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 鉄が溶けたみたいになるよな、と章吾は僕を描写した。大沢を前にした時の僕の様子をそう描写した。要するにそれは、破顔する、の別の表現であった。


 章吾は捕手で、火の玉と評された僕の直球を捕ることのできた唯一の部員であった。


 まさに野球少年であった。目の前にあるものは野球だけであった。今となってはチャンネルを変える。テレビ画面に野球の映像が流れるたびに、即座に。


 俺、金魚飼いたいな、赤くてちっこくて丸いの、などと章吾はやたらと賑やかな調子である。まるで野球を打ち消すかのように、まさに野球がタブーであるかのように。

 飼えば、と僕は言う。一緒に育てようか、な? 章吾が僕の顔を覗き込む。でもここペット禁止だったな、と僕がぼやいても、食用だって言えばいい、と章吾はあきらめない。


 狭いアパートである。ちゃぶ台と二つの布団で部屋はもう手狭になる。水槽を置くスペースはない、いや、置けばきっと床が抜ける。築年数は何十年だったか。住民が動けばもはや建物そのものが呻くかのようだ、洗濯機は外に設置されているし外階段はやたらガンガン音が鳴る。


 おまえさ、と僕は言った。ちゃぶ台の前に片膝を立てて座って足の爪などを切りながら。きっとこの音はアパートじゅうに響き渡っている。


 うん? と章吾は返事する。いつもそうだが僕が何か言葉を発すると彼は僕の顔を覗き込む。そんな彼の目を見て僕は問う。なんでわざわざ僕と同じ道を歩んでいるのかと。


 なんででしょ、と章吾は言った。歯を見せて笑った。垂れた目は笑うことでさらに垂れた。高校を出たのちは野球を辞めたというのにいまだその肌は小麦色だ。髪も依然として坊主に近いのだがこちらは単に洗髪の面倒さを回避する為と思われる。


 要するに高校の頃と何も変わらないのだ。いや、中学の頃から、か。同級生だった。


 おまえなら六大学で野球ができた。高卒のバイトじゃ彼女の一人もできないままだろ。僕は爪を切りながら言う。共に同じホームセンターでアルバイトをしながらこうしてオンボロアパートで暮らしているから常に二人一緒にいるわけだが章吾に女の気配はない。と言うより中学の頃から女の気配があった試しがない。


 しばしの沈黙ののちに章吾は言った。彼女はいらない、と。好きな奴がいる。中学の頃から、ずっと。章吾はそう言った。静かな声だった。


 ふーん。僕は唸る。足の爪がどんどん短くなっていくも切れ具合が気に入らないのでやり直そうとしていると不意に章吾の手が僕の頬に伸びてきた。それは髪だったり埃だったり色々だが、章吾はよく僕の身に付いたものを取り除いてくれる。今日は睫毛だったようだ、そして章吾は自身の指に取ったそれをしばし眺めていた。


 なに、と僕は聞いた。いや、睫毛長いなと思ってな、と章吾は言った。






 麻婆豆腐だと章吾は言う。吐瀉物のようである。食えよ、と章吾は言う。おまえは病気なんだからよ、と。


 俺がいなきゃ何もできない。飯も作れない。洗濯物も干せない。掃除もできない。金の管理もできやしない。おまえの球を捕れるのも俺だけだった。珍しく章吾は自ら野球の話題を持ち出した。


 手元で伸びると表現された。途中で球速が上がるようだ、と。そんな球を僕は投げ、章吾は捕り続けてきたわけだ、中学の頃から、ずっと。


 僕が野球を辞めたら章吾も辞めた。僕が東京に行くと言ったら章吾もついてきた。まさに金魚の糞のように。


 麻婆豆腐らしきものを食べる。そして褒められる。ちゃんと食って偉い偉いと。頭まで撫でられそうになって僕はその手を払う。その手が動きを止める、まさに、ぴたりと。


 開け放した窓の向こうからばかでかいくしゃみの音が聞こえてくる。赤子の泣く声にテレビの音。三振! 興奮し過ぎて裏返った実況の声。


 撫でていいのは大沢だけか。章吾は言った。特権階級だな。笑いながらそう言った。




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