1話 ひりつく指先
「キミはポーンの戦いを考えたことがあるかい?」
『星の子』は、僕の石でできた四角いルークの駒をスルスルと指の間を移動させてから弾き、僕に返してきた。彼の質問の意味も、指すべき次の手も分からず、黙って考え込んでしまう。
「つまりさ、そのルークっていうのは人を大量に殺すためだけに造られた恐ろしい兵器が由来なんだ。で、ポーンは歩兵。まさに狩人と獲物の関係さ。本来勝ち目なんてないんだ」
ナイトで彼のポーンを取り、チェックをかけてみる。星の子は間を置かずにキングを一つ上げ、僕の拙い攻撃をかわす。単発の攻撃は隙を生むだけだよ、と笑いながら今度は両取りを仕掛けてくる。ため息一つ、僕は仕方がなく攻めの起点となっていたポーンを諦めてクイーンを下げる。
「でもこうやって駒をぶつければ相手の駒が取れる。俺たちが指示を出せば、敵がどれほど強大であろうと彼らはきちんとその任務をこなしてみせる。その道のりがどれほど困難で、どれほど工夫を凝らした果ての勝利であっても、身体の一部を失い、機転と謀略を絞りつくし、命以外の手札を全て切りつくした結果であったとしても、」
星の子の猛攻の末に僕のキングは丸裸にされていた。
「盤上には勝利という結果しか残らない」
そうして僕はあっさりと8度目の敗戦を喫した。
「燻狼とは、フロウ山の麓、星の光が強く照らす場所で生まれる登山家だ。フロウ山を登り、その『扉』を開くという共通の使命と、固有の役割をもって、番と共に生まれる。役割っていうのは各々が生まれもった特技みたいなものだね。生活に欠かせないものから登山以外にまともな使い道のないものまで様々だけど、個性を活かしながら『故郷』に住むみんなで協力してフロウの攻略をしてるんだ。キミの役割は『燠読み』だったね。情報っていうのは大半が無駄だし、大切なものほど信用ならないけど、最後に命運を分けるものでもある。だからね、フロウを攻略する上で、キミは俺たちにとっての切り札なんだ」
切り札、と僕の同居人の星の子は言った。彼は僕と同じで番がいないらしく、二人用の部屋しかないこの集落で、『参謀』曰く「ちょうどいい」ので、同室で暮らすことになった。参謀というのはさっき僕のことを尋問した人のことだ。星の子は、リーダーや参謀と共にこの故郷の最古参らしく、フロウ山や故郷についての知識が豊富で、何より良く喋る。そういう意味でちょうどいいんだと思う、僕の教養を高めるための『語り字引』として。
「ねえ、いっくん、ちょっといっくん、キミのことだよ燠読みくん」
「ん?」
「そう。燠読みのいっくん。長いと呼びずらいじゃん」
「いや、、、それだと他の燠読みと区別がつかないんじゃ」
「ああ、それについては安心して。燠読みなんていう珍しい役割の狼、故郷にはキミしかいないから。だからこそリーダーや参謀は浮足立って、聖堂に籠ってあれやこれやと準備を進めてるんだろうね」
そう言って星の子は部屋の隅にある寝床の方を見た。きっとその方向に聖堂と呼ばれる建物があるのだろう。彼につられて僕は寝床を見る。寝台は氷をキングサイズの直方体に切り出しただけの淡泊なものだが、その表面は鮮やかに磨かれ、丁寧に面取りされている。氷の中には小魚が三匹。口を半開きにし、列をなして泳いだ状態のまま僕らの臥所の一部にされている。その上には毛皮が敷かれ、絹の毛布が二人分用意されており、この極寒の地でも寒さに震えることなく生活できるよう様々な工夫と努力がみられる。
この部屋もそうだ。聖堂をボウルのように囲むこの居住区の住宅はすべて半地下構造になっていて、保温性に優れている。一部屋分の穴を掘り、そのなかに石小屋を建てているようだ。そして同じような住宅が聖堂方面から延びる石畳の左右に、年輪のように層に分かれて、それぞれ四半円状に広がっている。星当たりを意識した街づくりだと、ここに来るとき星の子が言っていた。
僕が肌触りの良い絹毛布を膝に掛けると、星の子はまた語りだした。
「お星様の思し召しではね、明日リーダーからフロウ遠征決定の発表がある。決行は、大事なければその二日後かな。いっくんの初めての登山はもうすぐだよ。どう?ドキドキしてきた?」
彼は思し召しだと言うが、発表されてもいない情報でどうドキドキすればいいのか、僕にはよくわからなかった。ただ、山を登ることについて考えると、上半身と下半身のつなぎ目でぐるぐると何かが渦巻き、膨らみ、呼吸に乗せて中指の先にまで広がっていった。それがどういう感情なのか、生まれたばかりの僕には分からない。ひりつく指先を食い入るように見つめることしかできなかった。
星の子はその後も変わらないペースで夜通し喋り続け、燻狼の間で人気のボードゲームを僕に紹介して何度もコテンパンにし、口癖になってる歌を教えてくれた。
そして翌日、リーダーから遠征の決定が発表された。
「どうしてわかったんだ?遠征決行の日もドンピシャだし、星の思し召しとか言っていたけど予言みたいなものがあったのか?それが星の子としての能力なの?」
僕は前を歩く星の子に向かって早口でまくしたてた。正直かなり動揺していた。
星が昇ると故郷の燻狼たちは聖堂前の広場に集まり、朝の集会を行う。そこで重要事項の発表や共有しておきたい報告、新発明の宣伝など実に様々なことが行われる。僕が昨日目覚めたということや、星の子と同居することになったことも全員に共有された。僕の役割である燠読みは相当に珍しいようで、訝しむようなひそひそ声と品定めするような目線に曝された。「興味なさそうに拍手されたり、無反応よりはましでしょ」などと星の子は言っていたが、それはたぶん、足場の固まっている人の考え方だ。生まれたばかりの、他人に対して胸を張って提示できる意義がまだない僕にとっては、安い歓迎の方がいくらかましに思えた。
そんな僕の悩みを尻目に、リーダーは遠征決定の発表を行った。
「明日の夜に全体会議を行い、計画の共有と班分けの確認および調整を行う。出発は明後日の早朝だ。登山隊は明日の星入りまでに各自でベースキャンプに来ておけ。輸送担当の者は集会後も広場に残り、参謀から指示を受けて輸送任務に当たれ。以上だ」
リーダーが端的にそう告げると、広場は燠読みなどという正体不明の新入りのことなど忘れたように大いに盛り上がった。固い握手を交わすもの、聖堂に祈りをささげるもの、開発した登山靴が採用されたことを自慢気に話すもの。反応は様々だったが、故郷にいる狼全員の関心が糸を撚るように一本となり、フロウ山という巨大な目標に向かって延びていった。聖堂広場から見るフロウ山は嫋やかで、星の光を反射して一層美しく、温かく思えた。
星の子は後ろで手を組みながら右肩越しにこちらを見て、得意げに笑った。
「実はね、キミが目覚めた日、つまり昨日は、もともと遠征の決行日だったんだ」
小走りで彼を追い抜き、僕は当然の疑問を口に、、、する前に答えが返ってきた。
「でも中止が発表されたんだ。それが三日前。今日みたいに朝の集会でさ、理由は悪天候だったかな?確かにその夜はひどい吹雪だった。故郷にいたのに体調不良者が何人か出たみたいだし、予定通り決行はできなかっただろうね。優秀な予報士がいて助かったよ、っと、いっくんそこ左ね」
僕らは聖堂を中心として居住区の反対側、フロウ山側にある作業区を歩いていた。ここは区画整理された居住区とは違い、雑然としている。皆が思い思いの場所に自身の作業場を設け、その足で道を敷く。そんな歴史を想像させる街並みだ。そのあり方と不揃いな美しさは僕を強く惹きつけた。とはいえ、ここに僕や星の子の作業場はない。僕らは登山家なのだ。目的地は作業区のさらに向こう、フロウ山の麓にあるベースキャンプだ。
「そういうわけで、遠征の準備はもうほとんど終わっているんだ。あとはみんなでベースキャンプに移動して、いざ出発!ってね。だからきっと、キミの最初の質問に戻るけどさ、俺でなくても今回の発表は予想できたと思うよ。みんな騒ぐのが好きなだけで、馬鹿じゃない」
星の子はそう言うが、遠征が発表されたときの広場の盛り上がり様を思い出すと、彼らに予想できていたとは到底思えなかったし、分かっていたうえであの騒ぎようなのだとしたら馴染めるか不安になる。
「いや、一度中止になったせいでフラストレーションが溜まっていただけだと思うよ。まいどあんなに盛り上がる訳じゃない。出発前の中止なんて攻略が安定してからは一度もなかったし、なにか致命的な出来事が起きてしまったのかもしれないっていう不安があったんだよ」
確かに、遠征を直前で中止にしなければならないほど、作戦の抜本的な見直しを迫られたという可能性があったのか。狼の中には、僕には想像もできないほど長い間、フロウ山に挑み続けている者もいる。基本的に寿命のない燻狼の身であっても、その挑戦の日々が無駄になってしまうことへの恐怖があるのだと推測できる。緊張からの緩和ということか。なるほど、筋は通っている。
或いはもっと、時間を失う以上に恐ろしいことが、フロウ攻略にはあるのだろうか?
それもやはり、僕にはまだ想像ができない。
「でも星の子って思ったより論理的だな、、、思し召しはどうしたんだよ」
「ああ、もちろん、、、論理と思し召し、その両方さ」
星の子は人差し指で天を指しながらいたずらっぽくそう言うと、歩調を早め、するりと作業区の隘路へと入っていった。
僕も後を追い、その小径に入る。緩い上り坂だ。増築が繰り返された家どうしの隙間の小径には、人がほとんど通らないのか、柔らかな雪が足首の高さまで積もっていた。まだ誰も踏んでいない雪を踏みしめる感覚と、そのグググっという変化に富んだ音は僕の心を躍らせた。
一歩、一歩、坂を登っていくごとに高揚感が増していくのを感じる。吐き出す息には熱がこもり、点在した思考が一か所に収斂されてクリアになる。
確信する。
やはり僕は、生まれながらの登山家なのだと。
自分の内から溢れ出す欲求と、外から与えられた使命が完全に一致している。それは生きるものにとっての至福だった。そこには一つの真理があった。
そしてもうすぐ、僕は登山家としての第一歩を踏み出すことになるのだ。
新雪の小径を抜けると、視界が一気に開けた。
開けたのに、僕の視界には一つのものしか映っていなかった。悠然と佇む、大いなるフロウ山だ。雲の冠をかぶり、一面が雪に覆われた険しい山だ。鋭利な山肌と、飲み込むような未知がそこにはあった。ずっと見えていたはずなのに、今はまるで違ったものに見える。山は変わっていない。僕の目が変わったんだ。見る目が、変わったんだ。風景の一部から、登るべき対象として。
僕の心は小さな檻のなかで不規則に跳ね回っていた。これがドキドキするということなのだろう。思わず笑みがこぼれた。
星の子は、山に向かって延びる轍道を少し進んだところにある、石製の無骨なベンチのひじ掛けにもたれて待っていた。とてつもなく遠くにいるように見えたが、走ったらすぐに追いつくことができた。フロウ山には少しも近づいた気がしなかった。
僕がお待たせ、と手を軽く挙げると、彼は考えるように首を傾げながら天を見た。そして、
「でもさ」
星の子は笑っていた。僕を見つめて、山を背にして、笑っていた。
「ほんとうに、どうして遠征を『中止』にしたんだろうね?」
不意に気が付く。この道は、僕が参謀たちに保護された道だ。僕が吹雪の中、消えそうになりながら、どこかから歩いてきた道だ。
「延期にすればよかったのに、吹雪も、延期も、そんなに珍しいことじゃない。まるでさ、」
論理的な語り字引である彼の眼は、
「これから珍しいことが起こるって、分かっていたみたいじゃない?」
キミのことだぞ、と雄弁に語っていた。