第二部 歌神香児篇 その十九
魔獣蛸「プハ~、みんな~ごめんね~」
魔獣竜「大丈夫かソフィー!?」
魔獣蛸「ゲーしたエリクサー飲んだらダイジョーブになった~」
魔獣姉「それにしてもソフィーの攻撃を今の今まで凌ぎ続けたなんて、強すぎるわトナオ」
魔獣蛸「っていうか小さくなったら~もう近づけなくなった~」
魔獣妹「巨人やめたらもっと強いってこと?そんなの超ズルい!」
魔獣竜「ソフィーの寝技も神杭トライデントも届かないということは、硬くて速いということか!」
魔獣姉「まるでマソラのマソラね」
魔獣蛸「あの二人が邪魔するから~ダイヤモンドカッターできな~い」
魔獣姉「トナオの顔の左右についているアレね?見た感じ、トナオと同じアダマンタイトゴーレムの女ね。だって三人とも蒼いもの」
魔獣妹「ちょっと似てるからきっと、姉妹か親子だと思う!」
魔獣竜「あっ、何か始まったぞ!日本刀の先がゆらゆら揺れている!みんな気を付けろ!」
魔獣妹「目が離せないよ!ん?何か変!お姉ちゃん気を付けて!ってもう寝てる!起きてお姉ちゃん!!」
魔獣蛸「剣が宙に回って~大きく円を描くと~ネムネムになる~」
魔獣竜「起きろイザベル!まだ円を描き始めたばかりだぞ!」
魔獣姉「これは催眠術ね。少しの間記憶がないけど、実はかかった振りをしていただけよ。母親ゴーレムは後回しにして娘ゴーレムをやるわ!」
魔獣二人「分かった!」「オッケーお姉ちゃん!」
魔獣蛸「待って~ダメ」
魔獣竜「どうしたソフィー!なぜ止める!?」
魔獣蛸「あのネムネムゴーレムはダメ~」
魔獣妹「どうして!っていうか刀を鞘にしまったまま抱きしめて寝てるのアレ!?」
魔獣二人「まるでマソラの抱き枕を抱いて寝ているモチカね」「な!?なんでそのことを!」
魔獣蛸「違うの~。近づくと剣で撫でられて~斬られる」
魔獣竜「まさか……居合斬り?」
魔獣蛸「マソラ様が前にそう言ってた~。イアイは先に抜かせてから攻撃するんだよ~って」
魔獣姉「要するにマソラを先にヌけばいいのね?」
魔獣竜「冗談を言っている場合かイザベル!なんてことだ。催眠剣に居合斬り。しかも正面のトナオはトンファーを構えてるぞ!」
魔獣妹「遠近両攻撃に対応していて、しかもトナオが攻撃を防ぐ盾ってこと?」
魔獣蛸「そ~。でもまだある~」
魔獣三人「「「?」」」
カキーンッ!!! ドォゴォォォーン……………
魔獣蛸「アダマンタイトノック~」
魔獣三人「「「!!」」」
魔獣蛸「昔みんなで野球やってたあれ~。トナオの打つボールはお腹に当たるとゲーしちゃう~」
魔獣三人「大丈夫かみんな!おいっ!山のてっぺんが消し飛んだぞソフィー!!」「アダマンタイトのボール早すぎ!!」「やるじゃない。鬼人族のタクロの股間にデッドボールを当てて失神させたのを思い出したわ」
魔獣蛸「玉突き事故~」
魔獣竜「ソフィーまでくだらない冗談を言って………だが、オーガのタクロか。懐かしいな」
魔獣妹「そだね。……みんな、いなくなっちゃたからね」
魔獣姉「妹たち。湿っている場合じゃないわ。湿らせるのは股の下だけで十分よ!」
魔獣竜「はぁまったく。だがイザベルの言う通りだ!我々は立ち止まっているわけにはいかない!!」
魔獣妹「トナオごめんなさい。でも絶対にあなたを倒す!」
魔獣姉「そうよ。そうに決まってる。かつての仲間だとしても関係ないわ。なぜなら」
魔獣蛸「マソラ様に刃を向けたから~」
18.白鳥の歌「愛詩譚」
乾季の終わり。夜更けの暗闇は少しずつ明るくなり、けれど雲が風に乗って流れてくる。
ディシェベルト国。エスメラルダス原野を見下ろすエディアカラの丘。
正確には、原野を見下ろしていた元、丘。
現在はエディアカラクレーター。
成層圏から落とされた10トンのアダマンタイト塊により地形は一変し、落とした当事者の男が造った神殿も時計塔も闘技場も熱と衝撃波で溶けて跡形もなく吹き飛んでしまった。
男。
ナガツマソラ。
元召喚者の男。元人間族の少年。
左手首に腕時計、右手首にミサンガ。白のカットソーに黒のワイドパンツ、黒のグルカサンダル。黒髪ショートで前髪は長め。菫色の瞳。
現在、魔力素の塊。「波」のような、「星」のような、「無」のような、「闇」。
その闇は地下二千メートルのアダマンタイト層からようやく本体を表し、女の前に立つ。
一方の女。
シズクイシヒトミ。
元召喚者の女。元人間族の少女。
現在、裸形の歌姫。
「封印されし言葉」により解放した虚病姫を全身に共生させている、生物。
美しい全裸の白い体に無数の口器を発生させている。口器は全員で同じ呪文を同じタイミングで言うのを止め、一文字ずつ言うことで瞬間的に歌魔法を発動しようと企んでいる。相手を即死させようと構えている。
その歌姫の「爪」となり「盾」となり「翅」となる煤灰が、虚病姫。歌神。
「?」
雫石瞳と虚病姫が一瞬、戸惑う。
「ストリップショーも悪くないけど、よかったら二人もしくは三人で食事でもどう?」
火を燻り上げる、クレーターの中心。
パチンと指を鳴らしたナガツマソラの後ろにはガラスでできた円形のディナーテーブルがある。絹のテーブルクロスの上には銀色のクローシュで中身を隠された料理皿がいくつもある。
そして給仕係が二人。
雫石も虚病姫も知らない人間族と思しき男女。
白のシャツに黒のギャルソンベストとソムリエエプロンを着用した男女が控えていて、心得た表情の男が椅子を引き、女が優雅なジェスチャーでマソラを椅子へと招く。
「管弦爆弾」
マソラが椅子に座る直前、ナメられていると感じた雫石が苛立ち、衝撃波を放つ。五つの口が同時に動き、衝撃波発動までの時間は0.02秒。
キキッ。ボンッ!!
けれど給仕係の二人の首は既に機械的に90度急回転しいて、給仕する姿勢のまま、同じく口から衝撃波を放つ。同じ振動数の波同士がぶつかる。球面波の干渉により強め合う波が大地をさらに割るが、ディナーテーブルに届くのは弱め合う波。よって、テーブルもクロスも、きれいに並べられた食器類も燭台も、どれ一つ微動だにしない。
「……」
給仕係が少なくともアダマンタイトで出来たドールに相当すると雫石は理解する。彼女の周りを舞う虚病姫が完全に黙る。分析に集中する。
「おいしそう」
座席についたナガツマソラは、給仕係の男女が半球のクローシェを持ち上げて開いた料理を見て静かにほほ笑む。
ズッキーニのサラダとミラノ風カツレツ。
レモングラス風味のエビのロースト。
鴨のコンフィとパテ、そしてスライスされた全粒粉のカンパーニュ。
「エビのローストは久しぶりだ」
ガラス製の椅子に腰かけ、ナプキンを折りたたみ、膝の上に載せるマソラ。
雫石が転移魔法で切り刻みに動く。
ただし、灰はついていかない。余裕過ぎる敵の様子に、罠以外の何も想定できず、動けない。どのような罠が仕掛けられているのか想定できない。
虚病姫はただ、黙っている。注視している。翅と爪だけになった口だらけの歌姫がどうなるのか凝視している。
ガキンッ!!
柱のように長いペッパーミルを持った給仕男が雫石の黒い灰爪をミルで受け止める。
転移先を予測されたことを虚病姫は離れた所で知る。衝撃波の干渉も含めて、ますます黙考する虚病姫。
「邪魔をしないでいただけますか?」
あと数センチでナガツマソラの首に届く距離にいる雫石がミルを握る給仕男に冷たく言い放つ。
「ヒトミ。乱暴はだめよ」
クローシュをさりげなく開いている給仕女の声で、雫石が大きく目を見開き、石像のように固まる。
給仕女の顔を必死に見ようとする雫石。けれど目の前の給仕男のせいで見えない。
「すまなかった」
その声にさらに驚いて雫石が男の顔を見上げる。全身が崩れるほどの衝撃が雫石を襲う。
「……パパ?」
「それとついでに、ママだね」
ナガツマソラはズッキーニをボリボリほおばりながら残酷に答える。
「それにしてもこのズッキーニ。きめが細かくてほんのりとした甘みがあっておいしい。ドレッシングがオリーブオイルとレモンと塩コショウだけっていうのもいいね」
「恐れ入ります」
給仕女はそう言うと頭を下げ、雫石の方へと歩いていく。テーブルをぐるりと回り、口器を一つずつ消していく裸形の女の方へと後ろから近づいていく。
(まさか……)
虚病姫は最悪の事態を想定し、念のために確認する。けれど〝それ〟は起きていないことを確かめる。
(しかし……)
起きないとも限らない。もしかしたら起こせるのかもしれない。
「管弦素配列変換」
灰を凝集させて虚病姫は攻撃準備に入る。
「人間はどうして言葉を話せるようになったのか、考えたことはある?」
仔牛肉のカツレツをフォークとナイフで切るナガツマソラが問う。
「和音転回、境界旋法リンフォルツァート」
虚病姫が凝集させた灰から強烈な音波を放つ。大地も空気も揺れる。
「クーラント属和音。具象化破壊」
しかしディナーテーブルの上から声が上がり、虚病姫の歌魔法が消滅する。クレーターの縁から外へ向かい、大地に亀裂が走る。放射状に数キロ伸びた亀裂から水が噴きだし、凍り付き、蒸発する。
テーブルの上。
歩いていた給仕の女がさりげなく持ち上げたクローシュの下から出てきたのは雫石そっくりの女の生首。その横倒しになった生首がとろんとした目のまま「イコノクラスム」と告げ、歌は消えた。
当の雫石本人は生首など気づかず、父親そっくりの人形に抱き着いて哭いている。身も世もなく泣いている。給仕女が後ろから近づき、雫石を背中から抱きしめる。
もう、雫石に黒い爪はない。斬撃用の爪はボロボロになって崩れ落ちている。
それどころか元の爪まで落ちて、生爪のあった場所から血が零れる。激しい泣き声がクレーターを包む。
「やれやれ。歌姫の鳴き声はすごいね。振動が大きすぎてパルミジャーノの混じった衣がカツレツから落ちちゃうよ」
すると給仕係の男女が雫石の耳元でささやく。雫石の大好きだったアニメのテーマソングのマーチを聞かされ、雫石は泣き叫ぶのを止める。血の涙だけがとまらない。給仕男も雫石も血まみれになっている。それを給仕女が拭う。
(具象化破壊まで複製した!?この短時間で?ありえない!けれど生首がこうしてある。アレは間違いなくシズクイシヒトミの細胞でできている。つまりナガツマソラはシズクイシヒトミの細胞複製には成功している。まさか記憶の複製までできるというのか?)
虚病姫に焦りが生じる。
「「言葉」の始まりはね」
薄く伸ばしてあるカツレツを噛み終えて飲み込むマソラが別のナプキンで口を拭いて話し始める。泣きすぎてしゃっくりをする雫石を、もう一つの席に座らせる父親。自分のギャルソンベストとソムリエエプロンを脱いで娘の局部を覆い隠す母親。目を細めたまま「アヴェ・マリア」の口笛を吹きだす皿の上の生首。
「「歌」なんだよ」
「管弦素配列変換!」
本気で謡う歌神。
「言葉をもたない遥か昔、人は小さく群れ集まって、狩りをしたり食事をしたりしていた。そのときに、歌詞のない、メロディーだけの歌を歌っていた」
言いながらエビのローストの皿を自分で引き寄せるマソラ。
頭部を落とし縦に切られたブラックタイガーは焼かれ、干しエビとニンニクと唐辛子入りの魚醤とレモングラスを纏う。
その香りを鼻一杯に吸い込むマソラ。悦楽の表情を浮かべる。皿の上の生首のように。
「調律曲殲。喘音音怪マルツィアーレ!」「インテルメッツォ終止形。具象化破壊!」
歌神が呪い、口笛を止めた生首が叫ぶ。
マソラは表面の一部にかすかな焼き色のつくエビを手づかみでほおばる。
呪音が光に変換され、クレーター内部を七色の光が埋め尽くす。はじける。飛び上がる。落ち込む。太陽のように輝き、クレーターの外へと放射される。
「狩りにしても食事にしても、〝みんなでやる〟ことでしょ?だから狩りの時に歌う歌にも、食事の時に歌う歌にも、「みんなでやる」っていう文脈が入る」
「管弦素配列変換!」
「狩りの歌と食事の歌の両方に同じフレーズが入っていれば、そのフレーズが切り取られて、浮かび上がって聞こえてくる。つまり「みんなでやる」っていうメッセージを伝えることができるんだ」
「振動子狂融。連続調律アパッショナート!」「パッサカリア変終止。具象化破壊!」
呪音が数字と文字に変換される。クレーターの窪み全域にアルゴリズムが刻まれる。
「そういう集団で育った子どもにとって、狩りの歌と食事の歌で登場する共通のフレーズは「みんなでやる」っていう意味の単語になったんだね。こうして言葉が生まれた」
歌神の苛立ちが募る。同じタイミングで歌をキャンセリングする、皿の上の生首歌姫。
(ただの模造品じゃない!確実にシズクイシヒトミの記憶を握っている。歌のキャンセリングは確かにあの娘の記憶に全て刷り込んである。ではどこまでコイツはシズクイシヒトミの記憶を握っている?)
「とすると、今度は言葉を生んだ「歌」の起源とは何かって話になるよね?」
ナガツマソラはエビを掴んでいた手をナプキンで拭き取り、口を拭き、食べ終えた皿を自分の手前からのける。
(だが恐れることはない。私の記憶までは辿れないはず)
「管弦素配列変換!」
「歌の始まりとは何か?歌の魔法使いだったら一度は考えたことがあるかもしれないね」
菫色の瞳が歌神を直視する。
「いや、考えたことなんてないか。せっせと頑張って「歌」という現象になっただけの冥級魔術師ごときじゃ」
瞳の中、底の知れない闇のような瞳孔が広がる。
「そうでしょ?溝呂鬼万葉」
「……」
突如真名を暴かれ、呆然自失となる虚病姫。
皿の上の生首レプリカが嬉しそうに口笛を吹き始める。
曲はバッハの「シャコンヌ」。
(小娘に私の真名は明かしていない。では、記憶ではなく心を、読まれている?)
壊れた電算機のように、かろうじて演算をくり返し状況を把握しようとする歌神。
「そうだね。ある程度は読めるようになった。バイオフォトンって言ってね、生物はみんな生きているだけで身体から熱と一緒に微量の光も出しているんだよ。それがお前たちの場合ムダに強いから波長を読みやすい。その光の波長とその時々の言動で、ある程度だけど心は読めるよ。でもある程度だからあまり期待してないけどね」
(生命体の出す光の波長を言語に変換……魔胴師ミラヴィリスの秘儀までも……)
魔胴師に興味のないナガツマソラは「それでね」と話を戻す。スライスしたカンパーニュに手を伸ばす。鴨のパテをたっぷりと塗る。
「歌の始まりは何か。それは〝叫び〟なんだ。例えばネズミの子どもは巣から転がり出ると超音波を出す。母親が子どもを救出するまで、子どもは何度も続けて超音波を発生させる」
「パパ。またポニーに乗りたい!」「うん。また乗ろう。それと今度はヤギにちゃんとニンジンあげられるといいな」「ヤギこわーい!」「ヒトミは怖がりだな。ははは」
雫石の肉体は既に崩れ、二つになっている。五歳児の一人は父の膝の上にいる。
雫石瞳:Lv100(細胞軍隊)
生命力:20000/20000 魔力:23499/30000000
攻撃力:500 防御力:9000 敏捷性:400 幸運値:7000
魔法攻撃力:70000000 魔法防御力:50000000 耐性:――
特殊スキル:月属性魔法
「あるいは鳥のヒナはお腹が空くと声を出す。この声は親が餌をあげるまで続く。つまりどちらの叫びも母親を近づけさせるという機能がある。これを男が真似し、叫ぶことで母親を呼ぶ。呼ばれた母親を〝女〟にして、子どもを産ませる」
「ママ。イチゴとってまた一緒に食べよう!」「イチゴ狩り、楽しかったわね。また行きましょ」「ブドウとって~おソバ作って~」「ヒトミったら食べ物のことばかりなんだから。ふふふ」
もう一人の五歳児は母に抱きつき顔をこすりつけて甘えている。
歌姫の細胞はもう、〝歌姫〟を維持できていない。
封印されていた雫石瞳の思い出が、過去が、雫石瞳の細胞を支配している。
雫石の細胞のことごとくに寄生している虚病姫の細胞はただ、〝過去〟に振り回されるがまま。
五歳児の少女は敵を爪で引き裂くことも、敵を歌で斃すことも望まない。
ただ、父と母の愛情を一心に浴びたい。
人生が壊される前に戻りたい。
過去に浸っていたい。
それを、パテを塗ったカンパーニュをほおばり咀嚼しながら、〝闇〟は見ている。
「叫ぶことで子は母親を呼び、生き残る。叫ぶことで男は女を呼び、子を残せる。身を護るために女も男もみなで集まり叫び続ける。獲物を横取りされないようにするために老若男女みなで叫び続ける。叫び続け、鳴き続けることで、歌は生まれていったんだよ」
「それが、どうしたのん?」
真名がばれた灰は、灰を使い、かつての、自らの姿を模す。
黒の唐衣裳。すなわち喪服のような十二単。
地に達するほどに長く艶やかな漆黒の髪。
剃った眉、涼しげな眼。その眼元も唇も、紫貝の殻と青金石を粉末にした青紫の化粧で彩られている。
「どうしたのだって?それが〝全て〟だよ」
五歳児二人になった雫石に首を向けたまま、ナガツマソラが寂しげに微笑む。
「俺は謡う」
過去に戻りたいとすら思わない〝闇〟が、十二単の虚病姫に視線を戻す。
「お前の「白鳥之歌」を」
最後まで開かれていなかったクローシュにマソラ自身が手をかける。バッハのシャコンヌが止まる。空間の一切が静寂に包まれる。
「痛奏諦音」
〝闇〟の放ったその音波が鼓膜を振るわせた瞬間、虚病姫の頭が再び真っ白になる。
「愛詩譚」
クローシュの中に亜空間が口を開ける。歌神の心臓が口から飛び出しそうになる。
(馬鹿な)
クローシュを持ち上げると同時に亜空間が閉じる。歌神の胃腸が芯まで冷たくなる。
(ありえない)
虚病姫のみが展開できる亜空間カルミナブラーナ。
そのアクセスのための禁厭をナガツマソラが口にした結果、クローシュの中の皿の上に、脳髄が出現する。
黒い網のかかったような脳。
虚病姫本体が被膜のように表面を張り巡る、雫石の本物の脳。
歌神の弱点と、雫石の弱点。
「!!!!」
それまで幼稚化していた雫石の肉体二つが急変し、ナガツマソラにとびかかる。五歳児の細胞に寄生していた原生生物が防衛本能だけで魔神にとびかかる。
カチチチッ。ポ。
氷核細菌と高圧性細菌を隠していた二体の両親的人形は五歳児の愛娘的肉体を凍らせ、彼方へ吹き飛ばす。
「歌は叫びから始まる」
ナガツマソラは鴨のパテを塗ったカンパーニュを咀嚼し終え、〝手品〟の説明をする。
「俺はディナーの前のつまみに、雫石の指を食った。目的はお前の分裂体を手に入れるため」
そう言われて、虚病姫はナガツマソラが雫石の親指を食べた時のことを思い出す。
「バイオフォトンの話をしたけれど、普通の生物は病気の時でもない限り、脳から一番光を放っている。だけど雫石の場合、全身から常に等量の光が強く放射されている。つまり脳がない。というか雫石は全身の細胞で脳を構成している。いわば歩く脳。で、歩かせているのは雫石の細胞に寄生する原生生物。つまりお前。お前が雫石のすべての細胞に寄生して、細胞の接着とネットワークを調整し、全身を脳にしている」
「……」
歌おうか迷ったが、歌神は観念する。魔術師は諦める。膝を地につけ、静かに正座する。
溝呂鬼万葉:Lv100(唄謡)
生命力:1/1 魔力:1211/30000000
攻撃力:1 防御力:1 敏捷性:1 幸運値:1
魔法攻撃力:70000000 魔法防御力:50000000 耐性:――
「雫石の全身の体細胞に感染し、雫石の全身をわざわざ脳にしているのはなぜか。それは雫石の本物の脳を隠す必要があるから。そしてそこには必ずお前の本体がいる」
真珠色の螺鈿を散りばめた琵琶と撥を亜空間カルミナブラーナからゆっくり出す歌神。
戦うためではなく、締めくくるために。
ペンペンッ!
撥が弦を力強く弾く。
「問題は雫石の脳とお前本体がどこにあるのか。肉体を転移させられるほどの魔法使いだから、おそらくこことは別の亜空間に隠すだろうと俺は考えた。そうすると今度問題になるのはどうやってその亜空間を呼び出すか」
ペペンッ!
「亜空間の所持者はその所持者しか知らない呪文をもち、それによって亜空間を展開する」
(そうだ。それだけは絶対に読まれない!)
ペペペペペンッ!!!
「そう。心は多少読めても人前で一度も亜空間を展開していないお前から亜空間展開のための呪文を読み取るのは不可能。じゃあどうしたらいい?」
(どうしようもないはず!だから私は誰にも負けない!負けたことがない!!)
ペンペンペンペンペンペンペンペペペンッ!!
「歌わせればいいんだよ。お前の分裂体に」
(なに?)
演奏が止まる。
不意をつかれ、撥を落としそうになる虚病姫。
「俺は食べた雫石の指組織からお前の分裂体の細胞を抽出して俺の亜空間サイノカワラの中で培養した。寄生すべき宿主のいないまま強制的に癌のように際限なく増殖させられたお前の細胞たち。この分裂体たちは叫ぶ力をもちろんもっている。何せお前の細胞だから」
「……」
「だけど何を叫んでいいのか分からない。どうしていいのか分からないお前の分裂体たち。本来であれば亜空間カルミナブラーナに隠れたお前という本体から命令を受け取れるはずなのに、命令がいっこうに来ない。そりゃそうだ。分裂体がいるのは〝俺の〟亜空間なんだから」
……ペンッ
「そこでお前の分裂体は叫び始めた。俺という闇の中で」
(そういう、ことか)
ペンペン。
「叫び続けるうちにそれは歌になる。当然だ。もともと歌を本能的に知っている連中だから。叫びはすぐに合唱になる。すなわち呪文の連発が始まる。本体のいる亜空間を開くための呪文をいつか叫び始める。俺はその呪文を知るまで時間稼ぎをしていればよかった。以上。分かったかな?」
既にナガツマソラの背中から銀の蔓が伸びて正面に回っている。それが一か所に集まった虚病姫の本体にいくつも突き刺さる。
ペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンペンッ!!
本体。
アメーバ状の、握りこぶしほどの大きさの多細胞生物。
魔道の追究の中で「歌」を選び、人体を捨て終には現象と化し、時を経て何者かに歌われることで実体化し、思い付きで生物に寄生し、思い切って異世界に飛び込んだ魔術師のなれの果て。
ペペペンッ!
思いもよらず魔神に挑むことになった、歌神の終焉。
【カマドウマ】
〔満杯〕〔流転〕〔呪解〕〔充力〕〔渦魔導魔〕
「何か言い残すことはある?」
ペンペンッ!
「……こんな負け方だけは」
【カマドウマ】
〔〔満杯〕〕〔流転〕〔呪解〕〔充力〕〔渦魔導魔〕
「したくなかったなん」
ナガツマソラの魔力素を魂核に強制注入された虚病姫本体が霧のように薄れていく。五弦琵琶も、撥も、消えていく。
溝呂鬼万葉:Lv100(唄謡)
生命力:0/1 魔力:1211/30000000
攻撃力:1 防御力:1 敏捷性:1 幸運値:1
魔法攻撃力:70000000 魔法防御力:50000000 耐性:――
「こんな勝ち方しか俺には思いつかないから、仕方ないね」
闘いと共に食事を終えたナガツマソラは「ごちそうさま」と言って立ち上がり、雫石の脳の載った皿を手に取る。
「君たちも〝もう一歩〟が足りないんだよ」
万有斥力によって遥か彼方に弾き飛ばされた雫石の汚染肉体は四足歩行の獣のようにひた走りに走ってきていたが、ナガツマソラが虚病姫本体を〔満杯〕で破壊した時点で、肉体が崩壊。ナガツマソラとの距離二十メートルそこそこまできて、アメーバのようにドロドロと溶けて果てる。
「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。簡単に言えば「何をしてもムダ」ってところかな」
雫石瞳:Lv100(細胞軍隊)
生命力:0/20000 魔力:23499/30000000
攻撃力:500 防御力:9000 敏捷性:400 幸運値:7000
魔法攻撃力:70000000 魔法防御力:50000000 耐性:――
特殊スキル:月属性魔法
マソラのまだ体内にしまっていない銀の蔓がバラバラアメーバ残骸に向かう。
「ごちそうさまをしたばかりだけど、いただきます、と」
『命食典儀・魔蛆生贄』により銀の蔓が、死んだ脳無し肉体を吸収する。魔力をわずかながら回復させるナガツマソラ。
〈もしもーし!〉
そして〝闇〟は魔獣四人に連絡を入れる。
同時に四人のパラメーターが再び削られていることを確認する。歌神がいなくなってもトナオが止まらないことを音とニオイで認識する。処分したばかりの脳無し肉体同様、歌神による細胞汚染で元に戻らないことを受容する。殺らなければならないと覚悟する。
イザベル・ブッサル・ツヴィングリ:Lv86(魔獣)成長補正付与。
生命力:3900/9500 魔力:3565/6000
攻撃力:5600 防御力:6000 敏捷性:9000 幸運値:800
魔法攻撃力:4700 魔法防御力:3600 耐性:風属性
特殊スキル:武器転移、クサビラ、ゲロ
クリスティナ・ブッサル・ツヴィングリ:Lv85(魔獣)成長補正付与。
生命力:4703/9500 魔力:3666/5000
攻撃力:6600 防御力:6000 敏捷性:3200 幸運値:800
魔法攻撃力:4000 魔法防御力:4000 耐性:風属性
特殊スキル:武器転移、クサビラ、ダイエット
モチカ・ウリンレイ・シンラ:Lv71(魔獣)成長補正付与。
生命力:6680/11000 魔力:15230/34000
攻撃力:25000 防御力:10000 敏捷性:1400 幸運値:2000
魔法攻撃力:300000 魔法防御力:40000 耐性:光属性
特殊スキル:変身、ブレス、放電、クラビラ、洗髪
ソフィー・ティワカン:Lv48(魔獣)トライデント所有者。
生命力:200022/270000 魔力:2900/3000
攻撃力:100000 防御力:6700(変身時:20000)敏捷性:800 幸運値:85
魔法攻撃力:1000 魔法防御力:4400 耐性:水属性と火属性
特殊スキル:怪力、変身、転移魔法、ゲー
「ブッサル」や「ウリンレイ」のような〝ブースト〟は時間をあけないと再発動はできない。
加えて元蛸人族のソフィーは、そもそもクサビラを植えられていない。これはシギラリア要塞に残る鉱人族ギュイエンヌと同様、体内に強烈な干渉体がいるためだった。
つまりソフィーの場合は神杭トライデントの呪い。ギュイエンヌの場合は風の大精霊フルングニルという存在が体内にあるため、ナガツマソラは二人へのクサビラ移植を断念した。
〈よく聞いて。ヒルデガルトにこれから一度だけ、トナオに向けて狙撃させる。特殊な弾だから二度はない。チャンスは一度きり。それで仕留められなかったら四人とも終わり。催眠と居合と空手と野球でゲームオーバー。だから覚悟して戦って〉
連絡を入れながら、亜空間サイノカワラで増殖した虚病姫の分裂体細胞をいじるマソラ。
〈ヒルデガルト!いつまで死んだふりをしてる!〉
石の書ヒルデガルト:Lv100(意思を持つ魔道具。大精霊前駆体)
生命力:7/1000 魔力:99/300000
攻撃力:1000 防御力:9999 敏捷性:99 幸運値:999
魔法攻撃力:99999 魔法防御力:99999 耐性:火属性、闇属性、光属性
特殊スキル:召喚
〈たかが火災旋風で焼かれて「神の杖」の爆風を食らっただけだ!まだピンピンでギンギンに疼いているだろ!?例の弾を使う時が来た!起きろ!起きてとにかくアダマンタイトゴーレムに弾を当てろ!標的は小さくて速い!当てればお前の勝ちだ!〉
虚病姫の細胞から核DNAを取り出し、ゲノム編集をし、虚病姫のプラスミドDNAを使い、雫石の親指を食べることで手に入れた雫石細胞の核DNAに、虚病姫の核DNAを組み込む。歌謡いの能力だけを宿した雫石の細胞を創る。それを、増殖させる。
「いよいよ、お前の番だよ」
雫石の脳に、〝闇〟が語りかける。
「念じてごらん。光で俺はお前の〝声〟を拾えるから」
〈〈……なるほど、会話の手段というのは色々あるものなのですね〉〉
雫石瞳:Lv10(脳神経細胞及びグリア細胞)
生命力:600/600 魔力:10000/10000
攻撃力:1 防御力:1 敏捷性:1 幸運値:100
魔法攻撃力:1700 魔法防御力:5000 耐性:闇属性、水属性
特殊スキル:月属性魔法
「ああ」
雫石の脳波とバイオフォトンを検知したナガツマソラは答える。
〈〈それで、この後私はどうなるのでしょう?〉〉
「ちょうど財布が壊れて新しい革財布を作ろうと思っていたんだ。そのための革の鞣し用に潰して使おうかなって思ってる」
〈〈革の鞣しに脳ミソを使うとは知りませんでした〉〉
「あるいは食べるっていうのもいいかもね。雫石の指は食べたけれど脳はまだ味わっていないからポン酢でもつけて食べるのも悪くない」
〈〈私の頭はスッカラカンなので味の保証はできませんが、ポン酢ならたいていどんなものでも美味しくしてくれるでしょう。革鞣しでも試食でもお好きにどうぞ〉〉
「そんな状態でよくのうのうと言えるね。まったく」
ナガツマソラは呆れながら亜空間サイノカワラを再び展開する。岩ほどもあるダイオウシャコガイが召喚される。
グパァ……。
磯の匂いを放つ巨大な二枚貝が口を開く。ナガツマソラはその中に雫石の脳をそっと置く。さらに、遺伝子組換えをして増殖させた雫石の細胞塊をベチャベチャと亜空間サイノカワラから貝に流し込む。
〈〈一体これはどういうことですか?〉〉
「簡単に言うとペナルティーだね」
〈〈私を殺さないのですか?〉〉
「〝俺は〟殺さない」
〈〈ではこの謎の生物だか魔物だか分からない物体に食われて私は死ぬのですね?〉〉
「こいつは魔物じゃない。ただのでかいシャコガイ。特殊能力というかしたたかな能力が一つあって、体の中にいろいろな生き物を棲まわせるところかな。高校の生物で習った「共生」ってやつだね」
〈〈貝?私は貝と共生するのですか?〉〉
「〝お前〟の場合、共生とは限らない。寄生かもしれないね。どっちが宿主になるのかは知らないけれど」
中腸線、外套膜、心臓、生殖巣、触手、鰓、目、貝柱。
遺伝子の水平伝播、つまり形質転換が起きやすくなるように、ナガツマソラは新生雫石細胞をダイオウシャコガイの各組織に手でふりかける。
〈〈この大陸を滅茶苦茶にした私の処遇がこの程度で済むのですか?〉〉
そんな〝闇〟の意図など知る由もない元歌姫は、同級生は、無邪気に質問を重ねる。
「俺にとっては、マルコジェノバ連邦で人が何百万人死のうと、いくつの街や都市が破壊されようと、どうでもいい。どうでもよくないのはシータル大森林にある俺の家にちょっかいを出されること。俺の家に「神の杖」を落とした犯人を見つけるのが、この旅の目的。でもお前は犯人じゃなかった。だから俺にとっては別にお前が死刑になろうと拷問にかけられようと海中で孤独死しようとどうでもいいってわけ」
〈〈なるほど。永津君の考えを理解できました。つまり私に対する処刑法は海中での孤独死ですね?〉〉
「う~ん。たぶん孤独死は無理だと思うよ」
〈〈そうでしたね。宿主の貝と一緒か、ほかの海の住人と仲良く溺死といったところでしょう〉〉
「溺死するかどうかはお前次第。貝が宿主となるかもお前次第。自分の力だけで歌の魔法を使えるようになるかもお前次第。お前を仕留めようとする海の怪物に勝てるかどうかもお前次第」
ナガツマソラは雫石の細胞播種をやめ、ダイオウシャコガイから手を引く。
雫石瞳:Lv10(脳神経細胞及びグリア細胞)防御力補正。
生命力:600/600 魔力:10000/10000
攻撃力:1 防御力:10000 敏捷性:1 幸運値:100
魔法攻撃力:1700 魔法防御力:5000 耐性:闇属性、水属性
特殊スキル:月属性魔法、細胞融合、形質転換
〈〈海の怪物?永津君の飼い馴らしているあのオオダコのことですか?〉〉
「ノン。ハズレ。もっとはるかに強い〝怪物〟が海にはいるんだ」
〈〈それは永津君よりも強いのですか?〉〉
「たぶんそうだね。だから怪物に勝つのは無理だと思うよ。でも洗脳の歌の持ち主ならひょっとしたら乗っ取れるかもね。もちろん向こうもそれを恐れてお前を放ってはおかないと思うけど」
ナガツマソラはここで欠伸をする。雫石がわずかに沈黙する。
〈〈そういうことですか。つまり私にその怪物を倒させたいのですね〉〉
「まあそれが希望だけど、ムリだったら普通に死んでもいいよ。どうせ戦力外だし」
〈〈敗北しておいて恐縮なのですが、一つ大事なことを教えてください〉〉
「なぁに?」
〈〈その強い怪物を摂りこめば、私は永津真天を殺せますか?〉〉
「俺より強い怪物に寄生したんだから殺せると思うよ。ダメならまたもっと強い怪物に寄生して挑めばいいだけの話だし」
〈〈なるほど。少し楽しくなってきました〉〉
「良かったね。希望は人を楽しくさせる。まずは水圧に耐えるための歌からマスターするといいよ」
マソラはダイオウシャコガイに軽く電気を流し、口をゆっくりと閉じさせる。雫石の脳が二枚貝の奥に消えていく。
〈終わった?〉
〝闇〟が五人に問う。
〈はぁはぁはぁはぁ……どうだ見たかぁ!ちゃんと当てたぜ!へぇ、へぇ、へぇ〉
死にかけの狙撃手ヒルデガルトが言葉を返す。
〈マソラ様!勝ちました!!〉
元風人族の双子の妹クリスティナも返事する。
〈動きが止まった一瞬で形勢逆転よ!見てたわよねマソラ?〉
元風人族の双子の姉イザベルが説明する。
〈本当に危なかったです!あっ、髪がごっそり斬られてる!〉
元竜人族の王女モチカの悲鳴が上がる。
〈マジで死ぬかと思った~〉
元蛸人族の奴隷ソフィーが感想を漏らす。
〈みんなよくやった。〝魔弾〟は効果抜群だったみたいだね〉
魔弾。
石の書ヒルデガルトが放った12・7ミリライフル弾。
被甲も薬莢もアダマンタイト製。
故にアダマンタイトゴーレムであれば受け止めて吸収するのは、訳ない。
ただし、弾頭の中にあるのは金属ではなく、まさかの香料。
アダマンタイトゴーレム自身が〝闇〟と一緒に店の工房で香水を作っている時、誤って調合してしまった香料と同じ成分のもの。
通常のアルデヒド濃度を十倍にして作ってしまった香料は、トップノートから残香に至るまで、ローズとジャスミンの香りが、どこまでも伸びる曲線のように滑らかに続く。
「これは世界を変えてしまう匂いだから世には出せない。でもお前は本当に天才だね」と〝闇〟に褒められた一品。濃厚で、印象が強く、さわやかで純白の輝きを秘めた匂い。
鼻の悪い羊人族の未亡人セブが「良い匂い」と珍しく喜んでくれた一品。豪華さは全くないが、きわどい奇抜さも感じられない匂い。
以来、トナオと離れ離れになって死ぬまでセブがつけていた香水。滑らかで、重厚で、余計な装飾のない、完璧な構成と質感を携えた匂い。
世界が違えば「皇妃エカテリーナの花束」と呼ばれた一品。あるいは「ナンバー5」と呼ばれる香水。
それが、アダマンタイトゴーレムの時を止めた。
トナオの装甲をなすアダマンタイト粒子が香水成分に集まり、装甲が失われる。
アダマンタイトゴーレムの心に立つ人々。
ため息をつきながら帳簿をつける羊人族セブ。
指じゃんけんをする鬼人族五人。タクロ。コレヒド。ラワーグ。プミポン。バゴー。
鮮烈な芳香の香児三人。ナコト。エピゴノス。ルルイエ。
一緒に競うように大飯を食べた魔獣四人。イザベル。クリスティナ。ソフィー。モチカ。
全てを教えてくれた〝闇〟。ナガツマソラ。
それらすべてが、トナオの面影に立った。
そうして失われた時を心が彷徨っているうちに、武器を握る六本の手足は魔獣の戦斧と十字槍で切り落とされ、三つの心臓は魔獣のフルーレと杭で突き破られた。
トナオも、そのトナオと融合させられていたアダマンタイトゴーレムの母子オーフスとリエパーヤも息絶えた。
〈本当にご苦労様。さっそくだけどトナオを持って移動するよ〉
〈このままこの地に埋葬するのではないのですか?〉
〈まさか。有能なトナオにはまだまだ仕事がある〉
〈仕事?〉
〈ああ。仕事だ。バラした体も全部持って、デカいイモムシの所へ集合〉
〈マソラ。石本が死にかけてるけどどうしたらいいかしら?〉
〈イザベルの隠し持っているエリクサー入りのマカロンを全部上げて〉
〈う……了解〉
右手のひらに開いた亜空間サイノカワラ。
そこにダイオウシャコガイを吸い込んだナガツマソラは亜空間を閉じ、テーブルに置いてある雫石の生首レプリカの髪をひっつかむ。
「さてさて。同級生も拉致ったし、芸者も弟分も薔薇も粘菌も殺したし、最後は楽しく年寄り虐めといきますか」
左手のひらに開いた亜空間ノモリガミ。
それで父母役の人形二体もテーブルもイスも食器も料理も何もかも一瞬で吸い込みながら、〝闇〟は褐色に変色し硬化しているはずのバフォスカイコガを目指し、クレーターを登っていった。
vociferamini