リリの過去
見たくないモノと正対した場合、視線をどこに向けるのが正解なのだろうか?
泥の様な何かがぐにゃぐにゃと形状を変えてリリの肩に張り付いている。
亜麻色の髪と茶色い瞳とのギャップが気持ち悪い。
リリと泥の印象に差が大きすぎるので、感覚が混乱する。
「ヒューズ君、珍しい場所で会ったね!」
ライン卿からは、探りを入れて来る者に注意せよとの任務を頂いた。
主な目的は不穏分子の炙り出しだろうが……果たしてこの状況はどう考えれば良いのだろうか?
「ええ、カクラ様から仰せつかったちょっとした用事でね」
適当な、一応嘘ではない返事をしつつ、足は止めない。
そのまますれ違ってくれとの思いが通じたのか、リリと泥は俺を追いかけて来なかった。
一応アレの監視も仕事の内なのだが、正直監視し続けられる相手じゃないから仕方ない。
それもしても、何故リリと泥は魔法使いギルドの前にいたのだろうか?
意味等無いのかも知れないが、ヤグラと一緒でもないのが少し気になる。
いや、別にいつもヤグラと一緒に居る訳でもないか。
何か買い物に……来ていたという訳でもあるまい。あの辺りにリリが行く店等は無い筈だし。
ちらりと後ろを振り返る。
少なくとも、リリと泥はどこかへ向かって歩いてはいた。同じ場所をぐるぐる回っている可能性はあるが。
偽装かも知れないが、魔法使いギルドを監視していたという訳ではなさそうだ。
リリと泥。
ルファに赴任する前にその経歴は熟読したが、実に不可解な存在だ。
リリの生まれは王都。共に薬師の両親から生まれ、五歳の時にルファに移住して来る。
その当時は軍部によるポーションの作成は行われておらず、ルファは慢性的かつ危機的な薬師不足であった。
その辺りの話は俺でも知っている。王都でルファの求人を頻繁に見た記憶がある。
そして両親とリリを含む二十人程でルファに移動する際に、ルファ近郊で何者かの襲撃を受けた、と推測されている。
生き残りがリリだけな上に、襲撃者の痕跡は大量の血痕と僅かな肉片だけとあって真相は誰にも分からない。
後に襲撃者は集団化した野盗で、リリ以外を殺した後に泥に摩り下ろされたとの説が有力視されている。
当時のリリは会話も出来ない精神状態だったらしいし、肩に張り付く泥のせいで日常生活も大変だったらしい。主に世話する側が。
その一月後にリリの精神状態は前触れなく回復。
さらに一月後にルファの鉄等級冒険者を筆頭とした素行の悪い者達が、大量の血痕と僅かな肉片だけを残して消える事例が相次いで発生。
同時にルファ郊外で野盗の被害が皆無になった。
一連の事象は状況から泥の仕業と断定されているが、ルファに有益な事象であったため殆ど調査はされていない。
明記されていないが、薬師ギルドが詳細な調査を控える様働きかけた形跡が見て取れる。
魔法使いギルド主体の調査なのに、随所にカクラ様の名前が出て来るのだ。
詳細な経緯を知る権限が俺にはなかったので、薬師ギルドとライン卿の間で何があったのかまでは知る所ではない。
これらはルファに赴任する前に触れた情報で、ルファに来てからはライン卿直々に深入りはするなとだけ指示を受けている。
深入りをしてはいけない対象を監視させるのもどうかと思うのだが……。
そして事前に熟読した情報と、ルファの住人の認識に大きな齟齬がある事に気が付いたのは極最近の事だ。
どうもこの街の人間はリリがこの街で生まれたと認識している様なのだ。
深入りするなと指示されている以上、ライン卿にその事は聞けずにいる。
そしてライン卿と直接話す機会が少ないため、それと無く探りを入れる機会にも今の所巡り会えていない。
今回もそうだ。そもそもライン卿はリリと泥にあまり関心がない御様子で話題にも上がらない。実質的に俺はカクラ様に対する間諜の様な扱いだ。
その立場を活用して探りを入れた結果、少なくとも薬師ギルドはカクラ様含めて全員がリリがこの街で生まれたと認識しているのは確認が取れている。
事前に知り得た泥の特性は、畏怖や恐怖や嫌悪を想起させる事とリリの精神に干渉している事以外は物理的な作用しか確認されていない。
猪を絞り殺した事例が一件と、鉄等級冒険者二人が摩り下ろされた事例が一件。
後者の事例を目撃したのは俺の前任者で、その結果補充要員として俺がルファに赴任した。
俺の抵抗もあり街の外での監視は免除されている。街の中は既に掃除済みだそうだ。
治安が王都よりも良い事は数少ないルファの良い点だ。
物理的、精神的脅威に加えて広範囲に渡る記憶の操作……。
本音を言うならあの泥にはなるべく近付きたくない。
救いがあるとすれば、あの泥に人の心を覗く能力が無い事だろうか。
報告書には何かしらの方法で人の考えを感知出来るとは書いてあったが、俺はそれは間違いか歪められた認識であると考えている。
俺の体感では多分感情が分かる程度で、泥を見た人間が負の印象を抱く事も副次的な現象だと考えている。
何の根拠も無いけれど、俺はあの泥が持つ精神へ干渉は負の感情を引き摺り出す事だと思っている。
リリの精神が回復したのは負の感情を無害な量になるまで引き摺り出したから。
泥に対して抱く感情は負の感情を引き摺り出されたから。
リリと泥に狩り尽くされた野盗や素行不良者は、負の感情を引き摺り出された結果何かしらリリと泥の基準を満たして処分された。
記憶の書き換えが起きた理由や泥がどこからやって来たのかまでは分からないけれど、そうやって考えれば泥の正体についてはある程度一貫性のある推測が出来る。
要するに負の感情に依存するか、由来するモノなのだろう。
……仮にそうだとして、結局俺には何の関係も無いが。
泥が世界を滅ぼす邪神でも、慈悲の女神でも、結局ナクニ王国はリリと泥を監視せざるを得ない。
俺は後任が決まらない限りこの任務から逃げ出せないし、要求しても後任が来る事も無い。
そんな事を考えている内に薬師ギルドが見える場所まで来てしまった。
立ち止まって後ろを振り返える。
道行く人々に不穏な動揺は見られない。
泥の周囲に与える影響は監視する側としては有難い。
雑踏の中であれば隠れていてもその存在を察する事は容易い。
結局、魔法使いギルドから薬師ギルドまで歩いて来る間に監視の気配は感じられなかった。
不穏分子の釣り出しには失敗したという事だろう。
俺に感知されない程の凄腕が見張っている可能性はあるが、実際の所それらの格上はリリと泥の方を監視している可能性が高い。
と言うか、リリと泥があんな場所に居たせいでライン卿の目論見が崩れてしまったのではなかろうか?
……冷静に考えれば、リリは何で魔法使いギルドの前に居たんだ?
基本的にリリの行動はリリの意思による物だ。少なくともそう見える。
そうなるとリリは何らかの意図があって魔法使いギルドの前にいた事になる。
俺を追いかける素振りを見せなかったと言う事は、俺に用事があった訳ではないだろう。
薬師ギルドから俺を追って来た可能性……も多分無い。
リリが着いて来れば周囲の雰囲気ですぐ分かる。
……リリが魔法使いギルドの前に居たと言う情報、すごく重要な気がする。
今更だけど、カクラ様に会う前にライン卿に連絡を入れておくか?
俺は周囲を軽く見回して、道の端に寄って魔道具を取り出した。




