第五章 『俺VS春乃』 6 (終)
男が見えなくなるまで歩いたところで春乃が声をかけてきた。
「誰が、誰の、ものだって?」
意地の悪そうな顔を俺に向けて、とても嬉しそうな声を出していた。……妙に恥ずかしい。せっかく助けてやったのに、この女はどうして素直にお礼が言えないのだろうか。
「……あんたって、強いのね」
「アイツが弱すぎるだけじゃねえか。あんなのに勝っても全然嬉しくねえよ」
俺の最終目標はメスゴリラなんだ。あんな痩せ男に負けるわけがない。
「ううん。そうじゃなくって、ね」
その続きは言わず、春乃は一人で笑っていた。正直、かなり気持ち悪かったが、そのときの俺はなにも言わなかった。
「……手、痛い」
「あっ!」
さっと手を離す。
無意識のうちに春乃の手を握り締めていたようだった。慌てる俺を見て、春乃はまた笑っていた。やっぱり、コイツすげえムカつく。
「おまえ笑ってるけど、またいつあの男に襲われるかわかんねえんだぞ?」
「そんなの、もう大丈夫よ」
「はぁ?」
春乃を見上げる。
輝く瞳。
白い肌。
長い黒髪がさらさらと風に揺れている。キラキラと黒い光を舞い散らせているようで、とても美しかった。
そして、ピンクの小さな唇は、
「だって、勇雄がいるじゃない」
そんなことを言い出した。
にっと笑って、俺を信じきっているような笑みを浮かべて、俺をまっすぐに見つめていた。
「なんなんだよ……」
なんというか、こういう関係も――悪くない。
そんなことを思って、俺もバカにするように意地悪な笑みを浮かべた。
「俺はおまえのガードマンじゃねえんだよ」
「勇雄はあたしのものなんでしょ?」
「ちげえよ! 春乃が俺のもんなんだよ!」
そう言ってから気がついた。
――今思うと、ものすごく恥ずかしい台詞を言っている気がする……。
見ると、春乃はニヤニヤしていた。要するに、嵌められた。
すごく悔しい。こんなメスザルにバカにされるなんて、俺のプライドが許さない。
でも、
「ありがとね、勇雄」
この言葉を聞いて、また、なにも言えなくなってしまった。
「……ほんとになんなんだよ、おまえは……」
――やっぱり、春乃は卑怯な奴だ。……文句の一つも言えやしない。
俺はすっと春乃に負けてばっかだ。
はぁ、と大きな溜息を吐いて、俺はゆっくりと歩き出した。その隣に並んで春乃も歩く。
いつも通りの帰り道。
いつも通りに春乃と二人で。
だけど、いつもとなにかが違う気がする。
――なにが違うんだ?
そこで、はっと気がついた。
「……また、自転車……忘れた」
もう一度、肩を落として溜息を吐く。その隣で春乃がくすくすと笑っていた。
やっぱり、俺はダメな人間だな。
これじゃ、一生、春乃に勝てそうにないや。
小さく笑って、再び歩き出す。
道に自転車を置いたまま、俺は春乃と二人、いつもの道を歩いている。
今日は普段と違って景色が明るい。
俺たちの遠く向こうに夕日が輝いている。
空は闇を焼くように、綺麗に赤く染まっていた。
そんな真っ赤なこの空に、薄く、丸い月が浮かんでいるのが見えた。
二人分の足音を鳴らし、茜色の道をゆっくりと帰って行く。
――自転車以外にもう一つ、気づいていないことがあった。
すでに『勇雄』と呼ばれているということに。
そして。
すでに春乃との勝負に勝っているということに。
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