後
もしもの話だけど、神様が目の前に現れて「ひとつだけ願い事を叶えてやろう」なんて言っても、俺は即答することができないと思う。
今一番切実な願望といったらもちろん志望校合格だけど、神の力でそれを叶えるのもなんだか違う気がするし、でもその他には特に早急に望んでいることもない。そりゃあ小さいしょーもない願望はいくつもあるけど、「腹いっぱいうまいものが食いたい」とかそういうことに使ってしまうのも勿体ない気がする。だったらいっそ「叶えてくれる願い事の数を増やしてくれ」っていうのはどうだろう? ……邪道か。
っていうか、そもそもなんでこんなこと考え始めたんだっけ?
そうだ。つい数分前に幼馴染みが「なんか急に良いこと起きないかなー。神様がなんでも叶えてくれないかなー」なんて、模試の結果を眺めながらぼんやり言ったのがきっかけだ。まぁ、灰色の受験生ライフに疲れてきたその気持ちはわかるけど。
あーぁ、結構真剣に考えちまって、時間ムダにした。アホか俺。
* * * *
「痛っ」
隣を歩く幼馴染みが電柱に激突した。
バランスを崩してぶつかってしまったとかではなく、目の前に立ちはだかる電柱に真っ直ぐ向かっていって、額を強打したのだ。
小学生の頃だったら大爆笑だったかもしれないが、もう15歳だ。こいつの将来が心配になる。俺はげんなりした気持ちで口を開いた。
「……何やってんだよ」
「デコを強打した」
「いや、状況説明じゃなくて。どうして何の障害物もない真っ直ぐな明るい道を歩いてて目の前の電柱にぶつかるのかって聞いてんだよ」
こんなの当然の疑問だろう。嫌味で言ったつもりは(ほとんど)ない。
しかし幼馴染みの表情はみるみるうちに不機嫌そうになっていく。
「優しさ0だよね」
「どうせボーっと晩飯のことでも考えててぶつかったんだろ。俺、そんなアホに優しい言葉をかけられるほど大人じゃないから」
「キィィィ!」
幼馴染みが地団太を踏む。
ここまで怒りを全身で表す奴もそうそういない。呆れ半分、感心半分の気持ちで俺はそれを眺めた。もちろん真似したいとは微塵も思わないけど。
「髪振り乱して暴れるなよ。ボッサボサだし」
「ボッサボサで悪かったね。あんたの心無い言葉があまりにもショックで、そりゃ髪もこうなるよ!」
「俺のせいにすんなよ!」
軽い口喧嘩をしつつ通学路を歩き、幼馴染みの家の前まで到着した。
そこでバッタリ、ちょうど買い物帰りらしい幼馴染み母と遭遇した。
「あら、2人とも。おかえりなさーい」
「お母さん、ただいま」
「こんにちはー」
挨拶する俺たちを交互に見た幼馴染み母は、満足そうな笑みを浮かべる。
「今日も仲良しねー」
幼馴染み母とうちの母親は、やたらと俺たち2人の仲をからかいたがる。最初はいちいちムキになって反論していたが、中学に上がった頃からはもう面倒くささが勝って、ゆるい否定にとどめておくだけになった。
母親というのはどこもこんなもんだろう多分。いちいち全力で対応していたらきっとヘトヘトになってしまう。現に隣の幼馴染みもあまり気にしていないようだし。
「あらあなた、おでこ赤くなってるわよ。どうしたの?」
「コイツにやられた! お母さんカタキとって!」
「おい! ついに虚言癖か!」
「そんなわけないでしょー? あなたのことだからどうせ晩御飯のことでも考えてて電柱にぶつかったってところかしら」
「あー、そう、そう、そう! さすが!」
俺は小さい頃、幼馴染み母にべったりだった。うちの母親(ワイルドで、大胆で、おそらく母性より父性が強めで……まぁ平たく言えば元ヤンなのだ)とは違い雰囲気が柔らかくていかにも理想のお母さんといった感じだし、幼馴染みとの喧嘩のときは必ず俺の味方になってくれたので本当に嬉しかったのだ。
さすがにもうガキのように懐きまくるということはないけど、幼馴染みがくだらない喧嘩をふっかけてきたときに援護射撃をしてくれるのは今も変わらず、俺はたいへんありがたく思っている。
しかしそれが毎度毎度気に入らないらしいのは他でもない隣の幼馴染みだ。とんでもなく人相の悪い顔で俺を睨みつけ、挑発するように小さく舌を鳴らしてくる。いまにも中指を立ててきそうだ。お前はヒールレスラーか。
当然俺も睨み返す。
幼馴染み母はそんな俺たちを相変わらず楽しそうに見ていた。
「氷か何かで冷やしておけば治るわよ。──そうそう、幼稚園くらいの頃もあなた、しょっちゅう色んな所に頭ぶつけてたのよ」
「そ、そうだっけ?」
幼馴染みは記憶にないようだが、俺は覚えている。走っては頭をぶつけ、座って立ち上がっては頭をぶつけ、幼稚園の先生をいつも心配させていた。「あの子、とっても元気なのは良いんだけど、たんこぶばっかり作っちゃうのが心配なのよねぇ……」と先生同士でのため息交じりの会話を偶然立ち聞きしてしまった俺は、幼心に幼馴染みとしてとても申し訳ない気持ちを覚えた。
そんな昔の俺の心労(?)もつゆ知らず、相変わらずボケッとした顔で「記憶にないなー」とか言う幼馴染み。
──その頃に頭ぶつけすぎたせいで今アホになったんじゃね? と、目で告げてやる。
「その度にわんわん泣いて、でも彼が泣き止ませてくれたのよ。あなたのこと泣き止ますのすっごく上手だったんだから」
幼馴染み母の言葉に、俺も頷く。
「なんとなく覚えてますよ。こいつのことなだめてたのも、どうやったらいつも泣き止んだのかも」
「えー、何それ? 私、全然覚えてない」
「あら、あんなにお世話かけてたのに薄情な子ね」
「うんうん」
今度は深く深く、何度も頷く。
頭をぶつけて泣き叫ぶ幼馴染みをなだめるのは、いつも俺の役目だった。
幸い当時のコイツは、頭をぐしゃぐしゃにしてやればすぐ泣き止んで爆笑するというよくわからないツボを持っていたので、それほど時間がかかることではなかったけど。
「どうやって泣き止ませてたの? 今やってみてよ。私が泣いてるっていうていで」
「は? 今更なんでだよ。ガキじゃないんだから」
「いいじゃん減るもんじゃないし」
「やだよ面倒くさい。……それに、今やったらお前絶対怒るし」
ボサボサと言われすぐに激昂するような奴に、あの『頭わしゃわしゃ攻撃』をやったらどういう反応が返ってくるかは目に見えている。
面倒な結果がわかりきっているのに実行するほど好奇心旺盛ではない。
何それ全然記憶にないよー、などとアホ面で呟く奴は放置して、俺は幼馴染み母に挨拶して家へ帰った。
その夜。
机に向かい数学の問題集を解いていた。
これは受験用のテキストではなく、学校の宿題だ。
中学3年生といえども、受験対策だけに時間を費やすことなんてもちろんできるはずもなく、普通に学校の授業もこなさなくてはならないのが少しツラいところだ。
まぁ、もちろんその宿題の内容だって範囲的には受験問題に入るわけだから、全く無駄なことではない。
一段落ついた所で、シャープペンを置く。
なんとなく今日の幼馴染みとのやりとりを思い出す。
あいつは「泣き止ませ法」を実行しろとうるさかったけど、そもそもどうして口頭で説明させるという発想がないのだろうか?
興味を持ったことはすぐに目で見て確かめないと気が済まないのだろうか?
やっぱりアホなのだろうか?
それに「減るもんじゃないし」とか偉そうに言っていたけど、あの『頭わしゃわしゃ』だって結構疲れるのだ。
相当なご高齢なのに毎度毎度動物相手に笑顔で全力のムツゴロウさんを俺は尊敬する。5歳の俺だって、正直かなり無理してテンション上げてやっていた感はあった。我ながら苦労性な幼稚園児だ。
──というか。いつも俺に子守りをさせておいて自分はすっかりそれを忘れているなんて、なんか若干腹たつな。
『全然記憶にない!』と言い放つ幼馴染みのアホ面が脳裏に浮かんだ。
あいつには一生教えてやらん、と俺は心に決めた。
翌日。学校。
俺は思いがけない光景に遭遇した。
幼馴染みが泣いていたのだった。
しくしく、めそめそ……とかそんな可愛らしいもんじゃない。幼馴染みはほとんど左目だけを開け、右目からはボロボロ涙を流し、生まれたての小鹿のようにヨロヨロと廊下を歩いていた。
よ……妖怪?
かなり不気味なその姿に、喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。
とりあえずただならぬ出来事が起きたことは確かだ。
「お前……ど、どうしたんだよ、大丈夫か?」
「……うぅ」
「泣いてちゃわかんねーだろ。どっか痛いのか?」
幼馴染みは一向に口を開こうとしなかった。
俯いて眉間に皺を寄せ、何やら難しい顔で唇を結んでいる。
──なんかまたくだらないこと考えてるんだろうなー。俺は直感的にそう思った。
それほど器用じゃないし要領も良くないが、たまに変なプライドを発揮する幼馴染みだ。きっと言うことによって自分の面目を保てなくなるような理由なのだろう。
普段だったら何かを無理に聞き出そうとするのはあまり好きなやり方じゃない。だけど今回は、ちょっとそうもいかない。
心的要因なのか外的要因なのか。
理由がわからなければ、さっきからボロボロ流れている涙を止める手だても思いつかない。
泣いている幼馴染みを見ているのは、間違っても気分の良いものではないのだった。
どうしたものか。
「……」
「……」
俺の困っている雰囲気を感じ取ったのだろうか。
幼馴染みが顔を上げた。
その瞬間、デジャブのようなものを感じた。
ちょうど昨日話題に上がった──約10年前のように、今、泣いている幼馴染みと向き合っている。
あの頃と全く同じだ。
そして、昨日は思い出せなかったことをひとつ思い出す。
幼馴染みが泣く度かなり無理してテンション上げて「頭わしゃわしゃ」やって、たまにげんなりもしていた当時の俺だけど。
コイツが泣き止んで笑顔になったらそれはそれで妙な達成感があったんだよな。
腐っても一応生まれたときから一緒にいる幼馴染み。そりゃあなるべくなら、泣いているよりは笑っていてほしいと思う。当然だ。
その気持ちはきっと、今も変わっていない。
だったらやっぱり泣き止ませ方もあの頃と同じで良いのだろうか?
もしそうなら、「頭わしゃわしゃ」してやっても構わないけど。
だってお前、これで泣き止むんだろ?
決心して幼馴染みの頭に手を置く。奴は驚いた顔でこっちを見てきた。
「え? え?」
動くな動くな。ジタバタされるとやりづらいんだよ。
幼馴染みがパチ、と一度瞬きをすると、まつ毛の先に付いた涙の滴が輝いた。
『あの頃と全く同じ』──ついさっきまでの俺は確かにそう思っていた。
しかし、今は……なんだろう、何かが違う。
あの頃より、明確な身長差がついたせいだろうか。あの頃より、幼馴染みの頭を支える自分の手が大きくなったせいだろうか。
俺を見上げる幼馴染みの泣き顔が少し違って見えるというか。なんかちょっと……。
次の瞬間。
わしゃわしゃわしゃわしゃ! と、勢い良く頭をかき回してやると、幼馴染みは絶叫した。
「ぎゃー! 何するの!」
思いっきり手を振り払われる。
なんだよ。昨日はあんなに実践しろしろうるさかったのに。
幼馴染みは自分の頭を触って、愕然とした表情を浮かべた。
「ひ、ひどい!」
「ほら、やっぱり今やるとお前怒るじゃん。だからやるの嫌だって言ったんだよ」
「これが泣き止ます方法!?」
「本当に覚えてないんだなー。昔はお前、これやるといっつも泣き止んで爆笑してたのに」
「く、口で説明してくれればいいのに!」
「お前が実行しろって昨日しつこく言ったんだろ」
「うっ……」
腑に落ちていなさそうな顔で、幼馴染みが黙り込む。
決して笑ってはいないけど、一応涙は止まったようだ。
なら、まぁ良いか。結果オーライってやつだ。
さっきも言ったが、腐っても一応生まれたときから一緒にいる幼馴染みにはそりゃあなるべくなら泣いているよりは笑っていてほしいと思う。
「──そんで、なんで泣いてたの?」
「……目にゴミが入っただけ。もう平気」
「あー、そう。もう治ったんならいいけど……お前、いくら目がゴロゴロしてたからってあの顔で校内うろつくのはやめたほうがいいぞ。般若みたいだったから」
「……アドバイスありがと! 心配おかけして、どーもすんませんでしたねッ!」
「うわ、なんでめっちゃキレてんだよ?」
親切心からの助言だったのに、不本意極まりない反応だ。
幼馴染みはむくれながら鏡を取り出し、必死に頭を直していた。
そんな大げさな。確かに少し乱れてはいるけど、いつもと大して変わらねーよ。
なんて言ったら確実にブチ切れられるだろうから、言わないけど。
その後「そろそろ授業始まるから教室戻ろう! 般若と一緒で申し訳ないですけどねッ!」とまだ怒り気味に言う幼馴染みの表情は、もういつも通りに見えた。
さっき感じた違和感は──直視しづらいほどの違和感は、きっと気のせいだったのだろう。
そう思うことにした。
というか、そう思わなくては説明がつかない。
「何ボーっとしてんの? ほら行くよッ!」
幼馴染みがどついてきた。わざとなのか何なのか、また般若みたいな顔になっていた。
* * * *
もしも今、神様が目の前に現れたら、俺は願い事を即決すると思う。
願わくば、この日々をもう少し平穏なものにしてください。