ポチ士長
どこの駐屯地とは言いませんが実際にあったお話です。
僕は元自衛官だ。
高校三年の夏に地元を離れたい一心で、親にも内緒で自衛官採用試験を受けて、翌年の春には晴れて自衛官ライフを満喫する事となった。
当時の自衛官の隠語で言うところの入柵である。
初めて親元を離れて少し歪んだ社会人生活を送っていた過去を思い出して、今でも腹の立つ事もあれば笑える事も沢山あった。
数十年経った今でも酒のツマミに出てきてしまう程にエピソードには事欠かない生活であったが、中でも忘れ難い思い出は当時生活していた駐屯地の燃料関係の全てを備蓄していた燃料集積所だ。
燃料集積所はテロの標的にされた際には派手な事態に陥りやすく、有事の際には最も狙われる施設だと当時の上司が言っていた。
自衛隊では燃料集積所を三百六十五日二十四時間体制で警衛を張り付けて、テロや燃料泥棒から守っているが専門の警衛が居る訳ではなく、各部隊持ち回りで燃料警衛当番をする事になる。
かく言う僕も一〜二ヶ月に一度、燃料警衛の当番に就く事になり駐屯地からトラックに揺られて二十分程の場所にある燃料集積所に赴く事になった。
当時の燃料警衛は警衛司令を長とする六人で編成され、毎日朝九時に当番が入れ替わる。
これから警衛を請け負う者を上番部隊、警衛任務を終えて帰路につく者を下番部隊と言い、雨の日も雪の日も警衛詰所の前で横一列に並んだ六人がお互いに相対し申し送り事項を報告するのが常である。
当時新隊員で燃料警衛初体験の僕も他部隊の前で恥をかかない様、事前に上番下番の作法をリサーチしていたが、事前情報には無い特殊案件を前にして僕は少なからず動揺してしまった。
綺麗に整列した下番部隊の数が七名いたのだ。
下番部隊の警衛司令の横にピッタリと寄り添い、立派な髭を蓄えた毛むくじゃらの彼は僕達上番部隊を見て嬉しそうに尻尾を振った。
そう、彼は犬だった。
「異常なく申し送り下番します!」
「異常なく申し受け上番します!」
警衛の交代業務を終えて下番部隊はいそいそと帰り支度を始め、上番部隊の僕達は肩に担いだ銃を鍵が掛かる専用の銃スタンドに立てかける。
子供の頃に犬を飼っていた僕は先程の老犬がどうしても気になり、そわそわと窓の外を気にしていたら先輩がニヤニヤと笑いながら僕に向かってこう告げる。
「ポチ士長はお前よりも先輩なのだから敬礼は欠かすなよ!」
当時の僕の階級は一等陸士、陸士長の一つ下の階級である。
「え? 彼は陸士長なのですか?」
僕の質問に先輩は窓から見える小さな花壇の傍にある犬小屋を指差した。
僕がよくよく目を凝らして見ると犬小屋の入り口には、黒いマジックで書かれた表札が付けられていてこう読める。
『ポチ士長』
犬小屋も表札もお堅いイメージのあった警衛所とはあまり似つかわしくなくて、犬小屋からピョコリと顔を出して花壇のチューリップを眺めるポチ士長の表情に、初めての警衛任務につく僕の緊張もほんの少しだけ和らいだ気がした。
先輩や警衛司令の話によると、ポチ士長はある日突然やって来て居着いた野良犬だったらしい、放っておけばそのうちに居なくなるだろうと放置しておいたら犬好きの隊員達が餌付けをして、すっかり燃料警衛詰所の主となってしまい、立派な家まで頂いてしまったのだと言う。
だがどこにでも動物嫌いの人間はいるもので、そんな輩に追い出されはしないのかと尋ねたら、ポチ士長は仕事をしているのだと言う。
先輩はイタズラっ子の様に笑うと燃料警衛初体験の僕に向かい「巡回に行ってこい」と命じた。
燃料警衛の仕事の一つとして広大な面積の燃料集積所の巡回がある。
二時間に一度ランダムなタイミングで広大な土地を巡回して、侵入者の形跡を探したり不審者をフェンス越しに探したりする任務である。
「先輩。僕は今日初めての燃料警衛なので巡回ルートをしりませんよ?」
と抗議をすると
「ポチ士長に巡回お願いしますと言えば連れて行ってくれる。敬礼を忘れるなよ」
と返される。
僕は初めての警衛任務につく後輩をからかう為にポチ士長を引き合いに出したのだと思い、それならばその話に乗ってやろうと警棒をむんずと掴み上げると、チューリップを眺める老犬の下へと赴いた。
「ポチ士長巡回よろしくお願いします!」
と元気に敬礼をすると老犬ポチ士長はやれやれとばかりに立ち上がり、僕を置き去りにする様に歩き出す。
呆気に取られた僕を待つ様に三メートル程先で立ち止まると、こちらを振り向き「早くしろ」とばかりに僕を見やった。
戸惑いながらも老犬の後を追う僕は、彼のクルリと巻いた白い尻尾とこれ見よがしに突き出された肛門を見失わない様に早足で付いて行く。
脇目もふらずに歩く彼の足下には一年三百六十五日自衛官達が巡回し続けた轍が出来上がり、彼が間違いなく巡回路を歩いている事を確信する。
三十分程白い尻尾を追いかけているとポチ士長が自分の小屋に戻り、ゴロリと横になってまた花壇を眺め始めたので、巡回ルートを終えたと判断して詰所に戻ると警衛司令が集積所の見取り図を取り出して巡回ルートの答え合わせをし始めた。
「流石ポチ士長だな」
警衛司令が満面の笑みで頷いたので、僕が尻尾を追いかけ回したルートは巡回ルートとピタリと合致したらしい。
まあ、確かに素晴らしい働きだとは思うが、先輩が褒め称える程の働きをしているのかと僕にはまだ多少の疑問が残っていた。
この時の僕はまだ彼の本当の意味での働きを見ていなかったのだ。
自衛隊での警衛任務と言うのは大抵二十四時間単位での任務である。
巡回も当然真夜中にする事になるが、街から離れた山間に位置する燃料集積所を一人でウロウロ歩き回るには、人並外れた胆力が必要となる。
北海道のワイルドな環境では幽霊などのスピリチャルな恐怖も当然あるが、真夜中にフェンス越しに睨んで来る握り拳大の目玉に腰を抜かし、懐中電灯で慌てて照らすと巨大な蝦夷鹿であったり。
首を絞められている女性の様な声が聞こえると思ったら北狐であったりと、神経を衰弱させる事柄には事欠かない環境である。
当然の事ながら真夜中の巡回は誰も行きたがらないのは至極当然の事であった。
そこで便利で使えない新隊員の出番である。
「巡回に行ってこい」
「やです」
の会話の後に否応無しに詰所から追い出された僕は、真っ直ぐポチ士長の下へと駆けつけるのだ。
「ポチ士長〜、行くよ〜」
と何とも情け無い僕の掛け声に、嫌な顔一つせずに先頭をきって歩くポチ士長の頼もしさに全幅の信頼を置き、種族を超えた恋愛に発展しそうになった頃にはポチ士長の真価を僕は骨身にしみて理解したのだ。
彼が足を止めて視線を闇に向ける度に「ポチ士長? ポチ士長? やめてくださいよ」
などと懸命におべっかを使う僕は一夜にして彼に依存してしまっていた。
真夜中に不審者など見てしまったら、それはもう何がしかの不祥事を起こす事は間違いの無い。追い詰められた極限状態で、僕は不審者が目に入らない様にポチ士長の白い尻尾から目を逸らさずに巡回を続けたものだった。
ポチ士長は僕にとって魑魅魍魎の跋扈する危険な異世界を歩き回る為の伝説の聖剣エクスカリバーの様なものだった。
多分の他の部隊の隊員達にとってもポチ士長は心の拠り所であり、偉大な先輩であった筈だ。
幾度かの燃料警衛を経験し、僕もいつの間にかポチ士長と階級を並べる様になった頃に彼に異変が起きた。
僕が中堅どころの警衛要員として、新隊員を率いて燃料警衛に赴いた際に僕がいつも通り真夜中の巡回に出かけたところ、巡回ルートの途中でポチ士長がいなくなってしまったのだ。
しかもいなくなってしまったのは一番詰所から離れていて、一番闇が濃い場所であり隊員達からは巡回ルートの脂っこい場所と呼称される場所であった。
僕はポチ士長が心配になり居ても立っても居られなくなり、巡回任務を途中放棄して詰所に慌てて逃げ帰ってみたのだが、彼はいつも通りポチ士長小屋でゴロリと横になっていたのだ。
彼にこんないい加減な仕事をされると新たに警衛に就く新隊員があまりに可哀想なので、僕は心を鬼にしてポチ士長に苦言を呈する事になる。
「ポチ士長マジシャレになんないっすよ! カンベンして下さいよ! 先に帰るとかありえないっすよ!」
僕は彼の手を取り、こんこんと説教してやると、詰所に戻って警衛司令に告げ口までしてやった。
僕の報告を聞いた警衛司令は「ポチ士長もかなりのお歳だからなあ……」と苦い顔をするだけだった。
その日は使えない警衛司令に憤慨するだけの僕だったが後日、駐屯地を揺るがす様なセンセーショナルな報告が届く事となる。
僕が所属する部隊がある隊舎の掲示板の前で大騒ぎをする隊員達に、持ち前の野次馬根性が疼き隊員達に騒ぎの理由を聞くと、燃料集積所の主ポチ士長の訃報が届いたとの事だったのだ。
隊員達が口々に
「燃料集積所が機能しなくなるぞ」
と不安を募らせ時を同じくして僕は除隊を決意した。
除隊間近の隊員は本職である部隊職からは遠ざけられ、当番職がメインとなるのは昔からの慣習であり、僕もその慣習から漏れる事なく浴場当番、ゴミ処理当番などと言う面倒な当番を連日押し付けられて、日々を忙しく過ごしていたが除隊を控えたある日、久しぶりに燃料警衛任務に就く事となった。
中隊ではすっかり貫禄のついた僕は、上番下番の業務を新隊員達に教える立場となっていて、真夜中の巡回任務も何かと理由をつけて新隊員に押し付ける事の出来る有能な先輩になっていた。
燃料警衛詰所から眺める事の出来る花壇の真ん中には、花はまだ咲いていないが少し斜めに傾いだ板が刺さっており『ポチ士長のはか』と黒いマジックで書かれている。
隊員達は皆「墓くらい漢字で書けよ」と苦笑いをしながら手を合わせているのでこれはこれで良い墓なのだろう。
陽の当たらない建物の陰には、雪が所々に残っている季節なのに気の早い警衛司令が、チューリップの球根に水をやっているので水をやるのはまだ早いと咎めると
「ポチ士長はチューリップが好きだったからな」
と苦笑いを浮かべた。
僕もポチ士長がチューリップを眺める姿が鮮明に思い出されて
「そっすね」
と同じく苦笑いを返す。
あれから何年も経っているがあの花壇は今でもチューリップが咲いているのだろうか、何故あの花壇にはチューリップしか植えていないのか今は知っている人も少ないだろうが、当時を知る僕としては今も咲いている事を願うばかりだ。
僕もあれから随分と歳を重ね夜道を一人で歩く様な事もしなくなったが、どうしても避ける事の出来無い理由で夜道を一人で歩く時には心の中で
「ポチ士長〜行くよ〜」
と情け無い言葉を唱え、見え無い白い尻尾を追いかける様に歩く癖は今でも抜け無い。