五月雨屋の地下
オムニバスなので続いたりとかはないです。
気が向いたら更新するし、いつ終わるか分かりません
或田駅前のデパート・五月雨屋には、立入禁止の地下がある。バリケードによって厳重に封じられたそこには、核シェルターがあるとも異世界への扉があるともいわれている。
寂れた無人駅に、一台の電車が停まった。男はただ一人電車を降り、駅前の商店街を歩いてゆく。土曜日の昼間、それも大通りだというのに、道往く人はまばらでそこかしこにシャッターが降りていた。変わり果てた街並みに一欠片の感傷を覚えた、彼は帰郷したのだ。
男は考える、何を言えばいいのだろう。ずっと顔も合わせていなかった、女手一つで自分を育ててくれた母親に。ミュージシャンになる夢が叶わなかったことか。都会に行っても、何一つ変われなかったことか。或いは、それでもなんとか楽しく暮らしている、なんて精一杯強がってみるか。そのどれもが正解ではないこと、そして正解などないことまでも、彼は知っていた。それなのに、思いは巡る。ぐるぐる、ぐるぐる。結論など出ぬまま、男は目的地に到着した。
鍵はかかっていた。連絡もせずに来たのだから、当然といえば当然だが。家を出て以来、帰省していなかった彼にとって自分の家のインターホンを鳴らすのは新鮮でどこか奇妙だった。扉ごしに音を聞き、ふと思い出す。前にも一度、このインターホンを鳴らしたことを。忘れていたのが、彼自身にも不思議な位だった。忘れがたいほど不思議で、そして懐かしい記憶。
確かあれは、僕が12歳の時のこと。前後の経緯はよく覚えていないが、その時僕は少しばかり遠くのデパートに連れていってもらったはずだ。はずだ、というのは、これが夢や幻のたぐいだと言われても仕方のない話だからだった。それでも、あれは夢だったとは思えないのだが、とにかく、僕はデパートに行った。
もしも僕がウィンナーの試食や、屋上のメリーゴーラウンドで満足する純粋な子供なら、ああはならなかっただろう。しかし、飢えた鬼とはよく言ったもので、冒険に飢えていた僕は「立入禁止」の四文字に強く惹きつけられたのである。
入り口のすぐ右にある階段を僕は母とともに昇ったが、本当は降りたかった。1階の下り階段を降りた先、立入禁止の看板とバリケードを越えた先に僕は行きたかったのだ。
トイレに行くと嘘をついて、僕は0階へと向かった。バリケードの僅かな隙間を縫って、階段へと抜ける。それは果てしなく長く、地の果てまで続いているようだった。144段ほど降りたところで、終点に辿り着く。目の前は薄明かりに照らされ、門のようなものが見えた。受付と思われる老爺が言う。
「誰だ」
「誰だっていいでしょう」
「そうか、じゃあ入れ」
不思議で仕方なかった。撥ねつけるような返答を流し、僕を中に通したのだから。普通に考えれば、中に入るべきではなかったのだろう。そんなことは、すっかり好奇心に支配されていた僕には考えもつかなかったのだが。
門をくぐると、そこには街があった。ところどころが電灯に照らされ、あちこちに露店が並んでいる。それはいつか見た夏祭りの情景そっくりで、幼い僕の心を掴むには十分すぎるほど十分だった。
と、腹が鳴る。外は昼頃だったのだろうか、僕は空腹を感じていたのだ。露店の一つに近づいてみる。屋台の奥から、小太りの男が言った。
「食うかい」
「すいません、今お金がなくて」
「要らねえよ、んなもん」
「いいんですか、ありがとうございます」
串焼きの肉を受け取り、食す。焼き鳥に似ていたが、少し違った。肉汁とほどよい塩気、よく焼けていることを示す香ばしい匂い、焼き目のカリカリとした食感、歯を入れた瞬間ほどける肉。空腹だったこと、今となっては思い出であることを差し引いても、人生最高の食事だったように思う。それだけに、僕は疑問に思ったのだ。
「すごく美味しいです。これ、何の肉ですか」
「ネズミだ」
混乱し嫌悪する僕をよそに、彼は言葉を続ける。
「ああ、その辺のネズミを取っ捕まえて焼くんだ」
「それって」
「うまいだろ」
「大丈夫なんですか」
「ああ。ちゃんと火を通してるし、感染症の心配はねぇよ」
「でも、嫌じゃないんですか」
「でも、美味かったんだろ」
「まあ、それは、そうですけど」
「あんた、ここは初めてか?先入観を捨てれば、この世界はワンダーランドだ」
彼の真意が今なら少しわかる気がする、なんて言えはしない。先入観もなしに、人は世界を直視できるだろうか。
「まあ、万が一病気になったら、ガン爺のところに行けばいい」
「ガン爺、ですか」
「ああ、ここで一番の名医だ」
「金がないから、受診できません。そうなったら医者料払ってください」
医者料ではなく慰謝料だと知ったのは、もう少し後のことだった。
「金なんて持ってないし、そもそも要らねえよ。ここじゃただの紙切れと同じだ」
「じゃあ、どうやって生きていくんですか」
「そりゃ、助け合いよ」
「物々交換、とかですか」
「そんな面倒なことしねえよ。余ればあげて、足りなきゃもらう」
「いいんですか、そんないい加減で」
「人間、いい加減なくらいでちょうどいいんだよ。遊びたきゃ遊んで、働きたきゃ働いて、食いたきゃ食って、寝たきゃ寝る。案外、人間はそれで生きていける」
「でも、それは許されるでしょうか」
「だからこそ、俺はここに来た」
「そう、ですか」
「そうだ、これも持ってけ。ゴキブリチップス」
少し考えた後に受け取った。
「ありがとうございます」
袋からそれを取り出し、おそるおそる口に運ぶ。
「うまいだろ」
「美味しいです」
「見た目は、眼に映る虚像でしかない。そんなのに価値はないんだ」
「では、この辺で」
「じゃあな」
なんとなく歩いていると、けばけばしい女に声をかけられた。
「坊や、遊んでかない」
「すみません、向かうところがあるので」
「そう生き急ぐことなんかないわ」
「遠慮しときます」
「照れちゃって、かわいい」
女が僕に近寄る。香水の臭いが鼻をついた。
「や、やめてください」
「大丈夫、お姉さんがしてあげるから」
抵抗も虚しく、僕は身ぐるみをはがされる。僕が逃げるのに成功したのは彼女がひとしきり行為を終えたあとで、手遅れだとは知っていても逃げずにはいられなかった。服を取り返すことも忘れ、街を駆ける。不気味なことに、道行く人々は誰一人としてそれを気にも留めなかった。
裸の僕は、身を隠す場所を探した。周りを見渡した中に、畑を見つける。僕はそこに駆け込んだ。それは確かに畑だったが、外の世界で見た畑と違ったのは畑の奥に白い塊があることだった。と、どこからか声をかけられる。
「あれ、お客さんかな」
「あ、はい」
あたりを見渡すが、声の主は見当たらなかった。
「どこに、いますか」
「ここに」
白い塊が崩れ、中から人が現れた。塊を形作っていたのは、蚕の群れであったと気づく。中にいたのは若い女性、容姿は整った方ではあったが、髪や爪は乱れていて病的な雰囲気を感じさせた。「一体、何を」
「戯れてた」
「蚕と、ですか」
「可愛いでしょ、可愛いよね」
「お好きなんですね」
「蚕は、人の手を借りなきゃ生きられない。この子たちは、私なしでは生きられない。この子たちの生殺与奪は、私の手に握られている」
「蚕って、哀しいですね」
「見て、蚕の糸はこんな綺麗なお洋服になるの」
「確かそれって、蚕を殺して作るんですよね」
「私のために生きて、私のために死ぬ。それって、愛じゃないかな」
「可哀想とは、思わないんですか」
「生きることが愛とは限らない。短い命を、洋服にして長く残す。それが私の愛の形」
「愛って、あるんでしょうか」
問いにもならない問いが、口から零れだす。一瞬の沈黙の後、彼女は言った。
「わかんないけど、あるって信じたいかな」
それから、彼女は微笑んで一言。
「そうそう、これ着てみてよ」
そう言うと、どこからか服を取り出した。ふと、自分が裸だったと思い出す。僕は袖を通した。
「似合ってる、似合ってる。その服、あげちゃおうかな」
「いいんですか」
「いいよ、ここは助け合いの街だから」
「でも僕、ここに来てからもらってばかりだ」
「なら、働けばいい」
働きたければ働く、とはこういうことかと少し納得した。
「僕にも、できることはありますか」
「君は男の子だから、体を動かす方がいいよね。そうだ、発電所とかどうかな」
「発電所、ですか」
「行けばきっとわかる。ここを真っ直ぐ進めばあるから」
「ありがとうございました」
道中、占い師を見つけた。面白そうなので声をかけてみる。
「占ってもらえますか」
「はい。あなたは死ぬでしょう」
「いつ、死ぬんですか」
「あと100年以内に死にます」
「そんな予言、誰だってできる」
「メメントモリ、ラテン語で死を想えの意です。人が死ぬのは当たり前、だからこそ見逃しやすい」
「死は、悲しむべきことでしょうか」
「人が死んだら、いろんなものが変わる。自分の死は感じられませんが、愛する人の死は感じられる故に恐れます」
「なるほど」
「人は死ぬことと同時に、変わることを恐れている。この街が生まれたのもそのせいです。受け入れても拒絶してもいい、目を背けないでください」
「ありがとうございました」
そこには発電所があった。とはいっても自転車が数台置かれ、繋がれた管がバッテリーにつながっているだけだが。既に何人かの者が、自転車を漕いで発電していた。発電の様子を眺めている、この場所の主と思われる人に話しかける。
「発電、手伝わせてください」
「ああ、頼んだよ」
自転車に乗り、漕ぎ始めたところで隣の人に声をかけられた。
「ボウズ、今日はなんでここに来たんだ」
「働きたくなったんです」
「そうか」
「あなたは」
「体を動かさなきゃと思って。ガン爺にも運動しろって言われたしな」
ガン爺。確か医者だったと、僕は記憶を掘り返した。僕は少しばかり興味があったので、質問してみる。
「そのガン爺って人は、どんな人ですか」
「物知りで、いつも白い粉をくれる」
僕はこの街のことを訊きたかった。それ故に後半を見過ごし、物知りという部分だけを汲み取った。
「この街のこと、訊いていいですか」
「大したことは答えらんねえよ」
「ガン爺なら、わかりますか」
「さあな、少なくとも俺と、この街の他の奴らよりは」
この時僕は決心した。ガン爺にこの街のことを訊こう。この不可思議に慣れきる前に、本当のことを知ろうと。
疲れて喉が渇いたところに、水屋を見つけた。おかしな表現かもしれないが、確かに水を売っているような様子だった。
「何ですか、その水。何かご利益とかあるんですか」
「いや、ただの水だよ。喉が渇いてるんだろ、一本やるよ」
そう言って彼は二本の瓶を取り出した。片方は濁り、片方は澄んでいる。僕は当然、澄んだ方を選んだ。一口飲んでみるが、美味しくない。というより味がないのだった。
「はずれ。そっちは失敗作だ」
「なんてもの飲ませるんですか。何が入ってるんですか」
「何も入ってない。綺麗にしすぎたんだ」
「綺麗に、しすぎた」
「嫌いなものを無くして、無くして、後には何も残らない。そうはなりたくないだろ」
そう言った彼は、濁った水を差し出した。少し甘くて美味しかった。
進んだ先には病院があった。とはいっても、机が一つと椅子が二つ、それから二台のベッドがあるだけだったが。その椅子の一つに、ガン爺は座っていた。痩せ型で色は黒く、鷲鼻に坊主頭で丸メガネをかけている。今にして思えば、ガン爺というのはマハトマ・ガンジーからきたあだ名だったのだろう。
「あなたが、ガン爺ですか」
「そうだよ」
「気になることがあるんです」
「どこだい、見せてごらん」
「そういう話じゃなく、疑問に思ったんです」
「もしかして、体じゃなく心のほうかい」
そう言うと彼は、白い粉を取り出した。
「この薬を飲めば、幸せな気持ちになれる」
「それは、大丈夫なものなんですか」
「ああ、ちょっと頭が覚醒するだけだ」
「やっぱり覚醒剤じゃないですか」
「まあ、そうなるね」
「僕は、違法薬物を吸う気はありません」
「ここに外の法は関係ない」
「法に関係なく、それは危険なんです」
「それは、先入観なんじゃないかな」
「でも、科学的に証明されてます」
「この世の中に、今の科学で説明できないことがいくつあるか」
「それは、そうですが」
「この薬を飲んだ人間は、人智を超えた覚醒をする。それを理解できないから、外の住人は危険ということにした。自分たちを正常と思い込み、超越者に狂人のレッテルを貼ったんだ。大丈夫、ここはみんな覚醒してる」
「なるほど」
結局、受け取った薬はどこかで落としたようだった。まあ、それで良かったのかもしれないが。僕は、質問をぶつけた。
「ここは何なんですか」
「理想郷、かな」
「あなたにとっての、ですか」
「まあ僕含め、ここに住む人みんなのだね」
「外に出たいとは、思わないんですか」
「外の世界に満足してたら、こんな世界望まないさ」
「僕にはよくわかりませんが、ここは住みやすそうだ」
「そんないいもんじゃないよ」
「でも、ここにはいろんなものがある」
「違うんだ、ここの本質は無いことなんだ。しがらみや、いろんなものを無くしたらこの世界ができた」
「無くしたかったんですか」
「まあ、物足りなく思うこともあるよ。例えば、芸術とか。歌が聴きたい、なんて思ったりね」
「変にうるさいよりは、いいと思います」
「ここに来るのは、もっと世界に失望してからでいい。君にはまだ、待ってくれている人がいるはずだ」
その時に至るまで忘れていたことを、僕は思い出したのだ。母さんや、それから何人かの友人は僕を心配しているだろう。いつまでもここにはいられない。
「そうでした、僕には行かなきゃならない場所がある」
そして、僕は駆け出す。
家までは、なんとか徒歩でたどり着けた。半日近くかかったが、人間の体は案外無茶がきくようだ。歩いていたのは昼間だったため、警察に保護されたり補導されたりするようなことはなかった。それから、これは後から知ったことだが、外では一ヶ月ほど経っていたため捜索が打ち切られていたらしい。それらの要因から僕は30キロほど歩くことになったが、元を正せば自分のせいなので文句は言えまい。
精一杯手を伸ばしインターホンを鳴らした。怒られるかと少し不安だったが、そんなことはなかった。ドアが開き、見えた母さんの表情は、驚きと嬉しさと安堵が入り混じったようだった。結局謝ったかどうかも、今となってはよく覚えていない。
あれ以来、あのデパートには行っていない。故に、結末を語ることはできないのだ。今考えるのは、今のこと。終わった物語ではなく、続いていく現実のことだ。
ひとしきり追想を終えた男は、目の前の扉に再び注意を向けた。扉が開く。
「どちら様ですか」
「どちらもなにも、俺だよ。息子の顔を、忘れたなんて言わせねえよ」
「人違いじゃないですか」
「そりゃ、便りの一つも寄越さなかったのは悪いと思ってるよ。でも、さすがにやりすぎだろ」
「訳わからないこと言わないでください」
そう言うと彼女は扉を閉めた。認知症にかかって、息子の顔すらわからなくなっていたのだ。そうとも知らず、男は走り出す。それは逃げるためではなく、呼ばれた気がしたからだった。自分にはまだ帰る場所がある、彼はそう確信していたのだ。あのデパートはすでに閉店していたが、そんなのはどうだってよかった。扉を破って入るのにも、バリケードをどかすのにも、彼はためらうことなどない。彼にとっての現実は、既に虚構だったのだから。長い階段を駆け降りた先には、昔と変わらぬ風景があった。
「ただいま」
それ以来、潰れたデパートの地下から歌が聞こえると噂されている。