Ⅴ.そして彼らは閉じ込められた
「どうにも引っ掛かるんだ。栗室門舞、聞き覚えないか?」
聞き耳を立てずとも、囁き声は低い天井を介して響く。
今、壁の向こうは死角になっている。拙者は身をひそめたまま、あかねから発せられる次の言葉を待った。
コツコツ……
ふいにその時。正面玄関の方角から足音が聞こえた。身体を強ばらせて振り向けば、人影がゆらりと近づいてくる。
「……どうかなさいましたか」
姫那子だった。手にはランタンを提げている。
「何故ここに。厨房で皿洗いをしていたのではないのか」
「執事に任せましたョ。お嬢様の手伝いをするため」
姫那子によれば、母家両脇に隣接している尖り屋根の離れ――モニター客の宿泊部屋を、整えてきたとのことだ。
「お嬢様が左の塔、私が右の塔を」
なるほど手分けしていたのか。暗闇に脆弱な油灯の光源は丁度良い塩梅で、美少女の青い瞳が良く映える。
拙者は用を足さずにそのまま引き返し、姫那子と伴に食堂へ向かった。
「次も白で」
室内に戻ると、古納言が漆寺にワインのお代わりを頼んでいるところだった。
「私にも一杯くださる? ロゼで」
窓の外を眺めていた門舞が振り向いてオーダーする。
「かしこまりました」
軽く一礼すると、漆寺は拙者たちと入れ代わりで食堂を歩み去った。
「お。姫那子ちゃん」
姫那子の姿に気づいた古納言が、さっそく彼女に話しかける。拙者には目もくれない。
「このテーブルはどうして七角形なんだい?」
「単に縁起が良いからと先代当主が用意したそうですョ。聖書において、七芒星は幸運の魔方陣と呼ばれますゆえ」
姫那子は瞳に冷たい青を讃えたまま、抑揚なくこたえる。煌々と光る照明の下では、彼女のそれは水色に薄まって見えた。
「へぇ、魔方陣ねぇ」
古納言は愉快そうに興味を示した。要は姫那子の気を引きたいだけなのだろう。
「どうでも良いけど不気味な弦月ね」
窓辺に立って背を向けていた門舞が、誰にともなく呟いた。手繰り寄せたカーテンに、黒く長い爪の先がめり込んでいる。
つられて拙者も館の外に視線を移した。良く見れば鬼の口は嵌め殺しではないか。
尖り屋根を照らした月は、いつしか低く、もったりと垂れ下がっていた。闇と光は1/2ずつ。二重人格をひけらかしながら、孤独な邸を正面から見つめ続ける。どろりと攪拌された雲が2色を取り巻いた。
程なくして漆寺がワインを運んでくれば、門舞もふたたび食卓に着く。
食後に出されたデザートの苺パルフェを貪りながら、ゴクゴクと晩酌を続ける古納言。人を盗人扱いしておきながら、己は泥棒上戸ではないか。
「元当主はキリスト教徒を?」
ワイングラスを傾けながら門舞が姫那子に尋ねた。透き通った薄紫が揺れる。
「いいえ。ただ先代当主は変わり者で……」
そこへ愛帆が草卒にパタパタと戻ってきた。
「お待たせしました。これより当ペンションのご説明と各自の寝室を――」
「ちょい待ち愛帆ちゃん。あかねぼーと理砂っぺがまだだ」
統率しようとする愛帆を古納言が軽く遮った。あのケバケバコンビをちゃっかりと愛称で呼んでいる。この男は女なら誰でも良いらしい。
「ごめんなさい、すっかり気づかなくて」
室内を見回す愛帆に、ふたりが西浄へ行った旨を伝える漆寺。
「ま、女のトイレは長いものさ」
陽気な古納言がわざとらしく両の腕を上げてみせる。
ふいに拙者の耳奥で理砂の声が蘇った気がした。――門舞とは初対面ではないのか?
「もうっ、どうでも良いから私はサッサと休みたいのだけど」
暖炉に当たっていた永幽女は、苛立ちながらツインテールを手の甲で弾く。つくづく自身の立場を解っていない。
「漆寺ぃさん、締めだ。最後の一杯はホットワインの赤で」
あっと言う間に飲み干した古納言は、空になったワイングラスを片手で上げてみせる。
どれだけ飲む気だ。しかも『しつ爺さん』とは、馴れ馴れしい上に失礼な呼び方である。
「はい」と厨房に向かおうとする漆寺に、
「おっと、僕は猫舌だから人肌程度のぬるめにしてくれたまえ」
鼻持ちならない笊野郎は小声で付け加えた。注文の多いやっちゃ。
「かしこまりました。月餅様」
我が儘なオーダーにもあくまで低姿勢な老君は、改めて古納言の正面に向き直り、ワイングラスを受け取る。食堂を出ていく彼の背中を、拙者は複雑な思いで見届けた。
フルチンめ。すっかりお坊っちゃま気取りではないか。
時刻は22時44分。
胸ポケットから懐中時計を取りだすと、5分ほどズレていた。七神奈駅を降りる際に改札の時計に時刻を合わせてきたのだが、どうにもネジ巻き式時計は頻繁に狂いやすい。壁の描け時計に針を合わせる。これで当分の間は――少なくとも1時間は正常に動くはずだ。
それにしてもあのふたりは遅い。
「拙者、彼女たちを見てくる」
胸騒ぎがして立ち上がれば、ガチャッという音と伴に扉が開かれた。噂をすれば何とやら。あかねと理砂は一行の視線を浴びても詫びれる様子はなく、すまし顔で着席した。
「では全員揃ったところで。これからペンションの部屋割りを皆様に決めていただきます」
バラバラな彼らを愛帆は健気に取り纏め、「姫那ちゃん」とメイドに指示を出す。
姫那子はエプロンのポケットから2枚の紙切れを取りだし、テーブルの中心に置いた。
「今からふたつのチームに別れて、阿弥陀くじを引いていただきます。まずは田中様と向井様のおふたりに、飛び入りの佃吾様。1本ずつ阿弥陀をお選びください」
チームを決めた愛帆が暖炉にいる永幽女を手招きし、あかねが2枚の内、1枚の紙片を自分たちの元に引き寄せる。
「きゃはは、何コレ。蜘蛛の糸ぉ~」
「今時、阿弥陀で決めんなんてダサくない? ガチでウケんだけど」
あかねと理砂は楽しげに選び、永幽女は気怠るそうに「余ったので良いわ」と言った。
次に残ったメンバーがもう1枚の紙を取る。必然的に拙者と門舞、古納言だ。
3つの縦線に無数の横棒。下部に201、202、203と記載があった。
結果、決まったのは以下の通りである。
《天使塔》
201・朱万里餡月
202・栗室門舞
203・月餅古納言
103・玄密姫那子
《悪魔塔》
201・向井理砂
202・佃吾永幽女
203・田中あかね
101・漆寺福重
母家の両端にくっついていた2棟の尖り――鬼の角が、それぞれ天使塔と悪魔塔と言うらしい。各塔の1階には西浄とリネン室が置かれ、空き部屋のひとつがスタッフ専用の寝室になっているとのことだ。
「天使塔にはメイド、悪魔塔には執事がおりますので、何かありましたらお気軽に1階へお声掛けください」
愛帆が言い添えた。ひとりずつ従業員を配置することで、宿泊客に安心感を与えているのだろう。
姫那子がひとりひとりに各部屋のルームキーを渡していく。
「愛帆ちゃんはどこに泊まるんだい?」
「私はこの母家2階を。亡くなった先代当主が使用していた部屋で寝ますわ」
古納言が残念そうに尋ねれば、彼女は少しだけ淋しげに俯いた。
「ところでこの館の仕組みについて、皆様にお伝えしなければいけません」
愛帆はすうっと深呼吸をして、ふたたび正面に立つ。
「この洋館は大昔、私の父方の遠い祖先が建てたものでした。まだ電気の普及していない時代、先祖は館内に月の光を熱源にした月光発電を導入したのです」
それは唐突な話だった。
聞き馴れない単語に、彼らは互いの顔を見合わせる。
「館の構造は現在も変わらず、今室内を照らしている照明も、廊下に点在するランプも、月の光を熱源にしたものです。必要最低限の電気は通っていますが、邸内全域合わせて15アンペアのみ。それ以上だと、月光発電に誤作動を及ぼすことが危惧されますので」
愛帆の説明にざわめきが拡張した。
太陽光発電は一般社会においても聞くことだが、それの月バージョンというわけか。
「それじゃ、月の出ていない日――新月や雨の夜はどうするんだい」
誰もが疑問に思うことであろう、古納言が代表して尋ねた。
「もちろん貯蓄された月光が館全体に行き渡るようになっています。玄関裏に月エネルギーを蓄えておく貯蔵庫がありますので」
なるほど。玄関フロアが薄暗かったのは節電していたからなのだろう。限りある蓄え。来客時以外ほとんど誰も通らない場所は、効率的に照明を落とすべきだ。加えて、それが計らずとも幻想的な空間を演出しているのだ。月にも省エネ対策で応じるとは、これすなわち合理的である。
「もっともこの辺りは、雨によって月が邪魔されることは滅多に起こらないのです」
不思議なことに大抵、月が出る時刻には館を覆う雨雲はなくなり、この一帯だけは結界を張ったかのように晴れるのだと愛帆は言った。
宿泊客たちは皆、千差万別の表情を浮かべる。
自然現象が操られている。見えない力によって。非科学的と捉えるべきか。
しかしながらそんな引力が、確かにこの領域には渦巻いているような気がした。
「――ですがこの邸が特殊な造りであるのは、以前からもっと根底に、ある事情が根付いていたからです」
さらに続く愛帆の解説は、次第に妙な雲行きへと変わっていった。
「私の先祖は月と地球を繋ぐ者として、代々この館に幽閉されてきました。人類の中で最も月光を吸収しやすい体質を持つ血族。彼女たちにとって月の力は天の恵み――サンカラであり、食物と等価。食事の代わりに毎晩その身を月に掲げることが、己の生命源――ドーシャになっていました。それは同時に、地上へ働きかける月の波動と引力、ひいては宇宙の五大元素・空――アーカーシャ、風――ヴァーユ、火――アグニ、水――アヴ、地――プリティヴィーのバランスを正常に維持する役目も担っていたのです。人呼んで〝地上の女神〟」
愛帆の先祖とやらは存在そのものが仕事であり、使命だったと言う。
そのため洋館の性質と形状は、月光を通しやすいように造られているのだと。
拙者は海の満潮と引潮が、月の引力に支配されることを想起した。現実にも物理的な根拠は確かに存在しているのだ。自然の法則が交わることで、信じがたい月の伝説にも信憑性をもたらしている。あながち、この話はバカにできないやもしれない。
「その名の通り女性にしか司ることはできません。死後は月に召喚され、新たな月の女神へと転生するからです。もちろんその前に、女の子を産んで子孫を残すという使命がございました」
愛帆が一旦、言葉を切ると、見計らったようにすかさず古納言が突っ込んだ。
「もしも産まれたのが男の子だったらどうするんだい」
「あり得ません。彼女たちは必ず娘を授かれるようにできていました。何しろ地上の女神は、他ならぬ月の女神に守られていたのですから」
愛帆は生き生きとしながら語るが、何とも都合の良い話である。
だがそれさえも、どこか説得力があると拙者は感じていた。
「現に満月の日は出産率が高まるという実証データもございますし、女性の身体は本来、月光の力に影響を受けやすいと云われます。喩えば〝月経〟の排卵と出血は文字通り、月の周期と満ち欠けに関与しているのですから」
言いながら愛帆は男性陣の手前、今度は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
うむ、そういうウブなところが可愛いのだ。実に萌える。
ところで地上の女神とやらはその宿命ゆえに、直射日光を浴びることが許されない血族だったらしい。
「太陽の恵みを直に受けることは、月の女神への裏切りと冒涜に値する行為。体力は奪われ、ホルモンバランスが狂い、病に侵されて自らの寿命を縮めてしまうと云われてきました。けれど後継者に選ばれた最初のお嬢はとてもお転婆で、日の光の下で遊びたがり、度々洋館を抜け出したそうです」
困り果てた彼女の両親が、家臣に命じて対策を立てたと言う。以来、館はお転婆な後継者が外に出られぬよう、扉の内部に特殊な仕掛けが施されるようになったとのことだ。
「玄関の扉が開くのは、館に月光が射し込んだ時。尚且つ解錠センサーが反応する条件は、正式な半月と満月の光のみ――」
愛帆の声音が緊張を帯びた。
室内の均衡が傾く。
「それじゃあ、まさか」
ただならぬ展開を誰もが悟っていた。
「つまり次に扉が開くのは……?」
門舞が恐る恐る尋ねる。
嵌め殺しの窓には今、何も映っていない。
「8日後の1月31日、満月がこの館を照らす時でございます」
愛帆は淡々と、しかし厳かに告げた。
「な、何だって……?」
不吉な片割れ月が姿を隠し、全員が息を呑んだ。
【つづく】