レイニー
ある雨の日、不幸な事故により一人の少女が
その命を落とした。それから彼女は、雨の中
ただ佇むだけ。自らの死に気づかず未だ自分の
死んだ日に囚われているのだ。
六月が雨を連れてきた。灰色の空の下、人のまばらな裏通りを歩く。紺色の傘に雨粒が当たり、ポツポツと心地よい音を立てていた。車が走り抜け、濁った飛沫をあげる。僕が歩いていたのは、歩きたいからだった。あるいは、逃げたかったのかもしれない。家に居場所がない、かといって行きたい場所もない、交遊する友人もいない。言い訳をするつもりはないが、父の仕事の都合で転校が多いために友人を作らない生き方に慣れてしまったのだ。失うくらいなら、何も手にしない方が痛まずに済む。だから僕は今日も一人、知らない道を散歩する。
ビルの隙間に、一人の少女が佇んでいる。同年代か少し上らしかったが、見たことのない制服だった。雨にさらされ、ずぶ濡れになっている。表情はよく見えないが、どこか一点を見つめているらしい。僕はしばらくの間、彼女を見ていた。というより、見惚れていたと言った方が正しかっただろう。彼女がこちらを見ることはなかった。それにもかかわらず、不安は自意識過剰にも僕にささやく。知らない人に見つめられて、彼女は変に思っているのではないかと。何か、口実が欲しかった。彼女に話しかける口実が。僕が一方的に抱える気まずさを、打開してくれる口実が。
「あの」
声が上ずる。顔が熱くなるのを感じた。ケラケラと嘲笑されている錯覚に陥ってしまう。それでも彼女がこちらを向いたので、中断するわけにはいかなかった。
「傘、使いますか」
彼女は首を横に振った。遠慮していたのかもしれないが、押し付けも迷惑かもしれないだろうと思考は逃げ腰に言う。そそくさと、逃げるようにその場を去った。
それから何度か、彼女のいた場所に行ってみた。きっと僕は彼女に惚れていたのだろうし、同時に同情してもいたのだろう。それは彼女があまりに綺麗で、あまりに憂いを帯びた瞳をしていたから。次に彼女に会ったのは、あの時と同じ雨の日だった。彼女はずぶ濡れのまま、一点を見つめている。視線の先には電柱があり、お供え物が置かれていた。空き瓶が倒れて地面に散乱している。もしやすると彼女は、ここで起きた不幸な事故に心を痛めているのかもしれない。僕は瓶を立て直し、花を拾い上げ差した。彼女が小さくお辞儀をする。心なしか、彼女の表情が少し緩んだ気がした。からというもの、雨が降ると彼女の元へと通った。雨の降っていない日も同じ場所に行ってはみたのだが、彼女が現れるのは雨の日だけだった。彼女は決して語らない。ただ、表情や身振り手振りで答えてくれる。何かを言おうと口元を動かす事はあったが、彼女の言葉は空気を震わせるには至らなかった。必然的に、僕の話ばかりになってしまう。一緒に笑って泣いてくれた彼女が何を思っていたのか、僕に知る術は無い。これを書いている今、すべては終わっているのだから。
夏が来た。父の転勤が決まったらしい。明日にでも出発するのだと。空は雲ひとつない快晴で、彼女に別れの挨拶をすることはできそうにもなかった。僕がこの手記を書いているのは、ある言い伝えのせい。或田市を出た者は或田市で起きたことを忘れるという。これは備忘録。彼女を忘れないために、書きとめなければならないのだ。
八月も半ばを過ぎ、幅をきかせていた暑さが翳りを見せはじめる頃。僕は数人の友人と、或田市に行くことになった。なんでも花火大会があり、「神の手」と呼ばれる凄腕の花火師が打ち上げるらしい。電車が或田市に入ったところで、思い出した。ここで彼女に出会ったこと、そしてあまりにあっけなく別れたこと。この手記に書きとめていたのに、今の今まで忘れていた。知っていたのに、夢の中のように現実感を掴めずにいた。全て、思い出す。
電車を降り、会場に着いた。空は白いキャンバスに藍を一滴垂らしたような夕方の色、花火が上がるまでにはまだもう少し時間があるようだ。道の両端に屋台が並び、白熱灯の橙色の光に照らされ人々がひしめきあっている。上空から、冷たいものが落ちてくる。予報外れの雨だった。雨は急激に勢いを増し、瞬く間に土砂降りになる。スピーカー越しに、ノイズ混じりの放送が聞こえる。花火大会は中止とのことだった。
「もう、帰ろうか」
「ああ」
友人たちは口々に言う。彼らに背を向け、僕は言った。
「ごめん、用事を思い出したんだ。先に帰ってて」
走り出す。彼女のもとへと。風が吹き荒れ、傘はさせそうになかった。それでも、止まれない。雨に濡れるのも、今は気にならなかった。彼女はそこにいた。空を見上げ、何かを期待するような顔をしている。
「久しぶり」
彼女がこちらを見る。
「花火、見たかったのか」
彼女は首肯する。
「ちょっと待ってて」
雨は相変わらずだったが、風は幾分か収まっていた。折りたたみ傘をさし、近くの売店に駆け込む。
マッチと手持ち花火を買い、彼女のもとに戻った。彼女の表情が明るくなる。折りたたみ傘の下、僕らは小さな花火大会を開いた。
大方を消化し、残りは線香花火だけとなった。先端から燃えて光って、灰になって落ちてゆく。この時間の終わりを象徴するようだった。
「また、しばらくは来れないんだ」
彼女はこちらを見、視線で訴えかける。
「でも、いつかまた来るから」
彼女は首を縦に振り、小指を立ててこちらに向けた。
「指切りげんまん、な」
すっかり暗くなった街で彼女と少しばかり話をする。いつまででもそこにいたかったが、終電の時間が迫っていたため発つことにした。
今、電車の中でこの手記を書いている。これを読んでいる僕はきっと覚えてはいないのだろうが、どうか彼女を悲しませないことを願う。