あめだまふたつ
「お疲れ様」
部活が終わるときに、毎日聴く言葉。
今日だって、部活が終わって教室に戻ってくる前に、林や坂上に言われた。
それでも、何気ないいつも通りの言葉なのに、彼女に言われたあの一言が俺の中で特別な暖かさをもっている。
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「あー、疲れた…」
夕日の差し込む教室で、俺はごそごそとワイシャツに着替えながら愚痴をこぼす。
部活後のボール拭きをかけて挑んだじゃんけんに負けてしまったせいで、他の2年生よりも着替えに戻るのが遅くなってしまった。
当然のことながら、同学年の――ボール拭きを免れた――林や坂上は早々に着替えて下校しているようで、この教室にはもう誰も残っていない。
俺を待つ、っていう選択肢は無かったのかよ、なんて八つ当たりもいいところだ。
言い出しっぺの法則…みごとに当てはまってしまった自分が情けなくて、また、ため息をついた。
何気なく視線を向ければ、教室の窓からは俺よりも後に部活を終えた野球部が着替えを終えて、連れ立って正門を出ていく姿が見える。
(もう着替え終わったのかよ…やっぱ部室で着替えてぇな。)
なぜ部活で走り回って疲れた状態で、着替えのためだけに3階の教室までわざわざ戻らなくてはならないのだ。
しかも、準備・片づけという一番疲れる役割を担う2年生が。
まあ、部員数に対して部室が狭く、ロッカーの数も足りないのは分かる。
年長の3年生が優先して部室を使用できるのも、しょうがないと思う。
それならば、部活姿のまま下校するのを許可してほしい。
“登下校の服装は原則制服とする”
なんて、俺にとっちゃあ意味のない校則でしかない。っていうか迷惑だ。サッカー部限定で解除してほしい。
脱いだ練習着を申し訳程度に畳んでカバンに突っ込むと、立っているのもやっとだった脚は瞬く間に折れ、疲れ切った俺の身体は自分の席に収まった。
授業の時は窮屈で仕方ない机と椅子が、今は天国のように感じる。
「眠ぃ…動きたくない…」
椅子に座った瞬間に、部活だけではなく、授業の疲れまでもが一気に押し寄せてきて、大きな独り言が口をついた。
そうして小学生みたいな駄々をこねながら、いたいけな学生である俺は、襲いくる疲労感に勝てるはずもなく、机に突っ伏して……そのまま寝てしまった。
*
夢を見ることもなく熟睡していたらしい俺は、肩に微かな違和感を感じて目を覚ました。
想い瞼をこじ開けて。
頭を乗せた腕の隙間から見える教室は、藍色に染まっている。
(やべぇ、寝過ごした…)
さいごにある記憶の中の教室は茜色だったはずだから、相当長いこと寝てしまっていたみたいだ。
でも、頭の中では起きて帰らなければと分かっているのに、寝起きの気怠さから俺はなかなか動けない。
と、俺の右側から、
「佐藤くーん…起きないなら私帰っちゃうからねー?」
クラスメイトの、川名結の声が聞こえてきた。
なぜ彼女がこんな時間に教室にいて、さらに俺なんかに声をかけているのかはわからないけれど。
とにもかくにも突然声をかけられた俺は驚きのあまり呆然として、しばらく身動きが取れなかった。
…それをまだ寝ていると思ったらしい川名は、ゆさゆさと、少し荒目に肩を揺らしてくる。
まさか触ってくるとは思わなかった俺は、さらなる驚きにビクリ、と体を揺らしてしまった。
ひんやりとした指――もちろん、この場合は川名の指なんだけど――の感触にびっくりしたんだ。
寝ていたせいか、温まった自分とは違う温度を持つそれは、これまた自分とは違って、細くてやわらかかった。
(やっべ…ばれる!)
よくよく考えれば、ここで今起きました、みたいなふりで起きればよかったのに、この時の俺は気付かれることを恐れていて、っていうかなぜか恥ずかしくて、
「うーん…」
とっさに唸ってごまかすと、顔を見られないように、寝返りのふりをして窓の方へと向きを変えた。
「もう、風邪ひいても知らないよ?」
あきれたような川名の声に情けなくなるが、ここまで寝たふりを続けてしまった以上、いまさら起きるなんてできない。
…ああ、俺って小心者…。
そしてなんて優しい奴なんだ、川名結。
隣の席だけど、今まで特に話すこともなく、「ただのクラスメイト」だった彼女の印象が、この短時間で驚くほど色を付けた。
風景の一部としか見ていなかったモノが、実は鮮やかに「色」を持っていたことに気付いたような。
しかしそうこうしている内に、いつまでも起きない俺に諦めたらしい川名は、上履き特有のきゅっ、という音を鳴らしながら教室を出ていこうとした。
申し訳ない、という思いとともに俺の胸によぎったのは、あぁ、もう帰るのか…という残念がる気持ち。
(いやいや、何残念がっちゃってるわけ?)
とりあえず、自分で自分に突っ込んでおく。
が、何を思ったのか上履きの音が突然やみ、続いて何やらゴソゴソとカバンを探る音の後に、俺の握られた手の中に何かを押し込まれた。なにやら固い。
感触だけでその物体を当てようと馬鹿なことを考えていた俺に振ってきた、とどめの一言。
「…部活お疲れ様。」
その声がなんだかとても暖かくて、心地よくて、俺はそんなふわふわした気分のまま…また、眠りへと落ちて行った。―--おいおい、はっきり覚醒してたはずなのに。どんだけ眠気に弱いんだ俺。
しばらくして、見回りのおじさんに怒鳴り起こされてしまったのは、忘れてしまいたい過去だ。
そして、どうせ起こされるならもう一度川名の声で起こされたかったな…なんて思ったのもなんだか気恥ずかしくって忘れてしまいたい。
…なんなんだ今日の俺。
自分でも訳わかんねえくらい気持ちがふわふわしてる。
ちなみに、寝たふりをしていた俺の手の中に押し込まれたものは、ミルク味の飴玉だった。
なんで川名が俺に飴玉をくれたのかはわからないが、育ち盛りで部活動後の俺には、こんなちっさい物でも、ごちそうのように見えるから不思議だ。
ビニールの包装は、渕が薄いクリーム色でふちどりされていて、
(川名に似合ってるよな、この色)
なんてことを一人噛み締めた。
思う存分飴玉を見つめた後、外に視線を移せば、闇色に染まった風景が見える。
外灯に照らされた中庭の木々が揺れていることから、冷たい北風が吹いているのが分かって、今からこの風の中を帰んのかよ…って一気にテンションが下がった。
「っあー、やっぱ寒いなぁー」
自転車の車輪を超高速回転させながら帰る俺の口からは、相変わらず愚痴がこぼれ出る。
けれど、その愚痴をこぼす口元いつもと違ってにやけているのが自分でも分かるほどだ。
向かい風を受けながら考える。
明日会ったら、なんて言おうか。
昨日はありがとう、そうお礼を言ってみようか。
ミルク味、好きなの?って聞いてみるのもいいかもしれない。
いや、なによりもその前に。
「おはよう、だな。」
カロン、と口の中で飴が音を立てた。
それはまるで、明日を待ち遠しく思う、俺の気持ちみたいに軽やかな音色だった。