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大沢は麦の匂いがした。なぜだかいつも、そう感じた。
大沢? 聞いたことねえな。初めて大沢の名を耳にした時、父はそう言った。何の因果か、大沢は父と同い年で、出身校こそ別であったが同じ地域で育った為、対戦したことが幾度もあったと言う。大沢は投手であった。
だがそれは父の興味の範疇になかった。僕を強豪校に入れ、甲子園出場歴のある監督のもとで野球をやらせるつもりでいたところその監督が倒れ、急遽、大沢が監督に就任したわけであるが、父が関心を寄せるのはその指導力のみであった。
球の伸びが悪くなったな。しばしの観察ののちに父は僕にそう言った。そして僕にボールを投げてよこした。
あまりにも速度の速すぎる返球である。球威に押されて僕のグラブが後ろに下がった。唸り声を上げながら。
これが父の球威なのだ。手のひらに痺れが走った。返球だけでこの威力だ、マウンドから投じられた球は一体どれほどの威力になったことか。高校で華々しい成績を残したあと大学で故障し、その後は中学教師になったから現役を引退して二十年以上たっているわけだ、それなのに父の球威は衰えを知らない。
言葉少なである。父は言葉に頼らない。いつも動作でものを伝えようとする。今回は球威であった、そしてその目はもはや僕の指導者となっていた。
指がひっかかってんだよ。父は言った。
フォーシーム、と父は続けて言った。だから僕はボールを四本の指で掴んだ。親指を離してみろ。父は言った。だから言われた通りにした。これで投げるんだと父は言った。
ボールが指からこぼれ落ちそうである。そんな僕を見かねて父は、寝転がれと言った。空に向かって投げろと。言われた通りにした。背中に草を感じ空を仰ぎながら球を放った。幼い頃によくやったやつだった。
この感覚を正確に記憶しろ、いいな。そう言い父は僕を立たせると腕を掴んだ。フォームがおかしくなってんだ。腕をこう、手は上じゃねえ、下だ。ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。
フォームを矯正され、ものの数十分で僕はもとの投球を取り戻したのだった。まるで魔法をかけられたかのように球が走った。とあるスポーツ誌が父をこう描写したことがある。ピッチャー調理師、と。
父は優秀な投手であったが今や優秀な指導者であった。その口は何も言わぬがその目はものを言っていた。ただ真っすぐに僕の目を見据えていた。
フォーム変えたか。大沢はそう言った。投球練習中の僕を呼び止めて。
誰に教わった。言いなさい。
その目は静かに僕を見据えていた。答えなど分かっている上での問いだった。
しまった、そう思った。思ってももう遅かった。何を言っても言い訳にしかならない。
大沢から教わったフォームと、父から教わったフォーム、その違いは微々たるもので、ほとんどの者がその違いに気づかないものと思われた。しかし大沢は投手出身ゆえにその微妙な違いに気づいた。
僕が答えないのも想定内のようだった。大沢はそれ以上問い詰めはせず、握りも変えたな、と言った。このほうが投げやすいか、そうだよな、おまえのお父さんは素晴らしい指導者だ、と。
その目には笑みすら浮かんでいた。いつもの大沢だった。しかしながらその目の奥にはいつもの大沢はいなかった。
だがな。大沢は言った。僕の目を真っすぐに見据えて言った。
おまえは俺の教え子だ。いいな。
俺の、のところを強調せずともそれははっきりと僕の耳に届いた。
高校名の書かれたユニフォーム。まさにお揃いだ。高校名の文字のあたりに、すっと、大沢の小指が差し出された。
約束だ、と大沢は言った。
大沢も大沢で言葉少なであった。余計なことを語らない。代わりに目でものを伝えようとする。
ルールだとも、決まりだとも、常識だとも言わなかった。ただ、俺とおまえの約束だ、と大沢は言った。
麦の匂いが近くなる。それはまさに愛着であったか、僕は確かにその匂いに愛着した。
僕の小指は自然に伸びた。そして彼の小指と絡まり合った。
その目が笑った。唇も、笑った。ああ、と僕は思った。僕はまさにこれを欲した。
その手に頭を撫でられて、僕は思わず目を閉じる。麦の匂いに包まれた。鉄が溶けたみたいになるよな、と、このあと章吾に描写されることとなる。