前
もしもの話だけど、神様が目の前に現れて「ひとつだけ願い事を叶えてあげる」なんて言ったら、私は迷わず即決できる。──「魅力的な女の子になりたい」!
神の力でスーパー美少女になった私は、幼馴染みのアイツへの5年間の報われない片思い(何しろ相手は、その整った顔で大層おモテになるくせに超がつくほどの鈍感野郎なので)を終えて、自信満々に気持ちを告げ、晴れて奴の恋人。きっと喜びに打ち震え、何をするにも嬉しくてドキドキして挙動不審になり、呆れられる。
付き合いたてのそんな温度差もなんのその、週末はデートに出かけてお花畑で追いかけっこをしたり、ひとつのアイスを分け合ったり、彼の手が私の髪をやさしく撫でたり、沈む夕日をロマンティックに眺めたり、たまに小さな喧嘩もするけどそれすらも若い2人にとっては恋を盛り上げる楽しいイベントの一貫に過ぎなかったり、たくさん笑ってたくさん泣いて愛を深め、すこやかなるときも病めるときも喜びのときも悲しみのときも富めるときも貧しいときもこれを愛しこれを敬いこれを慰めこれを助けその命ある限り真心を尽くすことを誓う。
そして私は大きな窓と小さなドアと古い暖炉と真っ赤な薔薇と白いパンジーとブルーの絨毯がある家でレースを編みながら彼の隣で暮らすのだ。
これ、恋する乙女なら一度はしちゃう妄想だよね?
もう15歳、中学3年生だし、こんなのありえないっていうのはもちろん理解している。
だけど良いじゃない、妄想だけならタダだもの。
あぁ、本当に神様がいたらいいのに。
* * * *
「痛っ」
額に衝撃と鈍痛が走り、私は妄想の世界から帰還した。
目の前には灰色の電柱。
どうやら私は下校中に妄想(大長編)に気を取られているうちに、こいつへ激突したらしい。
隣を歩いていた幼馴染みが心底呆れたように目を眇める。
「……何やってんだよ」
「デコを強打した」
「いや、状況説明じゃなくて。どうして何の障害物もない真っ直ぐな明るい道を歩いてて目の前の電柱にぶつかるのかって聞いてんだよ」
嫌味ったらしい小姑みたいなやつだ。こういうときはまず「大丈夫?」ではないのか。
「優しさ0だよね」
「どうせボーっと晩飯のことでも考えててぶつかったんだろ。俺、そんなアホに優しい言葉をかけられるほど大人じゃないから」
「キィィィ!」
あまりの憎たらしさに歯ぎしりしながら地団太を踏むと、ますます彼の目が細められた。
「髪振り乱して暴れるなよ。ボッサボサだし」
「ボッサボサで悪かったね。あんたの心無い言葉があまりにもショックで、そりゃ髪もこうなるよ!」
「俺のせいにすんなよ!」
軽い口喧嘩をしつつ通学路を歩き、私の家の前まで到着した。
そこでバッタリ、ちょうど買い物帰りらしいお母さんと遭遇した。
「あら、2人とも。おかえりなさい」
「お母さん、ただいま」
「こんにちはー」
挨拶する幼馴染みと私を交互に見たお母さんは、満足そうな笑みを浮かべる。
「今日も仲良しねー」
私たちが何か反論する前に、お母さんが私の額に目をやった。
「あら、おでこ赤くなってるわよ。どうしたの?」
「コイツにやられた! お母さんカタキとって!」
「おい! ついに虚言癖か!」
幼馴染みがスピッツのように吠える。なんだよ、ただのライトなジョークだってのに。
しかしさすが我が母は何もかもお見通しのようで、全く動じる様子はなかった。
「そんなわけないでしょ? あなたのことだからどうせ晩御飯のことでも考えてて電柱にぶつかったってところかしら」
「あー、そう、そう、そう! さすが!」
幼馴染みは、私の母という味方ができてニコニコと嬉しそうだ。
思えば彼は昔からそうだった。喧嘩のときうちのお母さんが自分の味方につくと、それまでの倍くらい態度が大きくなるのだ。
なんとなく気に入らない私が睨みつけてやると、彼もその挑発を受けるかのように睨みかえしてきた。
お母さんはそんな私たちを楽しそうに見ている。
「氷か何かで冷やしておけば治るわよ。──そうそう、幼稚園くらいの頃もあなた、しょっちゅう色んな所に頭ぶつけてたのよ」
「そ、そうだっけ?」
あまり記憶にない。そしてできればそのまま知りたくなかったダサすぎる事実だ。
──その頃に頭ぶつけすぎたせいで今アホになったんじゃね? と、隣の幼馴染みの目が間違いなく言っている。
「その度にわんわん泣いて、でも彼が泣き止ませてくれたのよ。あなたのこと泣き止ますのすっごく上手だったんだから」
と、お母さんが幼馴染みの肩に手を置いて言う。
その言葉に、幼馴染もうんうん偉そうに頷く。
「なんとなく覚えてますよ。こいつのことなだめてたのも、どうやったらいつも泣き止んだのかも」
「えー、何それ? 私、全然覚えてない」
なんだか軽い疎外感。
「あら、あんなにお世話かけてたのに薄情な子ね」
「うんうん」
そんな連合組まれたって覚えていないものは覚えていない。
「どうやって泣き止ませてたの? 今やってみてよ。私が泣いてるっていうていで」
「は? 今更なんでだよ。ガキじゃないんだから」
「いいじゃん減るもんじゃないし」
「やだよ面倒くさい。……それに、今やったらお前絶対怒るし」
なんだそれ、ますますわけがわからない。
結局幼馴染みは、帰るまで事の真相を教えてくれなかった。
お母さんに聞いてみても面白そうにニヤニヤするばかりで何も答えてくれない。
私は言いようのない気持ち悪さを抱えたまま、一日を過ごした。
「チューとか?」
友人の言葉に、私は口の中の物を吹き出しかけて、なんとか堪える。
昼休み。お弁当を食べながら友人に昨日の出来事をなんとなく話した。そして全てを聞き終えた彼女の第一声が、それだった。
窓の外ではどんより暗い空にしとしとと雨が降り、教室の中もなんとなくいつもよりけだるい雰囲気が漂っている。
お茶を飲んで一呼吸置き、私は自分を落ち着かせた。
「そんなわけないじゃん。あいつはそんなキャラじゃないし、そもそも万が一それだったら私ぜったい覚えてるし。っていうか、そんな園児やだよ」
「泣いてる女の子を、キスの魔法で泣き止ませる男の子……2人の小さい頃がそうだったなら素敵なのになぁ、ってちょっと思っただけ」
ふふふ、と友人が楽しそうに笑う。どうやらからかわれていたらしい。
「でも結局、どんな『魔法』を使ったのかしら。気になるわよね」
「うーん……確かにちょっとは気になるけど……。ま、いっか」
「えぇ? 何それ」
友人が拍子抜けしたような声をあげる。
「ごめんごめん、自分から話題に出したのに。でも考えても全く思い出せないし、諦めるわ」
自分で言うのもなんだけど、こういうときの切り替えは割と早い方なのだ。
あははー、と私が笑ってみると、対する彼女はつまらなさそうに唇をとがらせた。
「なんかロマンティックなエピソードが出てくるかと思ったのにぃ」
「でへ。期待に添えなくてすみませーん」
そこからしばらく、雑談に花を咲かせていた私たち。
もうすぐ午後の授業が始まるチャイムが鳴る──というとき、ふと、友人が私の頭に目をとめた。
「ねぇ、そういえば今日はなかなか髪の毛きれいね」
そのお言葉に、心がパァッと明るくなる。
「でしょでしょ? 実は昨日あいつにボッサボサって言われてムカついたから、今日はいつも以上に気合入れてブローしてきちゃった」
「毎日そのクオリティを保てたらいいんだけどねぇ」
と、笑いながら、友人が私の頭を撫でた。
「あら。でも前髪のここ、少ーしうねっちゃってるわよ」
友人が私の前髪の右端の毛をつまむ。
「本当に? 朝ちゃんとやってきたつもりだったんだけど……」
「湿気のせいね。雨の日って髪の毛すぐ崩れちゃうもの」
そう言って彼女は、自分の鞄の中からピンクの小さなスプレー缶を取り出した。
「はい、貸してあげる。これ1プッシュしてからブラシでとかすと、わりと真っ直ぐになるの」
「えー、すごい!」
「しかもすごく良い香りがするの。さっきの話の続きじゃないけど……甘ーい香りは、恋する乙女にとっての『魔法』でしょ?」
なんてありがたいことだろう。私は彼女からそのスペシャルなグッズを受け取ると、掲げ持つようにして頭を下げた。
「ありがとう!」
あと5分程でチャイムが鳴る。
私は自らの気まぐれおてんばヘアを矯正するため、女子トイレへと駆け込んだ。
鏡の前へ立ち、前髪めがけてスプレーをプッシュすると、
「痛っ」
心ときめく胸キュンピーチの香りが広がるとともに、右目に痛みが走る。目の中にまでスタイリング剤が入ってしまったようだ。私の間抜け。
「ぐぉぉ……」
しみるような嫌な感じの痛みが広がり、悶絶する。涙がぽろぽろと出てくる。
水道水で洗ってみて少しは楽になったものの、涙はなかなか引かない。
しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。もうあと数分で5時間目の開始チャイムが鳴ってしまう。
とりあえず女子トイレから出て教室に行こう──。
ほとんど左目だけを開け、右目からは涙を流し、ヨロヨロと廊下を歩いていると、
「うわっ」
曲がり角で幼馴染みと遭遇した。
「お前……ど、どうしたんだよ、大丈夫か?」
苦痛に顔を歪め、片目から涙を流し、生まれたての小鹿のようなおぼつかない足取りで歩く私はかなり異様らしかった。
幼馴染みの彼は驚いた顔で私を覗き込んだ。
しかし昨日電柱に激突して呆れられた手前、「自分、今度はヘアスプレーを間違って目にプッシュして泣いてるんすわ!」とはなかなか告白しづらいものがある。
「……うぅ」
「泣いてちゃわかんねーだろ。どっか痛いのか?」
何か上手い誤魔化し方はないものか。私のちっぽけなプライドが、ちょうどいい言葉を模索してぐるぐる回る。
しかし、もともとそんな臨機応変な発想力は持ち合わせていないため、見事に何も思いつかない。
「……」
「……」
駄目だわ。やっぱり正直に言おう。これ以上のだんまりは、一応心配してくれているらしい彼にも悪いし。
ちっぽけなプライドはあっという間に消滅し、私は大人しく顔を上げた。
あーぁ、こんな理由を言ったら、また馬鹿にされるのかなぁ。そしたら私は確実にまた売り言葉に買い言葉で、可愛くないことばかり言ってしまうのだ。
ここまでわかっていてどうして改善できないんだろう?
さっきからずっと困ったような顔だった幼馴染みが、ひとつため息をつく。
しょうがねぇなぁ、という表情で、彼はゆっくりと両手を伸ばした。
んん? と不思議に思ったものの、疑問を口にする暇もなく、幼馴染みの手が私の頭の左右をそれぞれ掴んだ。つまり顔が動かないように固定されているような状態だ。
「え? え?」
戸惑いながらも、昨日の幼馴染みとお母さんの会話を反芻する。幼い頃、彼は私を泣き止ませるのがとても上手だったそうな。
だけど彼はその「方法」を教えてはくれなかった。
そして次に頭をよぎるのは、つい先程の友人の言葉──「キスの魔法」!
いやいやいや、あり得ない。まさか、ないないない。
全力で否定するけど、幼馴染みは相変わらず両手で私の顔を固定したままじっと視線を合わせてくる。もう心臓は破裂寸前だ。
まさか。────まさか?
次の瞬間。
わしゃわしゃわしゃわしゃ! と、ムツゴロウさんもびっくりな勢いで、幼馴染みは私の髪の毛をかき回した。
「ぎゃー! 何するの!」
絶叫と共に思いっきり振り払うと、彼はあっさり手を離してくれた。
自分で自分の頭を触って確認する。今朝頑張ってブローした髪は、もうボサボサどころの騒ぎではない。
「ひ、ひどい!」
「ほら、やっぱり今やるとお前怒るじゃん。だからやるの嫌だって言ったんだよ」
「これが泣き止ます方法!?」
「本当に覚えてないんだなー。昔はお前、これやるといっつも泣き止んで爆笑してたのに」
わからない。幼い頃の私の思考回路が全くわからない。
確かに今も、目の痛みより頭の衝撃に気を取られて、涙は止まったけど。
「く、口で説明してくれればいいのに!」
「お前が実行しろって昨日しつこく言ったんだろ」
「うっ……」
そう言われると反論できない。
だって、だって、まさかこんなガサツな方法だなんて夢にも思わないもの。
「──そんで、なんで泣いてたの?」
「……目にゴミが入っただけ。もう平気」
「あー、そう。もう治ったんならいいけど……お前、いくら目がゴロゴロしてたからってあの顔で校内うろつくのはやめたほうがいいぞ。般若みたいだったから」
「……アドバイスありがと! 心配おかけして、どーもすんませんでしたねッ!」
「うわ、なんでめっちゃキレてんだよ?」
* * * *
もしも今、神様が目の前に現れたら、私は願い事を変更すると思う。
魅力的な女の子に──とか、彼と両想いに──とか、それ以前の問題だ。
願わくば、私の日々に、もう少しロマンティックな要素をください!