2.
「ひとつ、どうですか」
最初の丸いパンを食べ終わったイガグリ頭が、茶袋に手を突っ込んで次のパンを取り出しながら僕に言ってきた。
「あ、いいえ」 僕は首を横に振った。「お気遣い、どうも……」
「そうですか」
イガグリ頭が二つ目のパンに齧り付く。
ガタン、ゴトン……ガタン……
しばらくの間、僕もイガグリも黙っていた。
イガグリは茶袋の中のパンを全て食べ終えると、茶袋を畳んで背広のポケットに入れ、直立した背もたれに上体を預け目を閉じた。
僕は、車内を暗く反射する窓に視線を戻し、あらためて自分自身の姿を見た。
いくら見ても、これが僕の顔形だという実感が無い。
整っているけれども、線の細い気の弱そうな顔だ。
白シャツに薄茶色の背広。視線を足元に落とすと黒い革靴を履いていた。
少し腰を浮かして、車内全体を見渡した。
(なんだ……僕とこのイガグリ頭の二人だけか)
だったら何も狭い相向かいの席に両方が座らなくても、それぞれ離れた場所に座った方が広々として良いだろうに、と思った。
壁にはそれぞれの座席番号が刻まれたプレートが並んでいた。
ここは指定席の車両なのだろうか?
それさえも思い出せない。この列車に乗った時のことさえ思い出せない。
さっき目覚めたとき以前の記憶が全く無い。
(今はガラガラでも、これから停車する駅で人が大勢乗り込んで来て座席が埋まっていくのだろうか?)
そんな事を考えていると、扉を開け閉めする音がした。
もう一度、腰を浮かせて車両の前方を見ると、車掌らしき制服を着た男が立っていた。
血の気の無い青白い顔をした車掌が「まもなく終点、慢冥中央駅……慢冥中央駅」と繰り返しながら、通路を歩く。
その声に反応して、イガグリ頭の瞼がパッと開いた。
車掌が僕らの座席の横を通り過ぎ、後方の扉から出て行った。
イガグリが立ち上がり、網棚から革のスーツケースを下ろして隣の座席に置いた。
網棚には、似たようなスーツケースがもう一つあった。
「あの……」思い切って、僕はイガグリに声を掛けた。
「はあ、何か?」イガグリが僕を見る。
「あの……この荷物は……?」僕は網棚に残されたスーツケースを指さした。
「いや……私のは、これ一つですが、ね」イガグリが隣に下ろしたカバンの上に手を置く。
「じゃあ、これは?」僕が重ねて尋ねる。
「貴方の荷物でしょう。まず間違いない」
「しかし、僕には見覚えがないのです」
「この車両に乗客は私と貴方だけです。私の荷物でないのだから、それは貴方のだ」
「僕には見覚えがないのです」
「見覚えがなくたって、貴方の物だ」
「しかし……」
「じゃあ、こうしたら、どうですか? ……その鞄を下ろして開けてみるのです。貴方の所有物なら、その証拠が何か出てくるでしょう」
「証拠ですか?」
「たとえば、慢冥市行きの列車に乗っているのだから、市の滞在許可証を持っているはずだ。貴方の名前と顔写真入りのヤツをね。鞄を開けて滞在許可証が見つかったら、その鞄自体が貴方の物という事になる」
「しかし、自分のものかどうかも分からない鞄を開けるわけには」
「十中八九、貴方の物ですよ。どうしても鞄を開けて確かめる気になれないというのなら……私が代わりに開けましょう」
言いながら、イガグリは再び立ち上がってもう一つのスーツケースを下ろし、僕の隣の席に置いた。
「本当に、開けるのですか?」僕は、イガグリ頭の大胆さが何だか怖くなり始めていた。「誰の所有物かも分からないのに、開けるのですか?」
「勝手に開けるのはこの私ですよ……万が一、これが貴方の物じゃないとしても、貴方に責任は無い」
「それは、そうかも知れませんが」
「留め金に鍵が掛かっているな、こりゃ」イガグリ頭が僕の顔を見る。「ひょっとして、鞄の鍵を持っていませんか?」
「え?」
「鞄の鍵ですよ」
「はあ」
僕は、自分が着ている背広のポケット一つ一つへ、順番に手を差し込んだ。
ハンカチ、長財布、小さな鍵……
「ああ、きっと、それでですよ」
内ポケットから出てきた鍵を指差してイガグリが言った。
手のひらに載せた鍵を見つめた。確かに、いかにも鞄用といった感じの小さな鍵だった。
「それなら話は早い」とイガグリ。「貴方のポケットに入っていたんだから、まず間違いなくその鍵は貴方自身の物だ。それをこの鞄の鍵穴に差してみればいい。鍵が合致して錠が外れたら、それこそ、この鞄が貴方の物という証拠だ」
確かにイガグリの言うことは理に叶っている。
僕は、その小さな鍵を右手の親指と人差し指で摘んで、隣に置かれたスーツケースの留め金に差し込んでみた。
パチン……
留め金が外れた。
「ははは、これで貴方の物だと証明された」イガグリが言った。「良かった、良かった」
鞄を開けてみる。
中には、替えのシャツやら下着類やらが綺麗に畳まれていた。
その上に、革ベルトのような物があった。
しかしズボンを締めるベルトではない。形状が違う。
ベルトの一部は平たいポケット状になっていて、何かの道具のような物が見えた。
「そりゃ、ホルスターですな……」イガグリが、横から覗くようにして言った。「見たところ、肩から吊るすヤツだ。その平たいポケットに入っているのは拳銃ですよ」
「えっ、拳銃?」
「何も驚く必要は無い。これから住む慢冥市は、許可証さえあれば誰でも拳銃を所持できる」
「しかし……」
「きっと貴方は、この列車に乗る前に許可申請を出していたはずだ。鞄を探せば許可証が見つかるでしょう。銃把の端の形からして、ヴァルテル社のPPKみたいだ」
列車の制動を感じた。
ガタン、ゴトン、という音と揺れの周期が徐々に長くなっている事から、速度が落ちていると分かる。
突然、窓の外から光が入って来た。
停車場だ。
僕は慌てて鞄を閉めた。
拳銃だの拳銃吊りだのを他の人間に見られたくなかった。