十一節【二者択一】
俺には―――七歳以前の記憶がない。
イーストスクエアの都立病院で目覚めた時、医者から説明を受けた。
「脳に損傷は見られないから、心因性の逆行性健忘、分かりやすく言えば記憶喪失だね。日常生活に支障はないと思うけど、君の年頃だと自己同一性の形成にかなり苦労するかもしれない」
覚えているのはこれだけだ。他の話はほとんど頭に入ってこなかったし、そもそも言ってる意味が分からなかった。ただ自分は記憶喪失である、という事実だけが頭の中を覆った。
医者の説明を聞いた後、若い女が俺を迎えに来た。すらりとした長身に長く艶やかな黒髪、クールな印象を受ける整った顔立ちと、モデルの様な美人だった。
「私はクローディア・バークス。今日から君の家族となる者だ」
家族、という単語に引っ掛かりはしたものの、俺はそれを否定しなかった。他に頼れる人間はいなかったし、俺には体以外何も残ってなかったからだ。それに形だけの関係であっても、身内がいると思えるならいくらかは安心できた。その日から俺は、このクローディアという女と同じ姓を名乗るようになった。
「言っておくが、私は君の母ではない。もっと近い……そう、姉の様なものと思ってくれると良い。ああ、心配しなくとも生活全般の面倒は私が見るから、そこは安心してほしい」
姉はリアクションの薄い俺に対しても全くひるむことなく、むしろ積極的にコミュニケーションを取ってきた。腹は空いてないか、眠くはないか、何か好きな玩具はあるか……等々。自分で「母ではない」と言っておきながら、完全に俺を子ども扱いしてきた。実際に子どもだったから仕方ないとはいえ、俺は徐々に反抗心を覚えると共に、感情を取り戻していった。今思えばこれはクローディアの狙い通りだったのかもしれない。
それからは、イーストスクエアのとある一角にある小さなマンションでの生活が始まり、俺はクローディアの勧めでC.W.A.に通うことになった。年齢的にも周囲とは一年遅れ程度の差で済んだので丁度良かったらしい。クローディアはC.W.A.の大学部生だったが、俺の教育にも熱心だった。傭兵学と戦闘訓練を叩き込まれた俺は、たった数か月で飛び級が確定するほど好成績になり、一年の遅れは早々に取り戻す形となった。
クローディアの弟として、またC.W.A.に在籍する傭兵見習いとして。俺の「記憶」と呼べるものは未だこれだけだが、不満はない。七歳当時から現在に至るまで紆余曲折あり、クローディアとも別居になったりと色々あったが、今の俺を形作るには十分な経験が得られたと思っている。それはクローディアのお陰ということも理解はしている。
だが―――頭の片隅でどこか引っ掛かっていたんだろう。
本当の「家族」とはどんなものだったのか。
父と母がいたなら、俺はどんな「今」を生きていたのか。
お世辞にも「一般的」とは言えない自分が、今後問題なく周囲と向き合っていけるのか。
それらの思いは胸の喪失感と一体になり、俺の心を荒ませていた。
根暗で、反抗的で、どうしようもないクズで―――。
いついかなる時も、自分を嘲笑う自分がいた。だからとは言い訳がましくて言いたくはないが、俺がこんな風に育った原因の一端ではあると思わずにはいられなかった。記憶がない、自分の出自が分からない、自分が何のために生まれてきた存在なのか判然としない。医者の言った通り、俺はまともなアイデンティティを確立することができなかった。だが根暗だとか反抗的だとか、そんなものは自分の「基礎」にはしたくない。それはもう一人の俺に押し付けられたものだから。本来の俺は違う。本当なら俺は―――
俺は、何なんだ?
結局のところ、行きつく先はそこだった。
探しても探しても、記憶は蘇らない。記憶というアンカーがなければ、俺は自分の生まれを妄想することしかできなかった。そんな淡いものじゃ、自分は確立できない。
次第に馬鹿らしくなり、記憶を掘り起こすこと自体を止めた。そんなものは無くても生きていけるという強がりと、もし記憶が戻ったら今の自分が揺らぐかもしれないという恐怖がそれを可能にさせた。
俺は傭兵見習いとして、ただ怠慢に日々を過ごすことにだけ執心するようになった。いつくたばったとしても構わない、どうせ悲しむ奴も……いるにはいるかもしれないが、それも一時のもので、すぐに忘れさられるだろう。自分すら確立できていない存在がこの世から消えたとしても、何の影響も起こりえない。俺の根底にある存在定義は、段々と薄っぺらくなっていった。
全ては記憶がないから、とはもう言わない。言う気もとうに失せている。
そもそも、最初から無かったものと思えば辛くもない。
毎日毎日自分に言い聞かせた甲斐があってか、さもしい執着もなくなった。
しかし、こう思っていたことも、また事実だ。
もし取り戻せる機会があるとしたら、逃したくはないと。
俺が何だったのかを。誰に望まれて生まれてきたのかを。
この十年、頭では諦めていたはずのモノを、心はずっと求めていた。事実だ。
記憶が欲しい。家族が欲しい。繋がりが欲しい。
探し、諦め、彷徨い、嘆き―――そうやってもがき苦しんだ先に、ようやく答えが見えた。
浮かび上がった泡がはじけるように。
飛び散った水滴が―――千の槍となって身を貫くように。
おぼろげな期待はまもなく後悔へと転じ、希望は絶望で塗り替えられていく。
俺は本当に、こんな記憶を思い出したかったのだろうか。
いっそのこと、忘れていたままの方が幸せだったのではないだろうか。
今日この時を以て俺は―――、考え得る限り最悪の形で「自分」を思い出すことになる。
*
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その“声”を聞くのは、実に十年振りだった。
俺達がサリア村からの緊急脱出口を見つけると同時に、村の中心部である集会所前の広場が突如、轟音と共に地盤沈下を起こした。ここから三百メートル程の距離だが、その様子はハッキリと目の当たりにすることができた。
「なッ、一体何が起きた……!?」
「さっさと逃げた方がいい。助かるかどうかはもう分からんが」
「どういう意味だグレン!? 一体何だと――」
「『奴』に目を付けられたら終わりってことだ。そこの脱出口から早く村の外へ逃げろ」
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“声”が次第に頭の中で大きく響くようになる。頭痛の原因がようやく分かった。聞くだけで精神を蝕み、一度耳を傾ければ二度と正気には戻れない……呪詛だ。
沈下した広場を見据えていると、“ソレ”は地中から這い出てきた。
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数秒、意識が飛ぶ。
視界が失われ、かわりに明滅する映像が脳裏に浮かび上がる。
抜けるような青空/溶け落ちるような赤闇
活気に溢れる村/死臭の漂う墓
子どもたちの笑顔/■■□■■■□■
のどかで心地の良い風景が、全て赤黒く塗り潰されていく。
これが俺の探し求めていた記憶だ。待ち焦がれていた瞬間だ。
自分の過去を取り戻し、己を確立する。……そんな幻想は、もはや抱けない。
俺の故郷は、十年前に根絶やしにされた。
俺の家族は、目の前で引き裂かれ/喰われた。
俺の思い出は、俺を苦しめるだけの地獄になった。
それら全ての元凶が、今目の前にいる。
「―――――――――」
何を思ったか? 死そのものに対する恐怖か、親を殺した仇への殺意か、あるいはその両方か。
いずれにしても、奴から目を背けることはできなかった。
「おいグレン、どこへ行く!?」
「奴を間近で見れば……まだ思い出すことがあるかもしれない」
「正気か!? あんなのものにどう太刀打ちするつもりだ!? それに今の地響きで魔物も集まって来ている! 死にに行くようなものだ!」
追い縋ってくるタレクの腕を払いのけ、俺は――
「死にに行って何が悪い? むしろ、俺の人生は今日この時のためにあったんだ」
殺意を込めて、突き放した。
傭兵としての癖か、それとも単なる防衛本能か。俺はホルスターから黒と銀の拳銃を抜き、安全装置を外した。弾はまだ一発も撃ってない。近寄ってくるハウンドは蹴り殺しながら進んだ。
沈下した広場に近付けば近付くほど、生理的嫌悪感/不快感を感じる異臭が濃くなってくる。生物の死骸をかき集めたかのような悪臭だ。
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“声”はもはや、頭に響いているだけに留まらない。肉声として、直接耳に届いている。
つまりは――もう目前に、“ソレ”が見えている。
腕が六本。足が三本。角が四本。
鼻が一つ。目はなく。口は無数。
体長は俺の十倍ほどで、柳の様な毛がまばらにあり、表面は黒い泥に塗れている。
忘れようもない。こいつが父さんを八つ裂きにし、母さんを喰い殺した。
「―――――ッ!」
俺は二丁の拳銃を構え、化物に向かって撃った。計十二発の弾丸が命中したが――
《□□□□■■□□□□□■□□》
奴は“嗤った”かに見えた。体中にある無数の口全てが、ケタケタと甲高い声を放つ。
構わず残りの銃弾を撃ち込むも、結果は同じ。まるで効いていない。
舌打ちをし、手榴弾を三つ投げ込み爆破させた。周囲に群がっていたハウンドが粉々になったが、奴は―――無傷だった。
「クソッ……!」
こんな……こんなことあるかよ! せめて傷一つでも付けることができればと思ったが、何も堪えちゃいねぇ! 何なんだ一体、お前は―――!?
ガ ガガッ ドドドドドドドドドドドドドドド!!!!!!!!
一瞬だった。銃のリロードをするための一瞬で、化物は三十メートルほどの距離を瞬時に詰めて来た。俺はワイヤーを後方の建物に飛ばし、回避を試みるも―――コンマ数秒間に合わなかった。化物の巨大な爪で胸部を引き裂かれ、血が飛び散る。
「がぁああああっっ!!!?!」
痛いなんてもんじゃなかった。単なる切り傷とは違い、傷口が焼けるように蠢いている感覚があった。空中で無理矢理軌道を変えられた俺は、そのまま勢いよく地面に叩きつけられた。あばらが何本か逝った。
痛みでワイヤーを手放してしまったせいで、もはや機動力も失われた。走ってどうにかなるレベルじゃない。俺はこいつから……逃げられない。
「ハ………………ハハ…………」
頭じゃ、分かってたんだ。村を滅ぼした化物相手に、一人じゃ何もできないことくらい。
だが、それでも逃げることはできなかった。この化物を殺さない限り、俺に生きてる価値は無いと思った。ならば―――殺す/死ぬしかない。
《■■□□□□■□□■□□□□》
化物が戯れでハウンドを喰い殺しながら、こちらへ近づいて来る。
俺もあの口で喰われるんだろうか。母さんと同じように、絶叫しながら。
腕を喰われ、脚を喰われ、胴を喰われ、頭を喰われ。最後には魂すらも喰らわれる。結局のところ俺の結末は、死んでいった皆と同じになるわけだ。それが、たった十年遅れただけだ。
「……………………」
あの時と一緒だ。俺はまた全てを投げ出し、諦めた。
今度は誰も助けちゃくれない。背を押してくれる人も、逃げ道を切り開いてくれる人も、時間を稼いでくれる人も―――この手を引き、一緒に逃げてくれる人も。
誰もいない。俺はこの村で、最後の一人になってしまった。
「う…………ぐっ…………」
涙が溢れた。喪失感が胸を覆った。忘れていた/閉じ込めていた現実が、ようやく実感として湧き始めた。この村で過ごした日々が眩しいほど、それらが踏みにじられ穢された事実に悔しさを覚えた。俺は誰も守れなかったし、救えなかった。自分だけがのうのうと生き延びて、こんな惨めな最期を迎えることになった。
《■■■□■■■■■□■□■■■》
無数の口が目前に迫る。俺は一片も残らずこいつに喰われる。人生を謳歌するでもなく、肉親の仇を取るでもなく。ただ無意味に、殺される。
ああ、何て虚しい―――
「私の弟にッ、近付くなァァァァ――――――――!!!!!!」
―――虚……しい……?
僅か数十センチまで迫った巨体に信じられない衝撃が加わり、化物は一瞬宙を舞った。
この目でしかと見たはずなのに、状況に頭が追い付かない。あの化物を「蹴り飛ばした」なんて、一体誰が信じられる……?
突如現れ、化物に凄まじい蹴撃を浴びせた人影は、長い髪を風になびかせながらこちらへ振り向いた。
「―――こら、何を呆けている。まさか私のことが見えんとでも言うつもりじゃないな?」
「クロー……ディア……?」
そこにいたのは、紛れもなく“人間を辞めた姉”だった。闇色の戦闘用傭兵服に身を包み、体罰用の棍ではなく実戦用の槍を携えた、何年か振りに見る姿。俺は知っている……傭兵としての姉は、教師の時とは比べものにならないくらい“強い”。加減なんてものが一切無いからだ。
「全く、たまには姉さんと呼んだらどうだ。……まぁ、今は仕方ないが」
姉は短く嘆息した後、俺の体を片腕で担ぎ上げた。腹部の骨が圧迫され痛んだが、「我慢しろ」の一言で釘を刺された。いつにも増して、俺に有無を言わせるつもりはないらしい。
「このまま街道まで逃げる。舌を噛むなよ」
「え、でも、アレが――――うぉっ!?」
跳躍。軽く八メートルは飛んでいる。廃墟を次々と飛び越えて、あっという間にサリア村から脱出した。桁違いのスピードだ。
「お前がどうにかすると言うなら酷い思い上がりであるし、私がどうにかできると思っているなら酷い買い被りだ」
「でも、――ッ!?」
「そうら舌を噛んだ。言わんこっちゃない」
クローディアが笑い、俺は舌と腹の痛みに顔をしかめた。あの状況から抜け出せたのは奇跡だが、そもそもなぜ姉が? ずっと追けられていたのか……?
疑問は尽きないが、とにかく俺は助かったらしい。あの場で生きるか死ぬかの選択肢しかなかった俺が、今更逃げ回ったところで何になるという思いもあるが……
「お前に話さなければいけないことがある。お前の……家族としての話がな」
結論を出すにはまだ、知るべきことが多そうだ。




