ウサギになったバリスタ
ちょっと思いつきで
私はバリスタであると同時に熱心な読書家であった。名作と言われるものはほとんど目を通したし、手持ちの本について熱く語り合う友もいた。その中で私が最も尊敬するのが夏目漱石だ。彼の作品は総じて冒頭の入りが心地よい。それでいて硬い語調の中に少しばかりの遊び心を加えたような、あの文が好きだ。
そんな彼の作品の中で私が最も読み親しんだのが『我輩は猫である』だ。あの本を読むたび、私はどこか不思議な国に迷い込んだような錯覚に襲われる。
だからこそだ。熱心にその本を読んでいた私だからこそ、このような怪奇現象の対象として神は私を選んだのだろう。
私は喫茶店の窓に身軽に飛び移り、外を眺めながらそっと独り言を呟いた。
「我輩は猫である。」
言うと同時に私は幾ばくかの達成感に浸った。特徴ある耳、真っ白な毛並み、凛々しく尖った口髭。およそ人間とは似ても似つかないこの姿が今の私である。最初に変身した時にはそれはもう醜いほどに狼狽えたものだった。だが時間が経つとこれはこれで面白いものだと、この現象を楽しむようになった。特に「我輩は猫である」なんて生涯使うこともないであろうセリフを臆面なく言えるのは実に嬉しい。
さて一段落した後、私は窓から降りようとさっと後ろを振り返った。
そこで私が見たものは深く吸い込まれるような青い瞳であった。蛇に睨まれた蛙とでも言うべきだろうか。金縛りにでもあったかのように動かぬ私を余所に、その目の持ち主は静かに口を開いた。
「ウサギです。」
たった一言である。それだけ述べて開店準備に戻っていった。それからようやく私はその目の持ち主を認識した。彼女は私の孫である。私が変身して以来、彼女には私の補佐としてこの喫茶店で働いてもらっているのだ。しかし、もう中学生になる孫に家の手伝いをさせるのはどうだろうかと頼みながらも不安に思っていたのだが、そんな不安とは裏腹に彼女は二つ返事で了承してくれた。もしかして友達がいないのではないだろうか。私の喫茶店では常時アルバイトを募集しています。
しかし、孫とはいえ聞き捨てならないことを言ったものだ。私のこの姿を見てウサギなどとは片腹痛い。私はすぐに言い返した。
「我輩は…」
「ウサギです。」
速すぎる。今しがたテーブルの上を片付けていた人間の反射速度とは思えない。私は『猫』と言うことすら出来なかった。
しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。私は再度言い直した。
「いや、どう見ても猫だろう。」
「ウサギです。」
すさまじい執念深さだ。彼女には絶対に私をウサギにしようという『凄味』がある。
「だいたいこの喫茶店はラビットハウスじゃないですか。」
そう言って彼女は店の看板を指差した。確かにその通りだ。名付け親も私である。だが、特に意味があってこの名前をつけた訳ではない。まして当時の私に、自分が人でないものに変身してしまうことを予想して名前を考えろと言うわけにもいかない。
「それに…」
どうやら孫はまだ言い足りないらしい。どうせなら全て聞いてやろう。そして、それから反論してやるのだ。私は続く言葉に耳を傾けた。
「私はウサギの方が好きです。」
まるで時間が止まったかのような衝撃が私の体を走り抜けた。彼女は手に持っていた盆で顔を隠しそのまま奥へと退いていった。
何か憑き物が取れたような爽やかな気分だった。私は何を意固地になっていたのだろうか。
気づけばまだ窓の縁から自分が降りていないことに気づいた。私は後ろを振り返り、窓の外を眺めて言った。
「我輩はウサギである。」
『暗き闇夜に光あれ』の続きは、もうすぐ…出来上がると…思いたい…。