第二部 歌神香児篇 その八
五月待つ
花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
よみ人しらず『古今和歌集』
7. 白鳥の歌「闇香」
その広間は白い壁を背景に、鮮やかな緑色の孔雀石の巨大な石柱が八本も組み込まれている。さらに壁面には昼、夜、詩を表す絵が描かれ、金箔をはった扉と深紅のカーテンが豪華な内装を完璧なものにしている。
その孔雀石の間の中央奥。
「こ、こちらが、『ヴァンセンヌ』と『ナガツマソラ』になります!どうぞお納めください!」
「ありがとうございます」
場所はアーキア大陸西端。マルコジェノバ連邦の一角コルメラ国。
とはいえ現在は、女帝リチェルカーレの支配する帝国ニデルメイエール領の一部。
その旧コルメラ国の首都デモインに女帝つまり雫石瞳はいる。
連邦中からかき集めた石人族、建築家、石工職人を使い大改造した元首相官邸の中で、彼女は各地域の通商使節団と面会している。ちなみに首相官邸の現在の呼び名は「冬宮」。
クリプトクロム国、コルメラ国、ペンザ国、ゼアチ国、グリナ―ル国。
雫石瞳はマルコジェノバ連邦を構成する17カ国のうち、既に南部の5カ国を切り取ってしまった。それも一年弱の間に。
数百年変わらなかった歴史がほんの短い間に劇的に変わってしまっていた。
「では部屋の外にて返礼品をお受け取りください」
花魁姿で玉座におっとりと座る雫石が合図を送る。すると彼女の部下で自我のある歌忌は商人たちを孔雀石の間の外へ連れ出す。長い花崗岩の廊下を歩く。
「どうぞ」
そして案内されたのは白、黄、赤の縞模様で埋め尽くされた瑪瑙の間。倉庫として使われているその部屋には大量のバーボンバレル、つまり200Lの液体の詰まった樽が所狭しと置かれている。
「これが……」
商人たちは木樽の山を見上げて息をのむ。
「何か?」
顔の下半分を呪いのガスマスクで覆う歌忌が尋ねる。
「いえ、あ、ありがたく頂戴いたします!」
「床の石に傷がつくといけないので転がさず、お手に取ってお持ち帰りください」
歌忌は樽を一つ、気だるそうに指さす。
「もちろんでございます!」
「腰を痛めないよう気を付けてください」
瑠璃の間に入ったディシェベルト国ネグレイス州チェラプンジ市の七人の通商使節団のうち、四人が腰をかがめる。彼ら四人は自分らに贈られるであろうバーボンバレルの運搬を想定して選ばれた筋骨たくましい亜人族。蟻人族二人。象人族二人。200Lの液体の入った樽一個を持ち上げるのはさして難しくない。ただ、
(間違いがあれば、死ぬ)
問題は城の出口まで五キロに及ぶ廊下を転ばず、かつ壁を含む装飾品に一切傷をつけず出ること。石の都の石の美の天国にかすり傷をつけようものなら、「女帝に対する不敬罪」でその場で使節団全員がニデルメイエール兵に集られ、貪食される。
室内警備のため傘を小さくしたキノコを首から生やしたニデルメイエール兵と美術品の林立する廊下を、樽を運ぶ七人は脂汗を浮かべながら慎重に歩く。彼らの少し先には、やはり同じように全神経を樽に集中させて廊下を歩く使節団がいる。
女帝のいる孔雀石の間に設けられた二つの黄金の扉。
歌忌が片方の扉を開いて広間に商人たちを招き入れると同時に、もう片方を歌忌が開き、先に広間に居た商人たちを瑠璃の間へと流す。
地獄へ入り別の地獄へと向かう人々はいずれもマルコジェノバ連邦で活動する商人。
列をなして自分たちの順番をハラハラしながら待ち、黄色に輝く琥珀製の玉座に座る女帝に挨拶をする。さらに献上品を差し出し、部屋から追い出され、返礼品を受け取り、ヘトヘトになって帰って行く。
彼ら商人たちの共通点は、いまだ雫石瞳が侵略していない地域で活動していること。
雫石瞳の占領地域の商人のほとんどはニデルメイエール兵に食われたか、病歌で兵隊にされている。運が良ければ病歌の効かない歌忌として士官に選ばれ、雫石の軍団で頭脳労働もしくは軍隊指揮を強いられている。
「次の方」
歌忌の一人が合図をして、女帝のいる孔雀石の間へと、献上品を持った商人たちを通す。地獄へ入る集団の大半は「市」内の商人ギルドのマスタークラスで編んだ使節団。
マルコジェノバ連邦を構成する国々は、そのさらに小規模の集団構成単位として「州」をもつ。その下は「市」。
その、各市にある商業ギルドのマスターが集まり、使節団を作り、女帝に謁見をしている。したがって列はどうしても長蛇になる。
それもこれも、女帝の想定内。
女帝である雫石瞳が各国の政府関係者に対して出した通告は、
「各市の商人ギルドから石人族を差し出せ」
というものであった。各国の政府首脳陣と煩わしい交渉をするつもりは、雫石にない。
戦禍を免れている各国は当然この要求についての対応を商人たちも交えて議論するが、意見百出、国としての結論がなかなかまとまらない。
そうこうするうちに勝手に石人族を差し出す市が現れる。しかも彼らは女帝自らの声で「忠誠を誓うのであればあなた方の安寧を約束する」と言われる。
あてになどならない口約束とはいえ、相手は破竹の勢いで勢力を広げる無敵の征服王。
その畏れ多い存在の拝謁を一市民が許され、ついには自分たちの活路を切り開いたと実感できる瞬間を味わえる。
これで人心が蕩けないはずがなく、国家が崩れないはずがない。
国としての結論がまとまらないうちに続々と各市の商人ギルドが動き出し、なし崩しに石人族が国外へと流出する。すなわち市単位で女帝とのやりとりが始まる。
市が単独で女帝と交渉を進めることを固く禁じることができたのは大国マルコジェノバと、その東に金魚の糞のようにくっつくシステミ国、プテシノス国のみで、あとは女帝の恐ろしさの前に屈せざるを得なかった。
「各市が安寧を約束されるのなら、各州、ひいては各国も安全が保証される」
こういう不思議な理論が各国首脳陣で形成され、多くの国は市のギルドマスターらによる女帝への石人族献上に目を瞑ることになる。
そして市のギルドマスターたち。
当然のことながら、市によっては抱える石人族の人口が異なる。最悪の場合存在しないことも十分ある。
(石人族はどこだ!?)
商人ギルドは血眼になって石人族を市内から探す。そこで風当たりが強くなるのが奴隷商。奴隷を扱う商人への仲間内からの取り調べや尋問は厳しく、彼らは石人族を隠し持っていないかと尻の穴の中まで疑われるほど徹底的に調べられ、また「石人族を手に入れろ」と仲間内から尻を叩かれる始末だった。
こうして、どうやっても石人族が手に入らない市が出てくる。
(何か、替わりとなる品を用意しなければ!)
〝質〟に入れる石人族がない市は代替品を死に物狂いで考える。
そしていつの時代もどの世界も、都合よく、噂は作られては、垂れ流れる。
「女帝は珍しい品を、とくに喜ぶ」。
ここで商人ギルドは自分たちの人脈をフル活用する。
特殊な気象条件のせいで、長いこと共同体としてやってきたマルコジェノバ連邦は文化が似たり寄ったりである。おまけに鉱石資源の有無や差異があまり著しくない。
つまり何も企まずに石人族以外の贈り物を女帝に献上しようとすると、どうしても同じようなものを贈る可能性が出てくる。
それでは珍奇とは言えない。
珍奇でなければ喜ばれない。
そしてそれはそのまま、自分たちの死につながる可能性がある。
あてにならない噂を土台にしつつ、商人たちはそう考える。
(石人族は取り合いだが、それ以外は助け合うしかない)
贈り物がなるべく重ならないよう、商人ギルドは各市同士で情報を交換し、石人族以外の献上品については細心の注意を払った。
海や川や湖や渓谷などの特殊な地形で得られる物品があればそれを一つだけ選び、大量に贈る。あるいは自国を軍事的に売ることにつながる自市や自州の地理情報。それすら用意できなければ……
(流行り物しかない!)
運に見放された市の商人ギルドたちが最後行きつく答えは、これしかなかった。
アルマン王国の歴史的風土病チョルトを完治する『ヴァンセンヌ』という医薬品。
そしてそれを体内に投与するための画期的な医療器具『ナガツマソラ』。
これらの商品に加え、薬品『ヴァンセンヌ』を作るための技術、注射器『ナガツマソラ』のために飼育される動物メルフォートベータが女帝への贈り物に選ばれる。
それがかえって雫石瞳を刺激しイラつかせるとも知らず、困り果てた商人ギルドは我先にとこれらを手に入れる。
贈り物として重複するのはもはや覚悟の上。あとは舌先三寸で命を拾おうと最大限の言い訳を用意しつつ、急ぎ彼らは女帝へ流行り物を贈った。
「各市の商人ギルドから石人族を差し出せ」。
女帝がこのように命令すれば、そうなることくらい、女帝は端から分かっている。
〈良かったね。また『ナガツマソラ』だよん。ふふふん〉
〈静かにしてください〉
分かっていてもなお、やる理由。
〈本当は『ナガツマソラ』まみれでうれしいくせに~。シズクちゃんたらツンデレなんだからぁ~ん〉
〈私が一度でもデレているところをあなたに見せたことがありますか?私の全てを見通せる虚病姫に〉
〈シズクちゃんが心の奥底で何を考えているのか~、いくら乙女のマヨでも全部は見えないよ~だ〉
〈相変わらず適当なことばかりほざきますね〉
〈ひっど~い!「ほざく」とか暴言吐くの、よくないと思いま~す!〉
〈よくないのはあなたのその凶悪なぶりっ子キャラです〉
〈ぶりっ子じゃないもん!天然キャラだもん!ピュアマヨだもん!〉
〈天然キャラは自分で「天然」とか言いません〉
「各市の商人ギルドから石人族を差し出せ」。
雫石瞳のこの言葉には、石人族を集めること以外に別に目的があった。
それが今、商人たちが長い廊下をヨチヨチと歩きながら運んでいる木製樽の中身。
既に各国各州各市の冒険者ギルドに、闇で流通させている酒。
アルテミシア・アブシンチウム。
つまり『アブサン』。
雫石瞳の中に宿る虚病姫は元の世界そのままの名前を、その液の名に冠した。
アブサン。
別名、緑の妖精。
その酒は蠱惑的な緑色をしている。高純度の酒精の中に、ルバート大森林で無尽蔵に採れる薬草ニガヨモギを浸けてある。このニガヨモギがツヨンという成分を持っていて、酒に溶けだしたこれが人々を高揚させ、感覚を鋭敏にする。
また、ツヨンの化学成分は大麻の成分と似ていて、大麻と同じく人体の中枢神経に働きかける。
飲めばヒトは夢想と幻覚に深く浸れる。
呑み方は、水で割る。
そもそもアルコール濃度が70度と高く、味も苦い。このため、水で割り、アルマン王国産の角砂糖を入れて飲む。その際は緑の液が魔法のごとく白く濁る。その不思議さがまた、この謎の酒の魅力を増す。
アブサン。
別名、飲む大麻。
依存性が極めて高く、精神錯乱や狂気をもたらす酒。
一度溺れたら心までただれ、廃人になり、死んでも浮き上がれない薬物。
恐怖の対局である快楽による支配を女帝が目論んだ一品。
ルバート大森林で雫石瞳が虚病姫の封印を解いて覚醒した後、着々と作り続けてきた珠玉の蒸留薬酒。
それが今、マルコジェノバ大陸にばらまかれつつある。
女帝の恐怖が増せば増すほど、その恐怖から逃れられるアブサンの人気は高まる。
そこまでを見越して虚病姫は雫石瞳にアルコールの蒸留技術とアブサンの製造法を教えた。
破滅の酒、アブサン。
それらを返礼品や商品として受けとり流通させている商人ギルドも冒険者ギルドも馬鹿ではない。
それが危険な品物だと分かっているし、情報も広く共有している。
しかし今、自分たちの身に危険が迫っている。
(今は命の保証をされていても、いつまで続くのか……)
災禍に巻き込まれる前に、高値で取引されるアブサンを売ってまとまった資産を作り、いざとなればそれをもって自分たちだけは安全な場所へ避難したい――。
その自己防衛本能が、魔酒の流通に拍車をかける。
もちろん、女帝も虚病姫もそこまで計算してやっている。
そしてさらに先まで読んで動いている。
ギルドマスターたちは決してアブサンを呑まない。
呑むのは各国の将軍クラス以上の金持ちとSランクの金持ち冒険者。貧乏人の手にはまだほとんど届かない。
けれどそれも時間の問題であり、女帝が切り取った一国ペンザでは既に大量生産を始めている。病歌で洗脳されキノコを生やした労働者たちが二十四時間フル稼働でアブサンを製造している。
やがて貧困層にまであまねくアブサンが配られれば、アブサンは値崩れする。そして飲めばたちまち心が崩れる。国も人も何もかも崩れる。
唄謡の病歌と厄酒アブサン。
病歌は強い支配の代償に、その者の意思まで奪う。
アブサンは意思までは奪わないが、依存性という支配がある。
特殊スキルを使わせたい亜人族を支配する場合、雫石と虚病姫はアブサンの使用を選ぶ。
すなわち、石人族の場合はアブサン浸けにされた。
彼らの楽しみは一日の終わりに与えられる一杯のアブサンそして同胞の男女間のまぐわいであり、その快楽を得るために女帝に仕えていた。
「次の方」
「は、はい!」
孔雀石の間にまた、使節団が入る。それに眠そうな眼を向ける女帝は心の中で虚病姫といつも通りのやりとりを続けている。不協和音を奏でているようで、いつも協和している二人。
「こ、このたびはお目通しが叶い、感謝の極みにございます」
「こちらこそ」
挨拶した商人たちは石人族を連れていない。
つまり貢物は別。それは五つの木箱に収められている。
「つ、つまらないものですが、こちらを献上させていただきたく、お持ちいたしました」
通商集団は全部で十名。
女帝に口を利く代表商人が一人と、献品の説明をするための商人が二人。あとの七人は献品を運ぶ者。彼らは軽子と呼ばれる商人の手伝い。要するに荷物運び。七人はいずれも鬼人族だった。この人選の時点でアウトだと、意識のある歌忌などは心の中でため息をついてしまう。
(なんてクサい……)
汗の臭いがきつい鬼人族の体臭のせいで、女帝は虚病姫とのやりとりを中断する。
〈力持ちだけどさぁ、よりによってなぁんでオーガなんて人足に選んだんだろうねぇ。人手不足~?ただの嫌がらせかもん。殺しちゃえばぁ?〉
〈クサいからといって殺すなんて……そんなことくらいで殺した方が、私の心は動くかもしれませんね〉
〈でしょでしょ~?〉
孔雀石の間を出た所で兵士に食わせようと考えた雫石は穏やかに「箱の中身を見せてはいただけませんか」と商人たちに言う。緊張した商人の方は「はい!」と背筋を伸ばし大きな声で返事をし、鬼人族たちにいそいそと命じる。鬼人族たちは各々(おのおの)が腰にさしていた釘抜きを取り出し、頑丈に封印されている木箱の鉄杭を引き抜いていく。「釘が壁に飛ばぬよう慎重に作業しろ!」と使節団代表の商人クッチ・クシロが怒鳴る。「中身が割れぬように注意せよ」と副代表のミッチーナ・アイザワルが甲高い声で怒鳴る。
〈〈割れる?〉〉
一瞬の間、雫石と虚病姫は互いに箱の中身を想像し、それでまた二人だけで会話する。挙げられた例はいずれも食べ物。獣類の卵。
バキ。
箱の一つがとうとう開く。
汗をヨレヨレの服の袖で拭いつつ、商人三人が中を覗き込む。そしてほっと息をつく。けれどもう一人の副代表ケンデル・アンテップが「あっ」と中の一か所を指さして叫ぶ。それでクッチとミッチーナの二人も気づき、顔を見合わせて慌てふためく。
「……?」
商人たちのやり取りを見ているうちに、雫石瞳が、固まる。
(この香り……)
室内に立ち込めていた鬼人族の体臭が、打ち消されていく。
「あ、あの、申し訳ございません。その、贈り物の一つが割れてしまいまして……」
雫石が、我を取り戻す。箱の中身に気づいた虚病姫が声を消す。
「その中身は、なんですか?」
驚きを努めて出さないようにしながら、雫石が商人クッチに問う。
「はい。こちらの箱にはイボタノキとヒナギクの香り水が入っておりまして……」
「見せてください」
「あっ、はい!ただいまお見せいたします!」
商人クッチは箱の中にいそいそと手を伸ばす。震える両手でしっかりと献品を握りしめ、そして女帝に示す。
「こちらでございます」
「……」
息をのむ女帝。
〈あれ……硝子だよん。予想、外れちゃったねん〉
球形のガラス瓶に詰められた液体。
「こちらに、お持ちください」
「は、はい!」
転ばないよう、足元に注意しながら商人クッチは香水瓶を女帝の元へ運ぶ。ずっと傍に控えている赤膨鬼サンタクロースと白蛇ブラドヴィーナスが構えるが、女帝はそのまま控えるよう、身振りで軽く二匹に示す。
女帝はガタガタ震える商人クッチから直に香水瓶を受け取る。渡した後クッチは頭を下げたまま元の場所へと逃げるように戻っていく。
「……」
それは、吸い込まれるような深みのある青色の球面に、金色の星型模様がちりばめられている。
星明りのたまる夜空。
すなわち天球をイメージした香水瓶を、雫石はしげしげと観察する。
〈青は青金石で、金は黄銅鉱だねん。でも何が一番すごいってさぁ~それをガラスにちゃんと混ぜているところぉ~ん〉
雫石の掌でゆっくりと転がされる工芸品を、虚病姫は分析して伝える。
〈この世界にはガラスなんて…………召喚者〉
〈くふふ。そうだねん。どんな召喚者が作ったんだろうねん。マヨの勘だとぉん、黒髪でショートだけど前髪長めで~菫色の瞳のぉ~〉
〈だまりなさい〉
バキ。バキバキ。バキ。
贈り物の木箱の封が次々に解かれる。中身を一々確認しては安堵の溜息を大きく吐く三人の商人。それをまじまじと見つめる雫石。そして手元の瓶に目を戻し、瞼をゆっくり閉じる。
キュポン。
手の中にある香水瓶の蓋を抜く。女帝の嗅覚は、闇の中で研ぎ澄まされる。
〈どこにでもある、イボタノキとヒナギクの香り〉
そう自分に言い聞かせて気持ちを静めようとする女帝。
ところが、香りが〝闇〟を結び始める。
〈………………〉
濃縮し、集中した闇は、人の形を成す。
それが音もなく彼女を呑み込んでいく。
〈どこにでもある薬草の香りをさぁ~冷たい油脂に染み込ませて抽出する冷浸法を知っているのもぉ~ん、すごいよねん〉
雫石の異常を検知した虚病姫が先手を打つ。
〈こんな高純度のガラス細工を作れるだけでもウルウル感動しちゃうのに~ん!〉
虚病姫の声を頼りに、女帝は香のひしめく闇を掃い退け、瞼を開く。
「……」
瓶の蓋をようやく閉じる。
額に汗を浮かべて待っていた三人の商人は、女帝が自分たちに再び視線を向けた瞬間、全部で五種類の瓶を女帝に向けて掲げ、精一杯の笑みを浮かべる。甘く柔らかい笑みを無理に浮かべ返す女帝。
〈これを作った者が彼かどうかなど、分かりません〉
〈そ~だね~。じゃあとりあえず贈り物の名前聞いてみよ~〉
女帝は久しぶりに乾いてしまった口を開く。
「これらの、香り水の名前を、言いなさい」
虚病姫は雫石の、鼓動の高鳴りを拾う。
「はい!」
副代表のミッチーナ・アイザワルが大きな甲高い声で返事をする。
「私の左手にあるこちらの香り水は『白昼に』と申します!たった今私の隣にいる代表のクッチ・クシロが陛下に献上した香り水にございます!」
「続けなさい」
余裕のない命令口調になっていることすら、気づいていない雫石。彼女の様子を気に掛けつつ、調香師の仕掛けに気づき、ほくそ笑む虚病姫。
「はい!発売された順にご説明いたします!『白昼に』の次が私の右手の香り水で……」
①『白昼に』……成分:イボタノキ(モクセイ科)とヒナギク(キク科)
②『闇の彼方』……成分:スミレ(スミレ科)
③『さよならは言わないで』……成分:ユリ(ユリ科)とスイセン(ヒガンバナ科)
④『私は戻ってきます』……成分:マジョラム(シソ科)
⑤『あなたの方へ』……成分:アラセイトウ(アブラナ科)
「以上になります!」
ミッチーナが締めくくり、お辞儀をする。
(白昼に、闇の彼方)
威厳たっぷりだった雫石の、女の自我が霧散していく。虚病姫がそっと動く。
「もう一度、アナタ方がどちらから来たのか教えてもらえませんか」
力みの消えた女の弱った声が、部屋に響く。
(さよならは言わないで、私は戻ってきます、あなたの方へ)
朦朧となる女。言葉をすがるようにたどる雫石。ようやく元の形に凝結する女帝。
「はい!我々はフォトロビ国南の片田舎、サリナクロス州のロライマ市から参りました!」
代表のクッチが腹の底から声を出して答える。その声音と商人三人の鼓動音から、彼らの魂胆を解析し終えた虚病姫。壊れそうな女を支えるために次の手を打ち始める。
〈すごいねん!ラブストーリーになってるじゃん!マヨドキドキ~ッ!シャレてる~んっ!誰だろうね~!こんなこと思いつくのって~!誰だろうね~シズクちゃん!どんな召喚者の男子がどこの召喚者の女子に向かってラブストーリー書いてるんだろ~!!??〉
「だまりなさい」
震える女帝の手の中の香水瓶の液がゆらゆらと、揺れる。
「!?」
「失礼しました。なんでもありません」
「はい!」
全身に汗をテラテラ浮かべたクッチが深々と頭を下げる。
「この瓶と香り水は、どこのどなたが作られているのですか?」
尋ねられて代表クッチは副代表ミッチーナへ顔を向ける。互いに大きく見開いた目を見あい、頷く。ミッチーナの口が開く。虚病姫は苦笑しながら備える。
「香り水の生産はサリナクロス州全体で行われています!フォトロビ国では有名な商人ナガツマソラがレシピを公開したため、どこの商会でも工場問屋に作らせることができます!ただし香り水を入れるこの水晶のような容器だけはナガツマソラの『ノンキンタン』商会からしか出回りません!脆くはありますがデザインが大変美しいため、どこの商会でも金に糸目を付けず買い漁っている状況でございます!」
嘘偽りのない情報の連打。
一人の元召喚者の名前が出るたびに吹き飛びそうになる女の意識を何とかつなぎとめる虚病姫。意識はつなぎとめられても、心理的衝撃までは防げない。
「そうでしょうね……」
身構えていた女帝は、自分でもよく分からない笑みを浮かべて返す。
「『ノンキンタン』と申しましたか?」
自分から殴られに行くような質問をする雫石に、虚病姫がまたも備える。
「はい。ナガツマソラは『ノンキンタン』という商会の代表でございます!」
予測可能だったストレートパンチを受け止める虚病姫。すると、
「そこでは他の商品も取り扱っておりますか?」
虚病姫が僅かに驚く。女を測り損ねる。
女が商人たちの〝腹〟に気づいたのか、それとも気づいていないのか、測り損ねる。
ただその女の目は大きく、キラキラと輝いている。
それで改めて気づく。
自分の憑いた雫石瞳とは、〝こういう女〟なのだと。
〈おおっ!シズクちゃんナイスクエスチョン!!マヨも超絶気になるぅ~!〉
虚病姫は、奥に下がる。
「はい!ただいまお見せいたしますので少々お待ちください!!」
副代表ミッチーナはもう一人の副代表ケンデル・アンテップを見る。最後のバトンを託された三人目は「待ってました」とばかりにクッチとミッチーナに力強くうなずく。部屋に入るまで背負い続け、今震える足下に置いてある皮鞄の梱包を解く。
〈何が出てくるのかなぁ~!マヨ的にマジで楽しみぃんっ!!〉
護衛をやめて観測者に戻った虚病姫は、推測を放棄する。後手を打つと腹をくくる。その方が愉快だと自らに言い聞かせる。
「こちらでございます!」
商人ケンデルの鞄から出てきたのは、アンバーグリス200グラム、竜脳100グラム、そして樟脳100グラム。いずれも固形物。
「こちらへ持ってきてくださいませんか?」
「はっ!承知いたしました!!」
クッチに慌てて目配せしたケンデルが、女帝のもとへ畏まって香料を運ぶ。代表クッチは銀製の大杯を自分の足下の鞄から大急ぎで取り出し、ゆっくりと進むケンデルに早歩きで追いつく。
「陛下の足元に置くことをお許しください!」
こうして、銀の杯の上に載せられた三つの香料。
「これは?」
言いながら、女帝が身体を動かし自身で杯を持ち上げようとしたのに気づき、白蛇ブラドヴィーナスと赤膨鬼サンタクロースが少し慌てる。サンタクロースが香料の入った杯を持ち上げ、それがブラドヴィーナスの頭に置かれる。
「『ノンキンタン』商会の名物にして十八番!」
匂い立つトップノートのごとく、ケンデルが言う。
「その名も『太陽の雫』!『石の涙』!『猫の瞳』!」
最初から最後まで変わらないミドルノートのごとく、ミッチーナが続く。
「これすなわち、ナガツマソラの三大香料にございます!」
全体の調和を決めるラストノートのごとく、クッチが締める。
フォトロビ国サリナクロス州ロライマ市の商人ギルドマスター三名。
同じフォトロビ国にあって隆盛を極める店舗『ノンキンタン』を徹底的に調査し、軽子まで精選した彼らの、サプライズつきスーパープレゼンテーション。
田舎者を思わせる芝居も含め、割れた香水瓶や、香水によって鬼人族のきつい体臭が打ち消される演出など、計算尽くめのプレゼンの成功を、三人のギルドマスターは密かに確信した。
「………」
しかし、女帝は何も言わない。ただぼんやりとした笑みを浮かべたまま、二匹の魔物が持ち上げた銀杯を見つめている。
〈太陽の〝シズク〟に〝イシ〟の涙、それでもって猫の〝ヒトミ〟だってぇ~。超分かりやす~い!ド直球の十代壁ドン男子みたいだねん!〉
どう反応するかを観測する虚病姫。
「これは、どのようにして愉しむのですか?」
ようやく女帝から言葉が返ってきて安心した代表クッチが口を開く。
「あっ、はい!例えばこの『太陽の雫』は焚香、つまり火で焚くことで香りを味わいます。フォトロビでは晴れ着に焚き染めるのが流行で……」
香水の最後を決めるラストノート。
「では今すぐ焚いてください。香炉は持参しておりますか?」
その原料は少しでも間違えると、
〈香水の名前マジアオハル~!マジでジュンア~イ!っていうかもしかしてもしかして相思相愛!?〉
全ての芳香が台無しになる。
「「「え……」」」
女帝の玉座で香を焚くことを想定していなかった三人のギルドマスターが青くなる。
〈魔物級逸物と濃厚本気汁の希望でアルマン王国を満たすナガツマソラ!シズクちゃんの名前入りの香りでフォトロビ国を満たすナガツマソラッ!しかもラブストーリーのガラス瓶つき!魔胴師はキモオタが多いのにナガツマソラカッコよすぎ~っ!キャー!!〉
香料より先に、女帝を焚きつける虚病姫。
「あいにくと私は知恵も知識も足りず、香炉も持ち合わせず、申し上げにくいのですが香料の焚き方にも疎いのです」
女帝が物憂げに首を左に傾ける。女帝の左にいた包帯まみれの赤膨鬼サンタクロースが凝結をほどき、背負っている斧に手をかける。菌斧ヴェークヴァルテ。
「し、しばしの猶予を!香炉の代わりとなるものを今すぐ用意いたしますので!!」
「ないのなら結構です。こちらで〝それっぽいもの〟を用意いたします」
〈考えたらさぁ、フォトロビもアルマンも大陸の中央っていうか中心に近いよね~?こうなったら世界の中心のシータル大森林まで行って「愛してるぅ!」とか叫んじゃう~?〉
ドヂァッ!!!!!
戸惑っている鬼人族も含め、十名のロライマ市使節団が一か所に引き寄せられ、紅い糸でグルグルにまとめ上げられる。
「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」
頭の良し悪しも種族も関係なく、十名全員の血の気が引く。体温が急降下する。
女帝の隣にいたはずの紅い魔物が消えてなくなる。使節団一同に戦慄が走る。体温が急上昇する。
〈シズクちゃ~ん?もうジュンジュンしちゃってぇ~かっわいすぎ~!〉
ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクッ!!!!!
赤い糸からはみ出た肉が、斧の刃で削り取られていく。悲鳴が上がる。糸が絞られ、肉がはみ出る。血が舞う。肉がはみ出る。手足が舞う。肉がはみ出る。臓器が舞う。肉がはみ出る。
キチチチチチチチチチチチチチチチチ……
刻まれた肉は肉塊の中央部に集められ、うず高く、細く積もる。そしてその肉塊と血の塔は段々と黄ばんだ白に変色し、固まっていく。
〈ほらぁん。シズクちゃんてば言ってごらぁ~ん!ダイチュキーって〉
赤膨鬼斧術、蝕霧。
苦悶と恐怖で表情を歪めた十人一絡げの石灰香炉が完成する。
そこに白蛇ブラドヴィーナスが近づいていく。香炉を作ったサンタクロースがアンバーグリスだけを巨大香炉に入れる。同時に火属性魔法を放つ。香が立ちのぼる。
スー、フゥー……。
雫石はアンバーグリス『太陽の雫』の芳香を深く吸い込む。
〈シズクちゃんてば~!お願いだからマヨのこと無視しないでよぉ~ん!〉
「素敵な香りですね」
うっすらと眼を開けたまま、女帝は呟く。その唇の一端からヨダレがこぼれる。
うつろな心が激しく揺れる。振れ幅が激しく、思考が闇に溶けていく。
〈シズクイシヒトミちゃんってば~〉
虚病姫が察知する。女帝の壊れるほど激しい揺れを鎮めにかかる。
「このような香料を独占している人間がいるというのはいささか気になります」
女帝の揺れが、収まる。危うさが消える。
虚病姫は念のために展開した防歌陣を消失させる。
〈じゃあやっぱり会いに行っちゃう?愛しのナガツマソラに逢いに!〉
〈……〉
〈分かったよん!もう揶揄うことは言わないからさ~。マヨとお話ししてよ~ん〉
〈この香料、実は危険なのでは?〉
〈そうかもねぇ〉
虚病姫と雫石はキノコを生やしたニデルメイエール兵の様子をうかがう。直立不動だった彼らの膝がガクガクと震えている。ある者は既に膝をつき、うなだれている。
〈匂いはさぁ、人の様々な記憶を呼び覚ますからねぇん。マヨの魔法を解除しちゃう可能性だってあるかもしれにゃい。そんな香料を支配している奴がいるかもしれないってことは~、マヨ的にはマジで敵かもしれない~って感じかなぁ〉
〈そうですか。それは、面白いですね〉
〈マヨが困るかも~って言っているのに面白いとかひどいんだけど~〉
〈あなたが困る。こんなに心を動かされることなんてないではありませんか〉
〈あのね~シズクちゃん。マヨが負けたらシズクちゃんだってコテンパンのケッチョンケッチョンにされちゃうかもしれないんだからねん〉
〈それもまた、楽しそうです〉
〈ふ~んだ。ホントは好きな男子の所に行く理由ができて喜んでいるくせにん!〉
〈何を言っているのかついぞ分かりませんが、いずれにせよ私はナガツマソラのもとへは行きません〉
〈はい強がり決定~!〉
雫石瞳は将軍クラスの部下を孔雀石の間に集める。
自分の番を待っていた通商使節団は邪魔だからとキノコ兵の餌にされてしまった。
「みなさんすみません。私の障害になり得る者が東の辺境国フォトロビにおります。ですが知っての通り私は北のマルコジェノバに用があります。つまり手が離せないのです」
ここにきて、女帝リチェルカーレは北征の手を緩める決断を下す。
「最初の目標はクリプトクロム国」
旧コルメラ国に女帝自身は留まり、北のサリチール国と北東のリグーニ国に睨みを利かせる一方、東征軍を編成する。
〈病歌と闇香、どちらの狂器が上なのか。考えたらそれは、それは、心がときめきます〉
〈ほんとは自分だけで行きたいくせに~〉
〈黙りなさい虚病姫。それよりアブサンの製造を急ぎます。ついでに器具『ナガツマソラ』も〉
〈あっは~ん!注射器使ってアブサンを静脈注射するつもり~ん!?シズクちゃんてば発想がダイタ~ン!そんなことしたら一発で急性アルコール中毒死だよんっ!どうしてそんなことを思いついちゃうのか教えてにゃ~ん!〉
〈「寝返れば必ず殺す。それだけのことです」〉
部下は女帝が吐き捨てるように言った言葉が自分たちに向けられたものと思い、恐怖で眼の焦点が合わなくなる。脈拍も呼吸も乱れ、気絶しそうになる。
磨き上げられた床の石に誰も彼も跪いたまま、さらに石に頭を近づけるしかなかった。
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