第二部 歌神香児篇 その五
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの屋根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩原朔太郎『猫』
4. 香児
「マソラ様~鉛筆がうまくもてませ~ん」
蛸人族のソフィーが鉛筆とパピルスを持ってトタトタと走ってくる。ちなみに鉛筆もパピルスもシギラリア要塞でつくったもの。
「どれどれ。力をもう少し抜いて。そう。そうやって」
バキッ!ベリッ!
「……」
力の入れ過ぎでソフィーの手の中の鉛筆がまたへし折れる。空の酒樽の上に置いたパピルスも圧の掛け過ぎで破れてしまう。やっぱり魚人種は陸地での力加減が難しいらしい。特にその王族である蛸人族の場合は仕方ない。
「ごめんなさ~い」
シュンとなるソフィー。緑のウェーブロングの髪が風に揺れる。相変わらずかわいいなぁ。もう。
「気にしないで。アダマンタイト製のペンを今度作ってあげるから。それまで文字は地面や空に書いて練習しよう。それよりお店まわりの雨水を吸い取ってくれてありがとう。おかげでぬかるんでいた地面がどこよりも早く引き締まった」
「えへへ~どういたしまして~」
青色の瞳が笑顔で細くなる。
超大陸アーキア中央よりやや北西。マルコジェノバ連邦に接するアルマン王国の埋葬都市バトリクスに俺は今いる。先週のひどい雨季を終えて、今週は乾季。大気は一気に乾燥するとはいえ、一週間に及ぶ大雨で二日間くらいはどこもかしこも地面は普通ぬかるんでいる。でもソフィーのおかげで俺のいる場所の足下はいい具合に乾いてくれている。
埋葬都市バトリクス。
西のマルコジェノバ側からの難民急増により、風土病チョルトの新規感染者の死体であふれかえる巨大都市。死体処理の仕事とそれに付随する問題で山積みの都市。
その埋葬都市で俺と俺の護衛であるイザベル、クリスティナ、ソフィー、モチカは冒険者登録を済ませた。その後で俺のみ、商業ギルドで行商人としての登録を行った。
読み書きができてC級、足し算とかけ算ができればB級、引き算と割り算ができればA級。二か国語以上読み書きできればS級というシンプルな試験のおかげでありがたくも俺はS級を取得することができた。つまり世界中のどこでも自由に誰とでも商売をすることができるらしい。芸は身を助けるとは言ったものだね。それなりに勉強しておいてよかった。
「兄様。見てください!」
別の空の酒樽の上で字を書いている竜人族のモチカがこっちに大きく手を振る。俺はそれに応じて近づいていく。
「ん?おお。さすが竜人族の姫君。でもナガツマソラのソとラの文字が反転しちゃってる」
「こうだよ」と俺は手作りの手帳と鉛筆を取り出して書き直して見せる。
「え!あっ、しまった!何という痛恨のミス!!」
頭の動きに合わせ、青のポニーテールが忙しく揺れる。パピルスにはびっしりと「ソ」と「ラ」がひっくり返った「ナガツマソラ」が書きまくられている。余白なし。文字で埋め尽くされているパピルス。ちょっと引くけど、その努力は買うよ。えらいよモチカ。
「上出来。モチカも鉛筆や紙が無くなったら空や地面を使って文字の練習を続けてごらん。すぐに色々な言葉をかけるようになるから」
空に向かって指で文字を書く素振りを見せて俺は教える。
「分かりました兄様!守衛の任務は無論完璧にこなし、かつ、この旅を終えるまでには読み書き算盤も完璧に習得してみせます!」
黄金の瞳はまっすぐに俺を見て言う。
「まあ、ソロバンはもう少し後でね」
足し算はできるけど掛け算の苦手なモチカに俺は苦笑する。
「はい!」
「それと俺の名前より先に自分の名前を書けるようにしようね」
「いいえ!兄様の名前が先です!!」
「分かった。じゃあどっちも書けるようにしよう」
「はい!」
埋葬都市バトリクスは死体であふれかえっていた。
その裏返しというべきか影響というべきか、生存者の入るまともな店舗はちょこちょこ空きが出ている。特に死体埋葬場に近いエリアは死体が増えて客足が遠のいてしまったことで経営破綻してしまったのか、空き店舗が目立つ。店をたたんで死体の処理をやって賃金を得た方が食っていけると考えたのかもしれない。
俺は埋葬場に近い、そういう空き店舗を借りた。
そして死体処理業者には申し訳ないけれど、現状を一変させてしまった。
店舗を借りる契約を結んだその日の夜、おびただしい幾万の身元不明の死体は俺が『命食典儀・魔蛆生贄』で大規模に吸収した。正確には358万1799体。死体置き場にあった死体の71%を日の出までに「ごちそうさま」。
突如起きた病死体の急減を「神が雨で死体を天国へ流し去った」と、人々は雨季の大雨のせいだと片付けたのは助かったけれど、借りた店舗の家賃がすぐに高騰したのはちょっと腹がたった。でもまあ、そこは我慢我慢。死体も勝手に食べたことだし。
それにここは異世界パイガ。だから契約はいい加減でも文句は言えない。俺の身体が細胞ではなく魔力素からできていても文句は言えないのと同じように。
さて、とにもかくにも手に入れた大きな店舗は二つ。
一つの店舗名は『クーラ』。もう一つの方は『ノンキンタン』。
『ノンキンタン』の方は冒険者登録をした時にパーティー名を冒険者ギルドに求められたので、その時に用いたものを店舗につけた。意味はもちろん「暢気者」。一方で『クーラ』は「癒す」という意味。
癒す。誰が、誰を、どうやって、どのくらい。
それは現在実験中。
〈兄様。客人と思われる方がこちらに向かっています〉
作ったばかりの花壇にヒヤシンスを球根ごと植えている俺に、モチカが念話で伝えてくる。
〈そうだね。でもあれは『クーラ』の客だ。噂を聞いてきた新規客だろうね。ないとは思うけど、もし俺に用があるっていうのなら『ノンキンタン』に通して〉
超音波と赤外線と魔力素で接近する亜人族を特定した俺は顔を上げず、モチカとソフィーの脳内に指示を出す。
〈分かりました~ソフィーがいきま~す〉
裸体に近いほど薄着のソフィーの方から亜人族に近づいていく。対象は視たところ、綺麗好きの烏人族の女。平民階級。豊かでもないが貧しくもない、そこそこの身なり。そして案の定、『クーラ』に入店する意思を示してくる。ソフィーがにこやかにほほ笑みながら元気よく店へと案内する。
〈兄様、新たに客……じゃなさそうなので私が行ってまいります〉
酒樽を左肩に背負い、甲冑姿のモチカはガンを飛ばしながら別の方角へ移動。その先には武器をひっさげた冒険者。たぶん。ガラの悪そうな損な顔の下半分は布で隠している。後ろめたいからか、感染予防からか。まあとにかくイザベルとクリスティナが宣伝で呼び込んでくれたんだね。二人とも本当に敵を作るのがうまい。
ちなみに二人はこの埋葬都市で人気の地下格闘場『ドッグファイト』で顔を売り出し中。レフェリーが止めない限り相手をフルボッコにするのでついたあだ名が「マッドドッグ」。まるで魔物だ。さすが魔獣女子。戻ってくるまでにフルーツのロールケーキを用意しないとこっちまでフルボッコにされるかもしれない。で、ロールケーキの名前ってなんだっけ、兄さん?……ル・レオ・フリュイか。舌を噛みそう。ごめんね。スイーツばっかり作らせて。
〈モチカ。あまりやりすぎないでね〉
〈お任せください。腕の一本二本を千切る程度で止めておきます!〉
それもやりすぎな気がするけど、まあいいか。
俺は花壇をいじりながら『クーラ』店舗内を視る。
「ふぅ……」
顔をにんまりほころばせて横たわる客の、足の付け根から腰に向かって、手のひらの付け根で押すナコト。
「うっ」
同じくうっとりして横たわる客の髪の毛の生え際から頭頂部に向かって、両手それぞれ四本の指を使いこねるように揉むエピゴノス。
「くすぐったい、けど、気持ちいい……」
うつ伏せではなく仰向けに横たわる客の膝を親指で、皿を動かしながら強くさするルルイエ。
簡単に言えばここは、マッサージ店のようなもの。
正規従業員つまり俺の奴隷は改造型チンダラガケの元暗殺者にして元亜人族の三名。つまりナコト、エピゴノス、ルルイエ。
非正規従業員すなわち俺がアルマン王国にいる間の従業員は、数字に明るくて帳簿を付けられて悲観的で鼻づまりの羊人族の未亡人セブと、愚直で陽気で体力と筋力と忍耐力のある鬼人族の若者五名。タクロ。コレヒド。ラワーグ。プミポン。バゴー。
店舗内には自分の施術を待つ人のための椅子が十六脚。
施術用の六つのマッサージ台。
大量のタオル。
アルマン王国の伝統音楽ハイフェンを録音し、それを連続再生できる魔道具。大陸の南アントピウス聖皇国では金持ち貴族が普通にもっているものをミソビッチョの外交部が買い付けて用意してくれた。
それと送風用魔道具。いわば扇風機。これは灼熱のイラクビル王国の貴族ご用達品。もちろん外交部が手配してくれた。
そしてシータルから持ってきた植物複数。これは俺と研究開発部がチョイス。
極めつけは、プライベート空間を演出するための簡易衝立。「こんなのアンタひとりで作れよ」と怒られるかもしれないと思ったけれど、土木部に頼んだら快く作ってもらえた。
リラクゼーションルーム『クーラ』。施術料金はアルマン王国の食事代二回分ほど。つまり安くも高くもない。施術を受ける本人が選べる価格。施術を受けるかメシを食うかを。
元暗殺者三名がフル稼働勤務だとして、一度に捌ける人数は三人。施術時間は30分。
一人捌いたら、その時使用していたベッドは一度消毒し、ベッドに敷くタオルを完全に取り換えるまでは別のベッドで施術。
施術中は衝立を使い、施術を受ける人は自分だけの特別な空間を感じられるようにしてある。まあ元の世界じゃ当たり前だったけれど、この衝立による仕切りはこの世界じゃかなり画期的みたいだ。「とても落ち着く」と受付の羊人族セブへ感謝を言って帰っていく客がひきも切らない。衝立を量産して王国中の食堂に卸すだけで大金持ちになれる気までしてくる。
でも、そんなことはどうでもいい。
俺は金もうけにそれほど興味はない。
そもそも『クーラ』は金もうけの場所じゃない。
「…………」
既に待合室の段階で、老若男女は各々、忘我の表情になっている。すすり泣く。頬を赤らめる。口を半開きにしてとろんとしたまま涎をたらす。眠りこける。恍惚として微笑む。
純朴で愚昧で忍耐強い鬼人族の若者五名は、それらが自分たちの行う足マッサージの技術によるものと思い、ウフウフと喜んでいる。待合室の客人たちの足首から先は大きめの盥の中にあり、そこには半分ばかりねっとりとした水が張られている。鬼人族はそのとろんとした水に浸けられた客人の足をゆっくり、丹念に、しぶとく、石鹸と手で洗い、こちらが教えた通りの足ツボを刺激し、最後にタオルで水気をふき取る。このサービスは最大で10分。鬼人族の仕事は客の足の洗浄とマッサージ。それ以外にマッサージ台の整備とタオルの洗濯。部屋の掃除。
「次の方、どうぞ」
制服姿のナコトが衝立の向こうから現れ、椅子に座る客の一人に声をかける。ナコトも含め、元暗殺者のチンダラガケ三人には俺が用意した白のナース服を着させている。元の世界と規格はほぼ同じ。そして何より、これは特殊な魔物の革は使用していない。つまり三人にはローブを脱がせている。汗を吸わせる皮革を脱がせている。
「………はぃ」
返事をした客だけでなく、待合室にいる全員の視線がナコトに向けられる。ナコトは一瞬怯むも、俺の植え付けた細胞から出された信号で正気を取り直し、精一杯の笑顔を浮かべる。
既に鬼人族によって足をきれいにしてもらっている客はぼんやりとした表情でナコトの方へと向かっていく。使用済みのベッドを直しに鬼人族の一人が衝立の奥へと一度消える。
「兄様。なんというか、皆の注目をあのナコトとやらが集めている気がするのですが」
いつの間にか戻ってきていて、窓の外から『クーラ』店舗内の様子を見るモチカが不思議そうに俺につぶやく。通りの向こうにはコテンパンのケッチョンケッチョンにされた冒険者や傭兵のみなさんが転がってる。視たところ、息はあるね。じゃあいいや。風邪をひかないように、雨季までには目を覚ましてくださいな。
「ナコトが注目されている?まあそりゃあそうだろうね」
施術が終わった女性客がふらふらと店から出てくる。出た途端、はっとした表情になり、肩を激しく震わせて号泣する。膝から崩れ落ちそう。その前の客は喜び勇んで跳ねるようにして去っていったのに……。
やっぱり三人の改造は〝上手く〟いったらしい。
「モチカも味わってみる?」
ヒヤシンスを植え終わり、フリージアも植え終わった俺はモチカに声をかける。ちなみに俺の隣にはこれから花壇の花に撒くための〝水〟を入れたバケツがある。
「え?何をですか?」
バケツにジョウロをつっこむ俺に問うモチカ。
「〝あっち〟で何が起きているかを」
俺はモチカの嗅覚を通常感度まで戻す。ジョウロで花壇に水を撒き始める。
「!!!!!!!!!!」
その途端、モチカがクラついてその場に尻もちをつく。俺は槍を拾いモチカの手を取り、立たせる。
「どう?」
「………」
あれ、まずい。完全なアヘ顔になってる。18禁の顔だ。
「はひ、はぁん、あにさま~、もうらめ~……」
「ちょっ!それはダメだって!」
モチカがはしたないことをおっぱじめる前に俺は急ぎモチカの嗅覚感度を落とす。
「は!?私は一体、というか今のは……」
服を脱ぎかけていたモチカが我を取り戻す。
「分かったでしょ。あの三人『香児』たちの力だよ」
俺はジョウロを見ながらモチカに言う。
ジョウロの水の正体は、ナコト、エピゴノス、ルルイエが水浴びに使ったもの。あるいは彼女たちの大量の尿。
「すごい……その、何というか、良い香りで、あまりに良すぎて……」
「正気を保てない。でしょ?」
俺はニタリと笑みを浮かべて竜人族の黄金の目を覗く。
「はい」
三人の正体。
すなわち香児。
改造型チンダラガケ。
改造したのは体臭。つまりは外分泌腺。汗腺であり、唾液腺であり、乳腺であり、消化腺をいじった。ゆえに体から出る全ての体液に強烈な香りがつきまとう。
そして外分泌線から分泌されるその化学物質は、この異世界にいまだ多く出回っていないものをチョイス。というかその成分を体外分泌できるよう、彼女たちを俺は改造した。ついでにそれらの化学物質をなるべく多く排出するようにも。
症例その一。元兎人族ナコト。
その体臭は竜脳と同じに調整。
竜脳とは竜人族の脳みそ、ではなく竜脳樹と呼ばれる木の幹から自然に発生する白く美しい結晶のこと。その結晶の香りは嗅いだ瞬間、鼻から脳にすっと抜けるような心地よい清涼感を相手にもたらす。元いた世界の東アジアに伝わる絶世の美女楊貴妃の伝説にヒントを得て作ったバケモノ。竜脳樹の植物細胞と兎人族の動物細胞を俺の魔力素で強制融合させた、いわばキメラ。
症例その二。元一角獣馬人族のエピゴノス。
このチンダラガケは何のキメラかというと、マッコウクジラ。マッコウクジラの腸にできる結石をエピゴノスは体内で合成できる。結石はこの魔法頼みの異世界では人々が患う当たり前の病だけど、マッコウクジラの結石を体内合成できる意味は、ただの尿道結石とは意味が異なる。
マッコウクジラの結石こそ、海がもたらす香りの王者アンバーグリス。
灰色の琥珀。竜涎香。
元いた世界の西アジアを「恋する者の吐息」として古来より席巻してきた不思議な香りを俺はユニコーンの囚人にチョイス。しかもエピゴノスの場合、糖尿病を超え、尿崩症なみに多尿。水分と電解質を経口補充させては最高級の匂いと結石を混ぜた尿を排出し続ける。俺はそれを宣伝用に店の花壇の土に撒けばいい。匂いのおかげで噂と同じくらいの速度で客が集まる。それにしてもアンバーグリスだけは成分解析がムズいね。空気中での反応速度が高く、香りの成分が刻々(こっこく)と変化する。しかもそれでいて、変化するどの瞬間の成分も、香りの不快さを催さない。つまり臭くない。さすが香りの王者。格が違う。
症例その三、蜂人族ルルイエ。
この囚人はシータル大森林に生えるクスノキとのキメラに改造した。ナコト、エピゴノスほどの珍しさはないが、個人的には推しの一品。
つまりルルイエの香りは樟脳の香り。日本の伝統の香りってやつかもしれない。
樟脳は本来、クスノキの枝や皮、根を使い、水蒸気による蒸留によって得られる白色半透明の結晶。日本では昔から防臭剤や防虫剤として使ってきた、すっきりとした清涼感のある香りをもつ。それをやはり、ルルイエは外分泌腺の細胞で合成でき、粘性の高い液として放出できる。揮発性はとぼしいけれど、そのかわり長時間にわたって彼女の香りはその場に残る。彼女の施術を受けた人たちが一番〝深刻〟なのもうなずける。
アーキア大陸北西のマルコジェノバ連邦とその隣国のアルマン王国は総じて、香りのレパートリーが比較的少ない。闇の大精霊ミアハが生み出しているらしい短い雨季と乾季が影響しているのか、そこに住む人々の遺伝子レベルの問題かどうかは分からないけれど、大陸南部のアントピウスやその西隣のパンノケル王国、あるいはイラクビル王国と比べても香料の研究が全然進んでいない。
そんな香料後進国の地で何者かが大暴れ中。
十中八九、その「何者か」は俺と同期の召喚者である雫石瞳だろうけれど、彼女のせいで連邦内の国々の人心はかき乱され、不安と恐怖に満ち、それから逃れるため民族大移動みたいな現象が起きている。
不安。恐怖。錯誤。妄想。不眠。苦痛。孤独。疑惑。不審。
それらを裏付ける異臭。体臭。腐臭。
だからこそ、人の心を癒すには宗教よりも香りのほうが手っ取り早い。
そこで俺が売るのは香料。
その宣伝ガールが香児たる三人。
マッサージ店『クーラ』の店先は香児の体液にまみれ、待合室では香児が洗顔や湯浴みに使った水で足を洗い、マッサージ台で最新科学の施術を受けるとともに、香児たちの全身から溢れ出る香りのシャワーを浴びる。鼻づまりの羊人族の未亡人と、雇用条件で鼻の粘膜の一部を焼いた鬼人族五人以外、マスクをつけたいなんてまず思わない。人体は囚われの美女たちに触れられるだけでオキシトシンホルモンの分泌を高め、全身に束の間の幸福をもたらす。
強烈な芳香による浮揚感はそして、本人しか知らない思い出をほじくり出す。気づけば人々は甘睡に溶け込んでいき、僅かな間の喜劇もしくは悲劇を味わう。魔王領で人間族を支配するために出回っている麻薬よりマシな点は、悲喜劇どちらを味わおうと最後は心が軽くなるところ。そして依存度が低いところ。要するに最後は「旅」から戻ってこられる。ジャンキーにはならない。完全虚無の充実を残し、芳香はただ去るのみ。
追放聖皇オパビニアの花粉武器がアイデアのヒントになった。ゲルソミノ・サンパギーダ。すなわち夢幻泡影花粉。ありがとうチンチン花屋。お礼に俺の闇で末永く飼い殺してあげるよ。
日が中天を過ぎる。熱をもった陽がそこら中にあふれる。ひっきりなしに店を訪れる客は悲喜こもごもを抱えて店を去る。その一々をチェックするモチカとソフィー。彼女たちの強さは既に相手の好奇心や敵愾心を即見極められるレベルにある。そんな彼女たちは客ならば店に案内し、客でないならとりあえず腕相撲で腕をへし折ったり、槍をバットがわりにして相手をボールのように遠くまで吹っ飛ばしたり、蛸足を使ったバックドロップで地面に頭から植えこんだりしてくれる。
花壇の手入れが終わった俺は『クーラ』の隣の店舗『ノンキンタン』に出たり入ったりをして、とある客が尋ねてくるのを首を長くして待つ。香児三人と一緒に行動しているせいで、俺の「鼻」は現在使えない。使ったらそれこそモチカみたいにひっくり返っちゃう。だから普通の人間のように、普通に待つ。光線と音波と魔力素だけを頼りにして気長に待つ。
〈マソラ様~来ましたよ~〉
〈分かった。ありがとう〉
その気配に俺も気づき、俺は『ノンキンタン』から出る。
ソフィーの近くには魔法使いが五人と屋根なし簡易馬車に乗る王侯貴族が三人。ついでに馬車をとり巻く衛兵らしき十人。でも背格好もバラバラ。武器を持ってない人もいる。あれは、子ども?
いずれも獣の皮革でつくったごついマスクで頭部全体を覆っている。ペスト菌が中世ヨーロッパで流行した時もきっとこんな感じだったんだろうね。あんなのただ臭くて息苦しいだけだろうに。
「なんということでしょうナガツマソラ様!ついにこの目で再びあなた様のお姿を見ることが叶いました!!」
魔法使いの一人が俺の方へ近づいてきて大声で言う。そしてマスクを取る。
「このたびは、死神の手よりお嬢様をお救いくださり、誠にありがとうございました!」
その言葉を合図に、全員がマスクを取る。なるほど。マスクを取るパフォーマンスをしたかったのね。はいはいそれに衛兵のみなさん、前に一度見ているよ。その顔。
「お嬢様だけでなく、我々末端の者の命まで救っていただき、感謝の極みにございます」
その「お嬢様」と彼女の両親が馬車から降りてくる。ヴァンセンヌ嬢。そしてカルファール伯爵とヴァヌアレブ伯爵夫人。
「そなたのおかげで!!娘は救われた!!!」
風土病チョルトの後遺症によって聴力が弱いせいか、ここの地元連中は大抵がこんな感じで大声。ついでによく唾が飛ぶ。「お嬢様」の親父であるカルファール伯爵も例外ではなく、大音量で俺に礼を言ってきた。サッカー部の一年生じゃないんだからそんなに大声出さなくてもいいって。喉潰れるよ。
「いえいえ。たいしたことなんてしておりません」
「ええっ!?なんじゃと!?」
俺の言葉が聞き取れず、聞き返してくるカルファール伯爵。ぶよぶよした肥満体の肉が揺れる。
「たいしたことなんてしてません!!」
「なんとっ!!?そんなはずがないではないかっ!!!!」
怒鳴って返答したら怒鳴って応酬される。なんか一気にどっと疲れました。
トントン。
貴族親父の妻ヴァヌアレブ伯爵夫人がカルファール伯爵の肩をトントンと叩き、手話。「あなた。それよりもお礼をさしあげてくださいな」。アルマン王国はたぶん世界で一番手話が発達している。
「なんと!!馬車でそなたはウンコを漏らしたというのか!?」
ボグーンッ!!!
ヴァヌアレブ夫人の右ストレートでカルファール伯爵が吹っ飛ぶ。転がる。
「いててて」
衛兵に抱き起されたカルファール伯爵が頬を腫れあがらせながらヴァヌアレブ夫人を涙目で見る。夫人はニコニコしながら同じ手話をもう一度見せる。指の付け根がキラキラ光って見えると思ったら、そこにはメリケンサック。よく似あってらっしゃる。
「おおっ!そうであった!あれから少し考え、商人であり薬師であるおぬしには金貨500枚を贈ろうと思ったのだ!!!!」
「それはうれしいです」
覚えたての手話を交えて俺は挨拶する。
「なんとっ!?我が娘はやれぬぞ!!それは無理な相談じゃボホッ!!!???」
そしてなぜか現地の手話を解さない現地人貴族。アンタの国の手話だろうに。しかも勝手なこと言ってるし。奥さんの裏拳食らってすっ飛んでるし。
「金貨500枚!!!超うれしいです!!!!!」
怒鳴りながら俺はとりあえず奥さんに礼を言い、夫婦の娘を見る。ヴァンセンヌ嬢はニコニコ笑っている。
「お嬢様!お耳は大丈夫ですか!?」
一応手話も交えて俺は問う。
「え!?私が今すぐ欲しいだなんて!困ります!!」
頬に手を当て顔をフリフリ。こいつ……親父譲りかい。
「ソフィーはともかく私というものがありながら!兄様っ!どういうことでございますかっ!?」
魔物ではなく半ギレの竜人族とエンカウント。俺ではなく令嬢が。
「モチカ!槍の切っ先を幼い子に向けちゃダメだって!」
「貴族の娘とはいえこのような幼子と一体いつからそのようなご関係をお持ちになられたのですか!?」
キッと俺を見る竜人族。関係って、そんな〝関係〟になるわけないでしょうが。
「冗談ですよ。私は平気です」
その時、顔を手で覆うのを令嬢はやめる。
「はぁ、聞こえているなら勘弁してよ」
「あなたが私だけの未来の旦那様でも、私は平気です」
「からの~」
魔物ではなく蛸人族とエンカウント。俺ではなく令嬢が。
「ソフィー待って!ジャーマンスープレックスはこの子にまだ早いって!!」
俺は7歳の女の子をクラーケンの触手とドラゴンの槍から救う。
「嘘です。ちゃんとあなた様の手話も声も伝わっています」
ソフィーの触手に巻かれたまま彼女はくすくす笑いながら、普通の声量で答えてくれた。どうやらこの貴族の令嬢は、間に合ったらしい。
「マソラ様~、ほんとにこの子とだけどこかに行きませんか~」
ヴァンセンヌ嬢を触手から解放しながらソフィーが心配そうに尋ねてくる。
「行かないよ。それに合ったのはあの日以来だよ。ちょうど今日みたいに二人に護衛をお願いしていたでしょ?あれっきりずっとあっていなかったよ」
「そんなうまいことを言って、実は兄様はこのような幼子とあんなことやこんなことをそこらの暗がりの中でやっていたのではありませんか!?」
槍の石突をドスンと地面に突き刺すモチカはまだ鼻息が荒い。
「あんなことやこんなことって何さ?」
「そ、それはその……く、口ではとうてい言えないことでございます!!」
「だから何もしてないってば」
戦闘は強いけれどこういう場面で本当に幼いんだから、魔獣女子はこれだからもう困っちもう。……コマッチモ、元気にしてるかなぁ。
「ではひょっとしてこれから何かしてくださいますか?」
「いい加減にしてください」
俺の言葉とヴァヌアレブ夫人の手話がピッタリ重なる。
「何はともあれ、経過も良好なようで、本当に良かったです」
「はい。あなたのおかげです」
令嬢は年相応の笑顔を浮かべる。その母親も同じように笑みを浮かべる。
風土病チョルト。
その研究は半年以上前からシギラリア要塞で取り組んできた。感染者の死体を食べたりチンダラガケを作るだけじゃもったいない。ついでに感染者が〝何で〟死ぬのかも調べなくちゃ損々。
で、調べたら分かったこと。
要するに風土病チョルトは細菌感染症の一つに過ぎない。
とすれば治療法は、細菌だけを殲滅する物質をつくること。原核生物である細菌に、彼らの命綱である細胞壁をつくらせないこと。
つまり抗生物質を作ればいい。
抗生物質と言えばペニシリンから始めるのが王道。
チーズに繁殖させたアオカビから、活性炭を使いペニシリンを抽出する。これくらいの科学技術ならこの異世界に流出をさせても問題はない。宇宙空間から金属の塊を落としてくるゲス兵器よりマシだ。
そう判断した俺はミソビッチョたちにペニシリンを生産させるとともに、この技術を異世界にばらまくことにした。
そしてそのための最初の獲物がこのアルマン王国の貴族。
その中でも、カネはあるが政治に興味を持たず、趣味の世界に生きる貴族をメインターゲットにした。
名はカルファール・ド・メディチ伯爵。
この貴族は珍しく第一夫人しか妻に向かえず、その愛を一人の女だけに貫いている。それなのに子宝にはなかなか恵まれなかったが、七年前、ようやく一人の娘を授かった。それがヴァンセンヌ嬢。御年7歳。
アルマン王国で暮らす以上、年端もいかないこの令嬢は当然のごとく、風土病チョルトに感染する。深窓の姫君も膨大量の死体がまき散らす細菌の魔の手からは逃れられない。
それに、彼らアルマン王国土着の人々にとって、チョルトとは通過儀礼。
避けられぬ運命。
俺のいた元の世界でいう麻疹のようなもの。
子どものころに患い、生き延びられなければ子どもの「数」としてカウントしてもらえない当然の儀式。それがこの王国の常識。カルファール伯爵とヴァヌアレブ夫人は目に入れても痛くないくらい可愛い愛娘がチョルトに感染しないことを切に祈り、そのような箱庭をこしらえて娘を育てた。しかしそれもむなしく風土病の感染が判明。あとは、通過儀礼を終えて「数」になるのをひたすら願っていた。
俺は運よくそのシチュエーションに遭遇し、そして狙いを定めた。
「耳煩いを軽くする治療薬を提供する」
というキャッチコピーで行商人の俺はカルファール伯爵家の敷居をまたぐことに成功する。
チョルトを発症したため発熱し、リンパ節が張れているヴァンセンヌ嬢に俺はエタノール消毒をしたうえで、ペニシリンを臀部の筋肉に〝注射器〟で投与した。娘の下半身を剥かれ尻を露にされた両親は仰天したが、それ以上に彼らを驚かせたのは、俺が肉の切断もせず血を抜く瀉血もせず魔法も用いず、ただ薬物を人体内へ注入したこと。個人的には消毒ってところにも驚いて欲しかったけれど仕方ない。注射器を使った筋肉注射は異世界人だったら目ん玉が飛び出るほど驚くよね。
注射器。
この世界には都合よく魔物という名の召喚者の残骸がウヨウヨいる。
その魔物の一種。テニスボールサイズの吸血性魔物メルフォートダニ。ダニという以上、ヒトや動物の体液を短時間で一気に吸い上げる能力がある。吸われた者は急激な血圧低下で意識を失う。その間に他のメルフォートダニが集まり、倒れたものを吸血。つまり下手すれば一瞬でミイラにされる凶悪な魔物。
そのメルフォートダニの体液を吸うための口吻が一番鋭く、注射針として使い勝手がいいことを、ミソビッチョの研究開発部が発見し、俺は採用した。魔獣ならともかく、魔物の繁殖なんてあまり気は進まなかったけれど、注射器をペニシリンとセットで世に送り出すために、交配と品種改良を繰り返し、俺たちはメルフォートダニをただの注射針を持った家畜に変えた。名付けてメルフォートベータ。口吻を折り取られると血を吸えずに死亡するが、繁殖力を限界まで上げた。ウサギをはるかに超え、シラミに匹敵する繁殖力を持つ。
それで、伯爵家の令嬢ヴァンセンヌ。
ペニシリンを注射した後の彼女の容態は予想通り。チョルトを引き起こす細菌は細胞壁の成分ペプチドグルカンをくみ上げられず、まもなく死滅。ヴァンセンヌ嬢の症状は劇的に改善される。しかも難聴にならずに済む。
「奇跡だ!これは神の奇跡だ!!」
屋敷の壁が震えるほど絶叫するカルファール親父と泣いて喜ぶヴァヌアレブ夫人。その後は屋敷の中でヴァンセンヌ嬢と同じようにチョルトで苦しんでいる使用人の子ども、そして隣国からやってきて新規に屋敷に勤め始めたものの、チョルトを発病してしまった使用人にペニシリンを注射投与。亜人族、人間族と患者はさまざまだったが、ヴァンセンヌ嬢も含め十一名全員に症状の改善が見られた。
「一体どのような治癒魔法をお使いになられたのですか?」
屋敷でヴァンセンヌ嬢の治療に当たっていた魔法使い五名と夫人を含め、治療後にそう問われた俺は「ですから魔法ではなく薬剤の調合をしたまで」と告げ、屋敷を去った。
ちなみに謝礼金はその時にもらわないのが俺の計算。「よくなったらそのうち受け取りにまいります。礼金はお気持ちの額で結構でございます」とだけ言って去る。そして待てど暮らせど、礼金を受け取りにはいかない。カックイイ。
というのは冗談で、狙いはカネではなく、噂を流布させることだから。
欲しいのはカネじゃない。知名度。
ナガツマソラ2号である俺の仕事は、インフルエンサーになること。
「ナガツマソラという生物は〝そこ〟にいる」と世界に知らしめること。
4号のように情報の集約と物資の調達運搬じゃない。
1号のように軍隊指揮じゃない。
3号のように諜報と暗殺じゃない。
名を売り、罠を仕掛け、シズクイシヒトミという獲物がかかるのを待つこと。
つまり罠猟が、2号である俺の仕事。
罠には魅力的な餌と相手を欺く技巧が必要。2号たる俺に求められているのはそれだけ。
だからやる。罠を仕掛ける。
そのために香児三人がいて、そしてペニシリンと注射器がある。
それでもまだ足りない。だけどそれももうじき全部4号から届く。だからそれまでは何が何でも時間を稼ぎ、何が何でも俺の名前を売れるだけ売る。
そのために香児三人を使い、そしてペニシリンと注射器を使う。
「さて、ではこれをお納めください」
魔法使いの使用人が金貨の入った袋を次々にこちらに運んでくる。けれど俺はそれを受け取るのを断る。
「どうして受け取っていただけないのですか?」
問われた俺は、将来の〝ナイチンゲール〟の方へ温かいまなざしを向ける。
「私への感謝は要りません」
そして魔法使いたちの方へ向き直る。
「処方した薬の作製法と、注射器に使用する家畜及びその繁殖方法をあなた方に提供いたします。薬の名前は『ヴァンセンヌ』。私へのその謝礼はこのアルマンの大地で風土病チョルトに苦しむ人々を、『ヴァンセンヌ』で救うためにご使用くださいませ」
俺の言葉を聞き、大きく見開いた目で涙ぐむヴァンセンヌ嬢。
彼女の全身を、魔力素が微弱だけど激しく流れる。天啓を得たかのように激情が走っている。もう大人をからかうただのマセガキじゃないね。〝クリミアの天使〟ならぬ〝アルマンの天使〟の誕生だ。
ヴァンセンヌ・ド・メディチ。
君の一生は決まった。俺が決めたよ。
どうせ平均寿命が四十年足らずのおとぎ話みたいな世界だ。タイムリミットは残り三十年とちょっと。俺と違って気高く生きろ。弱い者にこそ無条件で奉仕して天寿を全うしたらいい。その方が君の両親の一生より充実していると思うよ。「弱い」も「無条件」も「奉仕」も「天寿」も「全う」も俺の場合はまっぴらごめんだけど。
「ではこちらへどうぞ」
俺は店舗『ノンキンタン』の方へ伯爵一同を案内する。
筋肉注射をする前の消毒、ペニシリン『ヴァンセンヌ』の作成方法とそのための装置を魔法使い五名と令嬢及び彼女の父母に教えて与え、さらに家畜メルフォートベータの飼育方法と家畜そのものを、ペニシリンで回復した例の十名の護衛の兵に分け与える。それらが全て済んだ頃には日はとっぷり浸かり、俺は彼らを丁重に送り返した。
lUNAE LUMEN