1.
うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと -江戸川乱歩-
* * *
慢冥市には朝がありません。昼もありません。ずっと夜が続きます。
だから一日という言葉がありません。
慢冥市の空に昇る月は、気まぐれに満ちて、気まぐれに欠けます。
だから一月という言葉がありません。
慢冥市には、四季がありません。
寒くもなく、暑くもなく、ずっと温い空気が漂っています。
だから一年という言葉がありません。
* * *
ガタン、ゴトン……ガタン、ゴトン……
ガタン、ゴトン……ガタン、ゴトン……
気づいたら、慢冥市行きの列車に乗っていた。
暗闇から浮かび上がる僕の意識へ一番に入ってきたのは、線路を走る車体の小さな揺れ。その次に、鉄の車輪が継ぎ目を越えるガタン、ゴトン、ガタン、ゴトンという音。
三番目に知覚したのは、窓に映る自分の顔だ。
瞼を開けると窓の外は真っ暗闇で、ガラスが反射率の低い鏡のようになっていた。
そこに自分の顔があった。
記憶に無い、まったく馴染みの無い顔が。
(これが、僕の顔、なのか)
その顔から想像するに、僕の年齢は二十代半ばくらいだろうか。
細面のツルンとした滑らかな肌で、美青年といえば美青年と言えるような、いかにも何不自由なく甘やかされて育ったような、お坊ちゃん育ちの顔だった。
僕は……いったい何者なんだ?
「やあ、どうも」
突然の声に、ドキリとして窓から車内へ視線を移した。
古くさい向かい合わせ四人がけ席の窓側に、僕は座っていた。
斜め向かいに、男が一人座っていた。
灰色の背広を着た、ガッシリした体の、首の太い、イガグリ頭の男だった。
イガグリ頭は、再び「やあ、どうも」と僕に挨拶をした。
僕も仕方なしに「どうも」と返す。
列車の中は丁度良い温度だ。寒くも暑くもない。
黄色い電灯が薄ぼんやりと板張りの壁と床を照らしていた。
「もうすぐ、ですかね?」イガグリ頭が言った。
なんの事だか分からず黙って見返す僕に、イガグリは重ねて言った。
「もう、そろそろ、到着しますか」
反射的に(どこへですか?)と尋き返しそうになって、僕はグッと言葉を飲み込んだ。
……慢冥市……
すべての記憶を喪失し、自分の顔さえ知らないこの僕が、何故か、列車の行き先だけは知っている。
……慢冥市……まんめい市……まんめい市……
どんな場所かは知らない。ただ、慢冥という市の名前だけが、ポツンと脳の中に書き込まれていた。
「はあ……たぶん」僕は曖昧に答えた。「いや……でも、どうでしょうか。良く分かりません」
「そうですか」とイガグリが言った。「まあ、しかし、直きに到着でしょう……もう長いこと走っているから……ああ、ちょっと失礼」
彼は立ち上がって、網棚からスーツケースを下ろした。
革を張って四隅を金具で補強した、コゲ茶色の鞄だ。
彼はスーツケースの中から茶色の小さな紙袋を出して隣の席に置き、再びケースを網棚に上げた。
それから席に座り、茶袋を手に持って開け、中から丸いパンを出してパクパク食べ始めた。