Ⅵ.メイドの謎と執事の懺悔
「何だって……!」
誰もが息を呑み、自身の置かれている状況を悟ったであろう。
拙者とて適切な言葉が浮かばない。
「おいおい愛帆ちゃん。僕らは軟禁状態というワケかい?」
動揺した古納言を皮切りに、銘々が不満を洩らしはじめる。
「私は森で迷っただけなのに。こんなことなら来なきゃ良かったわ!」
「ガチでセンサーとかあり得なくない?」
永幽女は苛立ち、あかねのニヤついた顔からは笑みが消えた。
集められた人間たちは元よりギクシャクした仲だったが、豪華な晩餐を楽しんだあとは少なからず調和していた。
しかしせっかく乳化しつつあった水と油は、今やふたたび分離をはじめている。
ガタッ!
突然、室内に荒々しい音が響く。理砂が椅子を蹴って立ち上がったのだ。
「……帰ろ。あかね」
それだけ言って荷物を纏めはじめる。
「今ならまだ間に合う。半月の夜の内に」
理砂に促されてあかねも立ち上がった。
「終電はなくなっているよ。理砂っぺ、あかねぼー。今ここを出て鳥取県までどうやって帰るんだい」
古納言の言うことはもっともである。電車がないのだから高速バスターミナルや空港に向かう手段もない。
タクシー1台止まっていなかった、寂寞とした駅の偏辺を拙者は思い起こした。コンビニは疎か、無論、一夜を明かせそうな宿泊施設など、この僻遠の地には存在しないだろう。
洋館に到着した拙者が見渡した限り、周囲に自動車やバイクは止まっていなかったはずだ。今日集まったメンバーがどのような移動手段で来たかは謎だが、少なくとも皆、車以外というわけだ。
「生憎ですが……今、月は邸を照らしていません。本日、月の光に扉のセンサーが反応したのは、20時から22時25分の間にかけてだけでした」
愛帆はか細い声で、だが追い討ちをかけるように告げる。
「それを過ぎれば扉の内側からは疎か、外側から開けることもできません」
つまり外部に助けを呼んでも無駄というわけか。
偶然にも館に入れた佃吾永幽女は、運が良いのか悪いのか。
「ちなみに扉が月光に反射している時でも、大勢が一気に出入りすればセンサーがエラー反応を起こして、解錠される時間が狭まってしまうこともあるのです」
重ねて付け加える愛帆に、拙者はようやく合点がいった。招待状の時間が分刻みで指定されていたのはそういうことか。
「んだよ……っ、これじゃ監禁じゃないか! 聞いてねえよこんなシステム!」
理砂はとうとう愛帆の胸ぐらに掴みかかった。やはり彼女は何かに脅えて見える。門舞に対して、か。
「そうよ、女神とか後継者とか頭オカシんじゃない?」
あかねも便乗して彼女を締め上げにかかる。
拙者はたまらず愛帆に加勢しようと腰を上げた。
だが次の瞬間、理砂とあかねに立ちはだかったのは姫那子だった。
「お嬢様に危害を加える者は、月の女神の逆鱗に触れますゆえ」
声には抑揚がなく棒読みのままだが、姫那子なりに主人をかばっているのだろう。薄い水色の瞳が酸化をはじめ、凍てつくようなコバルトブルーに変色する。
「な、何言ってんのあんた……」
ふたりは一瞬、硬直しかけた。
姫那子は懐から球体の石を取りだすと左の手のひらに乗せ、操るように右手を翳した。水晶だろうか。そうして意味深なことをフツフツと呟きはじめる。
「汝は禍をもたらすもの。ドリシュタ・バラ、カイヴァッリャ。私は感じる、死の匂いを――」
「あ、あんたねぇ――」
理砂が拳を震わせたところへ、ワインを運んできた漆寺が現れる。
忘れていたが、古納言がホットワインの赤を注文していたのだ。
「お嬢様……!」
状況を察したのか、漆寺は青ざめて止めにかかった。
「お止めください、向井様、田中様。お嬢様は何も悪くありません」
その隙に古納言が理砂を、拙者があかねを牽制する。
「皆様、お伝えできずに申し訳ございませんでした――」
突如、漆寺は床に膝まづいた。
「お嬢様に今回の企画を持ち掛けたのは私なのです」
「な、何だって」
老扇の懺悔に宿泊客たちは困惑する。
「皆様もご存じのようにここは以前、洋食レストランでした。私はお嬢様の父上――亡くなった当主の常連客だったのです」
漆寺の話は1年前に遡った。この辺りの小さな集落に山小屋を構え、貧しい彼は細々と暮らしていたそうだ。
「ある晩のことです。妻に先立たれたばかりの私は墓参りの帰り、森の奥で道を見失いまして。気づけば此処に辿り着いていたのです」
主人は漆寺を快く招き入れ、手持ちがないと項垂れる彼に、温かい料理をたっぷり振る舞ったのだと言った。
「以来、饗応を受けた恩返しに常連客として通いつめるようになった私を、旦那様はシェフとして雇ってくださいました」
元より調理師免許を保持していた漆寺は主に甚く気に入られ、歓迎されたらしい。これまで糊口を凌ぐ生活をしていた彼は、定年退職後の副業として懸命に働いたのだと。漆寺とて願ってもいない幸運だったであろう。
しかし言うまでもなく、洋食店が開くのは半月と満月の晩のみ。当主は予め大量の食材を発注し、邸に籠って次の開店までに仕込みをおこなったそうだ。ホワイトシチューやビーフカリー、ストロガノフは3日3晩かけて煮込み、捏ねたパン生地はじっくりと熟成し、漆寺もその間、彼と伴に寝泊まりするようになったと言う。
上弦の半月から満月へ。満月から下弦の半月へ。その周期は凡そ6日~8日かかることを拙者は想定した。レストラン経営にこの上なく不便な邸である。
あまつさえ客たちが寛げるのは、月光に解錠センサーが反応する、ほんの数時間に限られていただろう。
「店内は主にご予約のお客様で埋まっておりました。旦那様は資産家でしたから、この館は別荘代わりにされていて、レストランの経営もほとんど趣味でおこなっていた所存です」
漆寺は汗を拭った。
主人が亡きあと線香を上げにやって来た漆寺は、そこで彼のひとり娘――愛帆に出会ったらしい。愛帆は既に母親を亡くしており、必然的にこの洋館を相続したと言う。
「売り払うにしてもこのような曰く付きでは買い手も見つからず、お嬢様は途方に暮れておりました。そこで私はご提案申し上げたのです。約8日間、扉が開かないのなら、逆にその特性を活かしてペンションに開拓したらどうかと」
愛帆は喜び、先代当主と同様、引き続きコックとして漆寺を雇い入れたいと言ったそうだ。
手はじめに彼らは来客たちの反応を見るため、破格で招待客を呼び集める実験的企画を思いついたとのことである。
しかしそうであれば、滞在中は扉が開かないことをせめて事前に知らせておくべきであろう。外から来た宿泊客にとって、洋館の特質は見過ごない重大な瑕疵になり兼ねないのだ。
「お嬢様は、邸の機巧と裏事情については募集の際に前以て伝えたいと仰いましたが、客数が揃わないと判断した私が反対したのです」
白髪混じりの眉雪は改めて深々とひれ伏した。
「ごめんなさい……」
愛帆はエプロンで顔を覆って泣き崩れる。
「泣けば済むとか思ってんの」
「あり得ない。あの招待状、詐欺じゃねえか」
尚もブツクサと文句を垂れるケバ女コンビ。
「彼らを責めても仕様がないわ。ここまで来たら乗り掛かった舟。1週間なんて、過ぎてしまえばアッと言う間よ。皆、満月の夜まで楽しく過ごせば良いだけのこと。どうかしら?」
主催者側へ助け舟を出したのは門舞だった。一同を見渡しながら場の修築を試みる。
どこからともなく室内にため息が洩れた。
「うむ、左様である」
拙者も頷いた。今の状況で最善なのは争うことではない。何にせよ初めから8日間の滞在を条件に来ているのだ。
「もう何でも構わないから休ませてほしいわ、面倒くさい!」
永幽女が声を荒らげる。
「ヨシ、多数決だ! レディたち、もう愛帆ちゃんを責めてはいけないのさ」
調子の良い古納言はふたたび愛帆サイドに回っていた。要領の良い、ちゃっかりした男である。
靡く前髪を指先でなぞるとホットワインを流し込み、
「さあ漆寺ぃ、僕らを部屋に案内してくれたまえ」
痛々しい老いぼれにお坊っちゃま気取りで指図する。相変わらず気障りなヤツだが、今回ばかりはやむを得ずだ。
理砂は舌打ちしながら床を踏み鳴らし、あかねは膨れっ面で引き下がる。
カチリと掛け時計が指したのは深夜23時。懐の懐中時計を見やれば、針は未だ正確に動いていた。
「――大変お見苦しいところをお見せしました。各塔に向かう前に、母家の2階をざっとご案内しますので」
気丈に振る舞い、立ち上がった愛帆は先導を切ってメンバーを促す。健気にも、『当主』の仮面をふたたび装着したようだ。
ランタンを手にした愛帆に導かれた一行は、食堂と厨房にサンドされた細い階段を上がっていく。
2階は3つの部屋で仕切られていた。
まずは階段を背に左側――食堂の真上にあたる部屋へ案内される。愛帆が照明を付けるとだだっ広い空間が浮かび上がり、右にテーブル一式、左に書棚が出現した。チェス台の組み込まれたネストテーブルは駒とチェスボード、手品用品、カードゲームが置いてある。
「ささやかですが、どうぞ退屈しのぎに。互いに打ち解ける機会にも是非。いつでもご活用くださいね」
ギクシャクした人間関係を気遣ってか、愛帆はさりげないフォローを混ぜつつ紹介した。
書物以外、確かにひとりでは遊べないものばかりだ。ついでにビリヤード台があっても良いところだが、インドア派には概ね充実した娯楽設備である。
外に面した部屋の両端に、小さな出窓があった。鬼の目に見えた部分の正体はこれか。
壁に面した書籍の奥には水槽が設置されている。恐らく飼育しているのは灯りが不要な淡水魚か。濾過機とヒーターが地味に作動し続け、微かに淡白な音を立てていた。
次に愛帆が進んだのは、上ってきた階段を背にした右側の部屋だった。踊り場から拡がる廊下を挟んで、左右にふたつの小部屋がある。真下が厨房に該当する面であろう、部屋同士の間隔が狭い。
愛帆は階段側の手前に位置している扉を示しながら、
「ここが生前の父の寝室でした。今は私が使用しています」
と淋しそうに微笑んだ。
最後にその隣の部屋。愛帆がランタンを照らす。
「ここはほぼ物置と化していますので、ご案内できるほどのものはございません」
明らかに使われていない木の机に箪笥、重ねられたスツールと錆びたスタッキングチェアなど、ガラクタが四隅に置かれていた。回転木馬を彷彿させる古びた安楽椅子は、傷んだ椅子張りからウレタンが覗いている。
塔に面した窓ガラス。腰窓とも取れるような、低めの位置に取り付けられた高窓である。正面に宿泊部屋が見えた。
「ここから見えるのは悪魔塔ですわ」
愛帆がランタンを掲げても、興味のなさそうなメンバーはドア付近に突っ立ったままだ。
拙者は中に入って四方を見回した。ただの物置小屋にしては埃っぽい匂いはしない。手入れしているのだろうか。
2階の窓は嵌め殺しタイプではなく、開け閉めが可能なようだ。クレセント鍵のロックを外して実際に窓を開けてみる。館からの非常口になりそうだが、流石に2階から飛び降りたら死ぬだろう。
外の聖域から舞い込んだ夜風は、ひんやり冷たいのに生温くも感じられた。さながら月の女神の吐息のように。得も言われぬ物哀しさに悪寒がする。
母家を正面に見て左端に位置する此処の部屋から、鬼の左角――悪魔塔までは、外界との接触部分が約3メートルほどあった。厳密には、尖り屋根と母家本館は切り離されていたわけだ。
さらに、この部屋の窓の外と悪魔塔の窓の外には、木の柱がそれぞれ1本ずつ建っている。下部の窓枠に掛かるくらいの微妙な長さである。身を乗り出して手を伸ばしてみたが、腰高窓から1メートル以上の開きがあって触れることは叶わなかった。この柱にうまく飛び乗ることができれば、1階へと伝い下りて脱出できると思ったのだが。
天井を見上げれば母家を覆う屋根――言うなれば鬼の頭頂部――が宙へとはみ出し、架け橋のように悪魔塔へ密着していた。
「皆様、そろそろ宿泊塔に参りましょう」
最後尾に付き添っていた漆寺が一同を連れ戻す。
未だ水晶玉を操っている姫那子は時折、妙な呪文を呟いていた。
「リュンモン∮トルーノ#デーヴァター♪ドゥルガー♭オン・マリシエイ・ソワカ#その先は棘の道、戻れョアビラウンケン……」
感情の読めない顔に、般若の如く歪んだ笑みが広がった。暗闇がもたらす幻覚だと思いたい――。
唐草模様の風呂敷包みを枕元に置く。天使塔の個室に、ようやっと有りつけた拙者はベッドの上で仰向けに寝そべった。
何やら疲れる夜だった。初日から前途多難である。闇の森の冒険に、可愛い当主と変なメイド。生け簀かない手合の腹ただしい態度や、蕁麻疹の出るほど苦手な揉めごと。ほんの数時間の中で、めまぐるしい出来事が駆け抜けた。
日頃から人嫌いな拙者のこと。心の許容範囲をとっくに超えてしまっている。汚い人間の本質を垣間見た。納得できない、許しがたい。自分の中で消化できないままの蟠りが、胃の中に沈んで凭れた。
だがこんなに沢山の人間と接したのは何年振りだろうか。
備え付けのナイトテーブルに置かれた目覚まし時計と、仕舞っていた懐中時計を見比べる。
「はて……?」
目覚ましが指すのは妥当に23時27分。懐中時計が示しているのは22時57分。妙だな。食堂を出る時、拙者の時計は確かに23時を回っていた。数分のズレはいつものことだが、たった15分の間によもや30分も逆戻りするものか。
だが次の瞬間、ネジ巻き式時計は指先からすり抜けた。フローリングの床にシャリンと音が跳ね返るも、意識は遠退いていく。
『明日の朝食は6時ですよ』
漆寺の声が蘇った時には微睡んでいた。スリルと危機感と険悪なムード。精神の抑圧から解放された拙者に、待っていましたとばかりの睡魔が襲いかかったのだ。
【つづく】