第二話 家路
日は沈み、すっかり暗くなった住宅地を惣太はとぼとぼと肩を落として、歩いていた。
腕時計の針は8時を指していた。
以前なら帰宅が遅れたことに、焦っていただろう。両親から小言を言われるに決まっていたから…
だが、誰もいない家に帰るのに誰が時間等、気にするだろか。もちろん、惣太はまだ中学三年生なので、あまり夜遅くに出歩いていると警察に補導される可能性はあった。
それに親族を名乗る中年女性が保護者気取りで家に来ていた。初めて会った相手で、どうにも嫌らしい笑い方をするので、追い払ったのだが、未成年である惣太には保護者が必要なので、あの女に頼るか、施設で暮らすのかをいずれにしろ選ばなければいけなくなるだろう。
そんな諸々の事柄が嫌で、惣太は当てもなくウロウロしていたのだった。そんな現実に対応していくことは、家族を捨て去ろうとしているように感じるのだった。もちろん、そんなことは無いのだが、まだ幼さの残る少年には…いや人にはそういった時間が必要なのだろう。
自宅のそばまで来て、惣太は足を止めた。
立ち並ぶ家々の窓には、
灯りがともっている。
あの角を曲がれば、家が見える…
誰もいない家、僕を待つ人はいない。
そんなことを考え、同時に夕方の公園とそこに浮かぶ黒電話のような奇妙な物体を思い出す。
ーーー貴方の願いかなえます
受話器から、複数人の言葉を重ねたような声が流れ出した。普通なら得体の知れない相手に、そんなことを言われた所で、誰だって本気にしないだろう。まして、天から降ってきた黒電話である。不気味で得体の知れない存在、あるいは夢でも見ていると思うのが当然の反応だろう。
だが惣太はまるで警戒感を抱かなかったし、不思議だとは思っても不快感はわいてこなかった。受話器からの声にした所で、そういうものだと受け入れている。
もちろん惣太は知らなかったが、世界中の誰もが、同じようにこの奇妙な現象を受け入れていたわけだが。
そうして世界のありとあらゆる場所で、
人々の願望が泡立つように溢れ返った。
父さんを母さんを、弘樹と千英を、ばあちゃんを…僕の家族を生き返らせてください。
もう一度、会いたい…
涙と鼻水でみっともないほど顔をぐしゃぐしゃにして、惣太は願った。願ってしまった。
これが夢でもイタズラでも、言わずにはいられない切なる願い。
ーーー貴方の願いかなえます
もう一度、その声が聞こえたかと思うと黒電話が纏っていた淡い光の粒子が、輝きを増していく。瞬間、光は弾けた。
気がついた時には、いつの間にか日が暮れて辺りはすっかり暗くなっていた。
全て、夢だったのか…
自分の願望が、見せた残酷な幻だったのかも知れないと、惣太は思った。
そして家々の窓に灯る明かりが、
自分の孤独を囁いている気がして、
無性にやるせなかった。
かつては自分もあの明かりの中に、
家族と居たのに。
それでも、重たい足を引き摺り、
惣太は歩き出した。どうであろうと、
誰もが家に帰らなければならないのだ。
それに一抹の希望らしき思いもあった。
ーーー貴方の願いかなえます
あの言葉が夢か現か幻か、
解らなかったけれど、もしかすると…
ゆっくりと曲がり角を、右に折れた。
気づかぬうちに惣太は、ギュッと眼を瞑っていた。曲がり終えても、しばらくひっついたように、瞼が上がらなかった。
きっと明かりは無く、暗くひっそりと冷たい家があるだけだ。目を開けば…
不安が心臓を鷲掴みしている。不安は恐怖を呼び、時間の感覚がおかしくなった。
一瞬なのか、もっと長い時間を過ごしているのか、惣太は身動きが取れず硬直していた。
今、目を開けたら惣太は横たわる現実に耐えられるとは、思えなかった。
生まれてこの方、心臓の鼓動をこれほど意識したことがあっただろうか?
どれくらい時間が過ぎたのか。
どこからか、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。途端に不安を押し流し、その声は内から外からこだました。
遠い記憶。
この世に産まれ落ちるより前、
心臓の鼓動を重ねていた人の、懐かしい声。
言葉が零れ出し、瞼が上がる。
玄関が開いて、明かりが零れだしていた。
「母さん?」
明かりの中に浮かび上がった母の輪郭は、
零れ出した涙で微かに歪んでいた。