァしゃあァァアアあああぁぁアアアアッッ!!』
『ギャアアアあああぁあガああアアアぁぁあああっっ!!』
「くそっ!」
「の………、そぉっっ!」
最悪の事態になったことで、金剛寺と望は応戦するほか選択肢がなかった。荒木に至っては階段の中間のところで座り込み、小さくなりながら肩を震わせている始末。
使えない奴の所為で危険になってしまう。
映画ではお決まりのテンプレ。
しかしそれを打破する経験を積んでいた金剛寺は、何とかお手製の槍を使いつつ、荒木が落とした鉄パイプを使って『感染』者を斃し、応戦する形で望もつるはしを使って頭を割って斃していく。
約数分くらい続いただろうか……、二人は何とか『感染』者を全滅させ、荒くなった呼吸を整えながらお互いの顔を見る。
そして――
「――噛まれてないな?」
金剛寺は聞く。その言葉に望は頷き、振り向きながら階段の方を見る二人。
「荒木さんは、まぁ大丈夫か」
「あの人は一目散に逃げましたし、噛まれた叫び声も上げていないから、大丈夫だと思います」
「それならよかった」
「良くも悪くも……、ですけど」
安堵する金剛寺とは裏腹に、望は怪訝そうに顔を顰める。
実際、危険な目にあった原因は荒木にあるのだが、彼は現在進行形で震えている最中だ。降りて問い詰めたいが時間がない。余計な時間は移動時間で片付く。
そう思いながら望は金剛寺を見上げて、ポケットからそれを取り出して言う。
「そうと決まれば――早速充電と、物資と情報。探しましょう」
「だな。まずは充電できるかどうかだな」
望の言葉に金剛寺は頷く。
あたり一面黒いそれがこびりつき、死体まみれになってしまった阿鼻叫喚の空間を見て、ここに何かがあることを願いながら………。
なんでもいい。
少しでも足しになれるものがあれば。
少しでも、みんなの希望になれるものがあれば。
そう願って――




