あめだまひとつ
きゅ、きゅっ
真白いタイルの敷き詰められた廊下に、私の足音だけが響く。
放課後は西日が強く差し込んで橙色に染まる廊下も、午後6時ともなれば外から差し込む光も薄暗く、電気をつけても灰色に影がつくだけだ。
グラウンドに面したガラス窓からは秋を感じさせる風が流れ込んできて、思わず両腕を抱えて立ち止まってしまう。
もうすぐ、冬が来る。
「失敗したなぁ…」
風の吹き込んできた滑りの悪い窓を閉めつつ、私はひとりでぐちる。
部活に行きたい、という友達と図書室のカギ当番を代わったのはいつものことで、代わってもらえるものとして部活カバンを持ったまま頼んでくる友達にもはや何も言う気にはならない。
2年生の図書委員会は6人いるにもかかわらず、ほぼ毎日私が当番をしているようなものだ。
だから、今日も今日とて放課後を図書室で過ごすことになったことは、いつも通りだった…のに。
時間つぶしにと物色した本棚で、ずっと探していた推理小説の続編を見つけてしまったのがいけなかった。
時間内に読み終われるとはもちろん思っていなかったのに、もう少し、もう少し、が続いて、気付けば図書室の施錠時間を20分も過ぎてしまった。
「…本のせいにしちゃいけないんだけどさ」
結局本の世界に入り込んでしまって、読破してしまった。
そうして、読み終わった後の満足感に浸る余裕もなくあわてて施錠して鍵を職員室に返却に行けば、こんな時間まで何をしていたんだ、と警備員のおじさんに少し睨まれてしまった。
明日は何を言われても代わってあげないんだから。
友達への八つ当たりを心の中で呟いて、ようやくたどり着いた教室の扉をガラリ、と引いた。
薄暗い教室は、昼間の騒がしさが嘘のように、しん、と静まり返っていて、少し不気味だ。
ちなみに私は学校のトイレにいらっしゃるといわれている少女のお化けを信じている。
彼女はきっといる。そして学校には彼女の友達がきっとたくさんいる。
そして私はお化けが怖い。暗くなった学校なんてお化け屋敷と変わらないなんて思っていたりもする。
けれど、机の上に置いてある荷物を取るだけだから、まだ真っ暗になったわけじゃないから、と怖がりのくせに電気をつけずに教室の中へ足を進める。
怖がりの私でも、いつもしていることとなると余裕も出てくるというものだ。
そうして、窓から二列目、一番後ろの自分の席に荷物を取りに一歩踏み込むと。
「…っ!」
黒い物体が視界を掠め、私の心臓が、止まった。
どっ、どっ、どっ、と心臓が破裂しそうなぐらい大きな音を立てて働いている。
こめかみからは驚きの冷や汗が噴出してくる。
とっさに口を押え、悲鳴を上げて逃げなかった自分を誰か褒めてくれないだろうか。
明日の全校朝会で、表彰してはもらえないだろうか。
そんな、現実離れしたアイデアが浮かんでは消えていった。
よく耳を澄ませば、微かながらすー、すー、というと息が聞こえてくる。
(誰か寝てるんだ…)
お化けではなく人だと分かってホッとしつつ、ふーっ、と大きく深呼吸をして私の心臓を止めた物体に目を向ける。
――――黒い物体の正体は、私の隣の席の佐藤敏哉君だった。
「なぁーんだ…」
とにもかくにも、お化けじゃないなら近寄ったって害はない。
手のひらの汗をスカートで拭きながら、私は彼の隣――自分の席――に進む。
近づくたびにはっきりと聞こえ始める寝息は、普段の明るくて元気な彼の姿からは想像がつかない程、可愛らしい。
両腕を机の上で組んで、その上に頭を乗せた格好で寝ている彼の背中が、寝息と同じリズムで上下を繰り返しているのも、なんだかほほえましい。
そういえば、彼の所属するサッカー部は部員が多すぎて、3年生以外は教室で着替えてから部活へ参加しなければならないのだと、いつだったか彼が言っていた。
きつい練習の後に、着替えのためだけに3階まで階段を上る体力なんて残ってねーよ、とも。
だから、きっと今日も部活が終わって着替えに戻ってきて、疲れのあまり転寝をしているのだろうと思う。
起こしてあげるべきなんだろう、とも。
普段彼と話すことのない私には少々勇気が要るけれど、風邪をひかせてしまっては申し訳ない。
「…佐藤、くん?」
とりあえず恐る恐る声をかけてみても、声が小さすぎるのか、彼はピクリともしない。
「さ、佐藤、くん」
もう一度、今度は大きめの声で呼んでみるけれど、やっぱり彼は気付かない。
どうしたもんかなぁ…
3度目は、起きてよ、の意味を込めてちょんちょんと肩をつついてみるけど、反応ナシ。
「佐藤くーん…起きないなら私帰っちゃうからねー?」
これで起きなかったらもう知らない、と少し荒目に肩を揺さぶって声をかけた、ら。
「う、…んー」
ようやく彼は反応を返してくれたけれど、それは少し呻く程度で、ごそごそと机の上で腕を組みなおすと、再び頭を乗せてそのまままたすやすやと寝てしまった。
「もう、風邪ひいても知らないよ?」
薄暗教室の中、一人であたふたと話しかけている自分がなんだか滑稽に思えてきて、恥ずかしさを紛らわすために、怒ってみる。
もう3回も声かけたからね。肩もつついたし、腕だって揺さぶったからね。
それでも起きなかったのは佐藤君だからね。
誰に言うわけでもなく、自分に言い聞かせるように心の中で言い訳をしてから、役目は終わったとばかりに、私は自分のカバンを肩にかけた。
「さよなら」
きっと聞いていないだろう佐藤君に向けて挨拶をして、廊下に向かって歩き出す。
でもやっぱり、このまま一人で帰るのは忍びなくて、どうしたものかと立ち止まって少し考えてから、私はゴソゴソとカバンの中を漁った。
「う~ん…どっかここら辺に…あ、」
くるりと踵を返して、カバンの底から発掘したまあるいミルク味のそれを、眠っている佐藤君の軽く握られた手の中に押し込む。
「部活お疲れ様。」
そういって、さあ本当にこれで帰るぞ、と私はすやすや眠る佐藤君を放って教室を後にした。
住宅地に向かってますっぐに伸びる道で一人自転車をこぐ私の口の中にも、佐藤君と同じ、ミルク味の飴玉。
私だけかもしれないけれど、秋や冬みたいな寒い時期の登下校では、口に飴玉が入っているだけでも、暖かさがずいぶん違う。
だから、秋になると必ずカバンの中に飴玉を忍ばせている。
最近のお気に入りは北海道産のミルクを90%使用したプレミアムミルク飴だ。
口に入れた瞬間からミルクの優しい味が広がって、飴が溶け切った後でも、口の中に仄かな甘さが残るのがいい。ミルク味の飴は、食べているとなんとなく優しい気もちになれる気がする。
次の角を右に曲がればすぐに我が家だ。
教室の彼はもう目を覚ましただろうか。
手の中の飴玉を食べながら帰るのだろうか。
明日彼はどんな顔をしてくるのだろうか。
飴玉の送り主のことを、少しは考えてくれるだろうか。
そう考えながら帰る帰り道は、飴玉効果以上に、暖かくて優しい気がした。