遠き山に陽は沈みて
薄の夏はよく日差しが届く。季節が秋に移り変わろうとしている文月の末。日が照り付ける中、一頭の馬の鳴き声が薄の中心、霊幽山の頂付近に響く。
お館様のお戻りだぞという下男の声を皮切りに、使用人たちが主人を迎えるために屋敷からぞろぞろと出てくる。
その中には鮮やかな小袖を着た若い女性もおり、大きくなったお腹を抱えながら出てくる様を見た年かさの侍女が心配そうに彼女に尋ねる。
「奥方様、中でお待ちしておりましても、蘇芳様は責められないでしょうに」
「いいのよ。動いてないとすごく不安なの」
左様でしたか。奥方――蘇芳の妻、楓花の言葉に不安ながらも承諾した侍女は彼女を支えるためにそっと後ろに下がる。
しばらくののち、馬にまたがった直垂姿の四十がらみの男、この山の主である蘇芳が現れた。供とともに現れたその男は武人というにはあまりに細いが、しかしどことなく鋭い雰囲気を醸しだしている。
「お早いお戻りですね」
「ああ、今帰った」
楓花が代表して出迎えの言葉を述べると、にこりと笑って馬から降りる。手綱を下男に預けた後、彼女の腰に手を回して家の中に入っていく。
はじめて会ったときは細すぎた体をしていた楓花は今では女性特有の丸みを帯びているが、それでもどこか消えてしまいそうな雰囲気をまとっている。彼女が逃げていかないように閉じ込めておきたくなった蘇芳は、すぐに自分の浅ましさをすぐに後悔した。
家に入り遅めの昼餉を取り終わった後、板の間で寝転ぶ蘇芳に今回の外出の成果を尋ねた。
「今日は真菰様とどのようなお話を?」
「ちょっといろいろとな。きちんと決まったら、お前にも話す」
今回は通常の節句の会議ではなく、なにかしら縹君――この国の暗部を任されている裏の将軍――である海棠真菰に用事があったとかで、彼のもとを訪れていたのだ。
大事なことであるのだろうが、まだ彼女に話す時期ではないとやんわりと拒否した蘇芳に気を悪くする楓花ではない。政に女子が出しゃばるなと小さき時分から習ってきたというのもあるが、理由はそれだけではない。
「左様ですか。蘇芳様が良いと思われる頃合いで結構ですよ」
「すまんな」
彼と出会ったのは三年前。
それ以来、楓花が蘇芳のそばを離れたくてもできない。だから、彼に従うしかない、いや、彼の意に反することをしたくない、というのが彼女の本音だった。
柔らかく微笑んだあと本音を隠すようにそそくさと立って、格子戸を下す楓花。そんなこと雲谷にでもさせればいいのにといつも蘇芳は言うのだが、そんなことを聞く楓花ではなかった。
「今年もかなり暑うなりますね」
「そうだな。途中で干からびてしまうかと思ったわ」
「蘇芳様なら、ここまで徒歩でも戻ってまいられましょうに」
この霊幽山は東にある叡山峰と同じくらいの高さ。長月の終わりごろから水無月ごろまで雪が積もるが、夏はとにかく暑い。馬でそこそこ楽をしたはずの蘇芳がそうぼやくと楓花に冗談を言われたが、おもわずそれを想像してしまった彼は遠い目をしてしまった。
「おいおい、俺もいい歳だ。麓からここまで徒歩で登ってくるのは若い衆に任せればいい。そういえば楓花こそ、体の調子は悪くないか?」
「ふふっ。蘇芳様はどんなときも私の心配をしてくださるのですね」
「そりゃそうさ。なんせ無理やりお前さんをここまで連れてきた身だからな。自分のことよりも気になってしまう」
「あら、お口が達者なようで……――でも、ありがたいことにおなかの中の子も順調に育ってきております」
軽口から反対に自分を心配されてしまった楓花は頬を赤らめ、蘇芳の横に寝転ぶ。自分の健やかな姿にそうかと頭をなでた男に、次はいつ草蓑に行くのか尋ねると、重陽の節句だと即答された。
重陽の節句は菊の節句とも呼ばれており、長月の頭に行われる。今回わざわざ行かなくても、そのときでよかったのではと思った楓花だが、おそらくこの人のことだからなにかあるのだろうと言うことができなかった。
「その次の上巳の節句にはお前さんにも来てもらわなければならない」
次に言われたこと楓花は驚いてしまった。
節句の会議は女人禁制というわけではないが、女人が立ち入ることはない。せいぜい手伝いのための海棠家の親族ぐらいだろう。
しかし、蘇芳は海棠の縁者でもなんでもないし、楓花もまた然りだった。だから驚いてしまったのだが、そんなことを気にする性格ではない。軽く受け流すことを決めた彼女はふんわりとほほ笑む。
「左様ですか。まあそのときにはこの子も産まれてきておりますでしょうし、季節病にさえかからなければ問題ございませんでしょう」
「よろしく頼む」
自分自身の葛藤さえ隠す彼女を蘇芳はそっと抱き寄せる。
しばらくの間、蝉の声一つしない場所で二人そっと静かな刻を過ごした。
夜、蘇芳は本邸の離れ――使用人たちの間では星見の塔に来て、一人酒をあおっていた。
『ともに天上の君を支えてくれないか』
そう言ったのは、異国の血が入っているという薄茶の髪の男。
それまでこの霊幽山にこもって山伏もどきをしていた蘇芳にとって、まさしく青天の霹靂といった話だった。そのころの彼にとって、天上の君――天子やら将軍といった存在はどうでもよかった。ただひたすら己の肉体や精神を極めることだけが彼にとって生きがいだったから。
しかし、この男――海棠真菰はあきらめなかった。
『お前さんの家は代々二刀を極める一族。この国に必要な和を叶えるためにも、お前さんの力を貸してほしいのだ』
なぜそれを知っている。
すでに彼の実家は滅ぼされている。かつて同じ主君につかえたが、些細なことで敵対した家によって。それを知るものはほとんどいない、いなかったはずなのに。
『もちろん今までの領地や俸禄などはそのままで結構だ。そうだな――これは今、声かけてる家だ』
海棠真菰はたたみかけるように紙を差し出してきた。
どんな家々を集めたのだろうと冷やかし半分、そこに書かれた名前を目で追ったのだが、どうやらこの男は本気だったらしい。当時、当時の朝廷で武芸師範をしていた三笠や傘挿、大江の名前があったのだ。
それほどまでに本気なのだろう。
その心意気に根負けした……――せざるを得なかった。
蘇芳は真菰にその場で忠誠を誓うことを決めた。
『この国の裏となる存在、それを私たちは創り上げたいのだ』
その真菰の言葉に従って、朝廷や幕府に仇なす輩を数多く屠ってきた。その過程で得た戦利品という言い方はおかしいが、楓花もその輩の家から奪うようにしてさらってきた。
褒められた所業ではないの彼自身がよく理解している。
けれど、彼にとって真菰に仕えるということはそういうことだった。
この霊幽山に仕えるもののほとんどは、彼が真菰について戦をしてきた証。だからこそ自分は恨まれるこそすれ、決してだれかを幸せにできるとは一切考えていなかった。
『もし離反者が出たり、百家衆からの離脱を求む輩が出てきたらどうするんだ?』
そして先日、そういった心境の中で日常を過ごしていたとき、ふと思い至ってしまった。
『たしかに息子に家督を譲った後に出ないとは言いきれないな。しかし、それを止める手段は今のところない』
『だったらこうするのはどうだ?』
どうやら海棠真菰という男は自分だけのことしか見えていなかったようだ。そこで蘇芳は提案をしてみた。
しかし、縹君はお気に召さなかったようで、胸ぐらをつかまれた。
『蘇芳。お前、なに言ってるのかわかってるんだろうな?』
もちろんそれが突飛なことだと蘇芳自身も分かっていた。
とはいえ、目の前の主であり同志が目指すものを作り上げるには汚れ役も必要だ。その役割を彼自身が担おうとする言葉に、その言い草はないんじゃないかと思ってしまった蘇芳。
しかし、真菰もただのお人よしではない。
つかんでいた胸倉を放し、蘇芳を一切見ずに言い放つ。
『百家衆の中でも上位に立つ五人衆。今までは伍赤をその中に加えていたが、もしお前がそれを望むならば今後一切、五人衆の中には加えないよう法に記しておくことにする。もう一度よく考え、上巳の節句までに答えを出せ』
もう一度考え直すように諭された蘇芳は俺の考えは変わらないのにと思いつつも、その期限にやられたと気付いた。
たしかにこの発言は俺一人だけの意見だ。妻の楓花にはこの話をしていなかった。
真菰と出会ってすぐならばいざ知らず、今は楓花がいる。そして、まだ彼女の腹の中にいる赤子も。
だから少なくとも彼女にはその話をしろ。暗にそう命じているということに気づいたのだった。
やがて冬になり、上巳の節句を迎えた。百家衆の当主たちが海棠の領地、草蓑に集まる。そこで宴会をするのが百家衆発足後の恒例行事だった。
いつもならば一人で行く蘇芳だが、今回は楓花と生まれたばかりの息子、梢之介を連れて向かった。自分はむさくるしい男ども中で酒を飲まなければならないが、彼女たちは海棠の女人たちが世話してくれる。
宴もたけなわになったころ、楓花たちを回収した蘇芳は宴会場を抜け出して真菰のところへ赴く。
彼は百人衆を作り上げる前に奥方を流行り病でなくしているが、後妻をめとっておらず、屋敷の奥、彼の居室周辺は静かだった。
「蘇芳、お前にまったく似ておらんな」
「戯けたことを。ここの部分とか、俺にそっくりじゃないか」
「子煩悩すぎるのもどうかと思うぞ」
入って早々、梢之介を楓花の手から奪った真菰にお前に似ていないと言われた蘇芳は思わず向きになって言い返したが、真菰の顔には悪そうな笑みが浮かんでいた。
「お前に言われたくない」
一本取られたとむくれるが、すぐに真菰は本題に入った。
「で、例の件、考え直す気はないか?」
「ああ。お前の望むものを俺は創り上げる」
問われたことに頷く蘇芳。梢之介が生まれて落ち着いた後に楓花には話し、理解してもらった。しかし、彼には後ろに控える楓花の手が震えていることに気づかなかった。
蘇芳の返答に真菰は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするが、楓花がそっと目を伏せたのを見、蘇芳が強引に納得させたのだろうと気付いてしまった。
「なに。俺の得物はここ数十年で一人と言われる刀匠、藤田古閑の名作だからな。そのおかげでここまで怪我せずにこれたし、死ぬ気がしない」
彼の得物である双刀の作り手は近代随一の名工、藤田古閑。
彼が作る刀はどんな災いも避けると言われており、蘇芳の持つ《湖》もその一振りだった。
「さすがに万が一のことを考えてあと数年、できれば七年は待ってもらいたい」
一応、どんな災難でも避ける名刀を持っているが、さすがの蘇芳も若干、今回の話に恐怖を抱いている。
そんな中、まだ生まれたばかりの梢之介を遺していくわけにはいかないという思いがあった。
「……たしかにそのほうがいいかもしれん」
真菰も幼子が死ぬ可能性を否定できなかった。妻とともに三人の子供を亡くしている彼にとって、他人ごとではなかったから。
「それはそうと、これでお前が目指した百家衆の完成まであとわずかになったな」
あくまでも明るくふるまう蘇芳。その炎のような熱さに真菰はそうだなとすべてを彼にゆだねることを彼自身も納得した。
七年後の重陽下旬。草蓑の海棠邸に蘇芳も楓花もいた。
「とうとう……お行きになられるのですね」
今日は重要な儀式の日。
蘇芳は必死に引き留めようと心の中で葛藤している楓花を抱きしめたくなったが、今ここで抱きしめたら決意が揺らぐことからそれができなかった。
ああと振り向かず言う背中に、いってらっしゃいませと深く頭を下げる楓花。蘇芳の姿は旅装とは言えないシンプルな装束。まるで死に装束のようないでたち。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、いってくる」
楓花は彼の背中に絶対に帰ってきてくださいませと、彼の姿が見えなくなってからも心の中で祈り続けた。
* * * * *
それは美しい武人でした。
生家が炎に包まれる中、彼は私を殺しに来たのだと理解していた。
私の家が天つ君に仇なした家であること、それに天罰が下ったのだと女人でも知っていた。だから、父母ともに先に自害し私もそのあとを追おうとしていたが、どうにも覚悟が足りなかったようだ。震える手で鞘から懐剣を抜き首元に当てた瞬間、だれかに引き留められた。
『綺麗な女人だ』
振り向くと、年は父母よりも少し若い殿方。
私の手首をしっかりと握っていらっしゃったその方は、私の目を見てそうはっきりとおっしゃっていた。
『このまま斬り捨てるには惜しいな。かといって、迦具土神にやるのも馬鹿らしい』
持っていた懐剣を取り上げると、私を抱き寄せてくださった。少しごつごつとした鎧が邪魔をしたけれど、それを上回る熱をその人から感じた。
これは屋敷を取り囲む炎の熱ではない。
『どうかこのまま手を放さずに俺とともに来てくれぬか』
その言葉があったからこそ、自分の運命をあなたに預けていたのに。その貴方が炎の中へ還っていくなんて。
絶対に帰ってきてくださいませ、蘇芳様。




