あつくなる
金属音。白い点が太陽に重なるように飛んだ。エースは振り返ることなくマウンドに膝をついた。エースと向かい合っていた四番打者が確信してそっとバットを置く。そして歓声が起きた。球場に響く歓喜の声の中で僕の隣に座っていた彼女は肩を落とした。そんな彼女にかける言葉を僕は見つけられない。彼女がチームに費やした献身は今この瞬間に終わった。整列のコールがかかる。この先にはもう進めない。
「君、帰宅部だよね? 野球部に入らない?」
背後から声をかけてきたのは小麦色の肌をした女の子。野球帽を被り太陽のように笑う彼女は眩しい。突然話しかけられて呆然としている僕に彼女は続けた。
「体育祭で見たけど、足、速かったよね? それは凄い武器になるよ!」
彼女はぐいっと顔を近づける。大きな瞳が至近距離で僕を見つめる。恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「野球とか、やったことないです……」
「大丈夫! たぶん!」
しどろもどろの僕に彼女は根拠のない自信をぶつけてくる。
「いや、でも、あの……」
「とりあえず入部届取ってくるからちょっと待っててね」
そう言い残して彼女は走っていった。彼女が見えなくなってからじんわりと汗が吹き出してくる。五月の中旬、気温はそれほど高くないのに夏みたいに暑かった。
野球部はあまり人数が多くなかった。試合になれば全員がベンチ入りできた。だから僕でもベンチ入りできたし、足が速いという理由で代走として沢山の出場機会を貰えた。
練習はキツかったけど楽しかった。フライが捕れるようになる。速いボールが打てるようになる。盗塁が決まるようになる。全てが糧になるような気がした。そして何より彼女が笑ってくれるのが嬉しかった。
初めての試合。僕は代走で出場した。一塁に向かうときに練習中に聞いた彼女の言葉を思い出した。
「盗塁は一歩目の勇気! 走り出したら止まらず二塁に滑り込むべし!」
頭の中でピシリと言い放つ彼女。いけそうな気がした。
一塁から投手を凝視する。一挙手一投足に注目する。足を上げたのが見えて僕は走った。一心不乱に二塁を目指す。待ち構えていた遊撃手のタッチを掻い潜りベースに足を滑り込ませる。審判がセーフのジェスチャーをすると自然と小さなガッツポーズが出た。動悸がおさまらない。身体が熱い。記録員としてベンチにいた彼女を見ると目が合った。彼女は親指を立ててニコりと笑った。盗塁はまた成功するような気がした。
「何度思い出してもナイスランだったよ!」
試合が終わって帰り道、彼女は何度も同じことを言った。僕の初盗塁を何度も祝ってくれた。それが少し気恥ずかしかったが褒められて嫌な気はしなかった。僕が走れば彼女はこんなにも喜んで、笑ってくれる。僕はもっと練習しようと思った。
彼女は僕より一つ年上で先輩にあたる。野球部には彼女より年下は僕しかいなかったから、彼女は僕のことを後輩くんと呼ぶ。
「後輩くん、次の試合ついにスタメンだよ!」
興奮気味に彼女は言う。スタメン。そう伝えられただけで胸が高鳴る。ただの練習試合。それでも僕にとっては大仕事だった。試合前日はよく眠れなかった。
試合は負けた。僕はヒットを打てなかった。バントもできなかった。三つもエラーをした。九番レフト。初スタメン。何もできなかったどころか足を引っ張った。上手くなった気でいた僕は悔しくて泣いた。何より彼女に笑ってもらうことができなかったのがつらかった。試合中、一度も彼女の顔を見ることはなかった。そして次の日の練習を仮病で休んだ。野球をやりたくなかった。
「よかった! 元気そうだね!」
早い時間に家に帰った僕を訪ねてきた彼女は部屋に入るなり言った。
「お見舞いにアイス買ってきたけど食べる?」
「なんでうち知って……」
「先生に聞いた! で、食べる? 食べるよね?」
僕の返答を聞かずに彼女はカップアイスを二つ出した。そして僕より先に食べ始める。
「暑い時期のアイスはたまらないね。後輩くんも早く食べないと溶けるよ。あ、それとも溶けたアイスを飲む派?」
「そんなことはないんですけど……。じゃあいただきます」
ふたりで黙々とアイスを食べる。気不味い。時間はゆっくり流れる。冷房の効いているはずの部屋なのに暑い。
「じゃ、私帰るね!」
「え?」
アイスを食べ終えた彼女は立ち上がりドアノブに手をかける。しかしなかなか部屋を出ようとしない。しばらくして彼女の背中越しにポツリと声が聞こえた。
「野球、嫌いにならないでね」
いつものような快活さはない。彼女らしくない小さな声。
「失敗はつらいけどさ、もしそれで嫌いになるのは勿体ないよ。それ以上に楽しいこと多いと思うから」
彼女は今どんな顔をしているのだろうか。どんな気持ちだろうか。胸が痛くなる。彼女はきっと笑っていない。不安を押し殺すように俯く彼女に僕は何ができるか考えた。思い付いたのは一つだけ、これだけしかできない。僕は壁に立てかけていたバットを握って勇気を出した。
「素振り、見てもらえませんか?」
「素振り?」
振り返る彼女に向けてフォームを確認するようにゆっくりバットを振る。足を活かすためにダウンスイングを意識しようと彼女に初めて言われたアドバイス通りにスイングをした。振り切った後、彼女と目があった。キョトンとした彼女の顔が次第に笑顔になっていく。
「あはは! 良いスイングだね。私のアドバイス通りだ!」
彼女は笑った。僕はまだ野球を続けることにした。
そしてまた練習の日々に戻る。怪我もよくしたし上手くなっている実感もなかったが、辞めることは考えなかった。彼女がいるから。
そして季節は巡る。野球を始めて一年と少し。彼女にとって最後の大会がやってきて、そして負けた。僕は代走として待機していたが出番が回ってくることはなかった。
「いや〜、負けちゃったね!」
最後の試合を終えて学校に帰ってきた僕はグラウンドを見渡せるコンクリートの椅子に彼女とふたりで座っていた。彼女の手には泥だらけの練習球。太ももの上で遊ばせるようにこねている。
「……去年のさ、私が君をスカウトした時のこと覚えてる?」
どこか遠くを見て懐かしむように彼女は呟く。
「結構強引にさ、君を引っ張ってきたよね」
「そうですね。ほとんど強制みたいな感じで」
「あはは、手厳しい。あの時さ、なんで私が君に目をつけたかわかる?」
「足が速いからじゃないんですか?」
「それもあるけど、もう一つ」
人差し指を立てて謎かけをするように彼女は僕を見た。
「君、本当は野球やってたでしょ?」
「……実はちょっとだけ。なんでわかったんですか?」
「走ってる姿を見たとき。あれは野球の走り方だよ」
「意識したことなかった……」
「案外染み付くもんだよ。でさ、気になって調べてみて帰宅部だと知ってなんで野球辞めたんだろって思って。理由は分からなかったけど走り方が染み付くまでやってたのに辞めたの勿体ないって思っていても立ってもいられず声をかけたんだよ」
「そうだったんですか」
「お節介だし嫌がられたらって思った。でも私、野球が大好きだからもし嫌いになってたんだとしたらまた好きになって欲しかったんだ。自分勝手かもしれないけどね」
彼女のボールをこねる手が止まる。
「それでさ、一年とちょっと、また野球やったけど好きになってくれた?」
彼女は不安そうに僕の顔を見る。彼女に付き合わされた日々を思い出す。野球はまた好きになったと思う。そして野球を続けられた理由は――
「そうですね、好きになったと思います」
「ホント!?」
彼女の顔がパァッと明るくなる。その明るさに僕はいつも満たされていた。きっと初めて会ったときから。
僕は立ち上がって一歩を踏み出す。思い出したのは彼女がくれた盗塁のアドバイス。
「だって、大好きな先輩の笑顔が見れるから」
僕は笑った。彼女は一瞬驚いた後、顔を真っ赤にして俯いた。季節は夏。体が熱いのはきっと気温のせいだけではないと思う。