第三章 『カマキリVS謎の美少女』 3
「……一緒に帰ろうよ」
「それはいいけど……おまえ、自転車は?」
「持ってない。歩いて来てる」
「そっか~」
春乃は明らかに自転車通学をしている俺に向かって歩いて帰れというのか。――なるほど、コイツはとんでもない鬼畜だ。
「……ごめん、俺、帰るわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! あたしの家まですぐ着くから!」
「すぐぅ?」
「うん、すぐ!」
「それは本当なんだな?」
「ええ、少なくともあたしにとってはすぐよ!」
「……」
絶対『すぐ』じゃない気がするのは俺の気のせいだろうか? でも、歩いてきてるんだし、そう遠くではないんだろう。
「……はぁ。わかったよ、家まで行けばいいんだろ」
「うんっ! ありがとっ! カマオ!」
春乃はとても嬉しそうな顔をしていた。
今まで見たこともないような、安心したような満面の笑み。
なんというか、少し、変な気分になる。
一緒に帰ることを承諾したものの、正直不気味だし。こんなことは断りたかった。
――でも、断れるはずがなかった。珍しく春乃が一生懸命にお願いしてきたし、まっすぐな目をしている春乃に少しだけ心が動かされてしまったし……。
要するに、今の彼女はかわいいのだ。
不覚だった。一瞬でもこんな女にときめいてしまうなんて……やっぱり失敗だった。
男って、弱い生き物だな。
重い息を吐いて、苦笑する。
現在、六時半を過ぎたところ。
そんなわけで、俺は今、おかしなことに春乃と一緒に帰宅している。後十分もたてば真っ暗になる夜道を、自転車を押しながら春乃の家に向かっている。幸い、春乃の家は俺の家と同じ方向にあるので、遠回りはしなくてもよさそうだ。
さらさらと春乃のなめらかな髪が頬をくすぐり、ふんわりといい匂いが漂ってくる。俺より背が高いくせに、小さい手、小さい顔、細い足をしていた。
……それにしても、よくわからない。
なぜか、俺の横をぴったりとくっ付くようにして歩く春乃は今でも俺の服をギュッと強く握り締めている。これはかなり歩きにくい。それに、髪型や眼鏡はなんのためのものなんだろう。似合っているけど、どう反応すればいいのかさっぱりわからない。
「これ、どういうゲーム?」
「……なっ、なにが!」
妙に声がでかい。
目を見開いて俺を見下ろす今の春乃は、若干、挙動不審なのだ。さっきからそわそわしながら周囲を警戒して、俺にほとんど抱きつくように体を寄せてきた。
これでまったく嬉しくないといえば嘘になる。コイツは性格はアレだけど、見た目はすごくかわいいし、そもそも女の子にくっつかれて喜ばない男なんていないだろう。もし、いたとすればそいつの正体はオカマだ。当然、俺はオカマじゃないので嬉しいわけなのだが……。
「……はぁ~」
「ひゃぁっ!」
突然、春乃が飛び上がる。
「み、耳に息吹きかけないでよ! びっくりするじゃない!」
「おまえがそんなにくっつくからだろ? 少しぐらい離れて歩けよ」
呆れたように言った。これは紛れもなく俺の本心だ。……だって、春乃の方が背が高いからかっこわるいんだよ。
「い、嫌よ。それじゃあ、カマオと一緒に帰ってる意味ないじゃない」
「そもそも、俺はなんでおまえと一緒に帰らないといけないんだよ」
「そんなこと……あたし知らないもん」
「知らないって、おまえが言ってきたんだろうが!」
「う、うるさいわね! バカ! カマ! バカマ!」
「なんだよ……バカマって……」
突っ込む気力さえ失われていく。とにかく、今日は疲れているのだ。そう簡単にはいつもみたいにポジティブになれそうもない。早く、くるるちゃん成分を補給しなければ……。
ちらりと横目に春乃を盗み見る。
暴言を吐いていた割に、相変わらずオドオドしながら俺にしがみ付いている。
こういうのを世間では『ツンデレ』と呼ぶのだろう。……これのどこがいいと言うんだ? こいつからは恐怖と気持ち悪さしか感じられねえよ。
俺は疲れた頭でぼんやりと考えた。
なぜ、春乃が急にデレたのか……、その理由はいくつか考えられる。
考えられる理由、その一。
――春乃が二重人格だという可能性。
これは、普段のツンツンしたメスザル状態の春乃と、オドオドした美少女状態の春乃の二つの人格を持っているということだ。しかし、今でも暴言を吐いているところからすると、これはちょっと違うんじゃないかと思う。
考えられる理由、その二。
――これまでは周りの目を気にして俺に強くあたっていたが、二人っきりになって本当の気持ちを示し始めているという可能性。
恥ずかしがりの女の子ならありえる話だな。
……ううむ、これは十分に考えられる。
考えられる理由、その三。
夜道が怖い……というのを口実に俺とベタベタしたいだけという可能性。
コイツに限って暗闇を怖がるようなことはないだろう。だから、素直になれない気持ちをなんとか照れ隠しで表現しているということだ。
その場合、異常なまでに挙動不審な動作も演技ということになる。そう考えると、春乃のきょろきょろと周囲を警戒する様子は少し不自然な気がしてきた。
この可能性が一番高いな。
――はっ!
今気づいたが、どの可能性も春乃が俺のことを好きなんじゃねえかっ!
……だけど、眼鏡と髪型は? ……イメチェンして俺の気を惹こうとしているに決まってんだろうが! やっぱりな、俺は最初から怪しいと思ってたんだ。――あれ? なんかコイツ俺のこと見てね? なんていうようなバカなことは口に出すまいと思って言わなかったが、ずっと知っていたのだよ! やっぱり俺はモテモテだなっ!
……。
……なんてな。
そんなことがありえないことぐらい自分で知っている。
これらはすべてモテない俺の妄想だ。どうせ、またこの前のように勘違いなんだろうさ。
――だけどな。俺って生き物は、夢を見続けなければ生きられないものなんだよ!
それが、男ってもんだろっ!
男のロマンを知り尽くした男。それが、この俺、伊丹勇雄さ!
「……この前は、ありがとね」
急に、耳元で消え入りそうな声が聞こえた。ありがとね……と。
「なんのことだ?」
「だから……その。……入学式の前の日、あたしを助けてくれたこと」
「おまえ、俺が助けようとしたってわかってたのか?」
驚いて春乃の顔を見上げた。と、数センチ先で大きな目が俺に向けられていて、
「「……」」
二人して黙ってしまった。妙に顔が熱かった。
――落ち着け、俺。なんでこんな奴にドキドキしてんだよ。こいつは人間じゃなくてメスザルなんだぞ。女じゃない、メスなんだ!
メス、メス、メス、と心の中で何度も呟いて心を落ち着かせる。
普段と見た目が違うせいでよけいに女として意識してしまった。先輩という愛する妹がありながら……浮気は絶対にいかんぞ。
それよりも、今はさっきの問題だ。俺は意図的に春乃を見ないようにして言った。
「俺が助けようとしたこと知ってて、『オカマ』って叫んだのか?」
「……あ、あれは、怖くて気が動転してたんだもん」
「入学式の日も、か?」
「あれは、いきなり目の前に現れるから、びっくりしちゃって、つい条件反射で……」
条件反射で『カマオ』と叫べるなんて、普段からコイツの周りはオカマで溢れているのだろうか。
「ほ、ほんとよ! 嘘じゃないんだから!」
「わかった、わかったから顔を近づけるな。上から説教されてるようでなんか腹が立つ」
ごめん、と小さく言ってから春乃は顔を離した。それでも、俺の服をしっかりと掴んだまま、くっついたまま。案外、夜道が怖いというのもありえるのかもしれない。……一度襲われてしまったら、それがトラウマになっても仕方ないよな。
勝手に一人で納得する。聞くと余計に怖がらせるかもしれないと思ったから、そのことは聞かないでおいた。
「おまえ、昨日まではどうしてたんだ?」
「部活なかったし、家までダッシュで帰った」
「……そうなのか」
女の男を恐れる気持ちは、多分、男の俺には一生わからないだろう。だけど、このままじゃ、春乃はその不良のせいで一生ビクビクしながら生活しないといけねえじゃねえか。
そんなのって……。
あっていいのか……?
――ふざけんな。
「……別にそんなに怖がらなくてもいいんじゃないか?」
安心させるように俺がそう言うと、春乃は目をカッと剥いて、
「ぜ、全然怖くなんかないもん! あんな奴、怖くなんかないんだから!」
と言いつつも俺の体に密着してくる。……普通、いくら怖くても嫌いな男にこうもくっ付けるものだろうか。――やはり、コイツは俺に気があるのかもしれないな。しかし、乙女心、いや、メスザル心というのはさっぱりよくわからん。帰ったら姉貴にでも教えてもらうか。サルもゴリラも似たような仲間だし。
俺たちはコツコツと足音を鳴らして二人並んで帰っていた。
そうして、時々言葉を交わしながら結局二十分くらい歩き続けると、ようやく春乃の家に辿り着いた。
「……全然ちょっとじゃねえじゃねえか!」
「うるさいわね! 五分も十分も二十分も似たようなものじゃない!」
春乃に言わせると、一日も一年も似たようなものだと言い出すかもしれないな。
「じゃ、あたしは帰るから」
とそそくさと一軒家の門に手をかけたところでくるりと振り返り、
「……今日は、本当にありがとう」
ポッと顔を赤らめて自分の家に入ってしまった。
――すごく、女の子の表情で。
俺はなにも言えないまま、ただ呆然と突っ立っていることしかできなかった。まだ、体に春乃の感覚が残っている。
なんというか、卑怯な奴だ。
言い逃げなんて、すごく卑怯だ。
「くそっ……」
天を仰ぐと真っ黒な空に小さい星が点々と輝いていた。そして、丸い月。こんなに綺麗な夜空が見えているというのになにが怖いんだ。ったく、
――うっかり、守ってやりたくなっちまったじゃねえか。
ふっと小さく笑ながら、俺は自転車を走らせた。