1. Red Light
もともとは短編小説にする予定で執筆をしていましたが、長くなってしまったので、前編と後編の2話で構成される連載小説になりました。
後編は、前編の投稿が完了し次第、すぐに投稿します。
ぜひ続けて読んでいただきたい。
よろしくお願いします。
-----2016/8/16 一部、本文の体裁を改めました。
はあ・・・また前置きが長くなってしまった。
昔からの悪い癖なんです。
退屈なさっていたでしょう?申し訳ない。
でも私は嫌いではないのですよ。
このお喋りな脳髄が忌まわしくも愛しい所以は、いつでも一切が油断ならないところにあるんです。
気を抜けばすぐに空虚になってしまうのですから、面倒でも怠らないことですね。
その点に神経を集中しておけば、自分自身の不可解さに身を浸して楽しんでいられるし、ある意味では私が一番であることを前提に世界を創り上げ、今日も笑って過ごせる訳ですから。
・・・それでは本末転倒か?
まあとにかく、その男子学生の話をしないと。
― ― ― ― ―
あの辺で一番華やかな豪邸の、すぐ隣にですよ?
あれほど汚いアパートが、腐り切って肥え切った、最早直視に堪えないあの婦人が住む豪邸の隣に建っていたんです。
報われない者同士、明らかに根を張る場所を間違えてしまったようだ!
まあ、その婦人は犬の糞の始末が非常に下手くそだっただけで、件の男の生活には、あまり関係が無いんですがね。
まったく、金色の像ひとつをちらりと見せてやるだけで、その種の匂いに弱い者を簡単に釣り上げてしまう。
生臭い漁船のような佇まいをした彼女の家は、男の出入りが著しく頻繁であったので、彼女自身、生物学的にはまさに人間そのものといったところですかね。
四六時中裸で過ごしているのとさして変わりませんな。
彼が生活していた二階建てのアパートメントのことです。
建設されてまだ間もない頃は、今ではあまり見られなくなった、真っ白で綺麗な直方体のようでした。
むしろ、現代のほとんどの建造物に見られる芸術性の進展に費用をかけるよりは、ある意味効率的と言えるでしょうね。
綺麗なものほど廃れるのが早いようで、現在ではもう梅雨の雨雲の景色にぴったり重なってしまっているかも知れません。
いえ、既に崩れて消えてしまったかもね。
彼はすぐにでもそこを出て、もっと"まともな"住居に入りたかったでしょうね。
何せ景気の向かう先に関係無く、いつの時代でも持ち得ない金に頭の八割方を支配されている学生でしたから。
何とかして保っていたかった。
誇り高くある自分を。
誰よりも崇高で唯一絶対な自分を、です。
くだらない音楽を聴かないし、くだらないテレビ番組に耳目を貸さない。
くだらない言葉には何も言わず、心の奥の方ではちょっと笑ってあげるだけ。
くだらないとか、ある程度は深刻だとか言う時に用いる基準は、例えば彼なら、彼の中に一人だけ世界を見下ろす神様のような人物を想像することでした。
彼はまず、人のする宗教の一切を、それが人間的にまったく妥当なものだと思っていたからです。
最終的に何かに縋ろうとすることは、遙か遠くから覗き見られる微生物程度の人間であれば、至極当然だということですね。
先天的な精神の都合で神を創り出したとして、彼自身がそれをしているのと変わらなかったわけですから、少なくともその基準は余りにも突飛な妄想に過ぎなかったし、彼自身が今まで見てきた世界が丸っきり色褪せてしまったので、結果的には自分の首を絞めてしまうのでした。
それでも貫きさえすれば生活は安定していくと信じていたので、次にたった一人、自分だけが救済を与えられるべきだと考えるようになりました。
だから彼は、自分だけが世界で唯一人間であるという、ある種子供じみた、しかし飛躍が過ぎて否定しようの無い思考に、いつまでも縋っていたのです。
自分だけが人造機械人間なのかも知れない、なんて思うことは決して無かった。
いずれにせよ、証明なんてできやしないのにね。
まあいいでしょう。
彼にしてみれば、脂の乗った隣人と決して相容れない位置に居るだけで、とりあえずは多大な幸福感を充分に感じていたのです。
― ― ― ― ―
もちろん、彼にも変化はありました。
女の事です。
不思議で、不可解で、またある種形而上学的な不可能性に満ちた女性と寝たいと思うのは、至極当然な事ですが、後の彼にとっては決定的な誤算でした。
いや、それ自体に問題は無いでしょうが、彼は手に入れようとした女を、幾度となく疑いにかけてしまった。
自分にとって最も不都合な女で、それが彼を昂らせた結果、彼女はことごとく罠に嵌ってしまった。
しかし女は分かっていた。
その時、二人は暖炉の傍にいるかの様に、互いの温かさを感じながら深い深い薄暗さに身を隠していました。
彼女は自分の身体を売って生活していたということ。
彼はそこで初めて知った。
まるで、それまで抱いていた心象世界が音を立てて崩れ、心を満たしていた充足感の欠片でさえもが、煙霞の奥深くに消えていってしまう様でした。
もちろん、大抵の場合は、売春に深い理由なんて存在しない。
彼女はいつでも活き活きとしていて、また表情を作るのが一番得意でした。
おどけて見せたり、何かと不満そうな顔をして見せたり、ある時には涙を流して男に縋りついて見せたりもした。
祈祷をして見せた。血を吐いて見せた。心に傷を付けて見せた。
それの決して偽りで無いことが彼の大部分を満たしていました。
彼女は現代人の模範となっていました。
豊かに、自らを大胆に告白して見せていた。
最後には現代人全てを総括し、それらを完全に否定することを目標としてね。
こうすることで、彼女はただ逃げ回るのでした。
全ての人間の希望通りに彼女は手足を働かせていた。
彼は思いました。その末に彼女が見つけた桃源郷こそが、自分なんだと。
それまで何も得られなかった、空っぽの両腕が、初めて温度を持った。とね。
そんなのは嘘だって?確かにそうだ。
これについてはまた後でお話ししましょう。
しかしながら、道のりは決して死ぬまで終わらないんです。
この身の"100"が完成される瞬間があるとすれば、それは死あるのみ。
その精神の助けとなった事象は全て糸で繋がれていた。
希望が無いというのは、言い換えれば時空間における感傷の運搬に、中継所が存在しないということです。
心身の休まる場所が無い。
大地を掘り返しては埋めるだけの肉体労働にも似た、切なさも儚さも無い、ただひたすらに苦痛、苦痛が降ってくる。
最も恐ろしいものを想像して御覧なさい。
ええ、もう十分ですって?
彼女もまた、続けなければならなかった。
それは、そう、死ぬまでね。
しかし、誰もが最終的に我が身を売りに出さなければならないということは、最も上手に結節点を生み出す方法であるべきで、まったく普遍的なものだったのです。
皆が皆そうすることで、まるで呼吸をするかのように、虚栄心で胸をいっぱいにしていたのです。
彼女の例はその一部に過ぎない。
それに彼は気づけなかった。
救えなかったのだと思いました。
そして長い間、心を閉ざしていた。
それが偽りであったかどうか。
もちろん心当りがあるはずだ。
あなたにはね。
― ― ― ― ―
それから十数年経った頃、彼は街に出ました。
国中の富裕層と奴隷とが利害一致の錯覚を見て集まってくるところです。
かつて彼の女が雇われていた店も、赤色のネオンに輪郭を吸い取られながら存在していました。
同業の店も、至る所で点滅している。
これもまた、支配層の古い趣味嗜好の一部分でしょうね。
いつまでも自分を信じて離れないでいる人達は、明らかに他とは隔離された幸福に浸っていられたのです。
初めから人間はそうして成長していった。
気に食わない人間にならないよう努めることを教えられ、また教育者や支配者にとって不都合な人間にならないためだけに、道徳心を学ぶのでした。
不当な創始者が自身を正当化するためだけに生み出した学問は、いつしか不当な人間を罰し、社会から叩き出すだけのものに変わっていったのです。
まだ成れの果てとは言えませんよ。
繁栄も崩落も、順序というものはきちんと存在しているのですから。
たとえ目に見えるのが一瞬だとしても、その前兆は遠く昔から息を潜めて待っていたのですからね。
もし世界が終わるようなことがあっても。
― ― ― ― ―
さて、それはちょうど長い雨が止んだところでした。
最低コストで刷られたタブロイド紙は水溜りに沈められ、拙くともまるで細胞のような繊維が解離し、乾き、知らぬ間に飛んでいく。
人々の眼が一瞬止まっては、何事も無かったかのように離れていく、ある自殺学生のニュースを、彼は睨みつけながら思うのでした。
確かに存在した、彼の憎しみの矛先は、死者のみならず四方八方に向けられたのです。
そして考えるのを止めました。
彼にとっては深刻な問題ではありましたが、大衆思考の愚鈍な歩みに身を削られ痛めることを、どうにかして避けようとしたのです。
それは今にも自殺学生の二の舞になってしまいそうな自分を、どうにか安全な場所へ退けるようで、一方では、街そのものの手が、邪悪で不貞なゴミそのものをひらりと掃き去っているようにも見えました。
街は涙で溢れていました。
誰もが悲しみの涙を人々にもたらそうとして、我先にと徒競走の演出に勤しむ街です。
当然ながら、彼はその風潮を嫌っていました。
だってそれは、もうとっくに完結した、或いは最初から存在しない、抜け殻のような感傷だと知っていましたから。
常識を知らない者など、ここには一人もいません。
もしここで豪傑症を患っている風の人間がいるならば、それは、脇目を振るものかと必死に俯き、そのまま徘徊してやっと常識を無視していられるというだけ。
自らが率先して引き受けた重たい荷物を、まるでわざと引きずって歩いているような彼のことなんか、誰も気づかない。
今までに吐き捨ててきた数々の嘘が、逐一確認しなければ安心できなかった正直な心臓部に流れ込んでくる。
遂に区別が付かなくなって、やがて雑踏の中に立ち尽くしていました。
しかし彼の帰着点が、その抜け殻共のそれと言葉上はまったく同じであるということに、彼はこの上ない絶望を感じるようになったのです。
"生きていることに何の意味があろうか?"
"必死になることの何処に結末が見えるだろうか?"
といった感じでね。
どんな人間でも、最終的には辿り着く点があった。
結論だけ見ればまったく違いが見当たらないのだから、プロセスを踏むために長い時間をかけた彼や同類の人間たちは、等しく窮地に立たされたのでした。
それはもう、ずっと前から繰り返されていることです。
とても、とても昔からね。
・・・・・
お疲れ様でした。
後編に続きます---