4
僕は大沢のものである。父のものではない。だから投げる、大沢に教わった通り、基本に忠実に、指をしっかりボールにかけて。章吾の構えるミットが唸る。章吾の後ろに腕を組んで立つ大沢がナイスボールと言う時は僕が最高にキレのある球を放った証拠である。
僕は大沢のものである。まさに道は分岐したのだ、中学の頃まで僕を指導し続けた父とは分かれ道で手を振った。
手を振ったのだ、しかし父は手を振り返さないのだ。バックネットの裏にいた。マウンド上の僕からその姿ははっきりと見えた。中学野球の指導はほったらかしであるのか、ワイシャツ姿で、腕を組んで、そこにいるのだ。
突如として投げ方が分からなくなる。指をどこにかけるのか、腕をどう引くのか、まるで野球を始めて間もない小学生のようにマウンドの上で混乱する。幾度も幾度も球を握り直す。どうしたと、章吾が声をかけてくる。大沢の目はただ静かに僕を観察している。バックネットを振り向かずともきっと大沢はその存在に気づいている。何も言わずただ僕の投球を待っている。まさに二人の男が僕を見ている。青春時代、投げ合った二人が。
ともかく僕は球を放る。その直前、自分の腕が自分のものではない感覚に襲われる。まるで何者かに遠隔操作された腕から放り出された球はとんでもない所に飛んでゆく。
大沢の顔を見やる。ただ静かに僕を観察している。何の表情も浮かべずに。
マウンドの上で息を吐く。きっと気のせいだ。次こそきっと元通りに投げられる。そしてまたも例の感覚に襲われた結果暴投である。全身に冷や汗が噴き出す。しっかりしろと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど身体は硬直し、言うことを聞かなくなる。
大沢が僕のもとへゆっくりとやって来る。僕の腕を掴み、フォームの修正を行う。やはりフォームが崩れたのだ、突如として。幾度も幾度も空中で同じ動作を行い、その動きを身体に染み込ませる。いいな。大沢が言う。僕は頷く。大沢が元の場所に戻ってゆく。
そうじゃない。突如、耳元で父の声がした。逆だよ、手を下にやるんだ。それからな、親指が食い込んでんだよ。
バックネット裏の父を見やる。その口は硬く結ばれている。
教えた通りにやれ。
低く、地を這うような声が僕の中でこだまする。
違う、大沢に教わった通りに投げなければならないのだ、僕は大沢の教え子だから。もう父の教え子ではないのだから。
僕は大きく息を吐く。今まで通り、大沢に教わった通りに投げる。球が狂う。狂うのである。
父が僕を見ている、じっと。黙って。
教えた通りにやれ。
その目は言っている。そう言っているのだ。
僕は大きく息を吐いた。身体が勝手に動いた、川の流れに乗るかのように。ワン、ツー、スリー。球が走った。ナイスボール! 吠えたのは章吾のみだった。
山本。大沢の声がした。大沢がすぐ近くにいた。何の表情もなく僕を見ていた。
お父さんの言った通りに投げなさい。僕の指示はもう聞かなくていいから。
それだけ言うと元の場所に戻ってゆく。
僕は大沢を呼んだ。監督、と呼んだ。教えてください、と。まさに、唐突に。
何をだ。大沢がゆっくりと僕を振り向く。わずかに笑っている。何を教えればいいんだ、きちんと日本語を話しなさい。大沢は諭す、まさに高校教師である。
篤志くんは言葉が足りないんだよと、中学の頃付き合っていた女に常々言われてきた。その通りだ、言葉が足りない上にうまく出てこない。父ではなく大沢監督から教わりたいんですと、頭の中では文として成り立っているのに言葉となると全く成り立たないのはなぜなのか。
父という単語を出すのは憚られた。大沢はただじっと僕の言葉の続きを待っている。教師の目で。
だから僕は言った。速い球を、と。
勝手に口が喋った。速球の投げ方を大沢に問うていた。
失敗だった。のちに知ったことであるが大沢の現役時代の持ち味はコントロールであり、速球ではなかった。
お父さんに習いなさい。大沢は言った、優しく笑って。俺が教えられることは何もない、と。
父は豪速球投手であった。球速、球威で、その名を全国に轟かせた。
大沢の背中が遠ざかってゆく。