好きになる理由、キスをしたくなる理由
「そういえば思ったんですけれど、櫻先輩って、なんで総花先輩のことが好きになったんですか?」
なんでそんな質問をしてしまったかわからないが、気づいたときにはそんな言葉を投げかけていた。
「どうしてだろうね」
かっこよかったから。
頭がいいから。
自分に対してだけ優しいから。
強いから。
この人の夫に対してはいくつでも理由付けできそうなのに、目の前の少女ーー自分よりも年上だから女性と言うべきかーー首を傾げながらも即答した答えに、私はどういうことですかと呆然としてしまった。
しかし、彼女は歳に合わないような、ふんわりとした笑みを浮かべて言葉を続ける。
「自然な流れだったということだよ、野苺ちゃん」
桜が散って、少し汗ばむ陽気の昼下がり。
学園都市の近くにある普段は静かな場所に、可愛らしい声が響いていた。
「こんにちは」
「お邪魔します」
家主に向かってぺこりと頭を下げる二人の女性。
右側の金髪の女性は手慣れた様子で部屋に入っていったが、左にいた淡い青色のショートカットの女性は金髪の彼女を追おうとしたものの、躊躇い、玄関で立ち止まってしまった。
「久しぶりだね、野苺ちゃん。ソウが今、お茶を用意してくれるから、荷物置いたらゆっくりしてて……って言っても、すぐ出かけるか」
「そうですねぇ。でも、ありがたくいただきます!」
奥から聞こえてくる女主人と友人の声に、はたして自分が出ていってもいいものなのか迷ってしまった彼女、師節椿。
出ていこうかと迷って行ったり来たりしているときに、近くのドアから出てきた青年に見つかってしまう。バツが悪そうな顔をした彼女に一瞥をした彼は手にしていた茶器を奥の部屋に持っていき、すぐさま戻って、玄関近くの部屋の電気をつけて彼女を手招きする。
「椿くん、ちょっと来なさい」
淡い青色の髪の女性は青年には逆らえなく、怒られた子供のようにしょんぼりとついて部屋に入る。
「どういうことだ。今日は野苺くんだけと聞いていたんだが」
この部屋に招かれるのは家主たちの実情を知っていて、彼らの許可があった者たちだけ。
今日、二人が招いていたのは金髪の女性だけであり、椿は招かざる客であった。しかもかつてこの家の女主人に暴言を吐いたことで、青年から接触禁止令が出ていたくらいだった。
その青年、陸亀総花は彼女にどういうことだと問いただすと、椿はモジモジとしていたが、やがてバツが悪そうな顔で説明をはじめた。
「私もそのつもりでした。だけれど、野苺さんがどうしても私を連れていきたいと駄々をこねて……廊下で言い争いをしていたら、茜さんに見つかって『どうせなら櫻ちゃんのお守りをする人が必要だろうから行ってあげなさい』って」
この襲来には本家が絡んでいるらしい。世話焼きな"姉"の存在にそういうことかとため息をつく総花だが、表情を引き締めて椿に向きあう。
「次がないのはわかっているだろうが、よろしくな」
たしかに椿も中学生のときに伍赤家に奉公に出されることはあるくらい強い。とはいえ、妻に暴言を吐いた彼女をあまり側に置きたくないというのも本心である。
だから、釘を刺すのを忘れなかった。
「もちろんです。行ってらっしゃいませ」
彼女自身もそれは理解している。
だからこそ、この家に来るのが嫌だったが、任されてしまった任務はしっかりとこなすつもりだ。
はいとしっかり頷くのを見た総花は、少し不安げな彼女を尻目に部屋を出ていった。
「そういえばこの前、櫻先輩とそんな話をしたんですが」
今日は二人の記念日だ。
去年の今日、二人は関係者たちに嵌められて結婚式を挙げた。
そんな二人のためにと、自発的に召喚された金髪の女性、野苺は雇い主の手伝いである書類仕事をを進んで行う。
さっさと終わらせるために、いつもの三倍速で書類を片づけている総花を横目で見ながら、なんで櫻が総花のことを好きになったのかという疑問をしたという話をする。
「なんでわざわざ俺にするんだ」
「すごく気になるんです」
くだらないというため息を吐きながらも、書類を捲る速度は変わらない。しかし、少し視線を上げた総花はわからんなと思いだしたように呟く。
私の気持ちなんて、総花先輩はわかりゃしませんよと、拗ねたように口を尖らす野苺に違うと首を振る。
「いや、櫻がなんで俺を好きになったのかという部分だ」
彼の答えにえええぇ!?と叫ぶ野苺。
無責任じゃないですか?と聞き続けるが、別にと澄まし顔で総花は続ける。
「そもそもアイツは榎木さんという結婚できる相手がいたし、そうなるべき相手がいた。それを振ってまで俺を好きになる理由がわからないし、わかるつもりはない。アイツがあそこまでこだわりを見せたのが俺だった。俺にとってアイツの側にいる理由はそんなもん……――ただの自然の流れだ」
さすがは幼馴染ですねぇと呆れ混じりに呟く野苺。
まさか同じ答えをもらうとは思っていなかったようで、いいですねぇとやけっぱちのように頷く。
それを見た総花はわかっているのか、そうじゃないのか、だろうなと相変わらず涼しげな顔でそう続ける。
「そういや、お前はだれか好きなのか? ああ、そういえば高校時代に好きな奴がいるとか言ってた記憶があるが、そいつとはどうなったんだ?」
まさか本人にそう言われると思ってなかった野苺は書類から覗くようにして、それ無自覚で言ってます?と尋ねるが、反対にどういうことだ?と返され、もうなにも言い返せなかった。
「……いえ、なんでもありません」
櫻先輩以外は目に入ってないって本当なんだよなぁと小声で呟くが、総花には聞こえなかったらしい。なんか言ったか?と聞かれたが、いいえーなんでもありませんと、手をヒラヒラさせて気を逸らせる野苺。
どう答えようかと迷った挙句、頷いて喋りはじめた。
「そうですね。その人とはまったく縁がありませんね」
「それはその人に会えないっていうことか?」
たしかにカモフラージュした。
だが、そういうことではないと内心苦笑しながら首を横に振る。
多分この人はハッキリと名指しされても気づかないだろう。だからこれでいいのだ。今ではもうそう割り切ることができた。
「いいえ、毎日のように会ってますし、今でもすっごくお世話になってます。だけれど、その人は私のこと――違いますね。奥さんのこと以外は一切興味を持たない人で、私のこともはたして女性と認識しているのか怪しいところですね」
躊躇いなくそう放たれた言葉に総花はそんな男がいるのかと驚くように野苺を見つめる。彼女はこれだからとどう言い返そうかと悩んだが、諦め、咳払いをするだけに留めた。
「ええ、いるんですよ」
目の前にね。
そう心の中で付け加えた野苺は、それ以上野暮な言葉は出さなかった。
「でも、私はそれでいいんです」
「そうなのか」
「ええ。だって、その人たちがすっごく幸せそうにしてるところを見ているだけで、私も幸せになれるんです」
それでも、ほんの少しだけ羨ましそうな眼差しで彼を見つめる。
この人なら気づかないだろう。
ただそれくらいの含みで。
「そうなのか」
「はい。普通にしてても、お砂糖の入ってないコーヒーが欲しいですし、ときには胸焼けするぐらい甘々なときがあるから、お腹いっぱいなんですよ」
「へぇ。だったら邪魔したいとは思わないのか」
胸焼け発言にすぐさまそう質問した総花。
これが計算してのものならばタチが悪いが、この人の場合、そうではないと断言できるから、あえて即答した。
「思いません。その人たちは憧れであり、尊敬すべきであり、それに守るべき人たちなんですよ。昔はラブという意味での"好き"でしたけれど、今は尊敬する愛、という敬愛での"好き"ですね」
彼女の返答にむしろ総花のほうが驚いてしまった。昔の彼女ならば、邪魔してもおかしくはない。信頼をおいていないわけではないが、意外だったのだ。
目を瞬かせた彼に微笑む野苺。
「だから……もしその人たちの仲を引き裂くような輩が現れれば、私は迷いなくその場で手に掛けるつもりですし、その輩から仲間に加わらないかと言われても、私は迷わずその人たちに報告します」
「そこまでするべき人なのか」
「はい」
再び柔らかく微笑んだ彼女にそいつらは幸せ者だなと無表情で言う総花。
野苺はその本心に少しだけ心の中で毒吐き、そしてゆっくりと深呼吸する。
「じゃ、作業再開しましょうか」
自分のくだらない恋愛談義のお陰で手が止まってしまっていたことを指摘し、早く終わらせないとと彼を急かした。
* * * * *
ぎこちない空間でぎこちない手つきで紅茶を飲む。緊張しすぎて、味はさっぱり感じられない椿。
そんな彼女の気持ちを理解してるのかわからない目の前の女性はふぅと息をついて、カップをソーサーに静かに置く。そして、ニッコリと椿に向かって微笑む。
「ねぇ、椿ちゃんもソウのこと好きなんでしょ?」
「へ?」
おもわず間抜けな声を出してしまった椿に、その人はその笑みを崩さないまま続ける。
「だってさ、私のこと嫌いじゃん」
「えっと、櫻さんのこと、嫌いじゃ」
そういうわけではないと必死に首を振るが、その人、皆藤櫻はじっと見つめてくる。
「嫌いだよね?」
再びされた質問に根負けしたが、素直に言いたくもない。せめてものの抵抗とばかりに模範回答を口にした。
「そうですね、昔は嫌いでした。今は尊敬すべきというか、総花様とともに守るべき方です」
ツンとした澄まし顔の椿に、櫻はもう一度声を出して笑う。
「ふふっ、お手本の回答ありがとう」
「……どういたしまして」
どうやら自分の取り繕った気持ちなんてお見通しだったらしい。
だからもう、取り繕う必要はないと諦めた。
「私はあなたのことが嫌いです。だから、もし万が一、総花様かあなたか、選べと言われたら総花様を優先いたします。それが皆藤への反逆に繋がろうとも」
その彼女の宣言に櫻はあっけらかんとした表情としていいんじゃない?と満足気な顔をする。
櫻の反応に拍子抜けした椿。
しかし、その答えはすぐにわかった。
「だってさ、ソウは私を守るって言ってくれているけれど、そうすると、ソウを守る人がいないじゃん? もちろん、ソウは強いから私を守りながらでも自分自身をある程度は守れるだろうけれど、だれか一人ソウをきちんと守ってくれる人がいるのは嬉しいな」
どこまでこの人たちは互いを守りあってるのだろうか。きっと死ぬまでこの関係は続くのだろう。そこに自分がつけいる隙は……
しかし、素直になれなかった椿は、あえて櫻を傷つける言葉を口にする。
「あなたっていう人は変ですね」
かつての主からは"次はない"と脅されているが、構わない。もう私は地獄に堕ちる覚悟はできている。
そんな決意を固めている椿に対して、櫻はキョトンとした顔でそうかな?と呟く。
ええ、そうですよ。
もっと傷つき、夫に泣きつけ。そうすれば私はあなたたちのことなんて考える身分じゃなくなるんだから……
そう願った椿は勇気を出して、さらにボロカスに言うことにした。
「私のことを嫌ってもらうための昔話をしましょう」
ふぇ?
いきなり話が変わったことに目を白黒させている櫻。
そんな彼女をほったらかしにして、勝手に話を進めることにした椿。
「去年、櫻さんが変装して伍赤家に現れたとき、私最初から気づいていたんです。最初に私があんなことを言ったとき、総花様は無意識だったのかもしれませんが、櫻さん――雀さんを後ろに庇いましたよね。そのときあなたはホッとされたでしょ?」
総花よりも先に変装していたのではないかと気づいたのは事実だ。
でも、そのときではない。
後々考えてみれば、というだけだ。
しかし、当の本人はそうだったねと信じきっている。これが演技ならばすごいが、おそらくそうではないだろう。
「多分、私がそう思いこんだ、そう言ってしまったのは……いいえ、なんでもありません」
あの言葉を使ったのは勢いだと、今でも思いこんでいる人がいるし、その人にそのことで言われ続けているが、椿にとっては違う。
あれはわざと出した言葉だ。
「どうしたの? 教えて」
それを知られてはいけない。
そう思っていたのに、目の前の人は易々とその決意を崩しにかかってくる。
少し迷ったが、私に嫌われるんでしょ?とニッコリ言いきられ、改めてこの人には敵わないことに肩を落とす椿。
「これ、総花様本人には言わないでください」
「確約はできない」
本当はだれにも知られたくない。
が、この女性に知られることになるのならば、もう一人にも知られることになるのはわかりきっていることだ。
諦め、わかりましたとだけ言って、椿は小さく息を吸い、事実を話しはじめた。
「私……だけではありませんが、見たことがあるんですよ。総花様の荒れた姿を」
その内容に、眉を顰める目の前の女性。
たしかに彼女の前では彼女のことではいつも穏やかな彼がそこまで豹変したとはにわかに信じられないのだろう。だが、嘘でしょとは言わない。
彼女にもなにか心当たりがあったのかもしれない。
「七年前、薄に戻ってきた総花様はそれまでとは別人のように荒れていて」
そこまで言って、唇を噛む椿。勝手に敵視していた女性の表情が一切抜けていることに気づいた。
あくまで噂でしか聞いたことはないが、つい最近、この人はかつての主のために自ら囮になったらしい。たとえ武芸諸派の頭であっても、元主の隣ではそうではないらしい。
「片っ端から手合わせさせられて、それでもまだ荒れ狂っていて、あのとき葵様がいらっしゃらなければ、なにが起こっていたか」
「だから、私のことが嫌いなんだね。ソウを変え、ソウに首領の座を捨てるように仕向けた本人として」
あのときのことは時間が経っても忘れられない。
でも、今こうやって話しただけで、もうどうでもよくなってしまったが、それをおくびには出さないでおこう。
はいと無感情で答えた椿の決意に気づいていない櫻は、くぅんと唸って、紅茶を一口啜る。
ティーカップを置いた櫻は再び微笑む。
「だったら、ここにあるもので私を殺してもいいよ?」
花のような、まるで無邪気な、少女のような微笑み。
主よりも強いはずの女性とは思えないその言葉に、驚くことしかできなかった椿。
「多分ソウもわかってくれるし、いいタイミングだと思うよ?」
櫻はほら、私は抵抗しないよ?と手をヒラヒラさせるが、できませんと椿は絞りだすのが精一杯だった。
たしかに戦闘ではなく、今の無抵抗な状態だったら勝って、殺せる自信はあるが、そうではない。
その理由に気づいたのか、気づいていないのかわからないが、相変わらず無邪気になんで?と聞く櫻。その質問をこれ以上、はぐらかすことはできない。
「総花様の"命令"だからです」
呟きにも近いその答えにえ?と聞き返した櫻。もう一度、ハッキリと言わなければならない羞恥心を乗り越え、今度はしっかりと伝える。
「伍赤担当の私にとって総花様からの命令は絶対なもの。だからあなたを殺すことはできません」
椿の答えにふぅーんと鼻を鳴らす櫻。紅茶を一口啜り、身を前に乗りだしてニヤリと笑う。今までとは違う笑いだ。
「もう首領じゃないのに?」
「それでもです」
今回は明らかに皮肉が混じってるが、それでも主を想う心は変わらない。
そう言いきると櫻は思いっきり声を立てて笑い、変わってるねと涙目になって言う。
「櫻さんには言われたくありません」
その姿にぷいと顔を背ける椿。
しばらく経ったあと、ですが、と続ける。
「まだ時間がかかるかもしれませんが、総花様の隣に立つあなたを理解していきたいと思います」
紛れもない本心だ。
またこうやって会えるとは思ってないが、それでも。
「じゃあ、ソウをよろしくね」
「はい?」
「ソウを守るのは野苺ちゃんと椿ちゃんの大事な役割だよ?」
話はこれでおしまいですと紅茶を飲んでいる最中にそう言葉をかけられた椿は、おもわずむせるところだった。
気持ちを落ちつかせてから、反論する。
「ええと。あなた自分がなに言ってるかわかってます? あなた、奥さんなんでしょ?……って、そういうことではなく。私はあなたのことが嫌いなんですよ? 普通、そんな人に大切な人を守らせるのは変です」
それでも目の前の人は椿の思惑を超えていくらしい。再び可憐に微笑んだ櫻はそうだねぇと考えてから、椿にトドメを刺した。
「そうかもしれないけれど、ソウがこの家に椿ちゃんをあげている時点で、認めている証拠。ソウを守ってもらのには十分な理由だよ。だから、なにかあったときにはソウをよろしくね」
嫌われる作戦は失敗だったらしいと椿は悟る。
どこまでもまったりとしている櫻にやっぱり変ですと拗ねたように言うが、そこに毒はもうなかった。
二人のやりとりを見計らったかのようにドアが開き、話題にしていた人が入ってきた。
「ソウ、おかえり」
「ああ」
櫻は話をしていたときと同じようにふんわりと笑って、夫に抱きつく。
総花のほうは一瞬、抱きしめ返したが、そこに椿がいることに気づいて、こら、と櫻を引き剥がす。
なにがソウを守ってねだ。
十分あなたが守ってるじゃないですか。
私をつけいらせる、いや、だれにもつけいらせる隙なんてないじゃない。
これは失恋、なのだろう……いや、すでに去年の時点で失恋はしていたのか。それを私はだらだらと未練がましく引きずっていただけだ。
「では、私は失礼します」
グタグタと言い訳をしたくなった内心を押し殺した椿は、相変わらずの無表情でそう言い、二人の空間を逃げるように去った。
椿が嵐のように去っていった部屋の中。
タイミングよく現れた総花を見て、なにをどう切りだせばいいのかわからなかった櫻だが、彼のほうからとりあえず座るかと言われた。
「聞いたみたいだな」
定位置である膝の上に座った櫻の頭を撫でながら、隠すつもりはなかったが、特別聞かせるつもりもなかったと明らかにした総花。
それに櫻は文句を言うつもりもかったが、そうねと迷った挙句、ごめんとだけ呟く。
「なんに対してだ? あのときのことはだれにもどうしようもなかった。それにお前は張本人なんだから、どうすることだってできなかっただろ?」
言いたいことを察してしまった総花は、先手で封じた。彼女の顎を右手ですくって持ち上げ、しっかりと視線を合わせる。
「まあ、聞いてしまったんならどうしようもないが、椿くんは根っからの悪い奴ではない。少々伍赤首領至上主義なのが玉に瑕だが、腕は立つし、なにより桐花さんの妹だから安心してお前と二人きりで会わせることができる」
総花は椿が櫻を嫌っているというわけではないことを気づいている。
伍赤時代は彼女の話をしばしば聞きたがっていたし、あのあとも思い出として櫻の人となりと聞き、いつかは皆藤家に行くんだと言っていた。
そんな彼女が櫻を"総花の命令"だけで傷つけないことを決めたわけではないことを知っている。
「それだけじゃないと思うけどね」
「どういうことだ」
しかし、櫻はクスッと笑い、ソウもバカだねぇと顎を掴まれていた右手を外す。
「総花のことが一人の女性として好きだっていうこと」
「そんなバカな」
この部屋から出ていくときの彼女の目は、まるで恋する少女そのものだった。
自分にはなかったもの。
それをしていたのは椿だけじゃない。
でも、多分それに気づかないのは本人だけだろう。
「あるよ。だって、そうじゃなきゃ、いくら茜さんに言われたからといって、私と話すことなんてない。彼女は気持ちに踏ん切りをつけるためにここに来たんじゃないかな?」
櫻の説明にそうかとだけ呟く総花。彼にはそれがどんなものなのか知らない。
「うん、きっとそうだと思う」
わかったら、それは悪い人になっちゃうよ。
そっとその言葉を飲みこんだ櫻。
「そういえば、野苺くんの好きな人を知ってるか?」
「うーん、直接は聞いたことはないけど、だいたい想像はつくよ」
前々から気になっていたんだがと尋ねるとギュッと総花の胸元に頭を押しつける櫻。しっかりと支える手を振り払わないことをいいことに、総花は強く抱きしめる。
「俺らの知ってる人か?」
妻のあいまいな言葉に核心を突くと、やっぱりそれって、わざとじゃないよねぇ?と呆れられた。
「どういう意味だ」
「文字通りの意味だよ……その様子じゃ、わざとっていうことはなさそうだね。うん、知ってるよ」
本人が照れ隠しでもなんでもなく、本当にそう思っているのがわかっている櫻は前半部分は小声で、後半はしっかりと……ややヤケクソ気味に返答した。
「そいつと結ばれることは」
「ない」
「そうか」
「かわいそうだねぇ」
ジト目で返答したのに、それでも尚、気づいてない本人に、ハイハイとこの話はもう終わりましょうと櫻は切り上げることにすると、そんなもんかとさらに強く、抱きしめられる。
好きな人の温もりに包まれながら、本人には届かないような小声でそっと呟く。
「ま、それもソウのいいところか」
いつもよりちょっとだけ豪華な食事を終える。
総花がリビングでちょっとだけ仕事の続きをしていると、先に風呂から上がった櫻が隣にきて、腰かけ、彼の膝の上に寝そべる。
昔は世話焼きな叔母から"黒猫"と評された彼女も今では、彼限定でその片鱗を残すだけだ。
「明日からはしばらくソウに会えないから、今日中にソウを堪能しておかないとね」
「だいぶ言うようになったな」
もうそんな時間か。そう言って、書類を片づける総花。
普段は、基本的に人前では夫婦という関係性を見せない二人。だからこそこうやって二人だけの時間は貴重であり、互いに求めあってしまう。
「それ、褒めてるの?」
昔は自分から彼のことを求めていた。とはいえ、なんやかんやあったあと、交際ゼロ日婚が決まったときは自分から求めるのは不適当なのではと思ってしまった。けれども、それはお前じゃないと叱られたことで、最近では前のように甘えることにしている。
もちろんだ。
そう言って、総花は空いている手でそっと櫻の頭から頬、首筋をなぞっていく。くすぐったさに身を縮こませるが、振り払うことはない。
「ねぇ、ところで」
「なんだ?」
一通り撫でられたあと、総花の首元に顔を埋めて香りを堪能しながら、あることを聞く。
「この前、野苺ちゃんに聞かれたんだけど、なんでソウは私のことが好きになったの?」
「うん? なんでだろうな? 好きになるのに理由って必要か?」
なんかこないだも似たような会話をしたような。
そう思ったが、記憶違いの可能性もあるから、口を挟まなかった。
「ううん、必要ないよ。ソウが側にいてくれるだけで、私はいい」
「そうか」
小さいときからずっと側にいた存在。
どんなに笑っても、泣いても、運命が引き離そうとしても切れなかった縁。
それに理由なんて必要ない。
総花は櫻の答えに俺も同じだと言って一度は部屋を出たが、なにかを思いだしたようで、戻ってきた。
「そういえば野苺くんに聞かれたんだよな?」
「うん。どうして?」
今日の昼だ。
逆のことを彼女は櫻に聞いたと言っていたのだ。そう言うと、そっと目を逸らす櫻。
どうやら仕組まれた質問だったようだ。
「いたずらが好きな黒猫には罰が必要だな」
いまだに寝そべってる櫻の唇にいきなりキスをする総花。真っ赤になる櫻だが、それに構うことなくまたあとでと言って今度こそ、出ていった。




