「ご相談があるのですが」と侯爵令嬢に婚約者を連れていかれた田舎令嬢です
……よし。
相手は今、一人だ。
いけ。勇気を出すのだ、リシェル!
廊下の先を歩いていく長身の背中を見つけ、私はぎゅっと拳を握った。
「クラウス様!」
思い切って声をかけると、アルヴェル公爵家の次男、クラウス様が振り返った。さらりと銀色の髪が揺れ、青い瞳がまっすぐ私を捉えた。
ふああ……今日も格好いい。
――じゃなくて!
「クラウス様、このあと、ご予定はありまして?」
「……いや」
「でしたら、一緒にカフェでお茶をしませんか? 学園近くの『ヴェルディ』というお店なのですが」
「……ああ」
やった! お茶をご一緒できる権利、獲得!
顔が緩みそうになるのを必死に堪えながら、私はクラウス様の隣を歩いた。
「もうすぐ星灯祭ですね。噂で聞いたのですが、魔道具を無数に使った演出があるのですよね?」
「ああ」
「その中で踊るなんて……幻想的で、きっと素敵でしょうね」
表情の変わらないクラウス様にも、私はつい頬を緩ませながら話しかけていた。
そのとき。
「クラウス様」
しとやかな声が聞こえ、思わず身を固くする。振り返ると、艶やかな金髪を揺らしながら、美しい令嬢がこちらへ歩いてきた。
「……エレナ様、ごきげんよう」
「リシェル様、ごきげんよう」
エレナ・ルベリア侯爵令嬢は優雅に微笑んだあと、クラウス様へ向き直った。
「クラウス様、申し訳ございません。星灯祭で使用する備品について、調達先との調整が必要になりまして。少しご相談させていただけないでしょうか」
え。
目を見開き、思わずクラウス様を見る。
「わかった」
……ですよね。
生徒会のお仕事なら仕方がない。
「リシェル、すまない。埋め合わせはまたする」
「せっかくリシェル様からお茶にお誘いになっていたのに、申し訳ありません」
エレナ様まで、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、お気になさらず。打ち合わせ、お疲れさまです」
なるべく笑顔で二人を見送った。礼儀正しい距離を保ったまま並んで歩く二人の背中が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
「やっぱり、エレナ様とクラウス様って本当にお似合いね」
近くにいた令嬢の少し甲高い声が耳に入った。
「ねえ。昔からよくご一緒にいらしたもの」
「リシェル様も、そう思いません?」
「ほほ……」
婚約者の私に、なんと答えろと?
「私、行くところがありますので。失礼いたします」
笑顔だけは崩さず、その場を離れた。廊下の角を曲がり、誰もいなくなったところで、ようやく肩の力を抜く。
「……はあ」
せっかく勇気を出して声をかけたのに、今日も収穫ならず。
肩を落として廊下を歩いていると、通る先々で令嬢たちの話し声が聞こえてきた。
「クレメンス令嬢のお家って、家格だけなら古い伯爵家なのでしょう?」
「ええ。でも、少し前まで没落寸前だったとか。それなのに、どうしてこの学園へ……」
それは、数年前から始めた領地改革が、ようやく軌道に乗ったからです。
とはいえ、本当にようやく、私一人を王都の学園へ通わせられるようになった程度で、王都へ連れてこられる侍女すらいない。朝の身支度も髪を結うのも、全部自分でやっているのだ。
階段を下りれば、今度は別の令嬢たちの声が耳に入る。
「でも、リシェル様って、あまり令嬢らしくないというか……」
「分かるわ。エレナ様なんて、あんなに肌が白くてお綺麗なのに」
領地を立て直すために、倒れた父の代わりにあちこち駆け回っていたら、こうなったのです。
これでも淑女教育は受けていました!
……領地経営に勤しみすぎて、身につけるより聞き流していた時間の方が長くなってしまったけれど。
入学してから、自分がいかに令嬢らしさからかけ離れているか痛感してからは、身なりにも気をつけるようになった。新しいドレスを何着も揃える余裕はないので、少ないお小遣いをやりくりして王都の装飾店で流行のリボンや髪飾りを買い、地味なドレスが違って見えるよう工夫している。領地で育てている薬草を使って、日に焼けた肌や傷んだ髪の手入れだって始めた。
これでも、以前よりマシになった方だ……たぶん。
「それにしても、どうしてリシェル様がクラウス様の婚約者になったのかしら」
「本当に。不思議よね」
向こうからの打診だからです!
あの縁談が舞い込んできたとき、一番驚いたのは私たち家族なのだから。
何しろお相手は、名門アルヴェル公爵家。最初に話を聞いた父など、本気で新手の詐欺を疑っていた。
後日、公爵家で正式に顔合わせをした際には、ここ数年の我が家の領地経営と今後の将来性を見込んでのことだと説明された。それを聞けば、理由がまったく分からないわけでもない。
我が家は没落しかけていたとはいえ、古くから南部を治めてきた伯爵家だ。領地の場所自体は悪くない。アルヴェル公爵領とも近く、両領を結ぶ街道を活用できれば、公爵家にもそれなりの利点がある。
……でも、本当にいいの?
うちの屋敷、壁紙が剥がれているところなんて珍しくもないし、雨漏りだって直せていない部屋がまだある。
そんな屋敷に、名門公爵家のご子息が来ることになるなんて……。
ダンスの練習場に着くと、中には教師が一人残っていた。
「あら、リシェル様。ごめんなさいね。このあと予定があるの。今日はもう失礼するわ」
そう言い残し、教師は足早に出ていってしまった。
仕方がない。一人で練習しよう。
「ええと……ここで、ターンだったっけ……」
頭の中で教わった順番を思い出しながら、床の上で足を動かす。
「あっ、違う……やり直し、やり直し……」
何度か同じところを繰り返しているうちに、ふとクラウス様と初めてお会いした日のことを思い出した。
正式な顔合わせのため、父とともにアルヴェル公爵家を訪れた日のことだ。応接室で、クラウス様は私の正面に座っていた。
両家の話し合いが進む中、私は何度もこっそり彼の様子を窺った。クラウス様は最初から最後まで、ほとんど表情を変えなかった。
ああ。嫌なんだろうな、と思った。
名門公爵家のご子息が、少し前まで没落寸前だった田舎伯爵家の娘と婚約するのだ。喜べと言われても無理がある。
そう考えていた、そのときだった。
クラウス様と目が合った。
凛とした青い瞳にまっすぐ見つめられ、胸が大きく跳ねる。
そして私は、呆れるほど簡単に恋に落ちた。
「……へへ」
思い出しただけで頬が緩みかけた、そのとき。
くすっ、と誰かが笑う声がした。
はっとして振り返ると、開いた扉の向こうで、廊下を歩いていた令嬢たちがこちらを見ていた。目が合うと、彼女たちは慌てたように顔をそらし、そのまま通り過ぎていく。
「……はあ」
こういうことが増えたのは、クラウス様との婚約が決まってからだ。その理由も、なんとなく分かっている。
『クラウス様とエレナ様って、婚約されるものだと思っていたわ』
『私も。昔からよくご一緒にいたものね』
そんな話を、何度聞いたことだろう。
エレナ様は生徒会長を務めていて、生徒からの人望も厚い。成績も優秀で、立ち居振る舞いも完璧。まさに理想的な淑女だ。
「……まあ、そう思うよね」
私だって、二人はお似合いだと思う。
壁一面に張られた鏡へ目を向けた。
エレナ様は、すらりと背が高く、艶やかな金髪に白い肌。対する私は、小柄な身体に黒い髪。
並べば、どちらがクラウス様の隣にふさわしく見えるかなんて、考えるまでもない。
しかもクラウス様は私より一学年上だから、学園内でもそう頻繁に会えるわけではない。だからこそ、たまに見かけたとき、その隣にエレナ様がいることが妙に目についた。
クラウス様は私といるときより、ずっとよくエレナ様と話しているように見える。
もしかすると、顔合わせの日にクラウス様があれほど無表情だったのも、エレナ様のことがあったからなのだろうか。
そんなことを考えて、眠れなくなった夜もある。
しかし、我が家としては、この縁談を断る理由などなかった。アルヴェル公爵家は広大な穀物地帯を持っている。領地改革を進めている我が家にとって、公爵家との繋がりができれば大きな助けになる、という打算的な気持ちもあるからだ。
「よし……もう一回!」
私は気を取り直し、再びステップを踏んだ。
婚約してから何度か会話をしたが、クラウス様の返事は「ああ」とか「そうか」とか、いつも短い。それでも、私を邪険にしたことは一度もなかった。
以前話したことを覚えていてくれたり、歩くときには私の歩幅に合わせてくれたり、階段ではさりげなく手を差し出してくれたりする。
婚約者としての気遣いにすぎないのかもしれない。
それでも、そんな小さなことがいちいち嬉しい。そのたびに、やっぱり好きだなあと思ってしまう。
一通り練習を終えた頃には、すっかり息が上がっていた。
「はあ……はあ……」
家にいた頃、ダンスが苦手だからと何だかんだ理由をつけて練習から逃げていたツケが、今になって回ってきている。
クラウス様に恥をかかせるわけにはいかない。
星灯祭では、婚約者同士で踊るのが通例なのだ。
クラウス様と踊れる。
「……ふふ」
楽しみ。
もっと練習しよう。ちゃんと踊れるようになって、クラウス様と――。
そこまで考えたところで、ふいにエレナ様と並んで歩くクラウス様の姿が頭をよぎった。
私は練習場の扉に手をかけたまま、小さく呟いた。
「……踊って、くださるよね?」
◆
そうして迎えた、星灯祭の日。鏡の前で、私は何度も自分の姿を確認していた。
今日のために用意した、菫色のドレス。王都で人気だという店を調べ、父に何度もお願いして、ようやく仕立ててもらったものだ。胸元には同じ色合いの小さなリボンが飾られている。
「……ちょっと、可愛すぎたかな」
今になって不安になってきた。
でも、店員さんは似合うと言ってくれたし、たぶん大丈夫。
本当なら婚約者であるクラウス様にエスコートしていただけるのだが、今日は生徒会の仕事があるため、先に会場へ入っている。残念だけれど、仕方がない。
気を取り直して、私は一人で会場へ向かった。
広間へ足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑む。
「わあ……」
噂に聞いていた通りだった。
天井近くには、魔道具で生み出された無数の灯りが浮かんでいる。大小さまざまな光が瞬きながらゆっくりと動き、まるで本物の星空が頭上に広がっているようだった。
その下を、色とりどりのドレスをまとった令嬢たちが行き交っている。首飾りや髪飾りだけでなく、ドレスそのものに宝石を散りばめている人までいた。
こ、これが王立学園の夜会……。
急に自分の菫色のドレスが地味に思えてきた。
大丈夫かな。
浮いてないよね?
そんなことを考えながら飲み物を受け取り、私は広間を見回した。
クラウス様、どこだろう。
まだお仕事かな――。
ドンッ。
「えっ」
突然、横から誰かにぶつかられた。
手にしていたグラスが傾き、中身が胸元から裾へ盛大にこぼれる。
「あ……」
菫色の生地に、大きな染みが広がっていった。
「あら! ごめんなさい!」
嘘、どうしよう。これしか、まともなドレスを持ってきていないのに。
「本当にごめんなさい! わたくし、前を見ていなくて……」
「い、いえ……私もよそ見をしていましたから……」
そう答えながらも、頭の中が真っ白になっていく。
「リシェル様?」
振り返ると、そこにいたのはエレナ様だった。
ワインレッドの艶やかなドレスが金髪をいっそう引き立てている。
……やっぱり、お美しい。
「まあ……大変」
エレナ様は私のドレスを見るなり、心配そうに眉を寄せた。
「このほかに、予備のドレスはお持ち?」
「いえ……」
せっかく今日のために仕立ててもらったのに。
目の奥がじわりと熱くなりかけたところで、エレナ様が私の手を取った。
「大丈夫です。こういうときのために、控えのドレスを用意していますの」
「えっ」
さ、さすが生徒会長。
「控室に侍女がいますから、今のうちに着替えていらっしゃい。クラウス様は演奏の最終確認で席を外していらっしゃいますし」
「エレナ様……ありがとうございます!」
案内された侍従について控室へ向かい、そこで待っていた侍女に手伝ってもらいながら着替えることになった。
用意されていたのは、青灰色のドレスだった。胸元から裾にかけて銀糸の刺繍が施され、生地を見ただけでも私のドレスより明らかに上等なものだと分かる。
「素敵……」
恐る恐る袖を通してみる。
「まあ、とてもお似合いですわ」
侍女が鏡越しに微笑んだ。
「え? 髪もですか?」
「はい。せっかくですから、ドレスに合うように直しましょう」
慣れた手つきで髪を整え、最後に金色の髪飾りを挿してくれた。
「こちらでよろしいかと」
「……わあ」
鏡に映った自分を見て、思わずため息が漏れた。青灰色のドレスは思った以上に黒髪とよく合っていて、菫色のドレスよりも大人びて見える。
ただ、金の髪飾りだけ、少し華やかすぎる気もした。
でも、侍女が選んでくれたのだから、おかしくはないのだろう。
侍女に何度も礼を言い、意気揚々と広間へ戻る。
ちょうど演奏が始まり、何組もの男女が踊り始めていた。
いいなあ、私も早く踊りたい。
クラウス様、まだかな。
広間を見回していると、不意に近くからひそひそと声が聞こえた。
「ねえ、あれ。似ていない?」
「さっき失くしたって、話してなかったかしら」
何だろう。
視線を向けると、何人かの令嬢が私の頭を見ている。やがて、そのうちの一人がおずおずと近づいてきた。
「あの、リシェル様。少しよろしいでしょうか」
「はい。どうかしましたか?」
「その髪飾り……どちらで?」
「これですか?」
「ええ。マリアベル様がお持ちのものに、とてもよく似ていると思って……。いえ、わたくしの勘違いかもしれませんけれど」
「マリアベル様?」
「……何ですって?」
鋭い声が聞こえた。
声のした方へ顔を向けると、人垣の向こうから一人の令嬢がこちらへ歩いてくる。
マリアベル様だ。
彼女は私の髪を見た瞬間、大きく目を見開いた。
「それ……わたくしの髪飾りですわ!」
「え?」
「どうしてあなたが持っていますの!?」
広間がざわめいた。
何を言われているのか分からず、私は反射的に髪飾りを外した。
「こ、これ……ですか?」
「そうですわ!」
マリアベル様は私の手から髪飾りを奪うように取り上げ、裏側を見せる。
「ここに我が家の紋が入っておりますもの。間違えるはずがありません!」
確かに、小さな紋章が刻まれていた。
「まあ……」
「リシェル様が?」
「でも、あのお家、つい最近まで随分苦しかったのでしょう?」
周囲から聞こえてくる声に、背筋が冷える。
「まさか、盗んだのでは……」
「ち、違います……!」
思わず声を上げた。
「その髪飾りは、先ほど着替えを手伝ってくださった侍女がつけてくださったものです。私は知りません……!」
「そんな言い訳が通ると思っているの? わたくしの大切な髪飾りを、あなたが身につけていた。それが事実でしょう?」
「マリアベル様!」
エレナ様が慌てた様子で間へ入ってきた。
「お待ちになって。まだリシェル様が盗んだと決まったわけではありませんわ」
「ですが、エレナ様!」
「そうですわ。もしかするとリシェル様は、少し借りるだけのおつもりだったのかも……」
借りる?
私が、誰にも断らずに?
周囲から向けられる目が、明らかに変わった。疑いと侮蔑、それに好奇心まで混じった視線が一斉に突き刺さる。
さっきまであれほど煌びやかだった広間が、急に私一人を断罪する場所に思えた。
だけど――。
「……そうですか」
不思議なことに、私の頭は冷えていった。
私は深く息を吐き、マリアベル様を見据えた。
「……マリアベル様。今、私があなたの髪飾りを盗んだとおっしゃいましたね」
「ええ。現にあなたが持っていたでしょう!」
「では、それは家名をかけての正式な告発ですか?」
「……え?」
「私はクレメンス伯爵家の名にかけて、その髪飾りを盗んでいないと誓います。必要でしたら私の持ち物でも、先ほど使用した控室でも、すべてお調べください」
広間のざわめきが少し小さくなった。
「そのうえで私を盗人だとおっしゃるのでしたら、マリアベル様もご自分の家名にかけて、私が盗んだと告発なさるのですね?」
「で、でも、あなたが持っていたことには変わりありませんわ!」
「それだけで、私の発言を覆す根拠はございません」
言い切ると、マリアベル様が言葉に詰まった。
「それと、もう一つお聞きしても?」
「……何かしら」
「それほど大切な、ご家門の紋まで入った髪飾りなのですよね。そのような大切なものを、なぜご自身の侍女に保管させなかったのですか?」
「っ……そ、それは……」
「まあ、リシェル様」
エレナ様が困ったように眉を寄せる。
「お気持ちは分かります。でも、そのように詰め寄られてはマリアベル様も――」
「エレナ様、私は今、この大勢の前で盗人ではないかと疑われています」
エレナ様の口が止まる。
「ならば、私を疑う方にも相応の覚悟を持っていただかなければ困ります」
「落ち着いてくださいませ。お互いに何か行き違いがあっただけかもしれませんわ。ここで事を大きくする必要は――」
「そこまでだ」
低く落ち着いた声に、振り返る。
「クラウス様……」
人垣が左右に分かれ、その向こうからクラウス様が歩いてきた。
クラウス様は私の隣まで来ると、マリアベル様が握っている髪飾りを一瞥し、それから彼女へ視線を向けた。
「マリアベル嬢。リシェルが盗んだと主張するなら、これは私の婚約者に対する正式な告発として扱う」
「そ、そんな……わたくしは……」
「今ここにいる関係者には、学園側から事情を聞いてもらう。控室を使用した者と、着替えを手伝った侍女についても、すぐに確認させる。髪飾りが最後に確認された場所もすべて調べる」
マリアベル様の顔から血の気が引いた。
「当然、君の家にも正式に報告する」
「クラウス様……お怒りのお気持ちは分かります。でも今夜は星灯祭ですわ。せっかく皆が楽しみにしていた日なのですから、どうかこの場は――」
「エレナ嬢。君にも言っている」
「……え?」
「ここで話すつもりはない」
「何を……」
「分からないなら、あとで話す」
「……わたくしは、ただクラウス様のためを思って……」
「私のためだと言って、私の意思を勝手に使うな」
エレナ様は何か言い返そうと唇を動かしたものの、言葉は出てこず、やがてそのまま踵を返した。マリアベル様も青ざめた顔で後を追う。
私はその様子を見ながら、完全に置いていかれていた。
え。 何?
どういうこと?
「リシェル」
「は、はい!」
突然呼ばれ、背筋を伸ばす。
クラウス様は私を見ると、それまでの険しい表情をわずかに和らげた。それだけで、胸がきゅっと鳴る。
「これまで、嫌な思いをさせたな」
「い、いえ……」
これまで? 何のことだろう。
「説明はあとでする」
そう言って、クラウス様が私へ手を差し出した。
「まずは踊ろう」
その手を見て、私は目を瞬かせる。
「……いいのですか?」
「そのために練習していただろう」
どうして、それを……。
クラウス様はそれ以上何も言わず、手を差し出したまま私を待っている。
私はその手に、そっと自分の手を重ねた。
「……はい」
クラウス様に導かれ、広間の中央へ向かう。やがて音楽に合わせて足を踏み出した。
何度も間違えて、何度も最初からやり直したステップなのに、クラウス様のリードのおかげで、身体が自然と動いた。
頭上では、魔道具の星々が瞬いていた。
目の前には、クラウス様。
さっきまで、広間から逃げ出してしまいたいと思っていたのに。
今はただ、この時間が長く続けばいいのにと思った。
◆
数日後、エレナ様とマリアベル様は、学園を退学処分となった。
公爵家では、クラウス様を中心に以前から私の周囲で広がる噂について調べていたらしい。その結果、エレナ様がマリアベル様を介して噂の種を流し、それを信じた令嬢たちの間で広まるよう仕向けていたことが分かったという。
星灯祭での一件が決定打になったそうだ。私が怯んで何も言えなくなると思っていたらしく、これまでより多くの人間を動かしたことで、かえって足がついたらしい。ドレスに飲み物をこぼした令嬢も、着替えを手伝った侍女も、エレナ様の意を受けたマリアベル様の指示で動いていたことが明らかになった。
「すまなかった」
クラウス様とカフェで向かい合うと、開口一番そう謝られた。
目の前には、宝石のように飾られた小さなケーキと、香りのいい紅茶が置かれている。
「手口が巧妙で、なかなか尻尾を掴めなかった。下手に噂だけ止めれば、証拠を隠される可能性もあった。だが、星灯祭であんなことを仕掛けるとは思わなかった……守れずに、すまない」
「そうだったのですね……それなら仕方ありませんよ」
「いや。あれだけ噂が広まっていたんだ。居心地も悪かっただろう」
「それは……まあ」
答えを濁すように、私はケーキを一口食べた。甘くて、思わず頬が緩む。
「でも、どうしてエレナ様を疑ったのですか?」
「婚約が決まってからの動きに違和感があった。君についてあれだけ噂が広まっているのに、生徒会長である彼女が一度も問題にしなかったこともな」
言われてみればそうだ。
「決定的だったのは、君が私をカフェへ誘った日のことだ。あのとき、エレナ嬢は君が私を誘ったことを知っていた。あれで疑いが確信に変わった」
「……あ」
そうだ。
エレナ様が姿を見せたのは、そのあとだった。それなのに、私がクラウス様を誘ったことを知っていたのだ。
以前、公爵家はルベリア侯爵家から縁談の打診を受けたことがあったそうだ。しかし、公爵家とルベリア侯爵家が婚姻で結びつけば国内の力関係が偏りすぎるため、断ったらしい。
エレナ様は、それでも諦めきれなかったのだという。その結果、今回の件は社交界にも広まり、すでにいくつかの縁談が取り下げられたらしい。マリアベル様も同様で、今回の件に加担した代償は決して小さくなかった。
マリアベル様は以前からエレナ様を慕っており、クラウス様の隣にはエレナ様こそふさわしいと信じていたらしい。そのため、エレナ様の頼みに応じ、今回の件にも加担したのだという。
私はしばらく紅茶を見つめていたが、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「でも……クラウス様は、本当にエレナ様でなくてよかったのですか?」
クラウス様がカップを口元へ運びかけて、止まった。
「どうしてそう思う?」
「だって、お二人は昔からご一緒だったのでしょう? 皆さんも、婚約するならエレナ様だと思っていたみたいですし……」
「そもそも、クレメンス伯爵家との婚約を望んだのは私だ」
「……え? クラウス様が?」
「ああ」
「ど、どうしてですか……?」
目を瞬かせると、クラウス様がわずかに視線を伏せた。
「君、学園へ入学するときに論文を提出しただろう」
「……ああ、出しましたけれど……」
特待生になれないかと、領地改革についてまとめて提出したものだ。結局、特待生には選ばれなかったので、今となっては気恥ずかしい代物である。
「荒れた土地でも育てられる薬草の栽培と、その成果について書いていたな」
「はい。でも、あれは本当に必死だっただけで……」
クレメンス領が没落しかけた一番の原因は、穀物地帯の土地が痩せ、収穫量が落ち続けたことだった。
まったく育たないわけではなかったため、先代たちは昔からの穀物栽培にこだわり、収穫量が落ちても細々と作り続けていた。でも、それでは先細りになるばかりだ。
そこで私は思い切って穀物の栽培をやめ、痩せた土地でも育つ薬草へ切り替えたのだ。
「必死だっただけで、自領以外のことまで考えるか? 近隣領には、加工を請け負わせる案を出していただろう」
「それは……うちの領地だけでは、加工まで手が回らなかったので……」
「そういうところだ」
クラウス様が私を見る。
「最初は、どんな令嬢が書いたのか気になった。それで君を見るようになった」
急に恥ずかしくなってきて、私は紅茶をスプーンでかき混ぜた。
「学園へ来たばかりの頃は、随分苦労していただろう」
「う……そうですね」
「礼儀作法を勉強し直して、少しずつ身なりも変わっていった」
まさか、そんなところまで見られていたなんて。
「それで……そのうち、好きになった」
危うく紅茶を吹き出すところだった。
クラウス様は私から視線を逸らした。耳が、少し赤い。
「一人で頑張っているところも、その……可愛いと思った。ダンスの練習も」
「ええっ」
思わず声が裏返った。
「み、見ていたのですか!?」
「何度か」
一人で練習して、間違えていたところを……。
しかも途中でにやけていたのに。
両手で顔を覆いたくなる。
「私……ずっと、クラウス様には嫌われていると思っていました」
「そんなふうに思っていたのか?」
「だって、最初にお会いしたとき、ずっと無表情でしたし……」
「あれは……」
クラウス様が言いにくそうに口を閉じる。
「緊張していた」
「え?」
「君を尊敬していたからな」
「クラウス様が?」
思わずまじまじと見てしまった。
「……そんなに驚くことか?」
「だって、全然分かりませんでしたから……」
「そうか」
少し不満そうな顔をするクラウス様を見て、ふふっと笑ってしまった。
「……ところで、どうして調べていることを教えてくださらなかったのですか?」
クラウス様が私の顔をじっと見る。
「君は顔に出やすいから。知っていたら、エレナ嬢の前で全部顔に出ていただろう」
「そ、そんなこと……」
否定しかけて、やめた。
ないとは言い切れない。
「淑女教育は、もう少し頑張った方がいいな」
「うう……」
「まあ、これからは一人で頑張る必要はない。私もいる」
「……ありがとうございます……あの、ひとつお願いが……」
「何かな」
「こ、これからは……時々、学園で一緒にお昼を食べたり、放課後に過ごしたりとか……」
クラウス様はしばらく黙って、私を見つめた。
……だめだった?
不安になっていると、彼はふいに口を開いた。
「生徒会長が辞めて、私がその役を引き継ぐことになった」
「え? あ、そうでしたね」
「君も生徒会に入らないか?」
「わ、私がですか? でも、生徒会って……ある程度の家格や、学園への寄付実績も必要なのでは……?」
「ああ。確かに、それも条件のひとつだ」
「やっぱり……」
「だが、君にはそれを覆すだけの実績がある。皆の前でも、その実力は十分に示しただろう」
クラウス様はまっすぐに私を見つめた。
「君に来てほしい」
そんなふうに言われてしまったら、断れるはずがない。
私は頬が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「……はい」
するとクラウスは、満足そうに微笑んだ。
◆
それから数年後。
クレメンス領で始めた薬草栽培は周辺領にも広がり、栽培だけでなく、加工や流通まで含めた一連の領地改革として王家から正式に評価された。
そして、その功績を認められた私自身に、侯爵位が授けられた。
少し前まで、没落寸前の田舎伯爵家の娘だった私が、である。
人生とは、本当に分からない。
「リシェル、何を笑っている?」
先を歩いていたクラウスが足を止め、振り返った。
「少し、昔のことを思い出していただけです」
私は追いついて、クラウスの手を取る。
「そうか。そろそろ帰ろう」
「はい。久しぶりの王都のカフェはいかがでしたか?」
「よかった」
「そうですね。新作のケーキもすごく凝っていて――」
「君を眺めるのがな」
「……何言ってるんですか!」
私たちは一面に広がる薬草畑を眺めながら、寄り添う二つの影を長く伸ばして屋敷へ戻った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
面白かったと思っていただけましたら、★評価やブックマークをいただけると嬉しいです。
感想もお待ちしております!




