十五節【救いの手】
息ができない。体が動かない。ただ心だけが……静かに燃えていた。
あの日と同じ光景。朱い月が照らす夜を、更に紅く、赤く染めるもの。
“腕が六本。足が三本。角が四本。”
“鼻が一つ。目はなく。口は無数。”
“体長は俺の十倍ほどで、柳の様な毛がまばらにあり、表面は黒い泥に塗れている。”
――そうか、お前だったのか。俺の記憶を“喰らって”いたのは。
年老いた長が語っていた。あらゆる全てを奪うと伝えられる「古きもの」。魔物の祖、災厄の化身、破滅の招来者。ひとたび姿を現せば、一つの文明が滅びたとも記される。それがあの『獣』の正体だ。
「―――ッ」
何故? なぜそんな大それた存在が、こんな場所に――?
冷静な思考とは裏腹に、心に突き動かされた体は前へと進んだ。ただ前だけを……黒い巨体だけを目指して。
獣は剛腕で家屋を倒壊させ、中に潜んでいた人間を握りつぶし、口へと運んだ。母さんの行きつけだった花屋の店主だった。気を失いそうになる腐臭は、無数の口に溜まった肉片から漂っていた。
「やめろぉぉぉぉッッッ!!!!!!」
手には平凡な銅剣が握られている。……父さんとの稽古で使っていた得物だ。
《□□■■■□■■■■□■□■■■■》
獣がこちらを一瞥し、前足とも腕とも見えるものを振るった。俺は直撃こそ免れたが、風圧だけで体ごとふっ飛ばされた。
なおも俺に見せつけるようにして人を喰らい続ける獣を見て……俺は憐れみを覚えた。
「なァ、そうでもしねェと保てないんだろ? 自分をよ」
こいつに自我があるかと言われれば「無い」。無いが故に、空っぽなんだ。だから飽きもせず喰らうし、常に飢えている。人や家畜を喰えば一時は満たされるかもしれないが、それだけではどうしても埋められないものがある。…………記憶だ。
俺が失ったものを求めたように、こいつは最初から無かったものを求めた。ただそれだけの話だったんだ。だから俺の記憶を一かけらだけでも奪った。そうせざるを得なかった。村の中で唯一生き延びた俺は、生かされていただけだった。こいつに“生の実感”を与える、ただ一瞬のためだけに。
「ふざッけんナァァァァッッッッ――――――!!!!!!!!」
駆けた。肉体の限界を超えたスピードで獣に接近し、振るわれる腕を躱し、肉迫する。
獣の口の一つに剣を突き差し、黒い返り血を浴びた。全身が爛れる感触があったが、構わず口内を切り裂いた。獣は微かによろめいた後、二本の大腕で俺に掴み掛かって来た。
俺は剣を引き抜き宙返りし、隙ができた獣目掛けて銅剣をぶん投げた。
《□□□□□□■■□□■■□□□》
金切声を何十倍にもしたような音を発し、獣は悶えた。馬鹿でかい躰にたった一つしかない“鼻”を潰した。目と耳が無い奴には、これで俺の位置が特定できなくなった。
痛みを感じているのか、辺り構わず暴れ回っている獣に対し、俺は二丁の拳銃を取り出した。今度は狙いを外さない。世界がスローモーションを超えて静止し、トリガーを引いた。左右十七発、計三十四発の弾丸を、全て獣の無数の口の中へ撃ちこんだ。
獣は全身から黒濁した血を撒き散らしながら暴れ回り、村の中央に位置する噴水に激突し、その先端が躰を貫いた。もはや音と認識していいかも分からない声を上げ、腕と足を苦しげに振り回している。
「醜い化物と思っていた。だが――」
俺も、こうなる末路だったのかもしれない。
誰にも出会わず、誰にも救われず、全てを失ったままでいたならば。
そう考えれば、こいつは俺にとって――
「――よォ兄弟。俺の『記憶』返してもらうぜ」
腕を、突き入れた。
*
「―――っ」
目が覚めた。そして、全てを思い出した。母さんと父さんの顔も、声も、思い出も全部。欠けていたピースが、ようやく全て揃ったんだ。……いや、取り戻したと言うべきか。
オカルト何かは基本信じていない俺だが……今更事実から目を背けることはできない。俺と獣は、歪んだ形で繋がっていたんだ。だから奴は『俺』を求めた。俺を喰らえば、『俺』として成り代われるとでも思ったんだろう。
「……チッ」
冗談じゃねぇ。俺はあんな化物になるつもりはないし、奴にはまだ報いを受ける義務がある。俺の思い出を焼いた代償に、奴の躰も灰になるまで焼いてやる。泣き叫ぼうが暴れ回ろうが関係ない。待ってやがれ――
燃え盛る復讐心を原動力に、体を突き動かす。……だが、イメージと反し、実際は指一つすら碌に動かなかった。地面には生暖かい血溜まりが広がっており、その出所は紛れもなく俺自身だった。
周りを見渡すと、同じく血塗れになったダンが横たわっていた。幸い息はあるが、俺と同じかそれ以上の怪我を負っていた。記憶に捕らわれた俺を庇ってああなっちまったことは、想像に難くない。
「………ぐッ……」
立てないなら、這いずればいい。全身が死ぬほど痛むが、まだ死んでないなら動けるはずだ。何とかダンだけでも――
「―――ゲホッ――!」
血を吐いた。数瞬意識が飛び、再び地に臥せる。……今ので完全に動けなくなった。血も酸素も足りない。後はここで死を待つのみとなってしまった。
「…………」
鈍色の空を見上げた。耳を澄ますと、遠くで銃声が鳴っている。まだ戦ってる奴がいるんだろうか。
死に際だってのに、妙に体が温かい。……そうか、普段からこんなに温かいものが、全身を駆け巡っていたんだな。
口元が自然と緩む。心は抗っているが、体は受け入れてしまったようだ。次々と脳のメモリーが消えて行く気がした。
「グ…………レ………」
近くで俺を呼ぶ声が聞こえたが、もうそれが何なのかも俺には分からなかった。だが、とても大切なものということだけは覚えていた。
「……………スま…………ねェ………」
潰れた喉から出た声は、誰の耳にも届くことはなかった。
――かに、思えた。
「◇◇◇◇◇、◇◇◇◇◇◆◇◇」
体が、浮き上がる。誰かに担ぎ上げられると言うよりも、天からの重力に引っ張られているような。これが死ぬという感覚なんだろうか。なら、今聞こえた“声”は……
重い瞼をほんの少し上げると、そこには艶やかな黒い髪が見えた。
「おいグレン……おい、オイ!」
「………!?」
気付けば俺とダンは、どことも知れない湖の畔にいた。
「……あ?」
「あ? じゃねぇ! お前、無事なのかッ!」
両肩を掴まれてぐわんぐわん揺さぶられる。若干の吐き気を催した。
「お前、覚えてるか!? 体中ズタズタにされたんだぞ!」
「何言ってやがる……」
尚も体を揺さぶられながら自身を見るが、どこにも傷なんて見えやしない。
「よく見ろ! 服がボロボロじゃないか!」
……確かに、自前の戦闘用傭兵服の胸元や腕部分が、引き裂かれたかの様に破けてしまっている。ダンの言うことが本当なら、俺は既にこの世にいなかっただろう。……もしや。
「ここは天国か? てっきり俺は地獄行きかと思ったんだが……」
「縁起でもないこと言うな! 生きてるよ、俺もお前も!」
ダンに胸倉を掴まれ、頬を引っ叩かれた。
「ってェな! 何しやがる!」
パァンっ! ダンの左頬を思い切り叩き返した。ダンは一瞬呻いた後、ニヤリと笑いもう一度殴って来やがった。しかも今度は拳でだ。
「コラァッ! 痛ェつってんだろ!!」
「俺も痛いっての、なぁ!!」
「訳分かんねーこと言ってんじゃねぇ!」
数回か数十回か忘れたが、俺とダンはしばらくお互いをシバきあった。痛ぇ。痛ぇが、死ぬのに比べたら全然だ。……そうだ。確かに俺たちは、さっきまで死にかけていた。だがどうしてか、今は五体満足で生きている。こんな戯れができるほどに。
「なぁオイ」
「……んだよ」
「俺達、生きてるんだよな」
「当たり前だろうが」
急速に、意識が現実に引き戻された。俺達は何故か生きているし、生きているならやるべきこともある。
「行くぞ、まだ間に合うはずだ」
「あぁ!」
俺とダンは湖から上がり、視線を交わした後、銃声を頼りに駆け出した。




