XI.如何にあかねを殺したか
拙者は焼け付くような口渇に囚われていた。
「今から200年ほど前のことですわ……」
「その前に」
語りはじめた愛帆に、今度は拙者が待ったをかける。
「水を一杯いただきたい」
「……は、はい」
愛帆は一瞬だけ目をしばたかせて、すぐに厨房へ向かおうとした。
「お嬢様、私が」
例によって漆寺が呼び止める。あくまで彼は愛帆に雑用を譲らない。食堂を去っていった漆寺の背中には疲労が滲んでいた。
「喉、渇いていませんか。皆様のぶんも何かご用意しましょうか」
「貴女、正気なの。たったさっき、ここで毒殺が起きたばかりなのよ」
宿泊客たちを気遣う愛帆に、永幽女は腕組みをしたまま言い放った。
「僕はいただこう。人肌程度に温めの紅茶を。愛帆ちゃん、キミが煎れてくれるんだろう」
「も、もちろんですわ」
古納言から思わぬリクエストが入り、愛帆は若干、逡巡したようだったがすぐに莞爾として承った。姫那子を手招きする愛帆。後に結局スタッフは全員、室内から消えた。
先刻の実験道具一式――淡水魚とビーカー、朝食プレートの残骸は、既に愛帆たちの手によって処分され、テーブルの上は跡形もなく片付けられていた。
間もなく入れ違いに漆寺が水を運んでやってくる。
「お待たせしました。霜月仟七神奈の山林で湧き上がった天然水でございます」
七神奈の正式名称は頭に『霜月仟』が付くようだ。
だが前置きは良い。拙者はグラスを手にし、一瞬鼻に近づけたあと、一気に飲み干した。砂漠化した喉に染みていく冷たいオアシス。生き返る。
「こんな状況で良く飲めますこと」
信じられないとでも言いたげな永幽女が、拙者に軽蔑の目を向けてくる。
「これで貴方が倒れたら、スタッフ犯人説はもはや疑う余地もないわ。逆に宿泊客は助かるけれど」
「ふふっ」
永幽女の嫌味に門舞は上品に小さく笑うと、ぽそりと呟いた。
「朱万里さん、貴方って分裂気質ね」
唐突に何を言いだすのか。拙者は瞠目した。
人数分のティーカップを乗せたトレーを愛帆が運んできたのは、暫しの時間が経ってからだった。彼女の斜め後ろに姫那子は無言のままくっついている。背後霊の如く。
「一応、皆様のぶんもご用意しましたので」
愛帆はひとりひとりにホットティーを配り、姫那子は陶器製のミルクピッチャーとシュガーポットをテーブルの中心へ置いた。
「どうぞ。生クリームと砂糖はお好みで」
浮き上がったシュガーポットの蓋から角砂糖が覗いて見えた。
テーブルウェアから立ち込める蒸気がくるくると踊っては、スパイスとハーブの香りが嗅覚を刺激する。
「愛帆ちゃん、姫那子ちゃん、この紅茶は一体……?」
甘ったるい湯気が放たれる陶器を傾け、古納言はクンと鼻に近づけた。
「なんか不気味な色なんだけど」
手元に置かれた紫の液体を遠巻きに見つめる永幽女は、明らかに怪しんでいた。
良く見れば、個別に置かれた紅茶の色は微妙に異なっている。調和することない甘味や苦味、酸味が個性を強調しあい、これまた不快な匂いを醸し出している。
「月餅様にはバニラティー、栗室様にはカモミールティーを。佃吾様と向井様にはラベンダーティーをご用意しました。ラベンダーには精神の鎮静効果が期待できますわ。おふたりのイライラが鎮まれば良いのですけど」
愛帆がフォローを交えながら解説する。次の瞬間。
ガチャン!
「バカにしないで」
「フザけんな!」
永幽女と理砂は、ほぼ同時に白磁の杯をソーサーへ叩きつけた。黒ずんだ紫の飛沫が醜く跳ね上がってテーブルに弾ける。やれやれ。鎮静作用どころが逆効果ではないか。
愛帆はトレーに永幽女と理砂のティーセットを乗せ、湿らせた台拭きでテーブルの飛沫を丁寧に拭った。
だがその時、抱えていたトレーが傾いて愛帆の手から滑り落ちる。ガシャーンという音と伴に落下したティーカップは、中身ごと理砂の足元に直撃した。
「っ痛え、熱い! 何すんだよ!」
当然の如く暴れ出す理砂。
「申し訳ございません!」
愛帆は慌てて理砂の足元にしゃがみこむ。
幸い、陶器が割れることはなかったが、理砂は紅茶のシミがかかったルームシューズを足の裏から引き剥がすと、ひざまずいた愛帆の頭上に降り下ろした。
「おいおい。やりすぎだぞ理砂っぺ」
古納言が立ち上がる。
「仕返しかよ!」
しかし理砂は聞く耳を持たない。
「愛帆ちゃんはわざとじゃないだろ。元はと言えばキミたちが――」
殺伐とした雰囲気はついに一触即発の事態となる。
「申し訳ございません、不注意でした。ただ私たちは、一杯の紅茶でも皆様にリラックスしてほしかっただけです……」
頭を下げ、丁重に詫びた愛帆は悲しそうに瞳を潤ませる。懸命に場を和ませようとした真率な姿勢が仇になった。
しかしながら愛帆も些か空気を読めない、天然の素質がある。そうして拙者は、彼女のそんな人柄に堪らなく惹かれるのだ。
「火傷やお怪我はございませんか。今、新しいルームシューズをお持ちしますので」
理砂の足元を濡れ布巾で拭った愛帆が顔をあげると、
「お嬢様、私が持って参ります。ひとつだけ予備があったはずですから」
漆寺が小走りで食堂を出ていき、足音が遠ざかっていく。恐らく玄関前に向かったのであろう。引き戸をガラッと開ける音がした。
ほどなくして戻った漆寺は、雇われた家臣宜しく屈んで理砂の両足にルームシューズを履かせると、
「申し訳ございません、向井様。どうかお怒りをお沈めください」
愛帆の立場を忖度してか今一度、鞠躬如たる姿で白髪頭を深々と下げた。
一連の騒動のあと。
「皆様にも大変お騒がせしました」
悄然としていた愛帆だったが、
「よろしければ紅茶のお代わりもございますので。――栗室様、お味はいかがですか。カモミールには胃の不調を和らげる効果があると云われています」
気を取り直すように努めて明るく振る舞おうとする。
「ありがとう」
門舞はうっすらと口角を上げるが、その唇をカップに近づけることはなかった。
「僕の紅茶は? 何の効能があるんだい」
円を描くようにティーカップを揺らしながら、古納言が興味を示す。こやつなりに愛帆を気遣っているのだろう。
「それにはバニラエッセンスを垂らしただけで、特に意味はございませんョ」
にべもなくこたえたのは姫那子だった。
「い、意味がない……?」
粗略にあしらわれ、古納言はしゅんと肩を落とす。
「――伝説を聞く前に。あかねが倒れる前後にそれぞれ何をしていたか、ひとりずつの行動を確認しておくべきだと思うが」
ひととおり忌まわしい空気が流れたところで、拙者は一同に諮った。主導権を握るつもりは毛頭ないが、偶然にしろ必然にしろ、この中の誰かがあかねを殺めたことは事実なのだ。
「〝拙者〟君の言うとおりだな」
それまで紅茶を冷ましながらちびちび啜っていた古納言は、残りを一息に飲み干すと拙者に賛意を示した。
「朝食は朝6時スタートだ。まず最初に食堂へ入ったのは誰だい?」
必然の如く取り仕切る古納言。
「ウチとあかねだよ」
遺恨を残したままの理砂が仏頂面でこたえた。彼女たちは5時半過ぎに食堂へ着いたそうだ。
「朝食がはじまるまでキミたちは何をしていたんだい」
「別に。ふたりでずっと雑談してただけだ。ウチらは食堂へ来てから一度も席を立ってないよ。言うまでもなく毒なんて仕込んでねーからな!」
「では次に侍気取りの〝拙者〟君。キミはどうだい」
自己紹介の際と同様、時計回りに進めていくことにしたらしい。古納言に促されるまま、拙者は事実のみを申すまでだ。今朝、拙者が天使塔を出たのは6時になる15分前である。
「朝食前、母家の西浄に寄ったのが5時50分過ぎ。その時点で既にドライヤーはコンセントに差し込まれていたが、拙者は何もいじっていない。そのあと食堂に入った。無論、おぬしたちの食事に一服盛るなどしておらぬ。以上」
「それだけかい。誰かの怪しげな動きに気づいたり、おかしなことはなかったのかい」
「西浄の角で栗室殿とすれ違ったくらいだが」
古納言が食い下がるので、とりあえず言及しても良いだろう。
「私は悪魔塔からまっすぐここに来たわ。6時前だったのは確かだけど、いちいち正確な時間なんて憶えていなくてよ。トイレは宿泊塔1階で済ませておいたから、母家に来てからは立ち寄ってないわ。第一、青酸カリなんて持ってきてないし。ってか私、関係ないんだけど」
永幽女は面白くなさそうに、外巻きのツインテール髪をいじくりながらこたえた。
「私が母家に着いたのは5時45分頃よ。朝から胃の調子が優れなくて。食堂に行く前に愛帆さんに胃薬を頼んだの」
次の門舞は丁寧に起立してから供述をはじめた。ちょうどその時、気分の悪くなった姫那子が厨房から出てきて天使塔へ戻るところだったと言う。
「姫那子さんは自室に戻るついでに胃薬を取ってきてくれたの」
「救急箱は天使塔の102号室にございますので……」
愛帆が補足すれば、姫那子は無言で頷く。鍵は掛けられていなかった、天使塔の空室を拙者は思い起こした。
「その間に私はトイレを済ませた。洗面所に置かれていたドライヤーは私も黙過しただけ。出てくる時、入れ違いで朱万里さんと会ったわ、本人も言っていたようにね。その後は姫那子さんが戻ってきてくれるのを、少し待っていたのだけど」
思いの外、メイドが遅いので門舞は天使塔に向かったらしい。
「彼女の体調不良は私も聞いていたし、母家と塔を何度も往復させるのは悪いと思ったから」
「すみません。薬箱を探すのに少々、手間取っていましたョ」
門舞が天使塔に辿り着いたところで空き部屋の扉が開き、平安漢方胃腸薬を持った姫那子が現れたそうだ。
「無事に胃薬を受け取って、私はそのまま母家に戻って食堂へ入った。もちろん停電中に毒を入れるなんてあり得ないわ」
話し終えて着席した門舞。なるほど。拙者のあとに門舞が姿を現したのはそういう経緯があったからか。門舞だけが愛帆に水差しを手渡されていたのも、胃薬を喫するためだったのだろう。
一通りの宿泊客が供述を済ませ、各々の視線は必然的に残る古納言へ集まった。
「どうやら最後に食堂へ到着したのは僕だったようだね。いやあ、今朝は寝坊したのさ。僕ともあろう者がね。夕べ遅くまで執筆していたからね、何しろホラー業界を席巻する人気作家だからさ。起床した直後は天使塔の自室からここまで直行だったよ。まあギリギリ6時には登場できたから、朝食には間に合ったろう? 断っておくが毒殺犯は僕ではないよ」
しかつめらしく弁舌を振るうと、古納言は寝癖の立った前髪を指先で弄んだ。一体何をそんなに格好つけたいのかが解らない。
「わ、私は朝食の仕込みのために、午前5時からずっと厨房におりました」
漆寺はうっすら吹き出た冷や汗を、上品な白いハンケチで拭いながら訴えた。
「途中で抜け出したりはしなかったのかい」
「6時に食堂へ朝食をお運びするまで、持ち場を離れることはございませんでした。再三申し上げますが、毒入りの朝食を作るなど考えられないことです」
古納言の問い掛けに、漆寺は謙虚な姿勢で弁明する。
「漆寺と伴に、私も5時から朝食の準備をしていました。もちろん毒を混ぜることもなければ、その間一度もトイレに立ったりはしていません」
次に供述したのは愛帆だが、一緒に作業していた姫那子が途中で抜け出すことになったようだ。
「玄密は本当に具合が悪そうだったので、トイレへ一緒に付き添おうとしたのですが」
愛帆の視線が隣に立つ姫那子に注がれると、
「私がお断りしたのですョ、ひとりで行けると。お嬢様の手を煩わせることはできないゆえ」
ゼンマイ仕掛けのメイドは頷いた。暫く西浄に籠ってから、姫那子はふたたび厨房へ戻ったそうだ。
愛帆は懸命に記憶を辿るように続けた。
「それでも彼女の顔色は真っ青だったので、自室へ戻るよう命じました。ちょうどその時、栗室様が厨房に顔を出されて」
その後は門舞が自ら証言した行動に繋がるわけか。今のところ各人の供述に矛盾は見られない。つまり話を纏めると。あくまで自己申告だが、今朝西浄に立ったのは姫那子、門舞、拙者の順に3名だけである。
「玄密殿が手洗いに入った時、ドライヤーは化粧台にセットされてあったのか?」
当然の如く、本日最初に西浄へ足を踏み入れた人物――姫那子へ確認する。
「記憶に残っていませんョ。あったのか、なかったのか……」
姫那子は俯き加減に首を振った。左の手のひらに乗せた相棒を、右の指先で突っつくように転がしている。その目は水晶を映していなかった。どこか虚ろな眼差しに、ほんのり薄紫の色素が滲み出している。
「憶えてないって、そんなワケねーだろ? 」
姫那子の曖昧な態度に、業を煮やした理砂が詰め寄る。
確かに姫那子の言動は妙である。用を足したあとは必ず手を洗うだろう、洗面台に立てば嫌でも視界に入るはずだ。2台のドライヤーは、鏡の下のコンセントにセットされていたのだから。
「しらばっくれる理由はひとつ。犯人はメイド、貴女だからよ」
永幽女が容赦なく人差し指を姫那子に向けた。
当の姫那子は何も言わない。
皆おしなべて姫那子を注視し、暫しの沈黙が訪れる。
「アウシャディ♪ ルゥルル♭ルタ・マウナ」
不意に唐突なハミングが聞こえてきた。姫那子が歌っているのだ。彼女の唇が微かに蠢いている。
「ヴェーダ♪ moonshine アハンカーラ・チルチル……♪」
歌って誤魔化しているつもりなのか。楽しそうである。
したたかな姫那子を、永幽女は白い目で見つめた。
ともかく一通り、今朝の行動に対する供述は銘々から聞けたことになる。
「あのぅ、私はそろそろ皆様方の昼食作りに取りかかりたいのですが……」
拙者たちの反応を窺うように、腰の低い漆寺が恐る恐る切り出した。
「昼食って冗談じゃなくてよ。この期に及んで第二の犠牲者を出すつもり?」
永幽女が呆れ顔で詰問する。
「そうだよ、あんたこの状況解ってて言ってるのか。ウチは食わねぇぞ? あかねの二の舞になったらどうすんだよ!」
すかさず理砂も加勢して老いぼれを責め立てる。
「し、しかし何も食べないと言うわけには……」
及び腰の漆寺が僅かに反駁しかけた時、
「皆、もっと落ち着きたまえ」
古納言が差し挟んだ。
「漆寺ぃ、館には保存食くらい常備していないのかい?」
左様、拙者も聞きたかったことだ。なにしろ満月ないし半月の夜以降、主催者たちは凡そ1週間も缶詰め状態になるのだ、非常食を蓄えておくのは自然である。
「そ、それは確かにございますが……」
チラリと漆寺が愛帆に視線を送る。
頷く愛帆が姫那子と伴に厨房へ消え、両手いっぱいに加工食品を抱えて戻った。カップ拉麺やヌードルに、目白製薬のカロリーガレット、長期保存可能な天然酵母の菓子パン等々。
「在庫はまだ沢山ありますので、御入り用の際はその都度お持ちします」
日持ちする保存食だが、賞味期限を管理しながら定期的に入荷していると愛帆は告げた。
スタッフと宿泊客の8名全員が残り5日間、飢え死にしないくらいの量は充分にあるようだ。当面はこれで凌ぐしかないだろう。
宿泊部屋には電気ケトルがあったからカップ麺に熱湯を注ぐこともできるし、バスルームの洗面所で水道を捻れば補填できる。水分補給も水道水で充分であろう。
銘々が嗜好に合わせて好きなモノを選んでいく。
「それじゃあ一旦、各自で宿泊塔に戻って、今後のことは昼食後に話し合いましょう」
指揮を取る門舞に、誰もが沈黙のまま頷いた。
門舞が手にしたのは天然酵母のメロンパンと、カロリーガレットのメープル味だった。
食堂を出ると薄暗い廊下を進み、天使塔に向かう門舞のあとに続いた。
「栗室殿」
呼び止めた拙者に、彼女は立ち止まって振り向いた。
「どうしたの?」
変わらない、いつも通りの彼女だった。
「卒爾ながら汝に訊きたいことがあるのだが」
【つづく】




