神秘の正体見たり、ただの裸体
一枚の壁。それと、空気。それに紛れ込む微細な粒子の数々を隔てたその奥から水音が聞こえてくる。
時折、男声とは異なるキーの高い声が交じっていた。
やや高い位置にあるガルウィング式の窓からは湯けむりがほわほわと出てきている。
そこを凝視していたトトは、やがて窓の下に屈むと俺を見て親指で自らの背中を示した。
おいそれ俺に乗って中を見ろと言っているのか。
抗議の眼差しで抵抗していると、やれやれとトトは溜息を吐いて接近してきた。
「目の前に神秘が広がってるってのに、尻込みするなんて、ミッツマンはそれでも男か」
「神秘は隠されているから神秘なんだよ」
「それを暴きたくなるのが男の性だろうが」
「そんなサガは生憎とっくの昔に放棄してる」
額を突き合わせる勢いで、小声で言い合う俺達。
と。不意に、肩に急な重みが加わる。トトの顔とくっつきそうになるも、踏み留まって事なきを得た。
「危うくトトと初めてのチューをする所だったぞ、ふくちゃ――」
肩口を見て、そこにあった顔に言葉が途切れる。知らない男だった。いの一番に男で良かったと安堵している自分が居る事に愕然とした。
「さっきあんたが言ってた、神秘は隠されてるから神秘だって言うの、おれはそれが真理だと思うんすよね」
その男はそんな俺の懊悩を知りもせず、陽気な表情で顔を寄せてくる。
「やっぱ、見えそうで見えないくらいがちょうどいいと思うんすよ。だって見えちゃうと、あれじゃないっすか。神聖さっていうの? それがなくなっちゃうじゃないすかー? っと」
俺はそいつの腕を解いて、瞬時に距離を取った。結構緊急事態でもある気がするけど、無意識でサイレント行動をしてしまったのは場所柄のせいだろう。
トトも俺とは反対に逃れて、そいつを挟みこむように陣取る。ふくちゃんはシャワー室と対面する形になるように移動して、包囲網の完成だ。
面識のない相手だからといって、行き過ぎた対応に思えるけど『こういう相手』にそんな事は言ってられない。
そういう手合いとは、ルネ美や大上のような異常なほどに気配を全く感じさせない連中のことだ。触れられるまで、俺達は認識すらできていなかった。
「ちょ、待つっすよ。唐突に剣呑っすね」
俺達に囲まれて視線の集中砲火を浴びたそいつは慌てた様子で小声で話し掛けてくる。
「いきなりパーソナルスペースに踏み込んだのは悪いと思ってるっすけど、怪しいのはお互い様じゃないっすかーっ」
瞬きの時間すら惜しんで、見逃すまいとそいつを観察する。身につけている服は西校の制服で、乱れなくきっちりと着込んでいる。
装いは優等生のそれだ。しかし額面通りに受け取れない違和感が澱のように心に積もっていた。
「とにかく、ここじゃなんだし、大人しくしてるんで場所を変えないっすか……?」
三人で僅かに目を合わせる。それだけで打ち合わせは終了。2対1で可決した。
「まず謂れのない警戒を解いてもらう為に自己紹介するっす」
水音が聞こえないくらいに離れると、男の方が勝手に喋り出す。
「おれは『トオル』っす。西のココっち――あっ、雨音九葉さんの事っすよ。その子の話が伝わってるなら、その名前にピンとくるかも知れないっすね」
二人は初耳だろうけど、俺はその名前を聞き及んでいた。
「お前が神託会とか言う集団の内部情報を西に流した張本人なのか?」
トトとふくちゃんが訝しげに俺を見ている。後で説明してやるから待ってなさい。というか、そもそも俺にその件を説明させなかったのはお前らだからな。
「それっす! 話が解る人が居て助かったっす。新しい情報が入ったんで、まずは面識のあるココっちに教えてあげようと思ったんすけど、タイミングが悪くてあそこで待ってたんすよ」
こいつが本当に例のトオルかどうかは後ほど雨音さんに確認して貰えば済むとして、だ。
「待つ場所が可笑しいだろうが。なんでよりにもよって、シャワー室の外で待機なんだよ……流石のトトでも、待機を口実にあんな場所に居座らないぞ」
「そうだぜ。俺だったら緊急事態だって言って、待機せずに突入しちゃうぜ」
身内の恥が晒された。もういいからちょっと黙っててくれ。
「えー? おれをそこの変態野郎と同じジャンルにしないでくれないっすか? おれはノゾキなんてゲスな真似はしないっすよ。そもそも、興味もないっすから」
確かに、トトと一括りにするのは失礼だったかもな。そこは謝っておこう。殊勝に謝ろうとした俺だったけど、その前にトオルと名乗った男がニッコリと笑って言う。
「さっきも言ったっすけど、見えちゃったら意味がないんすよ。だってそうじゃないっすかー? 答えを知れば神秘は現実にまで落ちる。幽霊なんかと一緒っす。正体は枯れ尾花ーつってね?だからおれはあそこで聞こえてくる声や音で中の様子を想像して楽しんでたんすよ」
トトよりハイレベルな男だった。この場合はローレベルか。
優等生っぽく見えるけど、全く優等生じゃない。先程から頻りに主張してくる違和感の原因はそこにあったのかも知れない。
「トトと次元は一緒だからな……先走って謝らなくて正解だった」
「失礼っすね。ノゾキは旧時代の法律では違法っすけど、妄想は合法っすよ? 合法性ピーピングっす」
「合法、性……ピーピッグ!」
P豚とは何だ。ピーピングな。過剰に食いつくトトは放っておいて、取り扱いを考える。
腹の中はどうかまだ判断できないけど、今の所は友好的な態度に思える。
少なくともここで問題を起こすつもりはなさそうだ。
であれば、念の為に雨音さんに確認を取って貰ってから、その新しい情報とやらに耳を傾けてみるか。