第二部 歌神香児篇 その二
午前四時半。
不気味な静謐。
自転している筈の地球なのに。
薄ぼんやりのアレチノギクの。
動かない白い花花。
煙草の煙もきこえる気がする。
そして人間の伝統の血の音も。
草野心平『静謐』
1.白鳥の歌「オクルス・マロス」
〈お~い〉
アーキア超大陸西。
さかのぼることおよそ一年前。
つまりナガツマソラが仲間とともにロンシャーン大山脈の噴火の規模を小さくしようと奮闘していていた一か月前。
〈お~い。ねえもう起きなよ〉
「……」
大陸西を南北に分断する超巨大樹林ルバート。
白濁とした大きな雲が風で流れて星煙る夜空の下、黒いローブを着た集団が歩く。継ぎ接ぎだらけでボロボロの彼らのローブは葉についた無数の雫で既にびしょ濡れ。足元もついさっきまで降り続いていた雨のせいでぬかるみ、泥にまみれている。けれど薬物と信仰心のおかげで彼らは自分たちの塒まで休まず歩き続ける。
〈起きないと〝また〟レイプされちゃうよ~?〉
「!?」
黒いローブの集団が即席で作った〝担架〟の上で、雫石瞳は目を覚ました。
(……これは、どういう状況?)
担架のまわりには全部で六人の男女がいる。その中心にいる雫石瞳は目隠しをされ、口に布をかまされ、胴体を担架に縛り付けられている。無論この担架は急病人を運ぶためのものではなく、ただの運搬の道具に過ぎない。
儀式のための道具を。
〈やっと起きたね。ふふっ。丸三日も寝てたんだから、ほんとお寝坊さん〉
雫石瞳は冷気と樹々の匂いを鼻一杯に吸い込み、状況を整理しようとする。しかし何が起きて自分がこうなっているのかやっぱりよく分からない。
〈どう?久しぶりに白鳥の歌を謡った気分は〉
「?」
雫石の脳裏に先ほどから響く、軽薄そうな少女の明るい声。
否、先ほどから、ではない。
(前にも何度か、聞いた気がする)
〈気がするじゃなくて、何度も話しかけてんじゃん!それをいつも無視してただけでしょ!〉
少女らしき幼い声にツッコまれつつ、雫石は繰り返す揺れの感覚から、自分が拘束されてどこかに運ばれていることを知る。まず鼻につくのは草と土と木の息吹。そして垢くさい人の臭い。
(一体どこに私を)
〈たぶんねぇ、この純で単細胞の人たちのアジトかな〉
(どうして?)
〈儀式じゃない?よく分からない言葉で「生贄を手に入れたぞ~」みたいに叫んでいたし〉
(……そう)
仰向けの雫石瞳は深く息を吸う。藍色の空を刷いている水気を感じる。
〈そうって、死んじゃうかもしれないんだからもっと焦らないの!?〉
内なる声を無視し、雫石は少しずつ冷静さを取り戻す。
そして気を失う前の記憶を必死に手繰り寄せる。けれどどうしても直前の記憶が思い出せない。
(パンノケルにアントピウスから岡安君たちとパーティーで派遣されたことは覚えている。足手まといの私も含めて全部で九名。それで塩澤さんと藤井君が監獄からの脱出路を見つけてみんなで侵入して……)
雫石の思考がそこで止まる。草木や土の匂いが消える。
〈見ちゃったんだよね。ジペルテン監獄の所長がヤバイことしてるの〉
むせかえる血のニオイの記憶が蘇る。
(……)
脱出路は所長室につながっていた。
その所長室の隠し扉に九名は潜伏。所長のプライベートを覗き見た。
ストッ。 ストッ。 ポトトトトトト……
両手を上にして吊るされた亜人族処女の娘。
裸の娘の下には大きな盥がある。顔色が悪くしかも歪んだ顔の所長はニタリと笑みを浮かべながら椅子に深々と腰かけ、手元の太いダーツの矢を娘の体に向かって投げる。
ダーツが娘の肌に次々と突き刺さり、小さな悲鳴が何度もあがる。血が流れ出て盥に滴り落ちる。娘が悲鳴を上げなくなるまで、つまりダーツが全身に突き刺さり息絶えるまでそれは続き、そして所長は魔法を使い、浮かせた盥にたまったたっぷりの血液をゴクリゴクリと飲み干す。
(耐えられなくて、叫んだ、私が)
所長の悪行を隠し通路で覗き見ていた雫石を含む召喚者パーティー九名は雫石の悲鳴で見つかってしまう。パーティーリーダーの岡安を含めすぐに臨戦態勢に入る。ただし悪行を独りこっそり楽しんでいた所長は真の姿を現す。ステータス画面が見られる九名は凍り付く。
鮮血鬼デカラビア(魔物):Lv58
生命力:4000/4000 魔力:2990/2990
攻撃力:3700 防御力:5000 敏捷性:4300 幸運値:500
魔法攻撃力:600 魔法防御力:900 耐性:火属性
相手は人間族でも亜人族でもなく、魔物だった。
岡安パーティーの平均レベルは20。ナガツマソラのいた竹越パーティーの当時の平均レベル16に比べれば高かったが、相手はレベル58。敵うはずがなかった。
所長に化けていた魔物デカラビアは九名を舐めるように見、一番弱く、混乱のあまり失禁している女を最初の獲物に選んだ。
つまり雫石瞳。
(そこまでは、覚えている。でも、そのあとが)
思い出す恐怖。自分も盥の近くでサボテンのような姿になって動かないでいる娘と同じ運命をたどるのではないかという恐怖。
〈覚えてるわけないじゃん。だって首絞められてあと一歩で心臓引き抜かれるところだもん〉
素早く移動した魔物はすぐさま雫石瞳の背後に回り、彼女の首を握り片手で持ち上げ、もう片方の手で背中から心臓を貫き手によって抉り出そうとした。
しかし、
〈私の歌を謡うしかないじゃん〉
「管弦素配列変換。ペンタストリンジウム」
白眼を剥き血管を浮かせた雫石瞳の口が勝手に動くと同時に彼女の喉から所長室を震わす絶叫が広がる。魔物デカラビアは一瞬にして行動の自由を奪われ、そして、雫石瞳を手放しよろよろと歩き出す。
「ナ……ニヲ……シ、タ……」
所長用の机の前まで移動し、引き出しの下に隠していた刃物でまずは心臓を前から突き刺した後、ゆっくり引き抜き、
「シニタ……ク、ナ……イ。ゲホッ!」
喉を右から切り裂き、最後は左から力強く頸椎を撃ち砕き、首を落として自害する。
(そんなことを、私がしたというの?)
〈シズクちゃんがっていうかマヨがやったんだけどね〉
流れる雲を潜り抜けてキラキラ輝く星の下で、担架の上の念話は続く。
(マヨ?それがあなたの名前?)
〈そ。マヨの名前はマヨ。でもみんなはマヨちゃんなんて呼んでくれなくて、虚病姫ってあだ名なんてつけて呼ぶんだよ!?なんか失礼しちゃう!「虚病姫」って虚ろで病気のお姫様って書くんだだよ!?お姫様は良いとして、虚ろとか病気ってイッちゃってるヤバいジャンキーみたいでしょ?ひどくない!?〉
虚病姫はプリプリと怒る。それを雫石瞳はただ聞いている。
そうこうしているうちに担架を運ぶ男の独特の体臭が鼻にふと突いて、それが記憶の一部を再生させる。
(思い出した。そのあと、監禁された)
〈そうそう。だってレベル58の魔物が突然自殺するなんてビックリじゃん?そんなことするんだったら最初から首括って死んじゃえって話だもんね。誰かが自殺させた。その現場には究明の召喚者がいた。じゃあその召喚者のうちの誰がどうやって殺ったのかって勘ぐるよね。で、聞かれた召喚者のお友達のみんなはとりあえず、悪気があろうとなかろうと、覚えていることを言うしかないじゃん?シズクちゃんがたぶん何かした~って〉
事件の後、パンノケル王国はもちろんアントピウス聖皇国の取調官までがジペルテン監獄に派遣され、岡安、深堀、室野井、石原、今泉、曽根、塩沢、藤井の召喚者八名の個別取調べが行われた。その間、虚病姫の力を発動させたことでショック状態になった雫石は独房に独り監禁される。
監禁。
「……」
思い出す雫石の眼に涙が浮かび、目隠しを濡らす。
独房の監禁で目を覚ました時、体は大きく揺れていた。傍には服のはだけた看守が二人いた。
「おい、目が覚めたぞ」
「なんだよ。もう醒めちまったのか」
「あ~あ。残念。もう一発出したかったのに」
看守たちは服を直して独房を出て行く。残される、異臭。臭いは乱れた自分の服の下から漂う。
虚病姫の力を発動させたショックで寝込んでいる間に、雫石の身体は看守たちに穢されていた。そのことに気づき、雫石瞳はまた独り、震えて泣いた。
(また、また……された)
〈ごめんね~。久しぶりに謡ったせいでこればかりはどうにもできなかった。あいつら毎日とっかえひっかえ汚くてくっさいイチモツをシズクちゃんのお股につっこんで自分の欲望をぶちまけてたよん〉
(そんなこと……言わなくていい!!)
〈怒っちゃった?でもでもだからさ、お詫びにまた謡ったでしょ?〉
(……)
「凶器準備集拷。全因合葬。多重フォルトニウム」
眠っている間に強姦された雫石は、再び狂歌を謡う。今度は所長室だけでは済まない。滅びの絶叫はジペルテン監獄全体に共鳴し、あらゆる者を響き揺らす。監獄にいた囚人及び看守すべてが壁に頭を打ち付け絶命した。
〈ついでに言っておくとね、謡ってまた気を失っている間に、くっさくてむっさい男たちのせいでできたシズクちゃんの赤ちゃんは殺して破棄捨てたから。安心して〉
(……そう……また)
〈そう。〝また〟だよね。いつもこうだよね。そして二度あることは三度だって四度だってあるかもん!ところでそろそろアジトに着きそうな予感ビンビーン!〉
二度目の歌を謡った後、雫石は再びショックで気を失う。
そして彼女の倒れるジペルテン監獄へ、ルバート大森林に潜んでいた〝邪教徒〟が現れる。
邪教徒バクタルカ――。
という烙印を押された異教徒。要するにアントピウス聖皇国やパンノケル王国の国教であるカディシン教ではなく、土着の精霊信仰すなわち闇の大精霊ミアハを信奉するこの宗教団体バクタルカは、森に南接する二つの国の動向を常々注意深くうかがっている。
それゆえ、ルバート大森林に近いジペルテン監獄の異変はパンノケル王国の首脳陣よりも早くに気づいた。
そして彼らは監獄で唯一の生き残りである雫石瞳を見つけ、ミアハへの捧げものとして今、彼女を自分たちの元へ連れ帰っている最中であった。
(この連中が誰で、どこへ向かっているのか、あなたには分かるのですか?)
〈出発する前に監獄でペチャペチャ喋ってたからほんのちょっとだけど知ってるよん。異教徒扱いされて森で細々と精霊に祈りを捧げている根暗のジャンキーちゃん。偵察がてら生贄を探してたらシズクちゃん見っけてゲット~ってなったんだよね〉
クッチャ、クッチャ、クッチャ、クッチャ。
やせ細ったバクタルカは目にクマをつくったまま担架を担ぎ、歩き続ける。その顎は常に動き続け、緑の汁を口の端から溢している。覚醒効果のあるカートと呼ばれる葉を彼らはルバート大森林でしこたまかき集め、それを常備している。この薬と精霊ミアハへの信仰心が、三日間不眠不休で三百キロを踏破するという荒行を可能にしていた。
大きな露の玉のように震える星の下、その邪教徒バクタルカのアジトに一向は到着する。
アジト。すなわちノトラージャ要塞跡地。
神代の時代に使われていたらしい石造りの大きな砦は現在、ボロボロに朽ち果て、ところどころ崩れ、苔むしている。それでも雨風を一応しのげるこの場所は、バクタルカたちの重要な拠点となっている。
「!」
雫石は自分の顔に何者かの手が触れるのを感じる。それだけで戦慄するほどの恐怖を覚えるが、次の瞬間には、目隠しが優しく外される。
細かく淡い星の光を背景に、目隠しをとった雫石瞳がルバートの森で最初に見たのは、皮と骨ばかりにやせ細った、土臭い老婆の顔だった。口を小さく開いた老婆はけれど何も言わず、歳のせいで小刻みに震える手で水の入った木の椀を雫石の口元に近づける。そしてゆっくりと彼女の口に噛ませてある布に溢し始める。雫石はその染み込んだ水をおそるおそる飲む。
(少し、甘い)
〈たぶん樹液じゃない?ほんのちょっと栄養が混じってる、命の水ってやつだよきっと!〉
老婆は雫石が染み込んだ水を飲み終えるのを待ち、また木椀を傾け、水を雫石の口元の布に溢す。それがひとしきり済むと、老婆は廃墟のどこかの闇へと消えていく。
(あの、すみません)
〈なあにシズクちゃん。改まって〉
雫石の運搬で疲れ果てたバクタルカがカートの葉を吐き出し、壁に寄りかかりへたれこむ。それとは別に最初から要塞にいた別のバクタルカが何事かを口走りながらひそひそと料理を始める。
(あなたは一体誰なのですか?)
〈え~?さっきもいったじゃん。私はマヨだよって〉
チョウ。カブトムシ。バッタ。シロアリ。
それらの幼虫が熾火の上に置かれ、チリチリと焼かれる。あるいは岩塩を砕いて入れた塩水で煮られ、クツクツと煮詰められていく。
(そうじゃなくて、あなたはどうして、私の中にいるのですか?一体いつから……)
〈車で事故った時からっ!〉
(!!)
別の所では乾燥させた幼虫を真水で煮ている。
塩を振る。煮た幼虫にピーナッツのペーストが加えられる。ザリガニ、サル、魚の燻製がそこに加わる。キノコが添えられる。それをバクタルカたちは無心に食べる。
〈マヨはちょっとしつこい奴に追われててね、シカちゃんに入って山の中をルンルン逃げ回っていたんだけど、それも見つかって、仕方ないから今度はヒトに入ろうって決めてね、それで走ってる車の前に飛び出してドンガラガッシャーン!〉
(嘘でしょ……あの事故は……)
〈うん!シズクちゃんのパパとママが死んでシズクちゃんだけ残ったのはマヨのせいだよ?〉
気が動転して目が泳ぐ雫石だったが、やがて落ち着く。力を失った眼は夢中で食事をするバクタルカではなく、木々のシルエットの先に浮く、低くうす赤く輝く寂しい星へと向けられていた。
(……殺して)
〈ええ!?なんでなんでーっ!?〉
(もう、生きていたくありません)
〈そりゃあパパとママがいなくなったせいで山の変なところで飼育されることになっちゃって、同い年のオスに無理やりエッチなことされて傷ついたのは可哀そうだと思うけど、ちゃんとその時も全員壊してあげたじゃん!まだ怒ってるの~?〉
(あれも……)
〈もちのろんろん!みんなで水風呂大作戦!それでさ、その後今回みたいに赤ちゃんできたけどちゃ~んと堕ろして……〉
(いちいち余計なことを言うな!!!!!!!!)
〈ごめんちゃい。でもそんなに嫌だったら、自殺すればいいじゃん!ラク~な方法あるよ~?〉
(……)
〈この世界に来て気づかなかった~?「封印されし言葉」ってあるでしょ?そこに出鱈目な言葉を入力すればすぐに死ねちゃうだよん。アントピウスで実験やってたみたいだからこれは折り紙付き!見た目はえぐいけどたぶん痛くも痒くもないから超安全安楽死~!〉
話を聞く雫石は食べながらこっちを指さしあれこれ仲間と話しているバクタルカに目線を落とす。
(なんで、私なのですか?)
〈マヨが憑依した相手がシズクちゃんなのはなんで~ってこと?〉
(そうです)
〈ただのグーゼーン!動く有機物なら誰でも良かったかな~。それがたまたま車の後部座席に座った小さな女の子ってだけのオチだよん!〉
聞いた雫石は目を閉じる。涙が頬を伝う。
(……乗っ取るのが目的なら、もういいです。もう私は、私に興味がないので。好きにしてください)
〈自殺しないの?手足縛られてても「封印されし言葉」を入力すれば……〉
(誰かに指示をされたり、無理やりやらされるのが、嫌いです。だから、別の方法で死にます。それまで私のことは好きにして結構……)
〈ねえねえ、シズクイシヒトミちゃん〉
突然寒気を覚えた雫石は目を開く。霧がうっすらと立ち込めている。
(……)
〈私はね、魔法が使えるんだ〉
霧の中、バクタルカが我を忘れ、空を見上げている。頭の真上を流れる天の川は銀色の煙幕を引いたように強く輝いている。
(知ってる)
〈自慢しちゃうけど、エッヘン!元いた世界でも、魔法が使えたのでした!!〉
(だからどうしたの?)
天の川から滴ってきたかのように露がひどい。おかげで雫石もバクタルカも、肌に水滴がつく。
〈なんで驚いてくれないのー!?魔法を使える人なんて見たことないでしょ!〉
(見たことがなくても、ソイツのせいで人生を滅茶苦茶にされた覚えならあります)
〈怖。まだプンスカ怒ってるシズクちゃんでした。まあいいか。でね、あのねあのね。内緒だけどさ、マヨは実はね、魔法を使えるというか……〝職人〟なんだよ〉
(?)
〈ショクニンっていうのはね、ふふ。自分がやると決めたことを究めたいよ~ってことしか頭にない、ちょっとアブない種族なの〉
鮮やかすぎる天の川の中央の黒い裂け目を見ながら、雫石は聞いている。
〈マヨはね、ヒトのハートをつかんではなさないようにするにはどうしたらいいのかってず~っとず~っとず~っと考えてきたの!〉
(そんなこと……できるはずない)
星明りの溜まる池のような廃墟で、雫石は目を閉じる。
〈そんなのやってみなきゃ分からないじゃん?でね、まあそれなりにつかんではなさないようにはできるようになったんだけどさ、「それはズルい!」「そんなこと許されない」ってみんながマヨのことを悪者扱いして、虐めようとしていたのさ。ねぇねぇ!可哀そうなマヨだと思わない!?〉
(思いません。少なくともあなたに利用された私は)
〈うう。分かった悪かったよん。お詫びにマヨの魔法、好きに使っていいよ〉
(え?)
再び目を見開く雫石。霧が晴れ始める。バクタルカも天の川を見るのをやめ、何事かを相談しはじめる。深くうなずいたバクタルカの数人が腰鞄にカートの葉を詰め、雫石の方へと近づいてくる。
〈マヨは職人。自分の力がどれほど通用するのか、試したいだけ。それを試せる場所を見つけて、そこにシズクちゃんを連れてきた。っていうのは半分ホントで半分ウソ。さっきも言ったけれどマヨは有名人で、メンドくさいのに追われてるの〉
雫石瞳を乗せた担架が持ち上がる。それは彼らの祭壇へと運ばれていく。
(誰に追われているのですか?)
〈マユズミアスカ。ほら、一緒にこの世界に来たあのコスプレブス子ちゃん。忘却の法理は効かないよ、シズクちゃんだけは〉
(思い出した。あの子が、魔法使い……異世界に来る前から?)
〈そ。クソお転婆でお水とクソ仲良しの魔術師。あの家はみんなマヨのことを嫌ってるから、マヨのこと必死に追いかけてくるの。それでシズクちゃんにマヨがいることをどこかで知って、よりによってシズクちゃんの旅行中を狙ってきてさ。どうしようかなぁって思ったんだけど、試してみることにしたの。異世界ファンタジーへゴ~ッ!て〉
(修学旅行……それでここに……)
雫石瞳を乗せた担架が祭壇に到着する。雫石瞳は担架から祭壇の上に移される。いくつものろうそくの火が風で揺れる。バクタルカたちの厳かな儀式が始まる。
〈マヨより上位の魔術師、っていうかそういう激レアさんを全部、魔外匪って呼ぶんだけど、その魔外匪の一柱がオモロ~な世界を創っているのを見つけたんだよね〉
(それが、この世界?)
〈うん。魔法の文明と科学の文明の進行速度がさ、逆転しちゃっている異世界。こんなのマヨに力試ししてごらーんって言ってるようなもんじゃない!?〉
(……)
念話を続ける雫石の周りを、香炉を持つバクタルカが歩く。そして離れた所で、詠唱を続ける信者たち。
〈乗り悪~い。おほん!とにかくとにかく~!マヨはすっごい興味があって、そしてちょっぴり追い詰められて、この異世界パイガにシズクちゃんを召喚したのでした~〉
(召喚したのは、あなたの力?)
香炉から目を離さず、雫石は問う。
〈あなたじゃなくてマヨマヨ!〉
(絶対にマヨマヨなんて呼びません。虚病姫)
〈ひっど~い!はぁ、まあいいや。そうだよん。召喚なんて別にたいした魔法じゃないからちょちょいのちょいってね。でも元の世界に戻るのはマヨの力でも無理。魔外匪の法理に挑む能力なんてマヨちんもってないも~ん。でもどうでもいいかなぁそんなこと。マヨはあくまで、マヨの力がどれくらいのものなのか試せればいい。それにはここは〉
香炉を持ったバクタルカが去っていく。
〈うってつけ〉
代わりに短剣を握るバクタルカが現れる。
〈疑り深くて自暴自棄の振りをしているシズクちゃんへ。マヨはシズクちゃんを乗っ取ろうと思えば乗っ取れるけれど、マヨはシズクちゃんがマユズミアスカさえ殺してくれればあとはシズクちゃんにちょっかい出しませーん!なんでかと言うと、マユズミアスカが嫌いだし、それにマヨの魔法がすっごく強いってことが分かればマヨマヨはそれでいいからでぇーすっ!〉
短剣を握るバクタルカは雫石の前で低く詠唱を始める。
(……振りって)
〈ん?〉
(自暴自棄の振りって、何?)
〈言葉の通りだよん〉
詠唱を終えたバクタルカが剣を振り上げる。
〈シズクちゃんさ。本当は欲しいものがあるでしょ?〉
(心を読んだつもりですか?私には誰も必要ありません)
〈「誰か」なんて言ってないよん。何かって言ったもん〉
ゴシュッ!
〈心を熱く揺さぶってくれる何か、あるいは誰か。それが欲しいんでしょ?〉
雫石の胸骨を割り、心臓の傍に剣が突き刺さる。
〈シズクイシヒトミの心を冷ます行為をはねのけ、シズクイシヒトミの心を熱く揺さぶる。マヨの魔法は、それができる〉
動かされた短剣が、心臓周囲の血管を切り裂く。血が雫石の胸から噴き出る。
〈まあ簡単に言うとね、気に入らない奴を全員ケッチョンケッチョンに壊して、気に入る奴を全員メロメロに壊しちゃう力なんだけどね〉
(ふふ)
雫石の胸の中にバクタルカの手が差し込まれる。心臓が抉り出される。
〈ムカつく奴を壊した時の爽快感。自分を蹂躙しようとする奴を踏みにじって壊す愉悦感。とにかく全員壊すとスッキリするからやってみない?〉
(……そうですね)
バクタルカたちは雫石の心臓をもって、より一層大きな声で祈りを捧げている。心臓を提供した召喚者のことなど、誰も見ていない。
〈自分の心を熱く揺さぶるために、ひたすら壊す。ただそれだけ。でもでもね、そうじゃなくて誰かを欲しくなったらその時は手に入れてブッチューしたって全然……〉
(要らないことは言わなくていいです。とにかくそのお力、私に貸してください)
〈ラジャー。「貸す」じゃなくて「あげる」よん。あ、そうそう。マヨはさ、この世界に来たら「封印されし言葉」になっちゃっているから「ムツキカサメ」って入力して。じゃないといちいちシズクちゃんの口を使って魔法を唱えて気絶されちゃってレイプされたのを起こして中絶して……〉
(黙りなさい虚病姫)
残り時間はもうない。
そう安心した雫石瞳は薄れゆく意識の中、目の前に浮かぶアイコンの一つを選択し、封印されし言葉を入力する。
(!?)
雫石の薄れていた意識が戻る。時を巻き戻したかのように、散った血液が傷口に戻る。血は戻りながら雫石を縛る紐を溶かす。
『封印されし言葉を確認。ムツキカサメ。六気嵩眼。すなわち秘諦魔眼を獲得。全属性の精神魔法攻撃完全無効化。……』
〈今、これで脳がバグって死ぬかも~って思った?〉
(ええ。あなたは美味いことを言っていますが、本当は私を乗っ取る口実だと思いましたし、それならデタラメな言葉を入力させる今がチャンスだと考えました)
〈あっかんベー!残念でした~。乗っ取るつもりならとっくにもう乗っ取ってますよ~だ!……心臓を抉り出されたのに無反応って、やっぱシズクちゃんは頭のネジがぶっ飛んでるね〉
(あなたに言われたくありません)
雫石の体が浮く。穴の開いた彼女の胸で血管が増殖し、心臓を再生させる。胸骨も裂かれた皮膚も元通りになる。
〈マヨが修理してくれるかもしれないって、毛ほども期待してないところがぶっきみ~!〉
『ムツキカサメ。夢月歌讃女。白鳥之歌が有効。第七系統魔法である月魔法の復元を確認』
雫石の〝かつての〟心臓を持って行ったバクタルカが慌てて祭壇へと戻ってくる。彼らの一人は、雫石の心臓の血管に首を絞められもがき苦しんでいる。
〈じゃあ、さっそくお披露目しちゃお!〉
ジュヴォヴォヴォヴォヴォヴォッ。
立った雫石の額そして鎖骨の合わせ目、首の両側、両手の甲に赤い眼球が生じる。
「フルトボイウム。ゴッチクラリネチウム。バリオン化結合完声……」
脳裏に浮かんだ叙事詩の一部を切り取り、雫石は口からそれを吐き出す。
ヒュオオオオオ………
生じたばかりの眼球の緑の瞳孔が大きく開く。空気が吸い込まれる。
「角素。ハルオネアストリジウム」
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――――――ッ!!!!!!!
「「「「「「「「?」」」」」」」」
雫石瞳の眼球の絶叫とともに、彼女のもとに戻ってきたバクタリカたちが動けなくなる。
ブシュウウウウウウ―――ッ!!!!!!
老若男女、ノトラージャ要塞にいた一切のバクタリカの左眼球が破裂し、鼻と耳から血が噴きこぼれる。破裂した眼球から蒼く光る二匹のトカゲが生じ、それがバクタルカたちの顔面を這い、両方の耳の中に入って行く。鼓膜の奥へと侵入されたバクタルカたちは倒れ、激しく苦しんでのたうち回り、やがて糸が切れた人形のように止まる。
そして起き上がる。
破裂した左眼球のあった場所には新たに爬虫類を思わせる目玉がはまっている。下から上がる瞼に守られたその眼だけが勝手に周囲を警戒し始める。右眼はぼんやりと雫石を見ている。
〈バッチリ!これでこのお人形さんたちはシズクちゃんにメロメロ!もう二度と戻れない異世界に旅立ちましたとさ!!あ、今の例えってよく考えたらシズクちゃんたち召喚者みたいじゃん!!いっけなぁーい!テヘペロッ!!〉
「ふう、ふう、ふう、ふう……」
〈大丈夫~?マヨの魔法ってちょっと魔力素の消費が激しいんだよね。ねえいい加減なんか食べよ!?心臓も再生させたし二週間以上まともに食べてないからこのままだとマヨも共倒れになっちゃうよ~〉
「はあ、はあ、はあ、はあ……ええ。そうしましょう」
〈さっそく何かこのお人形さんたちに命令してみて!シズクちゃんが頑張った分、ちゃんと言うことを聞くようになってるから!〉
「命令って……分かりました。そこのお婆さん」
〈お婆さんじゃなくて、ニ・ン・ギョ・オ♡〉
「……人形。食事をつくりなさい」
雫石は自分に樹液を飲ませてくれた元老婆に指示し、ツナとアスパラのトマトスープを作らせた。
星は瞬きつつ、天を巡る。
〈ねえどんなコスメがいい?〉
食事を済ませた雫石に虚病姫が尋ねる。〝人形〟たちは食器を洗う元老婆を除き、既に別の〝仕事〟に移っている。
(化粧なんてしたことがないのでわかりません。そこにいる老婆と同じ姿恰好で十分です)
その老婆の背中は先ほどと違い、コブができたように盛り上がり、脈打っている。
〈えぇ~マヨあんなの絶対ヤダ!やっぱりシズクちゃんを乗っ取ってやる~って、しまった!「封印されし言葉」を解放しちゃったからマヨの魔力素が全部シズクちゃんにとられちゃったー!!このヒトでなしー!うわ~んっ!!!〉
雫石はため息をつきながら虚病姫のたわごとに付き合う。
(外見なんてどうだってよくはありませんか?)
〈いいわけないでしょ!いい?シズクちゃんは女の子なんだよ!?女は生まれた時から美人コンテストに参加させられてるようなものなの!外見とか気にしないとダメだからね!スッピンでいられるのなんて若い今のうちだけなんだから!それに格好つけないとすぐに舐められちゃうよ!?〉
ォォォォォォォォ……
森のあちこちで幽かに上がり続ける悲鳴。それはヒトではなく、魔物たちのもの。
(先ほどあなたは自分が職人で、職人は技を追求することだけが生きがいみたいなことを言っていたではありませんか。技以外に恰好まで究めようとする職人なんているのですか?)
〈うっ!的確過ぎて言い返せないほどの鋭い返し……とにかくとにかく!マヨはセクシーな恰好のシズクちゃんが見たいの!!〉
「はあ、理解できませんが分かりました。私の異装はお任せします」
〈ラッジャーッ!!〉
雫石のボロボロの衣類が解れ、湯気のように立ち昇り、音符を象る青い光となって消える。喉から首元にかけて黒い痣が浮き、地面からモゾモゾと湧いてきた無数のミミズが雫石の身体を這う。それらは雫石の肌の上で絡みつくし、巻きつくし、埋めつくした挙句、やはり青く光り出す。光が鎮まったあと、極彩色の花魁姿の雫石瞳がそこにいる。
「……は?」
〈キャーッ!超似あうーっ!やっぱりマヨの見立て通り!マヨのお気に入りがぴったりんこ!!〉
「あなたはこんな格好をして人の世を彷徨っていたのですか?」
〈何さ!文句あんのっ!?〉
「はぁ、いいえ。何も文句などありません。ただ先ほどの切り裂かれたぼろ布服とこちらの服が共通して胸元が異常に開けていることに違和感を覚えただけです」
〈十分文句あんじゃん!それに開いたのはシズクちゃんの胸がマヨより大きかったから仕方ないの!わざと言ってるでしょ!アッタマきた!だったらさらしでもっと胸をギュッと……〉
「文句などないので、このままさっさと始めましょう」
花魁姿の雫石は元老婆のバクタルカを呼ぶ。腰の曲がったバクタルカが雫石の元に来る。
ギシュギシュッ!
老婆の肉が背中に移植された雫石の心臓を中心に盛り上がり、全身が肉の塊になる。そこにいくつもの耳が生じる。
〈そうだね。マヨが大好きでシズクちゃんもきっと心が躍る〉
「壊滅というやつを」
地響きがする。狩猟における猟犬となって魔物を誘導したバクタルカのおかげで、森中の魔物たちが雫石瞳のもとにどんどん逃げ走ってくる。
スー……
耳だらけの蓄音鬼の隣。雫石は大きく息を吸いながら、自分に向ってくる魔物たちのために再び、歌を謡った。
ignis volare