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天球を穿つ  作者: 有間ゆう
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 3話 望友の岩

「あ、氷匠(ひょうしょう)ちゃん!こん!ばん!は~」


 飛脚(ひきゃく)が三段跳びの要領で部屋の入り口へと飛んでいく。

 僕が架橋(かきょう)鶴嘴(つるはし)にひとしきりコテンパンにされ、傷心を枕にソファへ倒れこみ、僕がここへ来る前のように二人が一局打ち始めていた頃だった。入り口の方を見てみると、体の小さな燻狼(くんろう)が飛脚に抱きかかえられてあたふたとしていた。ひとしきり抱擁が済むと、二人は手をつないでこちらにやってきた。


燠読み(いくよみ)さん、紹介するね。この子は氷匠ちゃん。ん~いい匂い」


 今度は後ろから抱きつき、氷匠のもじゃもじゃに膨らんだ髪に顔をうずめていた。氷匠はもどかしさと恥ずかしさが混ざりあったような、見たことのない形にその口角と眉を歪めていた。しかし、抵抗はしていなかった。無駄だと理解させられてきたのだろう。

 僕は彼を救出するべく、強引に言葉を探した。


「氷匠ってことは、あなたがこの館を作った―――」


「い、いえ。この館を作っているのはわた、わしじゃなくて、もっと凄い師匠がいて、それで、わしは、その、小物とか装飾とか、誰でもできるようなことをやってて、勉強させてもらって、ます!」


 僕が言い終わる前にかなり食い気味で氷匠はそう答えた。所々詰まりながらも芯のある声で話す氷匠からは、謙虚さと、強く裏打ちされた自信が感じられた。


「あの凛々しい像やこの可愛らしいテーブルとかが彼の作品さ」


「ま、粗野な爺さんには作れねぇ代物だな」


 鶴嘴と架橋は自慢気にそう言った。

 確かに、僕らがチェスをした雪の結晶の形をしたテーブルは、実用性と可愛らしさを両立した素人目に見ても素晴らしい作品だ。氷の特性を活かし、テーブルの裏に模様を掘りそれを透かすことでテーブルとしての使い勝手を十分に確保している。底が十字の脚は、滑らかな意匠で飾られていながら、おそらくは十分な強度を持っている。さすがに使い込まれているだけあり、所々に凹みや氷の曇りが目立つが、それもこのテーブルが氷館を訪れる狼たちから高い評価を受けていることの証明だ。


「師匠は粗野ではないです!師匠は、その、わたしみたいな表面的な装飾よりも、光とか音とか風とか、そういう難しいものを自在に操る、人と自然のことを考えた、本物の建築をする、えと、すごい人なんです!」


 氷匠がポコポコと架橋の膝を叩く。「わかったわかった」となだめる架橋、「やっちゃえ!」とはやし立てる飛脚、それを微笑ましく見守る鶴嘴。

 なるほど。彼らがこの部屋で、このテーブルでチェスをしながら一夜を過ごすのはこれが理由なのだろう。きっと自信というのはこうやって育まれていくものなのだ。

 僕は硬いソファに座り直し、彼らの日常をただただ眺めたいた。






「そんでよ!二人でこいつ引っ張り上げたらこいつが」

「う、うで、幸せ、あああ!!」

「って飛脚に抱かれながら大泣きしやがって」

「待て待て、待ってくれ。それは大げささ」

「いいや~あたしはこの腕の中で、確かにあなたに愛を叫ばれたよ」

「やめてくれ、、、アンタら二人してウチの見栄を剥がさないでくれ」

「一人だけカッコつけて、せ、先輩風吹かすのが悪いです!」

「さすがに古参なだけあって経験が豊富のようだ。頼りにしてますよ、センパイ」


 あさぼらけの天に、僕の短く甲高い悲鳴が響き渡った。

 夜が明けるとすぐに、僕らは氷館の近くにある林を散策し始めた。遠征前の4人の習慣らしい。普段は目的もなく新しい道を開拓しながら歩くのだが、今回は僕に見せたいものがあるようだ。山道を木にしがみつきながら登り、坂を滑り降り(実際には滑り落ち)、しばらく歩いた先に軽く見上げるほどの大きさの岩が三つ並んでいた。


「三つ岩、到着なのです!」


 氷匠は跳ねながらこちらを振り返り、大の字になってウキウキで三つ岩を紹介した。そのしぐさは可愛いが、もう少し名前にひねりが欲しいとも思う。真ん中の岩が左右の岩よりも高く、見方によっては腕を組んでいる人の上半身に見えなくもない(途轍もなく肩幅の広い巨人ということにはなるが)。そうなると、巨人岩?腕組岩?ああ、自分のセンスがイヤになってきた。

 そんなことを考えている間に4人はすでに三つ岩の両腕を伝い、上まで登っていた。「はやくはやく〜」と飛脚が急かすので、慌てて登る。岩の質感は思っていたよりも脆く、剥がれた岩肌が砂のように細かな粒になって僕の両手に引っ付いた。僕は岩になるべく傷をつけないよう、慎重に、慎重に登った。

 三つ岩の裏は土砂崩れの跡が残る急斜面になっており、窓のように開かれた木々の隙間から故郷とその周辺が一望できた。


「奥の扇が居住区で、中央の大きな建物が聖堂、手前のーーー」

「ごちゃごちゃしてるのが作業区だよ」


 そう鶴嘴と飛脚が説明してくれた。

 高いところから見下ろす景色は新鮮で、一晩中チェスをして鋭利になっていた頭の中をほぐすにはちょうどよかった。とはいっても、何か劇的に美しいものが見えるわけではない。ここから見えるものといえば、故郷と、雪と氷に覆われた森と、所々岩肌の露出した斜面くらいだ。それでもこの風景は僕の胸に特別な温かさを残してくれた。


 ぼんやりと故郷とその周辺の地形を眺めていると、故郷の左にある森に一部、雪が薄く溶け、星の光を反射している場所を見つけた。「あの光ってる場所はなに?」と尋ねると、「ありゃ『星だまり』だ。小せぇやつだがな」「あたしたちにとっての生命線だね」と二人が教えてくれた。

 僕は昨日星の子からうけた膨大な量の講釈の中から、星だまりについての解説を思い出した。


 僕たち燻狼は熱を動力に動く生き物だ。熱は運動や傷の回復によって消費されていく。また、単純に気温の低い場所にいることでも徐々に体内の熱量は減少していく。つまり、この極寒のフロウ山周辺で生活している僕たちは、何もしていなくても常にじわじわとダメージを受け続けているということだ。そうやって生きているだけでも熱を消費していく割に、僕たちが熱を補給する手段は限られている。その中で最も一般的で現実的な方法は、星だまりと呼ばれる星の光が強く照らす場所で星の光を浴びることだ。疲労感も外傷も、星だまりに行って星の光を浴びて休めば大抵何とかなる。僕が良い例だ。故郷に来たときほとんど消滅しかけていた僕も、数日で元気にフロウ山に挑んでいる。それほどまでに星だまりの効果は絶大なのだ。だからこそ、燻狼にとって星だまりの存在は『生命線』なのだ。


「一口に星だまりといっても強さや大きさ、それと星が出ているタイミングや長さなど様々さ。あれは小さいうえに短時間すぐに弱くなるから、星だまりとしてはイマイチさね」

「ていうか、カスだね」

「まぁ、ぶっちゃけあの辺りの星だまりだと故郷のやつが完璧なもんだから、他はいらねぇって評価になっちまうな。あんなんでも山ん中にありゃ助かるんだが」


 大きさに性能に位置までも不合格の評価を受けた星だまりに同情してしまう。立派になれよ。


 僕たちは三つ岩の上に座り、あるいは寝そべり、のんびりと星がその明るさを増していく様子を眺めていた。うっすらとオレンジ色だった星が徐々に星らしい白い光に変わっていった。刻一刻と変化する雪林の凹凸がでたらめにその光を反射し、早朝の海のような波打つ陰影を作り出していた。星の少ない遠くの天は濃紫色に妖しく、寄せ付けない暗さを放っていた。時折吹き抜ける軽やかな風が木々を揺らし、枝葉に引っかかっていた雪がはらはらと零れ落ちた。

 初めてできた友人と眺める夜明けは、陳腐な表現だが、とても美しく感じた。

 僕はここを『望友の岩』と呼ぶことにした。



 ひとしきり天の変化が落ち着くと、氷匠が、


「あ、そろそろ時間なのです。わしはここで失礼します」


 と切り出した。三人はそれを引き留めるでもなく、軽く手を振って見送った。僕もそれに倣って氷匠を見送り、その姿が見えなくなってから尋ねた。


「時間って?」

「そりゃ仕事の時間さ。氷匠はあの氷館を造っている狼の一人だからね」


 造っている?そういえば時々言葉の端が気になることがあったが、ひょっとしてあの館は今も建造中なのか。正面があれだけ立派に造られていたから気が付かなかった。エントランスホールから館の西側へと向かう通路が封鎖されていたのはそういうことだったのか。

 僕が内心で納得していると、隣に座っていた飛脚が勢いよく立ち上がった。


「よし!あたしたちもそろそろ戻ろっか!」

「だな」

「お参りもあるからね」


それをきっかけに僕らは岩から降りて、氷匠に追いつかないように少しだけ回り道をして滝壺に戻った。






 館は朝の強い星明りを受けて、昨夜は忍ばせていた煌びやかな本性を見せていた。装飾の一つ一つ、凹凸の一つ一つがそれぞれに命を持っているかのように光を反射・屈折・透過し、地面に光の濃淡による複雑な模様が生まれていた。炎のような氷柵は、急かすように生き生きと僕らを館の入り口まで導いた。ちらりと厩を見ると、昨夜は3頭だったロドの数が一目では数えられないほどに増えていた。10頭はいないくらいだろうか。僕ら以外の登山家たちもこの氷館に立ち寄っているようだ。人気のスポットというのは本当だったらしい。

 相変わらずドアのない入り口を通り、正面の曲線的な中央階段の間を通り抜けて氷瀑方面へと向かう。吹き抜けに吊るされた豪奢なシャンデリアは、どういう仕組みなのか、その尖った先端から光を発しホール全体を照らす。その光を受けた壁や柱、壁に掛けられた薄い長方形の彫刻、中央階段とそのねじり形のバラスターがそれぞれ光源となって隅々まで光を届けていた。


「氷匠がよく言ってるのさ、『師匠は光の魔術師なのです』って。このエントランスホールに来ると、それが大げさじゃないことが分かるさね」


 立ち止まって辺りを見ていると、鶴嘴が僕の隣に立ってそう言った。


「これは、もう、魔術師だね」


 僕は深く感動すると語彙力が無くなってしまうようだ。

 ところが、架橋と飛脚は慣れた様子でさっさと通りすぎて僕らを急かす。


「おいおい、凄いのはこっからだぜ」

「そうそう、凄いのはここからだ~」


 中央階段の下を通った先には回転扉が巧妙に設置されており、氷瀑方面へ出られるようになっていた。「お先にどうぞ」と言わんばかりに架橋と飛脚の二人がこちらに目をやる。僕は初めての回転扉に苦戦しつつもゆっくりと扉を回し―――


 無意識に吐息まじりの感嘆の声が漏れる。その庭園に漂う空気は館の華やかなものとは異なり、穏やかで多くを語らない神秘的なものだった。象徴的な氷石、流れるような氷粒、控えめな橋とプロムナード、視界を適度に賑わす造木。一つ一つが人の手で造られ、必然性を持って配置された人工物であるはずなのに不思議と人為が感じられない。道の先にあるフロウ山と氷瀑と一体となり、尾根も天も瞬く星すらも庭園の一部にしてみせている。星の子は館を自意識の結晶だと表現した。ならばこの庭園はその真逆、『調和の結晶』だ。この大自然の中にあってやや挑発的ともとれる氷館。その氷館と山、滝、あらゆる生命、無機物有機物の垣根を溶かし、寄り添うように包んで導く。匠の業とは違う、天使の息吹だ。


「いいもんだろ」


 またも言葉を失っている僕の背中を、後から来た三人が順番に背中を叩き、最後の架橋が自慢気にそう言ってきた。


「ああ」


 僕の頭の中には、そんな力の抜けた同意の言葉しか残っていなかった。



「皆さん、参拝ですか?あ、足元に気を、付けて、ください!」


 氷粒を熊手で手入れしている氷匠が声をかけてきた。庭を始めとする各種施設のメンテナンスが彼の主な業務なのだろう。その傍ら師匠から氷匠としての技術を学び、インテリアを作って経験を積む。後継者育成の理想的な環境といえた。今はまだ頼りない印象の氷匠も、ゆくゆくはこの館のように雪山の黒山となるような素晴らしい建物を造るようになるのだろうか。そんな未来を想像をしながら、館の方を振り返る。


「あれ、思ったより、、、」


 立体的で装飾的。まさに微に入り細を穿った正面とは打って変わって、館の裏側は味気なくのっぺりとした最低限の建築だった。氷瀑に向かって()()()型に作られている館の一辺は、まだ一階の壁を組んでいる段階で、周囲には大小様々な氷塊が座礁した船団のように無造作に横たわっていた。


「こっち側と西館は『鋭意制作中』ってヤツだな」

「言うほど鋭意でもないけどね」


 相変わらず厳しい飛脚の言葉を流し、僕らは庭園を通って氷瀑へと向かった。庭園は見る場所によってその表情を僅かに変化させた。石が一つ、木が一本、現れたり隠れたりするだけでも印象が変わった。段差によって巧く隠されていた短い桟橋に下りると、全てがより近く大きく感じ、自分の位置が分からなくなるようなくらっとした感覚を味わえた。きっと館に戻るときも、この庭園は全く違って見えるのだろう。そんな期待をしながら庭園を抜けた。

 そこからは小高い丘になっており、登りきると氷瀑の根元の近くまで行くことができた。そこには先客が5人いて滝に向かって祈りを捧げていたが、一人が僕らに気が付いて祈りを中断した。


「おっと、常連様御一行のご来店だ。席を譲るとするかね」

「悪いねー司祭(しさい)くん。みんなもありがとね」

「気にするな、ちょうど終わったところだ。世辞じゃない」

「そう?今回も同じ班だと思うから、よろしくね」

「それはありがたい、世話になるよ。またあとで」


 飛脚と短いやり取りを交わし、『司祭』と呼ばれた人物を中心とした5人組は順番に締めの儀式をおこない、折り目正しく館の方へ去っていった。

 最後の一人が俯きながら僕たちの横を通り過ぎると、飛脚は何かを決心したようにその人に声をかけた。


「ちょっと、あんたちゃんと氷匠ちゃんに顔見せたんでしょうね?」

「、、、」


 彼は両肩をピクリとさせ僅かに歩を緩めたが、結局何も答えず、そのまま立ち去った。


「あのばか、ばか。はぁぁぁあああ」


 飛脚は俯いていた彼以上に深く項垂れ、長い長いため息を付いた。


「仕方がないさ。彼らには彼らの番としての()()()がある。ウチらもそうだろ?」

 

 氷匠の番は背中を丸めながら速足で庭園へと入っていった。その後ろ姿は、不思議なことに、何か強い信念を持った人のそれに見えた。



 間近でみる氷瀑の迫力は凄まじい。まだ全てが凍っていなかったころは、『フロウの左目』と呼ばれるフロウ山の中腹にある大きな横穴から飛び出した水が、途中にある出っ張りによって左右に分岐したあと合流し、最後は暴力的な勢いで湖に突入していたことが想像できた。湖には、その衝撃的なまでの水しぶきと波が生々しく凍りついて残っている。遠くに見えていたときは雪と氷で覆われた山の一部分という印象しかなかったが、こうして見上げるとなぜ狼たちがここに参拝にくるのか理解できた。これは、抗いようのない超自然だ。有無を言わさぬ世界からの便りだ。僕たちはそれに対して祈ることしかできない。祈ることができて良かったとさえ思う。自然というのは本来、猶予を与えてくれないものなのだから。



「ま、オレらもさっさと祈ってキャンプに向かおうぜ」


 そう言って架橋は氷でできたロープパーテーション風の柵の前で跪き、祈りを捧げ始めた。僕も同じように片膝を付き、両手を合わせて祈りを捧げる体勢になる。しかし、誰に対して何を祈るべきなのかよくわからなかったので恰好だけだ。隣の架橋が動くまでこのままでいようと思い、僕は星の子のことを考えた。あのとき、街道の入り口で彼が見せたとびっきりの笑顔と、僕の内側を漁るような貪欲な目つきがどうしても忘れられなかった。彼は僕に何かを求めているように感じた。それがなんなのか、生まれたばかりの僕には見当も付かない。そうだ、僕はまだ何も知らないのだ。自分のことも、フロウ山のことも、この世界のことも、他人のことも。氷館で出会った4人のことも、まだほとんど知らない。今朝はみんなで、望友の岩で、夜明けを眺めた。美しい時間だった。そこでいくらか言葉を交わした。でもそれだけだ。もっと知りたい。初めてできた友人のことを、もっと知りたい。そう強く思った。

 その欲望こそが祈りだということに気が付かなったことが、なによりも、僕がまだ何も知らない証だった。



 後ろで人の動く気配がして祈りの構えを解くと、架橋はまだ先ほどと同じ体勢のままじっと祈りを捧げていた。後ろの二人は膝が汚れている様子はなく、そもそも立って祈っていたようだった。


「別に祈りにルールはないさ。多少の作法はあるがね。誰に何をどうやって、なんて考える必要はないのさ。好きなように、思いのままにやればいいのさ」


 僕たちの話し声を聞き、架橋も祈りをやめて立ち上がった。膝から雪を払い、少し凝った首周りをほぐし、最後に山頂付近を一瞥した。


「みんなは何を祈ったの?」


 僕は何となく気になって尋ねてみると、「そりゃおめぇ、安全祈願だよ」と架橋が言い、自分も同じだよと言うように二人は頷いた。

 山に登るのにその山に安全祈願するというのは僕は不思議に感じた。

「そうか?オレは変だとは思わねぇが」と架橋は少し意外そうに言うが、鶴嘴はそれに対する自分の答えを持っていたようだった。


「燠読みの言いたいことは分かるけど、正直な話、別になんでもいいのさ」

「え?」

「熱心な信者たちはどうか知らないけど、ウチは祈ったところでなにかが変わるとは思っていない。ただ、それでもこうして祈りに来るのは―――」

「諦めるためだ。『あのとき祈っておけば』って思うのは途轍もなく辛いことだ。想像でしかねぇがな」



 「ほら行こうぜ」と架橋が言うと三人は館へと歩き始めた。僕も一度歩き出したが、思い直して氷瀑の方を振り返り、これまでに知り合った人々の安全を祈った。参謀、リーダー、星の子、架橋、飛脚、鶴嘴、氷匠。一人一人、顔を思い浮かべて丁寧に祈った。今回はたったの7人だが、回数を重ねるごとにその数は増えていくのだろう。それに比例して祈る時間も増えていき、いずれはここで長い時間祈りを捧げるようになるのかもしれない。そんな想像をした。



 三人は庭園の入り口で僕を待ってくれていた。鶴嘴は今日一番嬉しそうな表情をしており、架橋は照れくさそうにしていた。飛脚は先ほどの氷匠の番のことを考えているのか表情は曇ったままだが、いくらかの穏やかさと嬉しさが滲みでていた。友人というのはいいものだと、温かさを増す身体の芯を掴むようにみぞおちに手を当てながら、僕はしみじみと思った。


 鼻先にシュワっとした清涼感を覚え、思わず空を見上げた。朝の空は半開きの瞼のようで、東の星々だけがまだ黄色やオレンジに淡くひかり、あるいは青緑に瞬き、懸命にこの世界に光を取り込んでいた。雪は降っていなかった。この小高い丘から眺める氷館と庭園は、精巧に作られすぎたジオラマのように非現実的で、見つめていると距離感が狂う魔力が働いていた。庭園から延びる雪道は館の周りと違って手入れが行き届いておらず、参拝者の足跡がゆらゆらと、ゆらゆらと、極めて雑然と僕の足元まで続いていた。ゆらゆらと、ゆらゆらと。

 氷瀑の丘の頂上で、僕は自分の前頭葉とシーソーに乗っていた。前頭葉は、人の脳みそで目玉に最も近い部分だ。それが重くなり、軽くなり、僕の身体は浮き上がり、沈んでいった。天も地面もなく、やがて上も下もなくなり、僕の意識はぐるぐると、ぐるぐると、回転していった。


 揺れる視界の中で、妖しく光を振りまく紫黒の粒が、ふっと空気に溶ける様子に焦点が合い、僕は意識を手放した。


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