第二部 歌神香児篇 その六
蟻は勤勉な一生をもつ
蟻喰いとてもおなじ
ただ
一方は 喰い
一方は 喰われる。
天野 忠『一生』
5. 白鳥の歌「女帝」
雨。それも土砂降りの雨。
「偵察部隊より報告!レイカンゲル河の対岸より東十五キロの地点にニデルメイエールの兵を確認!!」
アーキア超大陸西端の国、コルメラ。マルコジェノバ連邦の一角をなす。
「本当に、来たというのか」
「馬鹿な……」
ずぶ濡れの前衛兵からの報告にざわめくコルメラ軍司令部基地。外はバケツをひっくり返したような大雨。つまり今は雨季。しかも雨季が始まったばかり。
一週間ごとに繰り返す雨季と乾季。
闇の大精霊ミアハが生み出した気候変動。これにより、マルコジェノバ連邦は誕生した。
「雨が降ったら戦争どころではない」
家も町も都市も水没し、河川は氾濫する。
戦乱に明け暮れていた大地に生きる人々は幸か不幸か、この雨のせいで国土の切り取り合戦を諦め、その時点で有していた領土をもって国家を形成する。
そして、どの国も水害と日照りが機械的に繰り返す憂き目に遭う。
これが必然的に「協力して国難を乗り越える」という共同体的思想を生み、連邦という国際秩序を生み出した。
飲み水を巡る争いなどまず起きない連邦。水は一週間待てば死ぬほど空から降ってくる。各国はただ貯水池を用意すればいい。極度に乾燥する乾季の一週間はその水で十分しのげる。
ただし食料を巡る小競り合いはしばしば起きる。菌類や藻類など、極端な気候変化でも育つ作物種は限られており、しかもその収穫量は国によって異なる。元々ある地下鉱物資源の量も異なる。ゆえに連邦内でも小規模の紛争は時々勃発する。
とは言ってもそれも続いたところでせいぜい乾季の一週間。
熱波と乾燥の一週間で互いに大量出血した後、寒冷と豪雨の一週間で頭を冷やして和解し、解決策を模索する。
それで大抵のことは解決してきた。
そんな〝平和〟なマルコジェノバ連邦が今、崩壊の危機にある。
「敵戦力は?」
「機動部隊と火力部隊だけでも、少なく見積もって二十万」
「二十万……兵站部隊も入れて四十万はいるということか」
「それが、兵站部隊は見当たりません」
「何?」
一同が報告する前衛部隊の兵士を睨む。
「見間違いではないのか?」
「いいえ!基地も、背後連絡線も、いくら探しても見つかりません!」
睨まれた偵察兵は場内の全員に向かって叫ぶ。
「武器補給も兵士補充も糧食支援もなしの軍団……女帝リチェルカーレ。なんという輩か」
コルメラ国の首相グッドヴァーケンがため息をつく。
大陸西端の大国コルメラに攻め込んできているのは皇帝を自称するリチェルカーレ。
そして彼女が征服した国々はニデルメイエール領と呼ばれる。
つまりコルメラに攻め込んできているのはニデルメイエール帝国の女帝リチェルカーレ。
と、ものものしい名乗りを上げるその正体は雫石瞳で、実際のところ、帝国名も雫石の身分も彼女の通り名も装束も何もかも、彼女に宿る魔胴師である虚病姫が勝手に決めた。
しかしそんなことなど毛ほども知らないマルコジェノバ連邦は、女帝リチェルカーレの留まることを知らない進撃と侵略に戦々恐々(せんせんきょうきょう)としていた。
アーキア超大陸の西の大地を覆い、大陸を地理的に文明的に南北に分断するルバート大森林。
そこから突如現れた数百に満たない武装僧侶バクタリカたちの集団から派生したニデルメイエールは、まず乾季の間にゼアチ国に攻め入り、瞬く間に兵力を増大させ、電撃のごとくあっという間に首都ダルセイリを陥落させた。その期間は乾季が始まってから終わる七日間。
その後もニデルメイエールは兵力の増長を続け、ゼアチ国の西隣にあるペンザ国に攻め入った時は五十万人に達していた。
この五十万の兵をフルに使い、ペンザ国では雨季乾季を問わず軍隊アリの集団がその地の生物全てを食い殺すように小規模の都市や町村をことごとく徹底殲滅し、ついには一か月足らずで首都ソグンダールを陥落させる。人口四百万超だったペンザ国は一か月で二万弱まで減った。消えた二百万の人々の多くは隣国などに避難したのではなく、文字通り行方不明。そして辛くも生き延びた生存者はこう伝える。「女、子どもを犯して財を奪う盗賊よりひどい。女と財を奪うために人を殺す兵士よりもひどい。あいつらは女も子どもも犯さないし財も奪わない。まるで魔物。狂った魔物。誰も彼もみんな殺して、誰も彼もみんな食う」
女帝リチェルカーレがゼアチ国で見せた機動性とペンザ国で見せた残虐性、さらには雨季も関係なしに戦闘するという〝非常識〟に、マルコジェノバ連邦全体が震え上がった。
そのニデルメイエールの女帝リチェルカーレ、つまり雫石瞳が今、二十万の兵を自ら率いて雨の中、ペンザ国の西隣の大国コルメラに進軍している。
連邦全体は、女帝リチェルカーレの西進の目的を「海」の奪取だと考えている。
コルメラは広大な西海岸を有しており、北部の海をリエンツ海、南部の海をホルゼル海と呼び、そこには多くの漁港、軍港がある。
「海」を得れば海産物資源が手に入るのはもちろん、兵を海上輸送して、好きな場所へ陸路より素早く送ることができる。北西部のマルコジェノバ国や南西部のパンノケル王国が海上からの領土侵犯を想定して急ぎ動いているのはこうした〝読み〟によるものだった。
「既に兵力は百万以上を擁していると噂される女帝が二十万しか率いてこないのは、何か作戦があるからでしょうか?」
副首相で軍事には暗いヴィークが冷や汗をハンカチで拭いながらソグンダール将軍に問う。
「いえ、そうではないでしょう。ニデルメイエールは急激に膨張し勢いは確かにあります。しかし隙あらば我ら連邦を構成する各国が協働し、自らの勢力を挫きに動くと考えているはずです。ペンザ国とゼアチ国は、我らのコルメラを含め五か国が国境を接します。各国に睨みを利かせるため、百万の兵力全てをコルメラに差し向けるわけにはゆかないというわけです」
冷静沈着にソグンダール将軍は答える。けれど彼女の手も若干震えている。「狂った魔物」の噂を当然彼女も伝え聞いているから。
「とはいえ、こちらに向かってくるのは二十万の軍団。決して侮れる数ではありません」
「左様。であるからして我らコルメラは国内の全兵力二百万を持って敵を殲滅するのじゃ」
首相グッドヴァーケンの言葉を受け、閣僚はみな、自分に言い聞かせるようにして頷く。そして自らを奮い立たせる。「負けるはずがない」と。
今回の戦いのために、コルメラ国は西海岸線の守備を捨てた。
正確には北隣のサリチール国と軍事協定を結び、万一パンノケル王国やアントピウス聖皇国から攻撃を受けた場合は、軍艦と兵士を供出してもらうことにした。とはいえ軍事に明るい将軍級の閣僚はみな、それで万事うまくいくわけではないことを重々承知している。サリチールの造船技術は沿岸国ゆえ当然発達していても、コルメラの国土の長さからすれば、万が一の海戦には間に合わない可能性が高い。それに人ではなく魔物がこれを機に海襲などを仕掛けてこないとも限らない。軍港と人命を多少失う覚悟くらいはみなもっていた。
「それに運も味方してくれております。近頃はリエンツ海以南の海水温が下がっており、ルバートの森の西のホルゼル海に至っては流氷が浮いているとのことです。氷が邪魔になり、海上から南の蛮族や魔物が攻めてくることもありますまい」
古参の老将軍エスチュアリが白い顎髭を手でしごきながら、一同の留飲を僅かでも下げようとする。
とにかく、コルメラ国は今回のニデルメイエール軍との陸戦に全てを掛ける決断をした。
コルメラ国軍の総兵力は二百万。
ルバート大森林に潜んでいるかもしれないニデルメイエール軍の別動隊を警戒し、念のためルバート大森林と接する南部イエルステル地方に五十万、ペンザ国から目下向かってくるニデルメイエール軍に百五十万の兵を割く。
この案をコルメラ国首相グッドヴァーケンは受け入れる。パンノケル王国やアントピウス聖皇国が女帝リチェルカーレと手を組んでいない保証もなかったが、ありったけの兵力を投入しても陸戦で敗北しているゼアチ国やペンザ国の惨状を知っているコルメラ国首相にとっては、真っ向勝負で女帝をただ叩き潰すこと以外、自分を陥れているこの恐怖を払いのけることができなかった。
(女帝さえ殺せば、ニデルメイエールは終わる……)
首相グッドヴァーケンの心には、ただそれしかなかった。そして国王以外の他の者も、実際にはそう思っている。女帝は人を、狂った魔物に変える魔法使いだと、誰もが思っている。
「女帝リチェルカーレは一体どのような魔法使いなのでしょう?」
誰も知らないが、誰もが女帝を魔法使いだと信じている。でなければ短期間で大規模な集合体を形成して国盗りなどできるはずがない。
盗賊集団はマルコジェノバ連邦では大規模化できない。理由は集団のメンバーを食わせ続けることができないから。まともな食料を確保できない集団はすぐに崩壊する。でも崩壊しない集合体。そこには絶対に魔法がある。尋常ではない魔法が。
「それについてはほとんど情報がない。ただ魔物すら使役すると噂では聞いている」
「狂った魔物のような兵士を操り、魔物も操る……もはや死んだ者に聞くしかない、か」
将軍たちの表情が暗くなる。
「二十万の兵の何を臆するものぞ!こちらは荒潮の吹きすさぶ大地で生まれ育った屈強のコルメラ兵百五十万!妖賊ごときがどんな魔法でこちらを煙に巻くかは戦って蹴散らせばわかるってもんでしょう!?」
場の空気を変えようとするのは、大抜擢された新参のコルクビオン将軍。鍛え上げた筋肉をピクピク動かしている。
「確かに。こちらの戦力は百五十万。相手の七倍はある。仮に二十万のニデルメイエール軍の中にリチェルカーレがおらず、ルバート大森林から急襲してきたとしても問題はない」
「そうだな。俺達には水の加護がある」
コルメラ国は、標高は高くないが山が多い。そこから湧き出る水が集まり大河を幾筋もつくっている。この大河は乾季には時として川底が見えるほど水が少なくなるが、雨季には激流となる。「水の加護」とはこの激流を指していた。ルバート大森林とコルメラ国の境であるイエルステル地方にもイスマイリ河があり、雨季の現在は激流と化している。
「戦場は知らぬ存ぜぬの他国ではなく、まさにこのコルメラ。我らは地理に明るく、そして地の利もある。他国の侵略を防ぐという思いはコルメラ兵の誰にもあろう」
首相が一呼吸置く。
「士気も兵も我らの方が上!ニデルメイエールなる不埒共に今こそコルメラの鉄槌を食らわしてやる!」
「「「「「応っ!」」」」」
リーダーの言葉で士気は持ち直した。
「それで、陣形はいかがいたしますか?」
「これは百万を超える兵を用いた国土防衛戦。横陣しかないと思うがみなはどう思う?」
「「「「「異議なし」」」」」
横陣とは中央に歩兵を置き、その左右翼を重騎兵で固めるコンバットフォーメーションを指す。
ちなみに歩兵の前衛にはウマやシカなどの動物に騎乗して戦闘をする軽騎兵を配置し、中央歩兵の後方に予備及び指揮所を置く。この異世界の戦闘陣としては一般的なもので、この陣形の移動や綻びを衝いて敵を打ち破るのが基本である。
特に百五十万という、師団七十五個に相当する兵力を擁しているコルメラ戦域軍の場合、奇抜な陣形は部隊内にかえって混乱を招く。
「敵に火力部隊がある以上、川岸への兵の直接配備は集中砲火を受ける可能性があり、危険。そこで後退配備方式をとる」
「場所は?」
「シュンドルボン高地。レイカンゲル河を見下ろすシュンドルボン高地で敵を迎え撃つ」
高い所に陣取れば敵兵力の動きは味方の誰の目にも一目瞭然。しかも魔法や弓矢、投石といった攻撃もやりやすい。そして高地の目の前には大河レイカンゲルが濁流と轟音を伴って南北に流れ続ける。川岸から下がって攻撃する後退配備方式であれば万が一敵が渡河に成功しても態勢が整わないうちに逆襲攻撃をすることができる。
陣地阻止力を防御成功の主目的とする、ほぼ完璧の陣地防御。
およそ常識のある尋常の総帥であればまず、このような場所をめがけて正面攻撃することはありえない。
しかし前衛部隊の繰り返す偵察によれば、女帝リチェルカーレの軍隊はこの大河川レイカンゲルのシュンドルボン高地めがけて突き進んできている。
コルメラ国にとって、都合がよすぎる。
「妖賊め、正気かよ」
「こんなの……」
「罠に決まっておる、か。罠ではないとすれば、何か奥の手があるのか……」
もし罠でないとすれば、高地正面攻撃の理由は、シュンドルボン高地の背後には国内最大の補給基地である首都デモインがあり、首都への最短距離を女帝が進みたいから。女帝が兵站部隊を持たない以上、一刻も早く敵の補給基地を奪いたいから。だからあり得ないような渡河戦に女帝は挑もうとしている。あるいはシュンドルボン高地の未攻略が軍事上、後顧の憂いになると踏んで早々に取り除こうと博打に打って出たのか……。
「いや、裏がある」
狂気に見せかけた罠。
そうとしか、コルメラ軍陣営は考えられない。
「うむ。絶対に迂回機動する別動隊がいる」
「全軍に再度伝達。敵の別動隊を警戒せよ!!」
レイカンゲル河にかかる橋という橋には魔法使いからなる工兵を多数配置し、いざとなれば橋を破壊する命令もコルメラ軍は既に出している。敵兵の渡河が可能と思われるポイントには軽騎兵を複数配備し、すぐに本部に連絡できるようにした。
そして河川や橋付近に暮らす国民の避難も済み、彼らは分厚い城壁で守られた首都デモインに逃げ込んでいる。
「別動隊、必ず見つけてやる」
「そしたら粉々です。負ける気がしません」
「左様。我らはゼアチやペンザとは異なり、地の利を最大限に利用できる。この度の戦は必ず我らが勝利する」
首相のその言葉のあと一同大声で気合を入れ、幕営の外に出る。声がかき消されるほどの大雨の中、ずぶ濡れになりながら将軍クラスの幹部とその供回りは持ち場へと散っていく。
「戦いが始まるまで、なるべく体を冷やすな!!」
将軍たちが叫ぶ。配下の部下たちに次々に伝令が伝わり、一同は新調したばかりの〝レインコート〟を着る。
コルメラ国は女帝リチェルカーレが雨季乾季を問わず攻撃してくるのを知ってから、遅ればせながら〝レインコート〟を量産した。
雨季には外で戦う習慣のなかったマルコジェノバ連邦では傘以外の雨具がない。そして傘を持てば手がふさがる。戦場で傘を使用する間抜けはいない。
そこでコルメラ国は、パンノケル王国やアントピウス聖皇国に行ったことのある情報屋を国中から集め、彼ら南側の文明が雨天時にどのような手段で戦争を行っているのかを聞き出した。そこで得られた情報は、水をはじく性質をもつ動物の皮革を頭からすっぽりと被って全身を覆う、いわゆるポンチョやローブのようなものだったが、そんな動物を見つけ出してさらにその皮を剥いで鞣していたのでは時間がいくらあっても足りない。
そんな中、運よく、捕まえてきた情報屋の中に召喚者の子孫が混じっていた。その年寄り男が首脳陣に教えたのが藁でつくる笠と合羽、そしてかんじきだった。いわゆる蓑笠と蓑合羽とスノーシューズである。
笠と合羽があれば雨の中、体が濡れる機会が減り、結果として体力の消耗が減る。かんじきがあれば泥や雪の中でも沈まない。この情報をもたらした召喚者の子孫の男はこれによって一生遊べるほどの金を得た。
「多少は濡れるが、ないよりはマシか」
防具の上に、保温にも優れる蓑合羽を着こみ、ハリネズミのような姿になったコルメラ兵は兜の上にさらに笠をかぶり、かんじきと武器を手に、次々に持ち場へとつく。合羽は敵と接近するまでみな着用を認められている。かんじきは必要に応じて装着すればよく、バックパックに入れておくことが求められている。ただ笠はコルメラ兵である印をつけているので被って戦うよう指示がでている。兵士の立場からしても、雨で視界が遮られるのは避けたいため、これはこれで都合がいい。
「敵軍をレイカンゲルの対岸一キロの距離にて確認!!」
「こちら本部。視認できている!!」
コルメラ国土防衛戦。
そのコルメラ主力軍。
前衛部隊5万
火力部隊10万(魔法兵3万 弓兵6万 投石機操縦兵1万)
機動部隊100万(歩兵60万 騎兵30万 戦車兵3万 予備兵7万)
兵站部隊30万
黒い雨雲の下、これらが、レイカンゲル河を見下ろすシュンドルボン高地を埋め尽くす。そしてその高地の上から徐々に見え始める、ニデルメイエール軍。率いるのは通称〝女帝リチェルカーレ〟。正体は元召喚者、雫石瞳。
「縦陣?」
コルメラ前衛部隊が雫石たちのコンバットフォーメーションを確認し、司令部へと情報を送る。
「はっ!戦を知らないアバズレめ。矢で石垣を貫くつもりか!高慢な鼻もろとも粉々にへし折ってくれる!」
正面に対して最大限の戦闘力を発揮できる利点を持つ横陣の欠点。
それは一度戦闘陣が機動しだすと、横方向の連携を保つことが難しいことにある。このため機動速度がどうしても低下するのが横陣の欠点となる。
この利点と欠点を裏返したのが縦陣となる。
陣形内の各部隊は前方の兵士との協力のみに注意を払えばよく、進行方向がどう代わろうと間隙が生じる隙を与えない。つまり必然的に機動速度は早くなる。
とはいえ縦陣はひとたび横陣の敵とぶつかれば、横陣に展開している敵から集中攻撃をうける。
ゆえに、最初に敵とぶつかる縦陣の兵は常識的に強い部隊、つまり戦車部隊となる。
しかし今、コルメラ主力軍に迫りつつある最前線のニデルメイエール兵は、歩兵。しかも軽装歩兵。雨の中、高地を守るコルメラ兵たちがそれを見てあちこちで嘲笑している。
「どういうつもりだ?」「ん?おい見ろよあれ」「笠……じゃねぇぞ」
縦陣の先頭を進むニデルメイエールの前衛部隊はみな歩兵で、木製の大楯と歩兵用の断ち切り刀ハンガーを持っている。あとは目と口以外を隠す兜。そこまでは兵士らしいが、それ以外は普段着のいで立ち。胴体を守る防具を身に着けていない。
「っていうか、キノコ?」「なんだあれ……頭から生えてる?」「そんなバカな」
「男のキノコは一本で十分だぜ!」「そりゃ違う!二本ありゃ二倍気持ちよくなれるだろうが」「アッハハハハ!まったくもってその通りだ!」「おい見てみろ!キノコ野郎がわんさか来るぞー!」
ニデルメイエール兵。その首の付け根後ろ。左右の肩甲骨の間。そこから、菌類が生えて、子実体を地面に対し垂直に伸ばしている。子実体はニデルメイエール兵の頭の上で大きな茶色い笠を形成し、文字通り雨除けの傘の役割をしていた。
(被っているんじゃなくて、生えてる?)
そのことに気づき始めると、コルメラの高笑いが徐々に消えていく。不気味さが増していく。「狂った魔物の兵」の噂話が脳裏を駆け巡り始める。
「ルバートの森のキノコか。あれ」
「分からねぇ。あんなものがあるとは知らなかった」
「……気味が悪ぃ」
冬虫夏草。雨季における戦いを有利に進めるために女帝がルバート大森林の妖賊バクタルカに調べさせ、見つけ出させ、改良を加えたキノコ。すなわち冬人夏草。森の外において、水分の少ない乾季は宿主の体内で芽胞とよばれる仮死状態になるが、雨季になると再び体から生え出て、宿主から栄養を奪い、子実体を形成する。無論、胞子で増える。
だがそんなことを、コルメラ兵は知る由もない。
そしてその、キノコを首後ろから生やした歩兵を先頭に、どんどんレイカンゲル河に迫っている。そしてその進軍速度は一向に衰えない。
「おい!どうやって河を渡るつもりだ?」
誰もが見守る。この時点でニデルメイエール兵を攻撃する者が誰もいない。
マルコジェノバ連邦の常識では、戦いの火ぶたが切って落とされる前、将軍クラスの代表者だけが対峙し、これから行われる戦争に対し、両者の了解のようなものを得てから互いに本陣に戻り、いざ戦闘が勃発する。そのような暢気なシステムが慣例となっていたため、将軍クラスの一人が前衛部隊まで来て、大河を前に相手を見ていた。
それに、相手の様子が異常すぎて、動こうと思えない。
(何が起きる?)(どうやって渡河する?)
しかし老将軍エスチュアリがはっとする。
歴戦の兵士の体は直感的に、目の前に危険が迫っていることを感じ取っていた。
「矢文を飛ばせ。降伏する意思があるならすぐさま撤退せよと送れ!」
エスチュアリの命令を聞き、他の将軍も兵卒に怒鳴り、急ぎ通知文の準備をさせていた時だった。
「え?」
見張りの兵士の誰かが思わず声を漏らす。そして誰もが絶句する。
ザシュウ。
普通に行軍しているニデルメイエール軍の兵士たちがレイカンゲル河に到達する。大楯を捨てる。
すると次々に、自分の腹をハンガーで平然と切り裂き始める。血が噴きだし、臓物が当たり前のようにこぼれる。それを後ろの兵士が拾い上げ、自分の首に巻きつける。巻きつけながら自分の腹を切り裂きこぼれた内臓は、さらに後続の兵士が自分の首に巻きつける。
刃物で自分の腹を切り開く。
内臓がこぼれる。
他人の内臓を拾って巻きつける。
これをくり返しながら兵士たちは内臓をこぼした状態で入水する。濁流のなかで兵士の身体は次々沈んでいくが、キノコの笠だけが浮かぶ。濁流は兵士の身体を押し流すが、水底の石に死体のいくつかが引っ掛かり、そこで流れ去るのが止まる。するとキノコの笠だけが次々にそこに密集する。
「嘘だろ……」「狂ってやがる……」「……やべぇ」
コルメラの兵の血の気が失せる。彼らの目に映る、肉厚キノコの笠。
ハラワタで結ばれたニデルメイエール兵たちの掛ける、キノコの架け橋。
「弓兵!投石機兵!魔法兵!攻撃開始!!」
ハラワタキノコ橋が着々と完成していく。
それを阻止しようとコルメラ兵が石と矢をとばす。しかし分厚いキノコの笠に石は通用しても矢は通らない。
そして魔法攻撃。
魔法使いの常識である「水には光属性魔法」という考えが、恐怖を助長する。
ニデルメイエール兵に宿る冬人夏草は雷撃などの電気刺激を受けると増殖する。子実体が子実体の隙間から次々と生え、キノコ橋がさらに丈夫になる。
飛距離を稼げる魔法はあと火属性魔法くらいしかないが、火属性と風属性の魔法は雨季の今はほとんど役に立たない。土属性魔法で土砂を流せばニデルメイエール兵の工作するキノコ橋に利する可能性がある。
残るは闇属性魔法だったが、これはニデルメイエール兵には意味がない。
白眼を剥き、キノコを生やすニデルメイエール軍。
彼らは既にもうシズクイシヒトミの歌で洗脳されているから。
彼女の病歌に勝る闇属性魔法をコルメラ兵は誰一人心得ていない。
ニデルメイエール軍。最前線は戦車部隊ではなく戦闘〝工兵〟部隊。
二万人の歩兵の腸と命を使い、濁流にキノコ橋を〝無事〟完成させる。
その上を、いよいよニデルメイエールの重装歩兵が通過していく。刀剣。短剣。槍鉾。打撃武器。装備はバラバラだが、共通しているのは死んでも武器を手放せないようにされていること。その片手は武器を握ったまま、樹脂で固められている。あるいはケガをして切断した部位には斧や剣などが無理やり縫い付けられている。惨いのになると体に予め釘や矢を打ち込んで、サボテンのようになっている者もいる。それらが工兵の落とした大楯を拾う。拾ってすぐにキノコ橋のキノコの上に落とすことで、即席の橋はさらに盤石になる。
「敵、斜面を昇ってきます!!」
大雨の中の近接戦闘がいよいよ始まる。射程武器を斜面上から放つコルメラ軍だが、それをニデルメイエールの重装歩兵は首後ろから生やすキノコの笠で防ぐ。仕方なく接近して武器を振り回すも、痛みも恐怖も失ったニデルメイエール兵はコルメラ兵の予想以上に手ごわい。
「ぎゃああっ!」「くそっ!」「助けてくれ!!」
痛覚と自我のないニデルメイエール兵は人間族亜人族を問わず、身体の筋肉組織が千切れるのも厭わず馬鹿力を発揮し、骨が折れ、関節が外れてもおかしくないような異常な動きをする。結果的にそれは人にとって予測不能な攻撃となる。コルメラ兵はその妙な動きと妙な力に翻弄され、いつの間にか斬られ、叩かれ、潰される。
「前衛部隊の撤退を指示!」
コルメラ軍前衛の軽騎兵たちが次々に殺されていく。ソグンダール将軍が恐怖を堪えて叫ぶ。
「機動部隊行軍開始!!左翼と右翼の重騎兵に包囲機動を指示!」
将軍の進言を受けてグッドヴァーケン首相が指示を出す。
コルメラ軍の考え方は常識的で、いよいよ向かってくるニデルメイエール軍を正面と左右から包囲して殲滅する方針だった。
ただしキノコ橋だけは開けて包囲しないでおく。
そうすれば敵はキノコ橋から総崩れに逃げる。戦の基本は逃げ道を用意しつつ徹底的に破壊すること。どの国も持っているマニュアル通りの戦いであった。
だがしかし、コルメラの相手は、マニュアルをもたない召喚者。
そして最凶の魔法使い。雫石瞳。女帝リチェルカーレ。
「将軍のみなさん、そこにいますか?」
ニデルメイエール軍縦陣の中央。
そこを、コンテナのような直方体の形をした石造神輿が進む。
それを持ち上げて運ぶ五十人の奴隷。コンテナの外には伝声管の声と外の状況を音で伝える朝顔のような形のベルがいくつもあり、そこから神輿の中にいる雫石瞳の声が響く。大雨の中なのに、声はまったくくぐもらず、近くにいる全員の脳内に鮮明に聞こえる。
「「「ここに」」」
マスクをつけた馬上の将軍三名が答える。
一人はダリオル。
もう一人はルリジューズ。
もう一人はオスターネスト。
「こちらから見て敵の左翼はダリオルさんとバルブレスト。右翼はオスターネストさんとマルジョレーヌ。正面はルリジューズさんとシャシリックでお願いします」
雫石は既に、音だけで戦場の光景を視ることができる。雨の音の中、誰がどこでどんな戦闘をしているのかが視える。ゆえに敵がどのような陣形をとっているのかもわかる。
「「「御意!」」」
「三時間後に私は閉ざされた首都デモインの門前にいる。そういう算段です」
「「「御意!!」」」
雫石の病歌に洗脳されない異能の持ち主。
雫石に宿る虚病姫はそれを「歌忌」と教えた。
〈一定の割合でそういう〝イカれた奴〟がいるんだよん〉
「ではその方たちの場合は別の手段で支配すればよいということですね」
〈さっすがシズクちゃん!あったまいい!!〉
「軍事作戦にはある程度の知能がいるでしょうから、かえって都合がいいと思います」
歌忌。
彼らは見つかり次第捕らえられ、体をいじられ、望むと望まぬとに関わらず、将官とされた。
いじり方はアントピウス聖皇国風。つまり薬物依存症にする。
敏捷性や攻撃力、魔法防御力といったステータスが上昇し、さらに自由意思を保てる代償に、薬物耐性を下げられた。
結果、重度のニコチン中毒と同様、常に薬物を吸引していないと能力低下や精神状態に異常をきたす。その薬物を入れた吸引袋こそ、将軍たちの顔の下半分を隠すマスクであり、中に入っている薬物の量は戦闘時間に合わせて調整用意される。
(((三時間……)))
つまり、雫石瞳の決めた制限時間内に敵を制圧できなければ将軍たちに明日はない。
「敵の包囲機動を覆滅してください。仔細はお任せします。歌忌最大の武器である〝自由判断〟でどうぞ」
合図で縦陣を構成していた雫石のニデルメイエール軍が三方向に分かれる。渡河を終えたばかりの雫石の乗る神輿と担ぎ手がコルメラ軍に対しむき出しになる。場所はシュンドルボン高地の麓。常識的に考えれば、格好の的。
ただしその石造神輿の上には最初から、斧を握る魔物が一匹。
赤膨鬼サンタクロース。レベル70。
そして今、中から開かれた神輿の扉からカサカサと出てくる魔物が一匹。スルスルと出てくる魔物が一匹。
鹿蜘蛛ダーメンシェンケル。レベル59。
白蛇ブラドヴィーナス。レベル97。
ルバート大森林で雫石によって強制的に集められた魔物たちによるバトルロワイヤル。
それで生き延びた六匹のうちの三匹。
女帝の警護担当三匹。
ルバート最強の魔物たちが、向かってくる一万超のコルメラ兵と石矢及び魔法の相手をする。
その一方で、
「ひっひっひっ!ありがてぇなぁ!」
元冒険者で鋸刺鮭人族の女オスターネストが敵右翼の重騎兵に向かう。ピラニア女はその口の中の歯と同じような鋸状の片刃の剣を両手に二本ひっさげ、雨をもろともせず敵陣に突っ込む。彼女の場合は歌忌に選ばれたことを悔いていない。むしろ軍の指揮官に選ばれたことを喜んでいる。理由は殺戮そのものが好きだから。
「もっともっと殺してやるぜぇ!!」
そのオスターネストとタッグを組まされたのは、ルバート大森林バトルロワイヤルを生き延びた水馬マルジョレーヌ。レベル91。
オスターネストを乗せたマルジョレーヌが水属性魔法を駆使し、水の鎌を形成。マルジョレーヌがコルメラ兵の横を走り去るだけで、彼らの首と胴が離れる。ちなみに水馬マルジョレーヌが供給する水によってピラニア女のステータスはさらに上昇している。
ドバーンッ!ボバーンッ!!
あちこちで爆音が上がる。
「死ぬ間際、体に溜めこませた屁で兵士を自爆させる……つくづく恐ろしいお方だ」
悲しげにそう呟くのは、左翼を担当するダリオル将軍。元金細工職人で鰐亀人族。
ペンザ国で全てを雫石に奪われた。
そして歌忌として自分だけが生き残った。「自分だけが不幸になるのはおかしい。ならば全員道連れ。我らはみな喪服を着た黒い兄弟。歌姫のもとで誰も彼も不幸たれ」がこの根の優しいワニガメ男の戦う理屈になっている。
そのタッグを組むのは魔物バリブレスト。レベル81。
ゾウのように大きなサソリの体に獅子の頭を持つ魔物がダリオルを乗せ、次々に敵を食い破り、突き刺し、毒を注入する。なおこの魔物の体は頭部や腹部も含めて多少の弱点部分はあったが、ワニガメ男が手作りで用意した特注のアーマーによってそのほとんどが補強されている。結果的にこの戦場において一番頑丈な〝戦車〟になっていた。
敵将を乗せた凶悪な魔物を回避するコルメラ兵は仕方なく、数の利と地の利を頼みにニデルメイエールの重装歩兵に挑む。
ドバーンッ!ボバッ!ドボーンッ!!
敵の基地も、基地と戦場を結ぶ背後連絡線も近くにないことをコルメラ軍の前衛部隊は何度も確認している。つまり今目の前にいるニデルメイエール軍はただの孤軍に過ぎない。
(敵には兵站部隊が見当たらなかった。となれば物資の補給はない。敵の機動部隊はいずれ力を消耗して動けなくなる!それまで持ちこたえればきっと勝てる!!)
ボバ――ンッ!!
しかしニデルメイエールの歩兵は疲れる様子を見せない。そして死を恐れずに馬鹿力と予測不能の攻撃で突き進んでくる。
ドゴーンッ!!!
そして死ぬ間際、体内で大量のガスを発生させ、肉ごと爆発する。この爆死により周囲の兵士が巻き添えを食らう。結果的にニデルメイエール軍の兵士一人につきコルメラ軍の兵士四人近くが消耗されている。しかも不幸なことに、キノコの呪いがつきまとう。キノコの胞子は感覚神経を刺激する。つまり冬人夏草の胞子が体内に入ると激痛が走る。ニデルメイエール兵の場合は既に洗脳済みのため、痛覚がないが、〝まとも〟なコルメラ兵の場合、胞子感染は同時に、激痛を伴う。あちこちで絶叫が上がる。痛みに悶えているといつの間にか命を刈り取られてしまう。
爆音と絶叫。
加えて、一騎当千の魔物とそれとともにある歌忌将軍たち。いわば最強の戦車部隊。
これらの存在がコルメラ兵にどうしようもない恐慌をもたらす。国土防衛の士気もへったくれもなくなり、パニックになって戦場を離脱するものが後を絶たない。それでも果敢に雫石の乗る石造神輿に挑むコルメラの将軍と彼らが率いる師団、連隊、大隊があったが、平均レベルが25に満たない人の集団では、雫石の護衛専門の魔物三匹によって死滅するほかなかった。
「退却!退却!!」
コルメラの若手将軍コルクビオンが悔しそうに叫ぶ。両翼の重騎兵がニデルメイエール軍のオスターネスト将軍とダリオル将軍によって制圧され、正面の歩兵がルリジューズ将軍によって突破かつ分断されたコルメラ軍は、撤退の決断を下さざるを得なくなる。
「神に弓引く愚か者たちよ。その罪、その血で贖いなさい」
けれどルリジューズ将軍が中心となって執拗にコルメラ軍を追いかける。ゼアチ国出身の元僧侶で蜚蠊人族の女は、自らが歌忌に選ばれた理由を宗教に見出す。
「私は神に選ばれた。神罰の地上代行者として選ばれた。〝福音〟をもたらす天使様に従うのは当然」
このゴキブリ女の場合は自分の信奉する神とシズクイシヒトミの存在を都合よく結びつけ、将軍としての仕事を意気揚々(いきようよう)として行っている。六頭の馬で曳く戦車にまたがる彼女の獲物は魔剣トンボキリ。かつてジペルテン監獄へクエスト討伐に行って〝ネズミの餌〟になったどこかの誰かの残骸を雫石が授けた。魔法の刃を伴うため一振りするだけで同時に五回振ったのと同じような斬撃効果のある魔剣を使い、元僧侶は神の使徒として逃げる敵を背後から切り刻んでいく。
そのゴキブリ女を守るのが魔物シャシリック。レベル29。
分裂小鬼というゴブリンの希少変異種は、体の部位を切り落とされればただちに再生する。恐ろしいのは切り落とされた側からも体が生えることで、このため一体がすぐさま複数体に増える。増えれば増えるほどエネルギーの消耗は激しいが、動物の肉を食らえばエネルギーの補給はできる。生き永らえる。
それがルリジューズ将軍の後ろでニタニタ笑いながら控えている。
あるいはあらかじめ分裂しておいた別の六体がルリジューズ将軍の乗る戦車の馬を操縦している。
彼らシャシリックが矢を受けたり切られれば肉体の一部が地に落ち、そこからシャシリックの分裂体がすぐさま誕生し、暴れ出す。
シャシリックに対してやっていけないのは攻撃して彼らの肉体を傷つけること。
そしてそれは戦場においてはありえないことで、コルメラ兵は徹底的にシャシリックを攻撃し、徹底的にシャシリックを増殖してしまい、そしてシャシリックに徹底的に食われた。雫石瞳からシャシリックに下された命令は二つ。「ルリジューズ将軍を守ること」と「ニデルメイエール軍の兵士以外、動く者は何でも食べてよい」。シャシリックにしてみればどちらの命令も、いつもどおり増えれば容易いことだった。
雨がさらに勢いを増す。
大地を堀り砕くような雨が降り続ける。
その中でコルメラ兵は必死に撤退戦をくり返し、ニデルメイエール軍がそれを猛追する。敵からの退却において最も重要になるのは最後尾。ゆえに、それには最も信頼できる指揮官が充てられる。
「もはやこれまで」
首相を逃がすため、老将軍エスチュアリがこの後衛にあたり、彼もまた他の将軍もろとも戦場に散る。
しかしそんなことなどニデルメイエール軍の将軍は気にもかけない。
(((急がねば……)))
ダリオル、ルリジューズ、オスターネストの三将軍の心配の種は味方の兵力の消耗でも敵将の首でもなく、ただ自分たちに設けられた制限時間のみだった。
結果、二時間四十分。
ほぼ制限時間ギリギリに近い状況で、ニデルメイエールの三将軍はコルメラの残党兵を首都である城塞都市デモインに籠らせることに成功した。
石造神輿が都市の跳ね橋の前で止まる。
跳ね橋は当然上がっていて、頑丈な門扉は閉ざされている。
「まもなく日暮れですね」
神輿の扉が開かれ、大雨の中、姿を見せるのは花魁姿の元召喚者。すなわち雫石瞳。女帝リチェルカーレ。雨粒が当たっているのにまったく濡れない。
「とはいっても、最初から陽のない雨季の週ですが」
白蛇ブラドヴィーナスがそっと雫石の方へ近づいていき、その頭に彼女を乗せる。
雫石の両足が乗ったことを確認するとブラドヴィーナスはゆっくりと頭を下げていく。そこで待ち構えているのは、泥の地面に跪く三名の将軍。彼らの乗り物であり盾である魔物三匹は周囲を警戒している。雫石の側近護衛である赤膨鬼サンタクロースも警戒態勢を解かない。蜘蛛鹿ダーメンシェンケルだけがウロウロして、探している。
「お疲れさまでした。三時間というのは少々厳しい気がしたのですが、さすがです」
雫石とともに神輿の中にいた森の住人バクタルカから薬物の入った新しい吸引袋を渡された三名は、礼を言って下がる。今すぐマスクを交換したいが、そうはいかないことを三人とも既に嫌というほど知っている。
「さて……」
いっこうに濡れない花魁姿の雫石瞳は雨に沈む都市デモインをぼんやり眼で見た後、鹿蜘蛛ダーメンシェンケルの姿を探す。鹿蜘蛛は既に止まり、城塞の方へ顔を向けている。
「そこがいいのですね」
白蛇ブラドヴィーナスはその頭の上に雫石を乗せたまま、横方向の波状運動を太く長い胴体でくり返し、ダーメンシェンケルの方へと近づいていく。
メキメキメキメキメキメキ……
ダーメンシェンケルのシカ頭部の角が肥大成長し、形を変え、絡まっていく。
冷たい雨に打たれ続ける将軍三名の歯がガタガタと震える。
同じくびしょ濡れの赤膨鬼サンタクロースは片目と片耳を塞ぐ。
サソリ獅子バリブレストが姿勢を低くする。
水馬マルジョレーヌは泥を掘って潜り込む。
分裂小鬼シャシリックは指や棒を使って急ぎ互いの鼓膜を破き続ける。
「籠城……早く別動隊が戻って来てくださるといいですね」
蜘蛛鹿と自らを守るために、白蛇ブラドヴィーナスがダーメンシェンケルに身体を巻き付ける。ダーメンシェンケルの頭の上にブラドヴィーナスの頭が乗っかり、その上に立つ雫石瞳。そして彼女の周囲には、骨で作られた拡声共鳴器。
「管弦素配列変換」
その言葉だけで歌忌と魔物六匹の恐怖が頂点に達する。
「クラリネッタム、ファゴチウムを、オボエウムで結合」
誰も、女帝が何を唱っているのか分からない。
分からないが、これから何が起こるのかだけは、知っている。
「強陰性バリオンを陽性バリオン化……」
女帝を相手に、籠城戦だけはしてはいけない。
唄謡を前にしてどこかに、籠ってはいけない。
籠れば……
「黙姦三重素。トリスベンチノン」
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――ッ!!!!!!!!!!!
雫石瞳から広がる絶叫。
それをさらにダーメンシェンケルの拵えた拡声共鳴器が増幅し、周囲の一切を呑み込む。
豪雨が天地をひっくり返したように吹き飛ぶ。
鹿蜘蛛ダーメンシェンケルと白蛇ブラドヴィーナスが襲い掛かる振動に必死に耐える。護衛上仕方なく片目と片耳を解放している赤膨鬼サンタクロースの開いた目と耳から血が噴き出る。蠍獅子バリブレストがのたうち回る。水馬シャシリックが潜った泥中で窒息しそうになる。分裂小鬼シャシリックが全て失神する。耳を両手で塞ぎ目を瞑る将軍三人の鼻と口から血が噴き出る。つけているマスクが血まみれになる。生きているニデルメイエール軍はさらに目からも血が噴き出る。傷口という傷口から血が噴き出る。死にかけのニデルメイエール兵たちが痙攣をおこしてショック死する。
ギギギギギギギギギ……ゴオオンッ。
しばらくして跳ね橋が降り、重い城門が開かれる。
中からぞろぞろと出てくる若い男女。士農工商。平民。貴族。乞食。兵士。全員、顔から血を拭きだして、ぞろぞろのろのろと出てくる。
「うふ。これで兵力の〝補給〟は済みました」
歌を謡い終えた雫石瞳は血まみれのマスクを新品と交換する三人の将軍のもとに白蛇の頭に乗ったまま戻る。
「ここを暫定的な基地としますので、みなさんは明日以降コルメラの主要都市の制圧をお願いします」
「「「御意」」」
三将軍にそう告げると雫石は石造神輿の中に戻る。
三将軍は思い思いに溜息をつきつつ、残りの仕事にかかる。
六匹の魔物たちもどうにか復活し、それぞれの仕事にかかる。
白蛇と赤膨鬼以外の魔物四匹は雨の中で活動を続けるため、戦場の死骸を大量に食べる。さらには歌の洗脳によって外に連れ出した若い男女にも同様の理由で、戦死体を腹がはちきれるほど食べさせ、栄養補給をさせた上で死体の装備品を装着させる。そうこうするうちに救援中に歌を聴いて病んだ〝元〟コルメラ兵の別動隊も集結する。五十万を超える無傷の彼らにも死体をたらふく食べさせる魔物四匹。あとは冬人夏草を漏れなく植え付け、ニデルメイエール軍の新兵として首からキノコを生やさなければならない。
将軍三人の方は歌忌の部下とともに、戦闘に参加して生き残っているニデルメイエール兵を都市デモインの中に連れ込む。
やることは魔物四匹と同じく、まずは餌やり。
歌によって洗脳され、家屋に留まっている子どもや病人、年寄りを兵士に食わせて当面の栄養補給をさせ、彼らを屋根の下で休ませる。この間に悲鳴が上がるとすればそれは新しい歌忌がいる証拠で、その場合はニデルメイエール兵の捕食行動が止まり、兵士は歌忌を取り押さえるように女帝にプログラムされている。そして兵士は歌忌を女帝である雫石のもとに連れて行く。その際、将軍たちは女帝に呼ばれる。呼ばれたら全ての仕事を中断して彼女のもとにすぐに駆け付けなければならない。怠れば薬物を取り上げられて死ぬ。
結果的に、デモインに歌忌は全部で三人いた。
それぞれが静置された石造神輿の明るくした室内で、雫石瞳に素性を問われる。問うのは将官としての適性を見定めるための質問で、将官になる、ならないの選択ではない。彼ら歌忌が雫石の部下になることは最初から確定している。
唄謡となってから雫石は、相手に拒否権を認めない。
「え?もういいお、おえあいひあふ」
新たに見つかった歌忌の中に一人だけ、難聴の者がいた。
「耳が、聞こえていないのですか?」
雫石の耳を指す仕草で、その歌忌はうなずき、頭を深々と下げる。
「仕方ありませんね」
(見た感じ、筆談はできるかもん)
「なるほど」
(マヨが翻訳してあげる)
この異世界の言葉についてあまり明るくない雫石だったが、虚病姫がマルコジェノバ連邦の共通語を教え、仕方なくそれで羊皮紙に「読み書きはできるか」と雫石は書く。相手はうなずく。雫石は相手に紙と筆をそっと渡す。
――私はモナドノックというしがない商人でございます。
歌忌の男はまず自分の名と身分を急ぎ書く。モナドノックは行商人であり、アルマン王国出身であることを明かす。さらには自らの素性に信ぴょう性をもたせるため、アルマン王国の〝迷物〟まで披露する。
――アルマン王国には風土病チョルトなるものがあり、これを患うと耳が悪くなります。しかし患った末に生き残らないと子どもの数に入れてもらえません。ですので、まだ私は幸運です。幼子よりも大人がかかると亡くなることが多いです。
「風土病。そのようなものがあるのですか」
虚病姫以外と久しくまともな会話をしていなかった雫石は情報を仕入れることと憂さ晴らしも兼ねて、行商人モナドノックと少しだけ、紙で話をすることにした。
――ただ最近は感染者が増えていたと聞きます。
これからどんな処遇を受けるかわからないモナドノックとしては、少しでも女帝の興味関心をひいておきたい。その思いが先走り、つい余計なことを書いてしまった。書いたあとに「しまった」と気づいた。
「感染者が増えているのはなぜですか?」
そう問われて「お前のせいだ」などと、口が裂けてもモナドノックは言えない。無論書かない。
――移民が増えていたそうです。
脂汗をにじませつつ、おずおずとそう紙に書く商人の姿を見て雫石も原因が自分にあることを理解する。
〈みんなに超怖がられているんだね、シズクちゃん!!〉
〈ええ。そのようですね。心が躍ります〉
〈って言いながら不感症なシズクちゃんでした〉
〈いいえ。こんな私ですが目の前で人が大勢死ぬのを視ると心が動きます〉
〈ほんとかな?でもとにかく、だんだん慣れっこになってきちゃうといけないから、残酷なことを思いついたらまたすぐに教えるね〉
〈ええ。楽しみにしています〉
虚病姫との短いやりとりを済ませた後、雫石瞳は目の前の人間族の男を殺すかどうか思案する。
彼は、モナドノックは厳密には歌忌ではなく、難聴である。
〈難聴の人々はもしかすると、虚病姫の歌が効かないのですか?〉
〈体液を振動させればある程度は効くけれど、蝸牛管とか骨螺旋板がイカれてたりすると呪いの効果が弱いのは事実なんだよねぇ~。マヨ的にはそこがマヨ魔法の弱点かなぁってマエマエから痛感してるわけ〉
〈では難聴の患者の多いアルマン王国に人が流れ、そこで難聴の者が増えるというのは私的に不利ということでしょうか?〉
〈それだけ見れば不利かもしれないけどさぁシズクちゃん。考えてみん。マルコジェノバ連邦全部をシズクちゃんが歌ってぶんどったら、二千万人くらいのお人形兵士がいつでも思い通りに動かせちゃうんだよん?アルマンだか餡饅だか知らないけど別にたいしたことないって。しかもそのデブチンの話だとぉ、体が成熟してからチョルトにかかったら致死率高いみたいだしぃ~、結局のところさぁ、シズクちゃんから逃げてアルマンに行ったヒトは病気になって死ぬだけな気がするんだけどぉ~〉
〈なるほど。それもそうですね。さすがは冥級魔術師。頭の回転が速いのですね〉
〈いや~ん。そんなムサイ呼び方マジでNG~。マヨはいつもマヨだよ~ん〉
〈あなたのような存在が十七人もいたのに、かつての現実世界が壊れなかったことが未だに信じられません〉
〈ヴィッシェラはみ~んな、バレないように楽しむのが上手だからね~〉
冥級魔術師。
〈まあそんなことは今さらどうでもいいんだけどねぇ〉
魔外匪ほど神域に近づけずとも、魔術師の規格を遥かに超える存在。
その中でも規格外の異端さ、凶悪さゆえに世界から敵視され、指名手配された冥級魔術師は全部で十七人。
〈でねでね~アルマン王国の件だけどぉ~。仮に難民が生き残って増えて兵隊を増やしたとしてもさぁ~少しでもシズクちゃんの相手が有利になった方がワクワクしてこな~い?〉
異端の冥級魔術師十七人。
否。
この者たちはヒト扱いすらされず、胴体があるとしか表現されない。ゆえに十七胴。
〈そうですね。はっきり言って虚病姫の魔法はズル過ぎますから、仮想敵はむしろ養殖した方がいいのかもしれません〉
忌み嫌われた十七胴は、魔術師たちから「魔術師」と呼ばれず、「魔胴師」と称される。
〈ズル過ぎなんじゃなくて強過ぎの間違いん!〉
それが雫石瞳に宿っている。十七胴の一人、虚病姫が。
〈いいえ。こんなのただのズルです。ですがこれくらいの理不尽さが私には心地良いです〉
雫石が虚病姫と脳内で会話をしている刹那の間、行商人モナドノックはやはり自分は殺されるのではないかと思い始める。当然と言えば当然で、街の中は子どもや年寄りや病人が生きたままボロボロの兵士に食べられている。悲鳴一つあげずに。
――知っていることは全てお話しますので、どうか、命だけは助けてください。
行商人は夢中で筆を走らせ、このように書いた。
雫石としては大事な筆を乱暴に扱う生物はそれだけで殺したいほど癪にさわったが、将軍たちの負担を軽減して軍を効率的に運用するためには生かしておこうと考えなおす。であれば、この神輿内にもうとどめておく必要はない。さっさと将軍に引き渡すだけだった。
(とはいえ何か一つくらい、最後に聞いておこう)
それくらいの軽い気持ちで、雫石は最後の筆をとった。
「風土病チョルトやアルマン王国について知っていることがあれば何か教えてください」
モナドノックはその文章をまじまじと見て、そして目を上げる。
(この問答をしくじれば俺はこの場できっと殺される!)
そう勝手に勘違いした商人は自分の持っている最新の、そして最高級のニュースを書いた。
――風土病チョルトを治す薬が近頃出回り始めており、その結果多くの者が救われているらしいのです。
「は?」
意外な回答に、雫石瞳が首をかしげる。
〈良かったね。難聴の人が減るならシズクちゃんの願ったとおり、敵が養殖されるかもねん!〉
固唾を呑むモナドノック。食いついた雫石は質問を続けることにした。
「それはどういった薬ですか?」
そう書かれた紙の字をくわっと見開いた目で商人は見る。汗を顔中びっしょり浮かべたまま精一杯ほほ笑む。そして急ぎ、筆を走らせる。
――奇跡の薬の名は『ヴァンセンヌ』と申します。『ナガツマソラ』という道具を使い、その薬を体に直接注ぎ入れればたちどころにチョルトは癒えると聞き及んでいます。
「ナガ……」
注射器の絵と文字の書かれた羊皮紙を受け取った雫石瞳が固まる。完全に。
〈どうしたのん?心臓がバックバクしてんだけど?もしかして大好きな人の名前でも書いてあったりした?〉
〈…………だまりなさい〉
雫石瞳は自分の手が震えていることに気づく。
(なんで?どうしたの?私……)
〈風土病チョルトをやっつける薬が〝偶然〟できてぇ、ナガツマソラなんて名前が注射器と一緒に〝偶然〟出てきたとなればさぁ~、やっぱりあの男の子は〝偶然〟生きてたか~って、誰だって思っちゃうよね~。そりゃそうだよね~、たぶんあれが魔外匪の〝偶然〟用意した魔胴師かもね~。まあいっか~ほんっと超グウゼ~ン。マヨマジビックリ~〉
茶化す虚病姫。
(私……)
〈うれしくて死にそう?「大好き」って叫びたい?抱きしめて欲しい?素直じゃないんだからもうシズ……〉
〈うるさい!!!!〉
「貴重な情報をありがとうございました。それではこれからの余命を大事に使ってください」
雫石瞳は紙にささっとそう書くと、商人を石造神輿から追い出す。外では蓑笠と蓑合羽を新たに手に入れた分裂小鬼シャシリックの一匹が待っていて、商人を夜雨の中、ルリジューズ将軍のもとに連れていく。
「少しだけ一人にしていただけませんか?」
雫石にそう言われて、神輿の中の使用人四名も神輿の外へと消えていく。
バタリ。
「………」
〈シズクちゃん?〉
畳のように編ませた床の上。そこに仰向けに横たわる雫石瞳。
「………」
〈お~いシズクちゃ~ん〉
天井の照明用魔道具に目を向ける雫石。室内はオレンジ色の柔らかな灯に包まれている。
「………」
〈シズクイシヒトミちゃんてば~〉
「聞こえています」
むくりと起き上がると、散らかる羊皮紙を雫石は手に取る。
クシャクシャクシャッ!
商人モナドノックが文字を書いた紙も、まだ何も書いていない紙も、何もかもを手でクシャクシャに丸めて壁めがけてぶん投げ始める雫石。けれどやがて、疲れて止まる。荒い呼吸を鎮める。
「あんな奴を…………絶対に違うから」
認めたくない想いが溢れてきているのが悔しくて、女はポツリとつぶやく。
神輿の中の照明はそれを合図に消える。
いつも通りの闇、音だけで視る異世界に女帝リチェルカーレは戻っていった。
solitudo