プロローグ
サラサラとした新雪が風に巻き上げられ、見えないはずの風の流れが浮き上がる。私は杖を片手にその流れに身を任せ、膝まである雪に自分の踏み跡を残していく。雪の下は整備された道なのだろうか、上り坂の勾配はきつくはなく足場が安定している。登山をしているとは思えないほど単調な道のりで、溜まった疲労感と相まって絵具を水で広げたような眠気に襲われた。
そうだ、私は登山をしているのだ。
大自然に圧倒され、自分と風の境界線が分からなくなってきていた。
我に返り、足を止めて一度大きく息を吸う。乾燥して冷え切った攻撃的な空気だ。吐き出し、今度は口元を覆う布をずらして息を吸う。先ほどよりも強烈な、大量の針を飲み込んだような激痛が喉を下りていった。思わず顔が歪み、こらえるように腹に力をこめる。耐えがたい痛みだったが、おかげで意識がはっきりとしてきた。布を口元に戻し、ゆっくりと歩き出した。目的地は近い。
坂を登りきると、私の身長の三倍以上の高さがある巨大な扉が現れた。山肌に埋め込まれるように設置された、両開きの荘厳な扉だ。真っ白で無垢な雪が扉とその周りを分厚く覆っていることから、長い間人の手が加わっていないことが伺えた。私はその有様に忘れ去られたタイムカプセルを連想した。少年だったころの遊び心とささやかな秘密は、長い時間と降り積もる雪によって奥深くに隠され、思い出したときにはもう開くことが困難になっている。
近づいてみると、扉はほんの僅かに開いていることがわかった。その紙一枚の隙間から、懐かしい気配と温もりが滑らかなシルクのように漏れ出てきて、私の身体を優しく包み込んだ。そして、その温かな山吹色のシルクは、意識を手放したくなるほど強烈な安心感と幸福感を私に与えた。
背徳感など感じる隙も無い安心と幸福の繭に囚われ、私は確信する。
何に変えてもこの扉を開かなければいけない、と。
持っていた杖を放り投げ、両手を扉に掛ける。扉にこびりついた雪が、使命に燃える私の手から逃げるように波をうって剥がれ落ち、板状のままパラパラと降り注いだ。雪のベールを乱暴にはがされて剥き出しになった扉は、氷のように硬く冷たいが明らかに氷とは違う、途方もない質量をもった物質でできていた。
重たい。
きっと私一人では動かすことなど到底できない。
それでも、身体の内からみなぎる力と、扉の内にあるなにかから賜った力を全身に込めて、私は扉を、、、
これは夢ではない。
夢と呼ぶには確かな質感があり、現実にしては脈絡がない。
ならばきっと、これは記憶だ。
「おはようございます。まあ、もうすっかり夜ですが」
声は言った。慈しみ、咎めるような声色だ。
「わたくしたちの『故郷』へと単身現れたときのあなたは、それはもう、風前の灯火という表現が比喩ではすまないといった風采だったようで、吹雪の中、轍道をふらり揺れ歩くあなたの体のその向こう側に、幾度となくわたくしたちの大いなるフロウが透いて見えたとか」
声は仰々しく言った。慈しみ、咎めるように。
「あなたにはいくつか問わなければならないことがあります。そのために治療を施しました。瀕死のあなたを星の下へ運び、さらにはいくらか強い手段も用いました。そうです、これは尋問です。しかし、わたくしたちは最大限の誠意を見せたつもりです。さあ、目を開けてください」
声の主は、僕を咎めるようにそう言った。
そこはとにかく窮屈な部屋だった。意匠の限りを尽くした巨大な建築の中に思いがけずできた隙間のような場所だ。正面に見える木製の引き戸は冷ややかで、白黒のモザイク模様の石壁は遠近感を狂わせた。その壁は上に向かって円錐形に広がっていて、僕はまるで漏斗に落とされた新生児だった。天上の様子は窺えないが、そこから差し込む温かな光はスポットライトのように僕を強く照らし、僕以外の全てを緞帳の向こう側へと押し出した。その相対的な暗闇の中には力の入らない僕の両脚も含まれているはずだったが、上手く認識できないでいた。それなのに、この部屋に住みついた生暖かい命の気配たちのことは、闇の中から強く感じ取ることができた。
彼らは舞台の観客だった。ならば主役は、光をその身に浴び、これから新しい物語を紡いでいくのは。
「あなたはどこから来たのですか?」
わからない。
「あなたはどこで生まれたのですか?」
わからない。
「あなたの番はどこにいるのですか?」
つがい?
「そうです。わたくしたち『燻狼』は番と共に誕生し、番と共に消滅します。離れようとも分かちがたく、己が半身を彼の形見とし、昼夜問わずどこかつながりを感じるものでしょう?」
自分の番について考えてみる。生涯を共にする宿縁の相手だという。しかし、目を閉じてみても自分の体に他人が入り込んでいるような気配はなかった。
僕の返答は最後まで変わらなかった。
わからない。
彼はいよいよ困ったように唇を人差し指で撫でた。時計回りに二回、反時計回りに一回。
「芳しくないようだな」
引き戸が音もなく開かれ、芯のある声が部屋に複雑に反響して僕たちの上から降り注いだ。
『リーダー』と呼ばれた人物は、石の一本杖をカツカツと突いて、僕の顔を覗き込んだ。伸びた前髪から覗く彼の右目は、いや、目だけに留まらず頬から首にかけても、痛々しい黒い痣で覆われていた。
「生まれたばかりの狼が、一人で、そのうえ『燠読み』ときた」
「タイミングもどうにも気になるところだね」
僕は自分の右に座る人物に目をやる。彼の胸元にも『リーダー』と同じような黒い痣が覗く。
「とはいえ、我々にとって大切なことは一つだ」
『リーダー』はその黒い痣が覆う右目で、僕を見た。
「狼よ。お前の、俺たちの使命はなんだ」
使命。
その言葉を聞いた途端、今までの戸惑いや疑念が背中から押し出され、煙となって大気に飲まれた。
「フロウ」
「フロウ山の頂に臨むことです」
「そうだ。ならば俺についてこい。俺が必ず、お前にその記憶の先を見せてやる」
読んでいただきありがとうございます。
皆さんの興味を惹けていたら幸いです。
初投稿で不慣れな点もあるかと思います。
また、私はかなりの遅筆です。
どうかご了承ください。