第二部 歌神香児篇 その九
犬が口を開いて死んでいる。
その歯の白くきれいなこと。
小野十三郎 『犬』
8.奇襲
雨と風がとにかくひどい。
〈マソラ見て。マソラほどじゃないけれど、立派なキノコがたくさんこっちに近づいているわ〉
〈余計な情報までありがとう。こっちもどうにかニオイで確認できたよ〉
〈しかし兄様、あれはいったい〉
〈寄生菌……たぶん冬虫夏草みたいなものだと思う。それを体に植え付けられているね〉
〈あのキノコのようなものに支配されているということでしょうか?〉
〈私もマソラのキノコに支配されているから彼らの気持ちがよくわかる気がするの〉
〈仮に冬虫夏草であのニデルメイエール兵が支配されているとしたら、その冬虫夏草をさらに支配する方法があるかもしれないね〉
〈ねぇマソラ。どうして私の話だけスルーするの?〉
アーキア超大陸北西マルコジェノバ連邦。
連邦の南東寄りにあるクリプトクロム国に、俺は魔獣女子二人と極秘に潜入している。
元風人族のイザベルと元竜人族のモチカ。
今週はうんざりする雨季。どす黒い雲が連邦の空を覆い続けた。
おかげでドラゴンが上空を飛んでいても誰も気にしない。俺たちの潜入はすんなり成功した。
けれど問題は寒さ。
山の頂上付近にいるから寒いのなんのって。手作り温度計によれば氷点下7℃。
一応、「封印されし言葉」ミガモリの力で俺は土砂を操って即席の小さなカマクラを三つ隣接させて作ったけれど、〝敵〟にバレるといけないので火を焚くような暖はとれない。仕方なく、作って持ってきたホッカイロを体に貼ったり手でモミモミしながら敵の様子を三人で伺う。
俺はいつも通りの超音波探知に加え、久しぶりの嗅覚フル稼働で、雨に溶けて舞うニオイを使い敵を分析する。イザベルとクリスティナは俺の手作り望遠鏡でそれぞれのカマクラから敵の様子を視察する。
弱点目白押し状態のマソラ2号である俺としては二人にぴったりくっついて守ってもらいたいけれど、二人には香児の護衛を長くやらせ過ぎているので彼女たちの芳香がかなり移ってしまっている。殺して取り込んだ追放天皇オパビニアから奪った「封印されし言葉」カンダチの匂い探知能力にはそれが強烈すぎる。
だからリスクは多少あるけれど、カマクラは別々にこしらえた。さらにこの場は雨風がある。よって二人との会話は念話で行う。
〈クリプトクロム側はここで迎え撃つつもりなのですね〉
〈そうみたいだね〉
〈谷間におびき寄せてそこで獲物を仕留める。私が胸や尻を使いマソラにいつもしていることと同じね〉
〈イザベル真面目にやれ!それにイザベルが〝谷間〟とは大げさだ!イザベルの胸はせいぜい丘が二つあるくらいだろう!〉
〈断崖絶壁のパット妹にそんなことを言われるなんて心外だわ〉
〈何度も言うが私はイザベルの妹だと認めていない!それと断崖絶壁と言うな!!〉
〈二人ともちょっと静かにして。俺は二人のおっぱいのどっちも好きだよ〉
〈〈……はい〉〉
二人の芳香と雨の香りを掃いつつ、戦力をニオイで把握していく。
俺たちがいる山はフォーカドス山。標高1270メートル。急峻で切り立った岩山。
その目の前にそびえるのがオカハンジャ山。標高992メートル。フォーカドス山よりはなだらかな山。低木林などもまばらに生えている。
この南北二つの山に挟まれた道、つまり隘路に、敵が今向かっている。
敵。というか獲物。
女帝リチェルカーレと名乗る王が造ったニデルメイエール国の兵士。
でも肝心の女帝リチェルカーレ……雫石瞳はここにいなさそうだ。将軍クラスの装飾を帯びた者はいるけれど、魔力素の流れがそれほど高くない。たぶんあれは雫石じゃない。
無理もない。
確認できる兵の数はたかが2万超。一個師団相当だ。一年足らずで五か国近くを切り取った女帝のもとには推定数だけど兵力は300万近くいるはず。それをほとんど用いず師団一個だけ連れて女帝がこんな間抜けな場所に「おいでやす~」なわけがない。
とはいえ一個師団。しかも謎の菌類を身に着けた不気味な兵隊の集合。
迎え撃つクリプトクロム軍も一筋縄にはいかないだろうね。
それにしてもニデルメイエールって、変。
敵を発見して拘束したりするような前衛部隊がいくら探しても見つからない。上空はもちろんいないし、ミガモリとカンダチのダブルマジックで地下も探したけど見つからない。
つまり物見が一切いない。
主力の仕事をスムーズにする役を担う部隊がいないのはなんで?
アントピウス聖皇国の図書館長みたいな千里眼でも持っているの?
でもそしたらこんな隘路の進軍なんて選択肢、選ばないよね。普通。
っていうか師団動かすなら通常、偵察大隊を三個くらい用意するでしょうに。変なの。
それと、ニデルメイエールには兵站部隊がない。
まあでもそんなニデルメイエール軍だけど基地みたいなものはあるから背後連絡線はある。でも不用心だね。戦力回復の場所と前線を結ぶその命綱に歩兵がほとんど見当たらない。これじゃ師団一個がまるで孤軍。……それでも勝てるつもりで、勝ってきたんだね。雫石。
そっか。
そうだった。
ここは異世界。御伽噺みたいな魔法世界だ。
だから背中からキノコを生やすゾンビみたいな血色の悪い兵士がいてもおかしくないし、「封印されし言葉」を濫用する魔力素の塊みたいな変人が魔獣女子の胃袋の面倒を見ていてもおかしくないし、補給路の安全を確保しない自殺軍隊がいてもおかしくない。
〈さてさて、それでクリプトクロムさんたちはっと〉
〈マソラ。お腹が減ったわ〉
〈三十分前に食べたばかりだから我慢してください〉
〈兄様、私は軍事やら戦術にとんと疎いのですが、クリプトクロム国のこの布陣は正しいのでしょうか?〉
〈そうだね。基本に忠実という意味では完璧だと思う〉
ニデルメイエール兵の一個師団は西から東へと進軍している。
そしてその先には、隘路であるカシュガル国道。
隘路の全長は東西十八キロに及ぶ。幅は五十メートル弱。兵は縦隊で進むしかない。
そして国道の南にそびえるのは俺達のいる急峻なフォーカドス山。
北にそびえるのはオカハンジャ山。
そして隘路を抜けた先には三又に分かれた国道がある。それぞれ北から南へ順番にホータン北道。ホータン東道。ホータン南道と名がついている。
クリプトクロム国がこの地に派遣した兵力は全部でおよそ五万。つまり二個師団。
それらクリプトクロム兵が隘路の出口の三又に対して、凹面鏡のように広く弧を描くようにして展開している。
つまり西から来るニデルメイエール兵を隘路に閉じ込めて、隘路から出てくるところを、横に広く戦闘展開したクリプトクロム軍が集中的にたたく戦術。
常識的であり、最良と言えば最良。
〈隘路の入口や隘路の途中でニデルメイエール軍を逆襲するのは、この隘路の特性を生かし切れないからもったいない。というかメチャクチャ強いらしいニデルメイエール軍を相手にそんなことをするのは自殺行為以外の何物でもないよね〉
普通の軍隊が相手であれば、戦闘部隊が有効に戦闘展開できず、火力支援が困難な隘路に閉じ込めれば負けることはあまりない。あくまで普通の軍隊が相手ならば、の話。
〈なるほど。そういうことだったのね。でも実は最初から私は知っていたわ〉
〈さすが四姉妹の長女。隘路を前方にする防御法くらい知らないと困るよね〉
〈ですから兄様!私はイザベルを姉上とは認めません!〉
〈それより二人ともさ、ニデルメイエール軍はどうして前衛部隊を用意していないと思う?〉
〈見る必要がないってことよ〉
〈シンプルに言えばそうだね。それくらい強さに自信があるんだろうね〉
常識があればそもそも隘路なんて選ばないけれど、仮に選ばざるを得ないとして……
常識があれば、ニデルメイエールは前衛部隊を用意する。
常識があれば、ニデルメイエールは前衛部隊の報告を聞いて歩兵部隊を別動隊として用意して、傾斜の緩やかな北のオカハンジャ山からホータン北道に展開するクリプトクロム軍の、広いけれど薄い陣地の背後を衝こうとする。
常識があれば、ニデルメイエールはそのうえで機動力の高い主力歩兵部隊を隘路から出してホータン北道において、防御逆襲を狙うクリプトクロム軍を破る。ついでにホータン南道のクリプトクロム軍も歩兵部隊で押し潰す。
そして最後、孤立したホータン東道のクリプトクロム軍主力に対し、機動力は低いけれど火力の高いニデルメイエール戦車部隊をぶつけて叩き潰す。
〈これが一般解ってところだね。両翼を胴体からひき千切り、最後胴体を貫いて息の根を止める作戦〉
〈なるほどなるほど!さすがは兄様!鳥肌が立つうえにものすごく勉強になります!!〉
〈さてどうかな。普通ならこれがセオリーで、そうはさせまいと互いにあれこれ細かな手を打つのが戦争。そして血とともに時間が流れる。その時間経過とともに軍隊っていうのはわずかなほころびが生じる。それに気づいて動けた方が勝つのが戦争というものなんだけど、キノコさんたちはあまり関係なさそうだね〉
ニデルメイエール軍。
たぶん運用している雫石はこいつらを区別していない。
区別する必要がない理法をアイツは心得ているはず。
ニデルメイエール軍。
おそらく全員が前衛部隊であり火力部隊であり機動部隊であり兵站部隊。
〈マソラ。あれってもしかして〉
火力部隊の区別も要らない。キノコ兵どもは人であって、戦車。
ニデルメイエール軍全兵力が歩兵部隊並の機動力を持ち、戦車部隊並の実効性圧力をもつと考えるべきだ。そうじゃないとこんな兵の運用はありえない。
〈後方の戦車部隊の中にいるあれは、うん。ゴーレムみたいだね〉
石人族が特殊スキル「変身」を使い、特定の鉱物を体に引き寄せ、まとい、巨大化している。
ドスゥンッ!ドスゥンッ!ドスゥンッ!
五十メートル近い石の巨人三体が地響きを轟かせつつ歩いている。「変身」したゴーレムは機動力を高めた重量級戦車以上に特級。つまり山登りも隘路の中央突破も可能。
もしかするとあの三体のゴーレムが、山越えで迂回する別動隊の役割を担うかもしれない。そして三体しかいなければありえないとは思うけれど、一体くらいは北のオカハンジャ山じゃなくてこっちのフォーカドス山を登ってくるかもしれない。
鉱石と親和力をもつ石人族ならあるいは彼らの必要な鉱物を吸収してもっと巨大化できるかもしれない。……うちの店で仕事をしながら留守番しているトナオほどじゃなきゃいいけど。
〈ゴーレムが3体……彼らはいかほどの強さなのでしょう?〉
ステータスを見られるのは、魔獣女子の中では今日連れてきていない元風人族のクリスティナだけ。あとは元召喚者の俺。その俺はゴーレム三体のステータスを確認して二人にニコリと伝える。
〈そうだね。最悪の場合、俺達三人で動かないと止められないくらい、かな〉
〈〈了解〉〉
ニデルメイエール軍は隘路カシュガル国道に差し掛かる。
そして案の定停止せず、火力部隊らしいキノコ兵から縦列になって隘路に突入する。続く機動部隊キノコ。冬虫夏草に区別はなさそうだけど、兵に軽装備と重装備の違いはあるみたい。金属の酸化臭と腐臭と汚物臭が混ざってる。可愛そうに。武具が肉体にぶち込まれているんだね。この臭いは……蛆までわいているんだね。
人であることを廃業し、全身を歩く凶器にしているらしいニデルメイエール兵。
それに対し、罠なのかバカなのか、250名の中隊規模のクリプトクロム国戦車部隊が北のオカハンジャ山の斜面に颯爽と出没する。
戦車というよりは騎兵。
あの乗り物は魔物?
マダラテントウムシを大きくしたみたいだけど、ステータス画面には魔物ディノキャンパステントウと表示されている。レベルは25。
やっぱり魔物だ。
ということは、クリプトクロム軍は魔道具か何かを使って魔物を操り戦車にしたのかな。
いいね。それくらいの秘密兵器はなくちゃ。
それならニデルメイエール軍の火力部隊の餌食になりにくいだろうし、降り注ぐ大雨で出来た無数の濁流に押し流されないかもね。
〈マソラ?あれは魔物なの?〉
〈そうみたいだね。それを戦車にしているらしいね〉
〈魔物たちを使って何をするつもりなのかしら?〉
〈そうだね。あの模様、この雨の中でも目立つと思わない?〉
〈はい兄様!格好の的にしか思えません!〉
現に、隘路を進むニデルメイエール軍は北面の斜面にディノキャンパステントウを見つけるや否や、弓矢と投石機を使い、攻撃を開始する。
〈あのまま突っ走ってニデルメイエール軍の敵将を討つつもり?〉
〈決死部隊ならあり得るね。しかも狙いは敵将じゃなくてその手前に控える本物の戦車部隊のような気がする〉
山と山に挟まれた隘路は、そこを出た場所よりも高地であることが多い。
今回の場合も、カシュガル国道の方がホータン三街道よりも高い場所にある。
つまりクリプトクロム軍は低地から高地に向かい防御しないといけない。
自然の摂理として、高地である隘路から低地に進むニデルメイエール兵の移動速度は早い。それに対して低地にいるクリプトクロム軍の主力、すなわちホータン東道に展開する中央軍の防御戦力は重厚に配置しないといけない。
裏を返せばどうしても両翼であるホータン北道とホータン南道の配備戦力は薄くなってしまう。
最強とうたわれるニデルメイエールの歩兵部隊がさらに速度をあげてぶつかってきたらすぐさま北道と南道の両翼が各個撃破されることをたぶんクリプトクロム軍は覚悟している。両翼を撃破された後に待つのはニデルメイエール戦車部隊によるクリプトクロム主力軍の掃滅。それを防ぎたいから決死部隊を用意したんだろう。これまた気の毒に。
隘路を東に突き進むキノコ軍団。北のオカハンジャ山を登り始めるキノコ軍団。そしてとうとうゴーレムの一体までもがオカハンジャ山に入る。
ルビーゴーレム。レベル68。防御力が高い。
赤い酸化アルミニウムの鋼玉にして、モース硬度は9。つまりダイヤに次ぐ硬さ。
柱状結晶が釘バットの釘みたいに飛び出しててコワ~イ。
降りしきる雨が赤い鉱物の条線に伝って大地に流れ落ちる。血を流しているみたいでこれまたコワ~イ。
絵的には、機動戦士ナンチャラと戦わなきゃいけない中世的異世界魔法戦士たち。
隘路の入口近くにはレベル66のダイヤモンドゴーレムを率いる本物の戦車部隊が待機。
テントウムシ中隊はルビーゴーレムと戦った後、仮に勝てたとしても今度はモース硬度10で金剛光沢を放つダイヤモンドゴーレムの相手をしなくちゃいけない。本当にお気の毒……。
〈兄様!〉
〈どったの?〉
〈おいでなすったわ!〉
わお。一体のゴーレムがこっちに近づいてきている。
しかも黒光りして怖~い。……って、なんだ。ダイヤモンドと化学組成は同じだけど立方晶系じゃなくて六方晶系。ってことは石墨か。グラファイトゴーレム。
ん?待てよ。
グラファイト?
たしか4号が手紙で「がいこつとあやとりをはじめる」って書いていたから……必要になるか。
〈イザベル、モチカ。頼みがある〉
〈分かっているわ。今すぐマソラの冷えた体を暖めてほしいのね〉
〈寒いのでしたら裸で抱き合うといいと族長から昔習いました!〉
〈それは今じゃなくていいから、こっちに近づいているグラファイトゴーレムを山の反対側の斜面にうまく誘導してこっそり始末してほしい。二人で殺れば早いでしょ〉
〈分かりました。しかしその間兄様は無防備になります!〉
〈大丈夫。ニデルメイエールのキノコ兵たちは北の斜面と隘路にしか向かっていない。このグラファイトゴーレムはあくまでクリプトクロムへの牽制。こんな柔らかゴーレムなんて戦車の意味をなさない。戦場で役に立つとすればせいぜい落石攻撃。ホータン南道のクリプトクロム軍の戦力を削ぐことくらいしかできない〉
〈マソラがクリプトクロムを助けたことがばれないようにするために山の反対側で始末しろというわけね。理解したわ。いくわよモチカ〉
〈分かった!〉
レベル85の元風人族とレベル71の元竜人族が土のカマクラから出て風のごとく雷のごとく消える。
グラファイトゴーレムのレベルは60。魔獣女子二人の前ではか弱い。
油断しなければたぶん瞬殺だろう。俺はあとでその死骸と鉱物の回収をすればいい。マソラ4号が喜ぶ。いつも送ってもらってばかりだから、今度は2号である俺から贈り物をしないと。
「で、戦況はどれどれ……」
ひっくり返り肢をバタつかせるテントウムシ型魔物。パイロットは腸を引きずり出されて食べられてる。
あるいは魔物もろともルビーゴーレムに叩き潰されてグッシャグシャ。おっ、小隊規模くらいになっちゃったけど、ダイヤモンドゴーレムめがけて突撃中。行けるかな……?
ん?
なんだ?
ニデルメイエール軍の中に、何かいる。
ァァァァァァァァァァ……
耳の中にある渦巻き管を取り出して大きくして足を生やしたような変な生物。
海で獲れるサザエの殻をぶち割って中身を露出させたような色。
ステータス画面には「?????」としか表示されない。魔物?亜人族?星獣?
その「?????」が何か、音を発している。
あれ、止まった。
魔物ディノキャンパステントウに乗る戦車部隊が止まった。
おー。「?????」の近くにいるキノコ兵がプルプルしてる!
目、鼻、口!
穴という穴から出血してる!キノコ兵だけじゃなくてディノキャンパステントウの上にいたクリプトクロム兵も大量出血してるじゃん。
この音のせい?
何の音だろう……解析が難しいな。
なんだろう。色々な波長の音が入り交ざって〝声〟みたいになってる。
周波数比、解析終了。特殊平均律解読。12乗根平均律に再開。
〈マソラ!私の華麗な剣技を見てるわよね!?ヴィネグリエ・ユイリエ!!〉
擦弦楽器?バイオリン?チェロ?コントラバス?二胡?
〈うんうん。上出来。イザベルは伸びしろがまだまだあるね〉
〈当り前よ!〉
撥弦楽器?マンドリン?琴?ギター?ハープ?
〈兄様!私の奥義もご覧ください!ライトリバー・ブルショット!!〉
打弦楽器?ピアノ?
〈さすがモチカ。キレッキレだね。格好いい〉
〈格好いいではなく色っぽいと言ってください兄様!〉
管楽器?……ああ、これっぽいな。
クラリネット、サキソフォーン、ファゴットにオーボエのどれか。
あとはピッコロとフルート。トランペットにトロンボーン、ホルンのどれかだ。
周波数解析開始。
空気の音速を測定。気柱の振動モードを仮定。
閉管楽器特定。開管楽器特定。暗号化された禁厭の分析開始。
楽器変換仕様言語は日本語。仕様文字数は24。
場所1から場所24まで異なる24個の文字があり、並び替えてどれもが元の位置に無いようにするための方法を演算。24!(1/2!-1/3!+……
演算終了。24文字をランダムに並び替えた時どれもが元の位置に無い状態である確率算出。これより文字列の予測開始。
予測終了。結果、
『われうたふ ころしてくらえ ものみなまつろ きへはてる』
なるへそ。
ニデルメイエール兵を操っているのは冬虫夏草じゃないね。
きっとこの〝声〟だ。歌詞つきの楽器演奏だからさしずめ〝歌〟かな。
ァァァァァァァァァァァァァァ……
歌のせいで歌に近づく者は倒れ、歌のせいでニデルメイエール兵はゾンビのように敵陣にひたすら突き進む。こうしてクリプトクロム軍の防衛するホータン北道がニデルメイエールに占拠される。
残るは中央主力軍の集結するホータン東道と、ホータン南道。
どちらも死を恐れないニデルメイエール兵のデタラメな攻撃に押されている。
歌にゴーレム。泣きっ面に蜂だね。誰も彼も可愛そうに。気の毒に。
〈二人とももう終わったのかな?〉
可哀そうだから、こんな時は、アレしかないヨネ。
〈もちろんよ。私が本気を出したらこんなの一撃ね〉
〈何を言ってる!私が本気を出したからすぐに片付いたのだ!〉
〈はいはい二人とも喧嘩しない。がんばった二人には特別にサンドイッチをあげるよ。具は厚焼き玉子かブドウかクッキークリームがあるけれどどれがいい?ちなみにカツオ節と昆布、シイタケで出汁をとった厚焼き玉子を挟んだパンは黒ゴマ入りで……〉
〈〈全部!!〉〉
〈はいはい〉
俺は戦場をもう一度俯瞰する。負傷するクリプトクロム兵。やがて動かなくなるクリプトクロム兵。互いに助けたくとも助けている余裕のないクリプトクロム兵。
負傷……そっか。いいことを思いついた。「良い」かどうかはわからないけど。
やっぱり戦争視察もサンドイッチも「生」がいいね。いつか実行しよう。それより今は、アレだ。
クリプトクロム軍の守備する南道も崩れ始めている。もう時間の問題だね。
「そんじゃ、帰り支度を始めますか」
俺のいるカマクラに戻ってきた魔獣女子二人に大きめのバスタオルを渡し、ついでにキャラウェイシード入りの黒糖パンにはさんだクッキークリームサンド、ブドウと生クリームサンド、そして黒ゴマ入りパンにはさんだ厚焼き玉子サンドを盛った大皿を亜空間ノモリガミから用意する。目をキラキラさせて嬉しそうにほおばる二人に「ちょっと待ってて」と言って俺は雨の降り仕切る外に出る。山頂に近い俺の周囲に異常はない。異常があるのは麓。地獄が広がるのは麓。
「確か『ニーベルンゲンの歌』だったかな」
雨に打たれながら俺はグラファイトゴーレムの死骸の元へ「火車」で向かう。亜空間ノモリガミに取り込むために。けれど俺は影のように残す。
「立派な気高い騎士たちよ。のどが乾いたならば、ここの血を飲みたまえ。この暑さでは酒よりうまい。今は、これより美味はない」
亜空間サイノカワラを。
そして展開。
シシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシ……
「騎士たちよ。行っておいで」
小さな濁流の一つに俺は、改良型の魔物を流す。その数、522匹。
注射器を量産するための家畜メルフォートベータを作るために俺は、魔物メルフォートダニを改造した。
その途中で変異種が生まれた。
吸血能力は魔物メルフォートダニそのままで、繁殖力がメルフォートベータと同じくらい高く、ただし〝贈り物〟をたっぷり体内に抱え込んでしまっているためそれ自体の寿命の短い失敗作。
メルフォートアルファ。
要するに〝人道的な〟破壊兵器。
〈マソラ!キノコたちの様子が何か変なの!〉
〈兄様!戦車部隊が混乱しています!〉
〈そっか。ちょっとした奇襲だけど、地獄がもっと地獄らしくなったかな?〉
グラファイトゴーレムの死骸を亜空間ノモリガミに取り込んだ俺は4号に暗号文とともにグラファイトゴーレムを送りつつ、二人のいるカマクラに戻る。
六十個も作ったサンドイッチがもうなくなってる!
俺の分の三個くらい残しておいてくれてもいいのに。ひどいよ。
「あれはね。注射器を作る時に使った魔物メルフォートダニの改良失敗作。噛まれると失血が止まらくて発熱に痙攣、ついでに意識障害が起きちゃう。これで瀕死のクリプトクロムも撤退くらいはできるかな」
メルフォートアルファ。
吸血と同時に相手に膨大量のウイルスを送り込む。
結果として血を吸われた相手は重症熱性血小板減少症候群と脳炎を引き起こす。
しかもこの魔物変異種は面白いことに、マラリア原虫に脳を操られる蚊と同じで、ウイルスによって脳を操られている。
ウイルスとしては感染者をできるだけ増やしたいから、宿主のメルフォートアルファにはちょっとずつしか獲物の血を吸わせない。そのためにメルフォートアルファの顎の筋肉をコントロールしている。でも本能的に血を吸いたいメルフォートアルファは再び近くの獲物に手あたり次第襲い掛かる。けれどまたウイルスが宿主の顎の筋肉を支配して血を吸うのを中断させて、でも本能的に血を吸いたい宿主は再び……この繰り返し。
つまり何度も噛みついては血を吸う行為をメルフォートアルファは繰り返す。
結末は、寄生したウイルスの望み通り、一匹のメルフォートアルファから複数名の感染者が出る。しかも感染した中間宿主であるヒトの体内でウイルスは変異する。そしてメルフォートアルファに噛みつかれた際、この変異ウイルスが逆にメルフォートアルファの中に入りこみ、新たな変異種を手に入れる。
もう何が何だか分からなくする。
つまりバイオハザードと相成る。
アーキア大陸中央のロンシャーン大山脈南麓の戦場スノードロップを恐慌に陥れたチンダラガケ「姑獲鳥」と同じく、この隘路から人口が滅する以外、メルフォートアルファが運ぶウイルスを滅ぼす方法はたぶんない。
「カシュガル国道でフニャチンみたいにキノコが倒れていくわ。ついでに戦車をひく動物も」
「野外で活動する時は、できるだけ肌を露出させないことだね」
メルフォートアルファに吸血されてフォーカドス山にヨロヨロと逃げ昇ってきていた五人のニデルメイエール兵に俺は目を付ける。
背中から銀の蔓数本を長く伸ばして俺は彼らを捕捉する。メルフォートアルファは兵士の身体から取り除き再び濁流に流して隘路に下ろし、キノコ兵だけを亜空間サイノカワラに取り込む。RNAワクチンでウイルス退治を済ませた後は、楽しい生体実験のはじまりはじまり~。
「ホータン東道でニデルメイエールの歩兵部隊とクリプトクロムの戦車部隊が激突しています!」
「まあクリプトクロムはすぐに撤退するでしょ。北からルビーゴーレム来てるし」
ニデルメイエール兵。
ボロボロの甲冑をとりあえず身に着けただけの、武器を手に縫い付けられただけの、キノコを植え付けられただけの、歌で洗脳されただけの、人形と変わらない最強兵。
可哀そうだから、ダニに咬ませて殺してあげる。
一か月くらい苦しめばウイルスが体内に蔓延してラクになれるよ。
まあ、クリプトクロム兵の何割かも襲われるだろうけれど、それは仕方ない。
さっさと〝奇襲〟に気づいて逃げられるといいね。
さもないとゴーレム以外の全員がダニ媒介感染症で死ぬよ?
「敵のやり口は大体わかった。もう帰ろう。後はなるようになるさ」
戦争と生態系を攪乱した俺はドラゴンに変身したモチカの背中にイザベルとともに乗り、クリプトクロム国を脱出した。
雨季の週末らしく、国をまたいでの移動中に雨が一気に弱まる。雨雲が嘘のように薄くなっていく。
ドラゴンになっていたモチカの変身を目的地近くで解除させ、着替える。といっても俺も含めて三人ともコートを着るだけ。
ワックスを塗って撥水性を持たせた牛革のコート。中はミンクで裏打ちしているから結構暖かい。
そして三人して馬上の人になる。風属性魔法の雨除けシールドも音速を超えるドラゴンの乗り物も封印して、目的地へ馬を走らせる。
「ただいま」
「おかえりなさ~い」
俺はフォトロビ国の首都にある店舗『ノンキンタン』に戻る。
店の前の〝交通整理〟をしている鬼人族に交じって、店の入り口を警備する元蛸人族ソフィーが俺達三人を出迎えてくれる。シギラリア要塞の研究開発部のミソビッチョに作って送ってもらった唐笠がソフィーには良く似合う。ちなみに鬼人族五人は撥水性と保温性のあるポンチョを着ている。材料は俺の着ているコートとほぼ一緒。ただ彼らは体がでかいからコートに仕立てるのが面倒で、仕方なくポンチョにした。
「二人もおかえり~」
「ただいま戻ったソフィー!今回もまた兄様と非常に有意義な時間を過ごせたぞ!」
「ユーイギ~?」
「ゴーレムをぶっ飛ばした後にサンドイッチをこっそり食べたりなんてしていないから安心しなさい」
止み始めた小雨の中、戦術を熱く語るモチカと要らないことを言ってソフィーのインディアンデスロックを食らうイザベルを残し、俺は店舗内に入る。今いる客は全員が富裕層。だから馬車持ち。といわけで鬼人族の交通整理が必要になる。
商品のラインナップを変えたから当然と言えば当然。〝今〟は軍資金集め。
「マソラ様お帰りなさいませ!」
溌溂とした笑顔を浮かべる元風人族のクリスティナが声を上げる。
羊人族の老未亡人セブはこちらを見てコクリと頭を下げ、奴隷の香児はハッと驚いて深いお辞儀をする。
命令通りナコト一人だけがフードを脱いでいたけど、残りの二人エピゴノスとルルイエも頭を下げるときだけはフードを脱ぐ。それでこっちも急いで嗅覚感度を最低値に戻す。
香児一人の芳香なら耐えられるけど、三人同時だと俺にはかなりきつい。
俺は「かぶっていいよ」と手振りで二人に指示する。エピゴノスとルルイエが慌ててフードを被りなおす。香児の近くで蕩けた顔になった貴婦人が脱力し、手にしていた香水瓶を思わず落とす。それをさっと拾うナコト。さすが元暗殺者。反射神経は抜群。
店内の香りがナコトの芳香だけに戻る。
つまり竜脳の香りの洪水。古代中国で玄宗皇帝が傾国の美女楊貴妃に贈り続けた香り。楊貴妃のごとく改造した多汗症チンダラガケの分泌する悲劇の芳香に、買い物客たちは恍惚としている。
その買い物客への接客を、クリスティナ以外はすぐに再開する。
「何か問題はなかった?」
「お腹が減ったこと以外何もありませんでした!そちらはいかがでしたか?」
「面白いものが見られたよ」
「面白いもの?」
「ここではちょっと話しづらいことだから閉店後にでも教えるよ」
「わかりました!」
「今日はソーセージ料理を食べよう。マスタードをたっぷり添えた白ソーセージをソフィーとクリスティナと鬼人族五人には特に多めに用意するよ」
「本当ですか!嬉しいです!マソラ様大好きです!!」
俺は話しながら適当に店内を観察する。
唐笠の売れ行きも順調だけれど、何より売れるのはガラス瓶に入れた香水。
香水そのものの製法は商人たちに公開したからどこの誰でも道具さえ用意できれば作ることができる。
でもガラス瓶入りの香水はこの店舗『ノンキンタン』でしか手に入らない。
しかもこれは絶対的に高い値段で売っている。貧者には手が出ない、一本につき金貨1枚の値段で。
ペニシリン『ヴァンセンヌ』もそうだけど、知的財産権とか特許料なんてものがこの異世界に存在したら、たぶん俺は魔王や聖皇よりも儲けられると思う。
でもそんなことにはあいにくと興味がない。
金を持つことに興味はなく、金を使って目的を達成することにしか、俺は興味が湧かない。
「さてさて」
レシピを一切公開していないガラスの香水瓶がある地下工房へと俺は向かう。
「少しは休んでる?」
初めて会った時に比べてだいぶ健康的な体になった青い短髪の少年に声をかける。
少年はこちらに顔を向けるとニコリと破顔し、コクリとうなずく。
石人族トナオ。
地下工房で香水瓶の中に香水を詰める作業は、彼に任せている。
「採取した薬草の整理までやってくれたのか。本当に仕事を覚えるのが早いね」
「封印されし言葉」ミガモリの力でケイ素を操れるようになった俺はガラス瓶だけでなく地下室そのものも造った。
その地下室は香水の製造及び香水瓶への液注入、さらには香水の成分研究のための調剤室を兼ねる。調剤室の壁を埋め尽くす戸棚の小さな引き出しには文字を書いておいて、そこには特定の薬草をしまっている。採取して乾燥させた薬草は俺がいる時は俺が引き出しにしまうのだけれど、留守の間はトナオがやってくれる。
それはつまりこの短期間で薬草の種類を覚え、読めなかったはずの文字が読めるようになったということ。奴隷時代の精神的なショックのせいか、発声はほとんどできないけれど、読み書きの能力や記憶力はこの異世界の一般人より高い。算数に関しては羊人族のセブの方が年季が入っていて得意かもしれないけど、でも鬼人族のスタッフ五人よりはできる。
あいつら、毎日指じゃんけんばかりやって楽しく脳トレしているのにトナオより算数が上達しないんだから困っちゃう。
まあ人生、足し算と掛け算ができれば生きていけるから問題ないか。
「ん?何々?」
渡してある手製のメモ帳と鉛筆に、拙い文字でトナオが何かを書いてこちらに見せてくる。書かれている内容は「やったことリスト」だ。
①『白昼に』30本
②『闇の彼方』30本
③『さよならは言わないで』30本
④『私は戻ってきます』30本
⑤『あなたの方へ』30本
⑥『夜明けの』40本
⑦『黒いミルク』40本
⑧『僕らはそれを』40本
⑨『夕方に飲む』40本
「新作の瓶詰もやってくれてたのか。ありがとう」
俺はトナオの頭をなでる。トナオは嬉しそうにクスクスと笑う。
同時に俺は彼の体内の魔力素の循環を測定する。
〝こんな俺〟を手招きするような、禍々(まがまが)しい魔力素のうねりだ。
そうだよね。そうしたんだから、そうなるに決まってるよね。
準備は万端だ。
俺の亜空間ノモリガミの中には、お前を最強にする鉱物がもうたんまり入ってる。「早く返してくれ!それは僕のものだ!」って感じ。とっても素敵だよ。
「マソラ様マソラ様!」
その時、地下工房にクリスティナがタタタッと降りてくる。
「どったの?」
「マソラ様に兵隊さんが会いたいそうですけど、どうしますか?」
「匂い袋が欲しいの?」
「いいえ、そうではないそうです。何かを買いに来たわけではなく、とにかく直接会ってお話ししたいことがある、とのことです」
「路上でソフィーがイザベルとプロレスごっこをやってる件かな」
「ああ、それならもうとっくに終わりました。お姉ちゃんは花壇の一角に埋められてます」
「オッケー分かった」
これから起きることはなんとなく、読める。
罠に獲物がかかり、その結果として歯車が回り始めたんだろう。
女帝リチェルカーレ、つまり召喚者の雫石瞳が東に向かって軍を進め始めている。
それでクリプトクロム国にまず手を出したところで、俺は偵察がてら、ちょっかいを出してアイツの進軍を遅らせている。
いつもは敵兵が来る前に地面を掘って石油を噴きださせ火をつけ進行妨害する「嫌がらせ乾季ファイヤー」とか、亜空間ノモリガミに回収した雨水を鉄砲水にして進行妨害する「嫌がらせ雨季雨季ウォーター」で済ませていた。
けれど、今回は敵兵そのものの分析のためにかなり接近し、魔物の変異種メルフォートアルファを使った。火責め水責めに飽きたら虫責めでしょやっぱり。
雫石瞳がこの大規模な侵攻軍の中に入るかどうかは分からない。
直接指揮を執っているかどうかは不明。
でも一歩前進。
ルバート大森林を出て西進した後北進にフェーズしていたニデルメイエール軍を東に向けてきたということは、厄介な俺が生きていることに気づいたからだろう。
ずっとうちの店に入り浸っていた商人ギルドマスターたちに入れ知恵までして贈り物をさせたんだ。気づかないほど馬鹿じゃないはず。
もしアイツがシギラリア要塞に「神の杖」を落としたクソならこのまま食いついてくる。殺し損ねた俺を見逃すはずがない。きっと殺しに来る。
で、ここからは歴史の当然の成り行きなのかもしれないけれど、クリプトクロム国への軍事侵攻が始まって、しかも手こずり始めてから、お隣のフィトクロム国とその東隣のフォトロビ国が軍事同盟を結んだ。
その名もベスビオ同盟。
ベスビオ高原という場所で締結したからベスビオ同盟という安直な名前だけど、とにかくこれで二つの国が連合国軍を編成してクリプトクロム国を救援することになった。
このニュースを聞いた俺は、予定通り次の手に出る。
つまり俺の持つ主要香料の無償提供。
連合国軍に参加すると申し出た客、つまり志願兵に香料を詰めた匂い袋を提供するというもの。
これを『ノンキンタン』の店先だけでなくナコトの働いていた冒険者ギルド『サセボ』とエピゴノスのいた礼拝所『ゼノン』、ルルイエが務めていた商人ギルド『シェンカン』で実施。手元にある竜脳、樟脳、アンバーグリス、蘭奢待、シベットを全て使い果たした。
こうして国中に俺の主要香料を出回らせる傍ら、今度は軍資金稼ぎ。
一般的に手に入る香料をガラス瓶という特別容器に入れて高値で売る作業を始める。
香児三名のアルバイトも止めさせて『ノンキンタン』のスタッフに戻す。
超高級だったはずの香料は死ぬ覚悟を決めた志願兵や庶民にあまねく匂い袋とともに出回ったことで、金持ちは代わりのステータスシンボルとしてウチの店の香水瓶を欲するようになっている。中身はミモザやレモン、オレンジフラワー、エニシダ、ジャスミンなど、希少でなくてもいい。亜空間サイノカワラで俺が育てた花々を使い、あとはデザイン性の高いガラス瓶にトナオが詰めればとにかく売れる。
で、どさくさに紛れて雨具「唐笠」も作って調子に乗って売り出してみたら、これも爆売れ。ブランド名『ノンキンタン』のサインがあるだけでもう何でも売れる気がする。
と思ったけど納豆はやっぱり売れなかった。
別にいいもん。トナオと俺は納豆が好きだから二人きりで地下工房で夜なべしている時にカツオ節とネギをかけて「ニャントウ」にして食べるから売れなくても全然いいもん。
そんなこんなで、今この瞬間に至る。
連合軍の関係者が来ることは予想していた。
匂い袋の無償提供はおそらく彼らの目に愛国的に映ったはず。
あとはペニシリン『ヴァンセンヌ』の奇跡。いかにも神秘的。
それに加えて魔獣女子四人の強さ。いかにもチート的。
フォトロビ国に限った話ではなく、どこの国でも雨季の憂さ晴らしとして体を張ったゲームがある。腕相撲、ビンタ合戦、泥団子投げ、格闘大会。魔獣女子はそのほとんどすべてに顔を出し、そのすべてにおいて出禁になっている。強すぎて賭けが成立しなかったり、挑戦者が逃げてしまうから。つまり彼女たちの強さはみなに知れ渡っている。「『ノンキンタン』の病院送り」という新たなパーティー名まで冒険者ギルドでは勝手につけられている。
「こんにちは。お会いできて光栄です」
地下工房を出て、店舗内で俺は挨拶を贈る。
その相手は立派な白髭を蓄え横顔が傷だらけの頑強な老人と、中年で深い皺こそあるものの、引き締まった体つきのブロンズ色の髪の男。
どっちも人間族で、フォトロビ国の軍服を着ている。
階級章からすると白髭爺ちゃんは将軍で、隣のおっさんは腹心。つまり師団長と参謀本部長ってところかな。
あとは護衛らしき兵が二人。どっちも長尾驢人族の女。有袋類のカンガルーよろしくお腹の袋に何か四角い、角張ったものを入れてる。子どもじゃないよね?
「あなたが『ノンキンタン』商会の代表にして冒険者『ノンキンタンの病院送り』のリーダーのナガツマソラ様ですか?」
「『ノンキンタン』商会の代表のナガツマソラです。「病院送り」というのは勝手にギルドがつけたものです」
参謀らしき軍人に対し、さりげなく訂正しつつ俺は自己紹介をする。
「今日はどのような御用で?」
そう言うと、白髭老将軍は店内をわざとおっとりと見渡す。富裕層の客たちはこの軍人たちの存在に気づき、ざわめいている。
参謀の男が「申し訳ないのですが」と断りを入れてくる。込み入った話をしたいんだろう。分かったよ。
「では二階へどうぞ」
俺は軍人たちを階上へ案内する。
彼らの視界から俺が消えた瞬間に、俺は亜空間ノモリガミから木製のテーブル一脚と椅子三つを部屋の真ん中に出す。
床の編草に傷がつくから椅子もテーブルも嫌なんだよね。しかも絶対にこいつら土足で上がってくるだろうし。まあでも仕方ない。あとできれいにしよう。
「どうぞあちらの椅子に腰かけてお待ちください」
俺は二階に上がった将軍と参謀にそう言い、一度階下に降りる。
念話で伝えておいたクリスティナが既に耐熱ガラス製の透明の茶瓶にマテ、ペパーミント、ローズマリー、ジンジャーを入れ、湯を注いで蒸らしてくれている。それに加え、茶こしとガラスのティーカップ五つをお盆にのせて、俺は二階に戻る。
「?」
テーブルの上にはチェス盤が二つ。既に駒まで並べてある。
「どうぞ」
俺は気にせず、五つのティーカップの中にハーブティーを注ぎ入れる。
カンガルーガールのお腹が見事にへこんでる。
育児嚢にチェス盤を入れたカンガルーか。青いネコ型ロボットのもつ四次元ポケットみたいでなんか笑える。
まあ〝ポケット〟を二つもつ俺に笑う資格なんてないか。
「心身の疲労を回復させる効能があります。あなた方も遠慮せずどうぞ」
立ったまま困っている兵士の女二人に将軍は「ありがたくいただきなさい」と低く言う。二人は武器を床に置き、ティーカップをそっと両手で持つ。カップを渡しておいてなんだけど、武器を置いたんじゃ護衛の仕事にならないでしょうに。
「いただきます」
呟くような優しい匂いを皆で嗅ぎ、静かにハーブティーを口に含む。そしてほうと息をつく四人。俺は傷だらけの将軍を見、苦労の皺まみれの参謀を見、二人に似たようなチェスの駒を視る。
幾多の闘争の末に困憊し、ついには石と化してしまったような兵士、騎士、僧侶、戦車、女王そして王。
「申し遅れました。私はフォトロビ国で軍務に携わるコッホ・ウベルランディアといいます。階級は将軍補佐。こちらにいらっしゃるのはモルガーニ・ワンカヨ将軍。将軍はフォトロビ国とフィトクロム国の連合国軍の総大将をお務めになられる方です」
すっごーい。
師団長と師団長参謀なんてVIPが俺のところに何の用だろうね。
チェス盤まで持ち出して。何かのテストのつもりかな?
「そうですか。そのような名誉ある軍人様がこのようなしがない商店へ一体何の御用でしょうか?」
「……冷えた体に、沁みますな」
モルガーニ将軍は俺の言葉を無視し、飲み干したティーカップをテーブルに置き、白駒をコトリと動かす。
ポーンのE4。分かったよ。こっちは受ければいいのね。
黒のポーンをE6にほいっと。序盤戦はフレンチディフェンスからかな。
「噂はかねがね伺っております。アルマン王国においてカルファール伯爵家に奇跡の薬『ヴァンセンヌ』の製法を教えた聖人だと」
コッホ参謀は彼自身の方へ黒駒を向けている。
つまり俺から指せということか。あいあい。
「聖人などと大袈裟な」
白駒のポーンをD4。すると二秒後に黒駒のポーンがD5に置かれる。
「大陸の遥か南方にあり妖しげな呪術を用いて人々を支配するアントピウスなぞの僭王とは違い、あなたを本物の聖人だと私は思っています」
言うね参謀さん。
それ、オファニエル聖皇の前で言ったら次の瞬間には首がきっと飛ぶよ。
まあ、異世界召喚をしくじって魔物量産しちゃってる張本人なわけだから、異論はないけどね。
いいよ。とにかくそのスピードでやりあいたいんだね。まるで本物の戦場のように。
付き合ってあげるよ。まるで本当の戦争のように。
「だから毒味もせずに俺の茶を飲まれたのですか?」
俺は白のポーンをC4に移動。よくやるクイーンズギャンビット。
「そうです」
で、当然のごとく参謀の黒ポーンがE6、俺は白ナイトをC3、参謀が黒ナイトをF6に。
「俺が聖人かどうかはともかくとして、香料を研究する傍ら、アルマン王国の病に聞く薬草成分を見つけたもので、それが幸いにして高い効果を発揮したようです」
「聖人様らしく、大変に謙虚ですな」
コッホ参謀に答える隣で、モルガーニ将軍はゆっくりと白いポーンを運ぶ。D4。俺は黒のポーンをD5へ。ポーンチェーン完成。横に並んだ白ポーンと斜めに並べた黒ポーン。
次はどうする?
ナイトのC3か。定跡を知っているのか試しているみたいだね。
それとも俺が〝何か〟を試したい?
いいよ。それも受けよう。黒のナイトでF6っと。
「ナガツ様はなぜ、この国にはない香料を数々お持ちなのですか?」
コッホ参謀はこっちに質問を投げた後、再び盤面に目を戻す。
「私は商人としてだけでなく冒険者としても様々な地域を旅してきました。密林、塔、山脈、砂漠、海、島、あるいは地下迷宮。そうした道中で珍しい香料を仲間とともに手に入れたのです」
俺の白ナイトをF3へ、参謀の黒ビショップがE7。
「迷宮……さすがは冒険者。さぞ危険に満ちた旅の連続だったのでしょう」
「ええ。死ぬほど危険な目に何度か遭いました」
白ビショップをG5に、黒のB列のナイトがD7に移動。白のポーンをE3へ。
すると参謀が黒キングをキャスリング。黒のキングとルークが同時に動いてキングが守られる。こちらは白のルークをC1に移動。
さあ、来なよ。C4のポーンをとりにおいで。
〝こっち〟へおいで。
「そのような危険を冒して手に入れた貴重な香料を、富める者には高く、貧しき者には安く分け与えたのは、どういう意味があったのですか?」
聖人っぽく答えろってこと?
やっぱりテストしてんの?
それとも時間稼ぎ?どっちでもまぁいいや。
「香りは心を治めます。欲深い者が香を嗅ごうと躍起になる時、香は薄れたかのように感じられます。とはいえ自分の手に入る香の量は限られている。よって香を渇望するほどに苦しみは増し、嗅いだ時の高揚は焦燥に変容する。簡単にいうと嗅ごうとすればするほど香は嗅げなくなります。そうして欲深い者は自分の愚かさに気づく。反対に貧しき者は静かにその香を嗅ぐ。思いがけない幸運を手にしたときのようにそっと、ひっそりと嗅ぐんです。すると今生きていること、今日を生き延びたことを純粋に喜べる。つまりこの腐敗した世界にあって、香りというものは誰にも彼にも必要なのです。だから誰にでも手に入るようにした……そんなところです」
言って、俺は階下から立ちのぼる芳香の変化を確認する。
一時間おきに香児たちは順番でフードを脱ぐ。
アンバーグリスの香りってことは、今度はエピゴノスが脱いだんだね。
「なるほど。匂い袋を無償で我が国の志願兵に配ってくださっていることも腑に落ちました。やはりあなた様は聖人に違いありません」
コッホ参謀の黒のポーンがC6に。苦笑する俺は白のビショップをD3、参謀は黒のポーンで俺のC4ポーンをとる。こちらは白ビショップでC4に置かれた黒ポーンをとりあげる。参謀の黒ナイトがD5へ動く。
「相手は女帝リチェルカーレと名乗る蛮王。それがまき散らす厄花を摘み取ろうとする勇敢な戦士たちへ、ささやかですが安らぎを届けられればと思っただけです」
「貴殿は、戦争において大事なものは何だと考える?」
おっと。大将のこと忘れてた。
どれどれ、モルガーニ将軍の白ポーンがE5?
ああ、ナイト狙ってんのね。F6の俺の黒ナイトをD7にお引越しっと。将軍の白ポーンが優雅にF4にいらっしゃる。ポーンチェーンで対抗ですか、ご苦労様です。
俺の黒ポーンをC5によっこらせっと。
「そうですね……」
それにしてもテストかぁ。
「私は商人であり調香師であり……」
元の世界の学校の定期試験は嫌いだった。
あんなのただの暗記大会だ。試せるのは一定の記憶量と一定の情報処理速度。壊れているせいで〝一定〟がない俺からすれば無意味でしかなかった。
「冒険者ですので……」
その点、この異世界はいい。
〝一定〟なんてものがまだ定められていないから。
つまらないことを思い出しちゃったから、少し斜め上の答えでも出してみようか。ついさっきまでいた戦場で思いついたことを。
「目先の命にどうしても目が向いてしまいます」
「それはどういう意味でしょうか?」
で、コッホ参謀との戦いにまた戻る。
白の俺はビショップでE7ポーンをとり、黒の参謀はクイーンで俺のE7ポーンをとる。俺は白ナイトで参謀のE4ポーンをとり、参謀は5段目の黒ナイトをF6に移動させる。俺の白ナイトはG3に、参謀の黒ポーンはE5に動く。こっちのキング側に駒を集めてんのね。
「戦場でいつももどかしく思うのは、治癒士たちが常に後方で待機せざるを得ないということです。戦場の混乱の中、前線で負傷した兵士たちが後方へ運ばれてくる間に負傷兵の多くが亡くなっていきます」
「それが戦というものでしょう」
俺は白キングをキャスリング。参謀は黒のE5ポーンで俺のD4ポーンをとる。
はい残念。
ポーンを取り返すと思っていたみたいだけどここで俺のナイトはF5に移動するのね。
もう終わりだよ。コッホ・ウベルランディア参謀。
戦をするその手も、戦に対するその発想も、君の限界そのものだ。
君は限界に達し、〝こっち〟側に呑み込まれた。あと十二手以内に降参する。
「いいえ。もし私に指揮権があるとすれば、投石機を曳くウマイヌに負傷兵専用の輸送車を曳かせ、最前線から後方へ次々と兵士を搬送させます。名付けて救急車」
「「……」」
二人の将兵が俺の顔をまじまじと見る。
投石機を曳くウマイヌという動物は、オオカミより大きいのにオオカミより大人しい。それでいて足の速さはオオカミ並みで、馬力は馬六匹分に相当する。
そのウマイヌの頭部に〝ヘルメット〟を用意してあげればウマイヌの生存率だって下がらずに済む。特に特殊石人族と作る〝ヘルメット〟があれば、死なせずに済ませる自信が俺にはある。
「これで負傷兵の治療までの時間が短縮し、尊い彼らの生存率は上がるでしょう。私なら投石機よりも兵士の救助を優先します。それはゆくゆく軍隊の士気にも関わってくるでしょうし」
モルガーニ将軍とコッホ参謀の手が完全に止まる。呆然とした表情になり、ついにはテーブルから膝に手が降りる。こんな発想なかったでしょ?
これが〝奇襲〟だよ。
それにしてもさ。
甘い。
チェスとは言え戦争は戦争。
テストじゃない。戦争なんだよね。
地域紛争ではなく全面戦争。
戦争は始めるのはたやすいけど、終わらせるのが困難なんだよ。
その辛みは最後まで堪能してもらわないと。特に軍人の場合は。
「「!」」
俺が代わりに二人の駒まで動かす。
不確定な未来をねじ伏せ、俺の望む現実に変えて見せる。
まずはモルガーニ・ワンカヨ将軍の駒から。
「中隊つまり五百人規模の兵につき、救急車を一台準備するということです」
俺は盤の中央を狙いつつ白と黒の両ナイトを展開させ、さらに白黒ビショップ両方を使って両方ともキャスリング。
将軍の見せ場をつくるために白のディスカバードアタックから。
二つの駒で黒の俺を狙わせた後、こちらからは黒クイーンと黒ルークで串刺しのお礼。
これで両者の駒は互いに一気に少なくなり、ステールメイト。
つまり動かせる駒をなくして、引き分け。
戦争は消耗戦。戦争ほど儲からない商売はないんだよ。人も物も消え失せる。
〝だから〟戦争はよくないと知れ。
「それと、このフォトロビ国にはスピッツベルゲンという村があります」
〝停戦〟に終わったモルガーニ将軍は胸のポケットから葉巻を取り出して俺をちらりと見たが、俺が首を横に振ったため、取り出した葉巻をしまう。まだ茶瓶にハーブティーが残っていたので俺はそれを将軍のティーカップに注ぐ。
「存じております。ポルックス州カレーノメ市の〝死の池〟スピッツベルゲンですね」
次は〝死の池〟と答えたコッホ参謀の盤。
こっちは引き分けになんてしない。
参謀である以上、師団長のつもりで状況を把握して師団長の立場にたって問題解決策を考えられるのは当たり前。
それでも優劣がつく理由は片方が「遅すぎる」から。
戦は時の流れとともに常に動いている。
動いているから奇襲でき、奇襲される。
奇襲された際、状況を立て直すのが遅いから敗れる。
参謀である以上、それを思い知れ。
俺は白クイーンを中央に配置した後、参謀の黒キングに向けて動かす。白ポーンを使い、さらに逃げる参謀の黒キング。それを俺の白ナイトと白ビショップで追わせる。参謀はただうなだれたまま、こちらの動かす白と黒の駒を見ている。
「そう。死の池。それとついでに、アブサンという密造酒をご存じですか?」
言って俺は、自分の白クイーンで参謀の黒キングを追い詰める。
チェックメイト。こちらは〝敗戦〟。
「遺憾ながら、存じておる。……よもやあなたのような方が、売りさばいてはおらぬな?」
モルガーニ将軍が顎髭をしごきながら低い声で言う。
自分たちの仕掛けた戦争からようやく解放された二人は盤上から目を離してこちらだけを見るようになる。ゲームを支配されたことが悔しいのかアブサンの罪業に怒っているのか、モルガーニ将軍の表情は険しい。
「あれは呑めば脳が壊れる悪魔の酒です。ただ用いようによってはすごいことができます」
わざと曖昧に答える俺。
「それは売りさばき財を得るという意味か?」
やはり苦々(にがにが)しい表情のままのモルガーニ将軍。
この人はアブサンに手を出していなさそう。
偉いね。国を思い民を憂う。絵に描いたような愛国軍人って奴かな。
戦争は力づくで何とかなると思っていそうだけど。レベル55の歴戦の古株だからそう思うのも仕方ないね。
「いいえ。違います」
念話で俺が呼んだクリスティナが二階に上がってくる。
両手で運ぶお盆には二つの薬瓶がある。
どちらも透明の瓶。
そして中に入っている液体は一つが無色透明。そしてもう一つは緑色。
モルガーニ将軍とコッホ参謀は緑色の液にあきらかな敵意を向けてくる。
「こちらに入っている透明の液はスピッツベルゲンの死の池の水。それで、こちらに入っている緑の液体が闇市で出回り始めている悪魔の酒アブサン」
「「……」」
透明な液の方から紹介した俺はそこまで言って二つの瓶の栓を抜く。
キュポン。トクトクトク……
空になっている俺のティーカップに二つの液を注ぎ入れる。直立したままの兵二人も含め、軍人四人が息をひそめて目を凝らす。
「何をなされるおつもりか?」
「少々お待ちを」
スピッツベルゲンの死の池。
その正体は濃硫酸の湧く泉。
そしてアブサンという密造酒は薬草ニガヨモギが浸けてあるけれど、要するに蒸留されたエタノール。
ちなみにこれほど高純度の酒を造る蒸留技術は俺がこの異世界に来たばかりの当時、なかった。とすると、製造元は召喚者。たぶん同期のアイツだろうけどね。
で、濃硫酸とエタノールの二つを反応させてできるのは、ジエチルエーテル。
「けがをした兵士を治療する主な方法は治癒魔法。ただし治癒魔法を使える治癒士が常に傍にいるとは限りません。戦場であればなおさらのこと。もし治癒魔法の使い手がいなければどうなさいますか?」
液を混合させ終えた俺は穏やかに問いつつ薬瓶の二つの栓を閉じる。
「放っておけば傷口から腐り全身に毒が回る。ゆえに治癒士がおらず傷が深ければやむを得ぬ。手足もろとも切り落とすしかあるまい」
惨憺な幾多の苦闘を思い出したかのように、目を細めて答える老将軍。
「その通りです。そして当たり前のことですがそれは苦痛を伴います。ゆえにその場における〝良い〟治療とは素早く手足を切断する治療」
「分かり切ったことをなぜわざわざ……」
そこまで言って、モルガーニ将軍の口の動きが止まる。
ジエチルエーテルは常温で揮発するからそろそろかな。
俺や〝俺の〟魔獣女子には効かないけどね。
「「「「?」」」」
俺はゆったりと微笑む。
「もし苦痛を伴わず、傷口を切り落としたり、傷口に熱した油を注ぎこむことができたとしたら、それはとてもありがたいことだとは思いませんか?」
「「「「…………」」」」
おっとりと口を広げ始めた四人がフラフラし始める。立っている兵士二人はヘタヘタと座り込み、将軍と参謀はテーブルに両腕をかろうじて乗せ、ゆっくりとその上に突っ伏す。「でも本当は切断や焼灼じゃなくて消毒が大事なんですよ」と語ろうと思った時には、四人とも既に、眠りこけてしまっていた。
「……!?」
10分ほどしてモルガーニ将軍が目を覚まし、コッホ参謀と兵士二人を叩き起こす。
「一体、何をしたのだ?」
既にジエチルエーテルも薬瓶もクリスティナに下げさせ、新しくスペアミントのハーブティーを独り飲んでいた俺に、将軍が質してくる。表情はこの人らしくなく、幼子のようにうろたえている。
「少しの間、気を失っておられました。ところで今、体はどんな感じですか?」
言われてモルガーニ将軍は自分の古傷だらけの右手をじっと見つめる。
指をクイクイと動かした後、気づいたらしく、拳を固く握りしめる。それでとうとう確信し、拳で思い切りテーブルを叩いてみる。
ダンッ!!
眠りから起こされたばかりでぼんやりしていた三人のフォトロビ兵が完全に覚醒する。
「将軍!?ど、どうなされたのですか!というか私は一体……」
「痛くない……」
武器を支えによろめき立った二人の兵士とコッホ参謀が、モルガーニ将軍の拳を見る。
「え?」
「痛みが、ない」
将軍のつぶやきを聞き、三人は自分たちの体を触り始める。頬をつねったり、尻をひっぱたいたり、脛に武器をぶつけてみたりしている。そして互いの顔を見て「?」を浮かべる。
「やがて感覚はもとに戻ります。けれどしばらくは痛覚がない。そして先ほどのように意識も一時的に失う」
俺はスペアミントティーを啜りながら応える。
エーテルによる全身麻酔。
「負傷した兵に対し、治療をする前に先ほどのエーテル蒸気を吸わせることで意識と痛覚を失わせる。そして治療後、今のあなた方のように負傷兵が目覚めるとすれば、治療する側も患者が暴れないので傷の手当てがしやすいですし、治療される側にとっても苦痛がないのでありがたいでしょうね」
「あなたは……一体」
驚愕に打たれたような顔をコッホ参謀がこちらに向けてくる。無理もない。
君らが前にしているのは、これから百年くらい先の医療技術。本来であれば世界大戦という大出血の果てに手に入れるはずの人類の知恵だよ。
「ですから商人で、冒険者です。が……」
そこで区切り、スペアミントティーを俺は飲み干す。
「アブサンという危険薬物が流通し、それで廃人を増やすくらいなら、国が責任をもって州や市の自治体からアブサンを買い上げ、死の池の水でも何でも使い、無痛治癒という奇跡に応用する。私が一国の主なら、そうします」
試験終了。
君たちに俺が測れたかな?
「……お暇させていただく」
眼を閉じ、深いため息をついた後、将軍がそう言って席を立つ。
「本当だ。感覚が戻っている」
「でしょう?」
脂汗をハンカチで拭った参謀と、チェスの道具を急いで腹にしまった長尾驢人族の女兵士二人がそれに続く。ちょいちょいお二人さん、武器を忘れてるって。
「日を追って、また来ようと思います」
モルガーニ将軍はそう告げて、うちの店を出る。将軍たちを待っていたゴツい馬車を見送るべく、俺も店の外に一緒に出る。
湿度を失いつつある黄昏空の巨大な夕陽の下、泥まみれになって近所の子どもたちとゴーレムごっこをやる魔獣女子三人。よっちゃばってねぇで働けっちゅうに。
「ところで、アルパカはお嫌いか?」
馬車に乗りこむ前、モルガーニ将軍は突拍子もなくそんなことを尋ねてきた。
「え?アルパカですか?」
あのラクダの親戚みたいな、憶病な動物?
「ふふ。なんでもありませぬ。……楽しいひと時を過ごさせてもらいました」
魔獣女子三人を一瞥した老将軍と、何か思い当たる節があるらしいブロンズ髪の参謀を俺は見送る。
「さぁて!真面目に働くクリスティナのためにイチゴのタルトでも作ろうっと!」
大声で独り言を吐いた俺が店の中に戻ったあと、女子三人も慌てて店に戻ってきた。
二日後、モルガーニ将軍ではなくコッホ参謀が『ノンキンタン』に来店した。
「こちらを」
そう言って手渡されたのはフォトロビ国の主城ウィトウリヤへの招待状。
ん?
よく見ると、ナガツマソラという名前の前に変な肩書がくっついている。
第十三連隊 連隊長補佐 ナガツマソラ。
「え?ちょっとこれ」
招待状じゃなくて召集令状だった。
「急で申し訳ありませんが、モルガーニ・ワンカヨ将軍は既にクリプトクロム国へ出立しております。急ぎ城へのご同行をお願い申し上げます」
なんちゅ~勝手な連中だ!こまっちもう!
まあ、連合軍に入るのは計算のウチだけどね。
連隊長ってことは結構大規模な軍を動かせそうだね。
その補佐か。一般参謀でも特別参謀でもどっちでもいいや。
この異世界じゃたぶんその区分は曖昧でしょ?要は〝補佐〟をすればいい。
ようやくだ。
ようやく面白くなってきた。
そうは思わない?
女帝リチェルカーレ。いや、チがう。
シズクイシヒトミ。
早ク〝コッチ〟ヘオイデ。
さもなイト俺が何モカも呑み込んデシマうかラ。
lUNAE LUMEN