十年前に捨てたんだよ
どうもオジオジ13です。
新作を書いてみました!
第一話 十年前に捨てた
人生に必要なものは三つある。
飯。
金。
昼寝。
この三つが揃っていれば、人はだいたい幸せに生きていける。
逆に言えば、この三つを邪魔するものは俺の敵だ。
たとえそれが、王様だろうと。超絶美人なセクシー姉ちゃんだろうが……だ。
「お兄ちゃん」
店の奥から、冷たい声が飛んできた。
「なんだ?」
「商品、食べないでっていつも言ってるでしょ!」
俺はヴァン・クロード、三十三歳。
王都から少し離れた町エルザードで、小さな雑貨屋を営む男である。
そして今、店の商品である干し肉を堂々と噛んでいた。
「違う、リリィ。これは盗みではない」
「私、盗みなんて言ってないけど?」
「顔が言ってる」
「顔は正直だからね」
妹のリリィは、木箱を抱えたまま呆れたようにため息を吐いた。
二十三歳。
しっかり者で、働き者で、兄に対してだけ妙に容赦がない。
「おい待て、これは商品の品質確認だ」
「六本目だよ」
「六回確認している」
「一本目でわかるでしょ」
「甘いな小娘。干し肉というものは一本一本に個性がある。硬さ、塩加減、噛み締めた時の肉汁、そして朝飯としての適性――」
「今はっきりと朝飯って言った」
「言ってない」
リリィは笑った。
その笑顔を見て、ヴァンは干し肉をもう一口噛む。
昔は、リリィはあまり笑わなかった。
十年前までは。
だから今のこの平和な時間が、ヴァンは嫌いではなかった。
少しだけ妹の小言が鋭すぎることを除けば。
「お兄ちゃん、今日は配達あるからね」
「聞いてない」
「昨日言ったよ、昨日の配達も結局お兄ちゃんいなくなっちゃうかは私が行ったんだからね!今日はぜーったいお兄ちゃんが行ってよ!」
「昨日の俺は昨日の俺だ。今日の俺とは別人だ」
「はー……便利な考え方だね、人生楽に生きれそう」
「だろ?」
「褒めてない」
リリィは棚に商品を並べながら、ちらりと兄を見た。
「西通りのミラおばさんの家。壊れた椅子の修理。昼まで」
「椅子って、うちは雑貨屋だぞ」
「兄ちゃんが『何でもやります、安くします、でも早起きはしません』って看板に書いたんでしょ」
「あれは商売上の演出だ」
「普通に町では便利屋扱いされてるよ」
「俺はもっとこう、優雅に暮らしたいんだ。朝は鳥の声で目覚め、昼は茶を飲み、夕方には夕日を眺めながら人生について考える」
「今日のお兄ちゃんの今のところ、朝から商品食べてるだけだけど」
「人生について考えながら食ってる」
「最低の人生だね」
「妹よ、兄を敬え」
「敬える兄になって」
正論は刃物より痛い。
ヴァンは胸を押さえながら、わざとらしくよろめいた。
その時、店の扉が開いた。
「ヴァンのおっちゃーん!」
入ってきたのは近所の子供たちだった。
先頭の少年が、元気よく手を振る。
ヴァンは即座に眉をひそめた。
「お兄さんだ」
「でも三十三歳だろ?」
「誰から聞いた」
「リリィ姉ちゃん!」
ヴァンが振り返ると、リリィは何食わぬ顔で棚を拭いていた。
「リリィ、お前は俺をどうしてもおっさんにしたいのか?」
「町のみんな知ってるよ」
「俺の個人情報どうなってんだ」
「お兄ちゃんの年齢なんて誰も気にしてないから」
「隠せ。国家機密にしろ」
子供たちはけらけら笑った。
そのうちの一人、小さな女の子が木の小箱を差し出してくる。
「おっちゃん、これ直せる?」
「お兄さんな」
ヴァンはそう言いながら、小箱を受け取った。
蓋の蝶番が外れている。
安物だが、丁寧に使われていた。
「お母さんのなの。落としちゃった」
「ふーん」
ヴァンは一度だけ箱を振った。
中から小さな音がする。
「リリィ、細い釘と小さい金具」
「はいはい」
「あと、おっちゃん禁止料として銅貨一枚」
「えー!」
「お兄さんって呼んだら無料にしてやることを考えてやらんこともない」
「ヴァン兄ちゃん」
「よし、無料仕方ないから今日は無料にしてやろう、優しい【お兄さん】でよかったな」
「ちょろ!!」
「リリィ、聞こえてるぞ」
ヴァンは椅子に腰掛け、小箱を膝に置いた。
普段のだらしない様子とは違い、手つきは妙に正確だった。
外れた金具を指先で押さえ、釘を打つ。
打つ音は小さい。
乱れない。
わずかな歪みを直し、蓋を閉じる。
ぴたり、と綺麗に収まった。
「ほら」
「すごい!」
「大事に使えよ。次落としたら箱が泣く」
「箱って泣くの?」
「ああ、夜中にな……」
「怖い!」
「女の子に怖い話ししないの!」
リリィが横から叱る。
ヴァンは肩をすくめた。
子供たちが笑いながら店を出ていく。
平和だった。
うるさくて、面倒で、安っぽくて。
けれど、ヴァンにとっては十分すぎるほど贅沢な日常だった。
少なくとも、十年前に自分が手放したものよりは、ずっとましだった。
「お兄ちゃん」
「今度はなんだ?」
「顔、怖い」
「失礼なやつだな、生まれつきだ」
「違う。昔のこと考えてたでしょ?」
リリィの声が少しだけ柔らかくなる。
ヴァンは黙って干し肉を口に放り込んだ。
「考えてない」
「嘘」
「俺は未来しか見ない男だ」
「未来に昼寝しかなさそう」
「最高の未来じゃねぇか」
リリィはそれ以上追及しなかった。
この妹は、踏み込んでいい場所と、踏み込んではいけない場所を知っている。
それがありがたくて。
少しだけ、申し訳なかった。
昼前。
ヴァンは渋々、壊れた椅子を直しに店を出た。
エルザードは大きな町ではない。
石畳の通り。
低い屋根の家々。
広場の噴水。
昼になればパン屋の匂いが通りに流れ、夕方になれば酒場から笑い声が漏れる。
王都のような華やかさはない。
だが、人が生きるにはこれくらいがちょうどいい。
「ヴァンちゃん、今日も眠そうだねぇ」
野菜を並べていたミラおばさんが声をかけてきた。
「眠そうなんじゃない。眠いんだ」
「胸張って言うことかい」
「人間、正直が一番だ」
「じゃあついでに、正直にお願いするよ、この荷物も運んでおくれ」
「今の正直って言葉、取り消していいか?」
「だめだね、正直が一番なんだろ?」
結局、椅子の修理に加えて荷物運びまで押し付けられた。
ヴァンはぶつぶつ文句を言いながらも、断りはしない。
壊れた椅子を直し、重い野菜箱を倉庫まで運び、ついでに屋根に引っかかった洗濯物まで取らされた。
「俺は雑貨屋だぞ……」
屋根から降りながら、ヴァンは深々とため息を吐く。
「何でもできる雑貨屋って便利だねぇ」
「便利って言葉で人をこき使うな」
「お礼にこれ持っていきな」
渡されたのは焼きたてのパンだった。
ヴァンは一瞬で表情を変えた。
「ミラさん」
「なんだい」
「また何かあったら呼べ」
「単純だねぇ」
「飯は人を正直にする」
パンをかじりながら店へ戻る。
その途中だった。
路地の奥から、小さな悲鳴が聞こえた。
ヴァンの足が止まる。
一瞬だけ、目つきが変わった。
次の瞬間には、いつもの眠そうな顔に戻っていたが。
路地を覗くと、さっきの子供たちがいた。
その前に、旅人風の男が二人。
片方が、女の子の小箱を持っている。
「返して……」
「あ? 落ちてたんだから俺のもんだろ」
「それ、お母さんの……」
男は笑った。
町の人間ではない。
通りすがりのごろつきか。
ヴァンはパンを口にくわえたまま、路地へ入った。
「はいはい、そこまで。昼間から子供泣かせるとか、趣味悪いぞ。もっとこう、人生の楽しみを見つけろ。釣りとか昼寝とか」
男たちが振り返る。
「あんた、誰だ?」
「通りすがりの雑貨屋」
「引っ込んでろ」
「引っ込みたいのは山々なんだがな」
ヴァンは頭を掻いた。
「その箱、俺が直したばっかなんだよ。壊されると俺の仕事が雑だったみたいになる。評判に関わる。主にリリィに怒られる」
「知るかよ」
男の一人が近づき、ヴァンの胸ぐらを掴もうとした。
その手が届く前に。
男の体が、くるりと半回転した。
「へ?」
次の瞬間、男は地面に転がっていた。
何が起きたのか、誰にもわからなかった。
ヴァンだけが、まだパンをくわえている。
「悪い。足が滑った」
「てめぇ!」
もう一人が短剣を抜く。
子供たちが息を呑んだ。
ヴァンの目が、わずかに細くなる。
短剣の切っ先が迫る。
だが、刃はヴァンに届かなかった。
彼は半歩だけ横にずれ、男の手首を軽く叩いた。
短剣が落ちる。
同時に膝裏を蹴る。
男は情けない声を上げて膝をついた。
ヴァンはその背中に手を置き、にっこり笑う。
「町で刃物振り回すな。危ないだろ。子供が真似したらどうする」
「な、なんだよお前……」
「だから雑貨屋だって」
ヴァンは小箱を拾い、女の子に返した。
「今度は落とすなよ」
「う、うん……」
子供たちは目を丸くしていた。
「ヴァン兄ちゃん、強いの?」
「強くない」
「でも今――」
「相手が弱かった」
「かっこいい!」
「もっと言え」
「調子に乗らない」
いつの間にかリリィが路地の入口に立っていた。
ヴァンは気まずそうにパンを飲み込む。
「お、おう。迎えに来たのか?」
「遅いから」
「ちょっと町の治安維持をだな」
「また面倒事に首突っ込んだんでしょ」
「俺は平和主義者だ」
「平和主義者はごろつきを転がさない」
「転がったんだ。自然現象だ」
「お兄ちゃん」
「はい」
「帰ったら帳簿」
「ごろつきよりリリィの方がよっぽど怖い」
リリィはため息を吐き、子供たちを安心させるように笑った。
ヴァンはごろつき二人を軽く縛り、衛兵詰所の前に置いておいた。
もちろん、面倒なので名乗らずに逃げた。
夕方。
店に戻ると、空気が変わっていた。
店の前に、一台の馬車が止まっている。
黒塗りの馬車。
窓には厚い布。
車輪には王都の職人が使う金具。
明らかに、この町には似合わない代物だった。
ヴァンはそれを見た瞬間、心底嫌そうな顔をした。
「リリィ」
「なに?」
「今日はもう店じまいだ」
「まだ夕方だけど?」
「俺の勘が言ってる。あれは客じゃない」
「じゃあ何?」
「歩く災害だな」
馬車の扉が開いた。
降りてきたのは、黒い外套をまとった女だった。
年は四十を少し過ぎた頃だろう。
長い黒髪。
赤い口紅。
涼しげな目。
その佇まいだけで、ただ者ではないとわかる。
女は店先に立つヴァンを見て、ゆっくり笑った。
「久しぶりだねぇ」
その声を聞いた瞬間。
ヴァンの顔から、いつもの軽さが消えた。
だが、それも一瞬。
すぐに彼は両手で扉を閉めようとした。
「すみませんお客様。閉店です」
「まだ看板は出ているよ」
「俺の人生が閉店しました」
「相変わらず口だけは達者だね」
「帰れ、リディア」
女――リディアは、楽しそうに目を細めた。
「十年ぶりに会った女に向かって、第一声がそれかい?」
「第一声が『帰れ』じゃなかっただけ感謝しろ」
「ひどい男だねぇ。昔は私の後ろを子犬みたいについて回っていたのに」
「誰が子犬だ。俺は誇り高き狼だった」
「迷子の犬だったよ」
「記憶の改竄やめろ」
リリィが二人を見比べる。
「お兄ちゃん、知り合い?」
「知らん」
「ひどいねぇ」
「町で道に迷った怪しい女だ」
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「目が泳いでる」
「泳がせてるんだ。運動不足目ぐらいは泳がせないとな」
リディアは店の中へ勝手に入った。
ヴァンは額を押さえる。
「入るな」
「お茶」
「出さない」
「酒でもいいよ」
「お前は酔うとめんどーだからもっと出さない」
「ケチになったねぇ」
「お前に奢るくらいなら干し肉を追加で食う」
「それ、店の商品じゃないのかい?」
「品質確認だ」
リディアは低く笑った。
その笑い方は昔と変わらない。
何かを知っていて。
何かを隠していて。
そして必ず、面倒事を連れてくる女の笑い方だった。
「リリィ」
ヴァンは妹を見る。
「少し奥に行ってろ」
「……危ない人?」
「いや……いや!危ないおばさんだ」
リリィは迷ったようにリディアを見た。
リディアは柔らかく微笑む。
「安心しな。あんたの兄さんを取って食ったりしないよ」
「食われるならまだましだ。こいつの場合、火薬庫に放り込んでから笑う」
「若い頃の話さ」
「否定しろ」
リリィは不安そうだったが、兄の声色がいつもと違うことに気づいたのだろう。
「……無茶しないでね」
「俺がいつ無茶した」
「三日前、屋根から落ちかけた」
「あれは重力が悪い」
「昨日、鍋を焦がした」
「あれは鍋が悪い」
「どれもお兄ちゃんが一番悪い」
「はい」
リリィが奥へ下がる。
その足音が遠ざかるまで、ヴァンは黙っていた。
店内に静けさが落ちる。
先に口を開いたのはリディアだった。
「いい妹じゃないか」
「用件」
「冷たいねぇ」
「昔のお前を知ってるからな。雑談が長い時ほど、ろくな話じゃない」
「正解」
リディアは椅子に腰掛けた。
優雅な動作だった。
まるで貴族の夫人のように見える。
だがヴァンは知っている。
この女は、裏社会で貴族を何人も破滅させた情報屋だ。
剣は持たない。
魔法も使わない。
だが、人の秘密を握り、国の裏側を歩く。
十年前、ヴァンがまだ別の名前で呼ばれていた頃。
何度も命を救われた。
そして何度も死にかけた。
「依頼だよ」
「断る」
即答だった。
リディアは片眉を上げる。
「まだ何も言ってないだろう」
「お前がわざわざこんな田舎町まで来た時点で、俺の昼寝人生を破壊する気満々だろ」
「昼寝人生ってなんだい」
「俺の理想郷だ」
「小さい理想だねぇ」
「人間、理想は手が届くくらいでいい」
「昔のお前が聞いたら泣くよ」
「昔の俺は死んだ」
ヴァンの声が、少しだけ低くなった。
「十年前にな」
リディアは笑わなかった。
ただ、静かにヴァンを見ていた。
「そうだね。だから私は、死んだ男に頼みに来たんだ」
「墓参りなら花を持ってこい」
「持ってきたさ」
リディアは懐から一通の封書を取り出し、机の上に置いた。
白い封筒。
封蝋には、王家の紋章が刻まれている。
ヴァンの目が細くなる。
「……冗談だろ」
「残念ながら、私は仕事で冗談を言わない」
「普段は存在そのものが冗談みたいなくせに」
「口が減らないねぇ」
「減らしたくなるような仕事を持ってきたのはお前だ」
リディアは封書を指で軽く叩いた。
「三日後、王都中央広場で第一王女エレナ・リュシエールの処刑が行われる」
ヴァンは何も言わなかった。
「罪状は、国王暗殺未遂。王家への反逆。禁呪使用。民衆扇動。ついでに、王都北区の火災まで彼女のせいにされている」
「豪華盛りだな」
「笑えないよ」
ヴァンは封書を見つめたまま、口元だけで笑った。
「で? 俺に何をしろって?」
「処刑前に王女を救い出してほしい」
「嫌だ」
「即答かい」
「当たり前だ。王女だぞ。国だぞ。処刑場だぞ。三日後だぞ。まともな人間なら受けない。俺はまともな雑貨屋だ」
「まともな雑貨屋は昼間にごろつき二人を三秒で転がさない」
「見てたのか」
「情報屋だからねぇ」
「あいかわらず性格悪いな」
「今さらだろう?」
ヴァンは頭を掻いた。
そして、わざとらしく明るい声を出した。
「悪いが人違いだ。俺はヴァン・クロード。干し肉を愛し、帳簿を憎み、たまに椅子を直すだけの善良な町民だ。王女救出なんて物騒な仕事は、王都の騎士様にでも頼め」
「頼んださ」
「じゃあ解決だな」
「二人死んだ」
空気が止まった。
「一人は行方不明。もう一人は家族ごと消えた」
リディアの声は淡々としていた。
淡々としているからこそ、嘘ではないとわかった。
「裏の連中にも声をかけた。腕の立つ者は皆、断った。受けた者は、翌朝には冷たくなっていた」
「それで俺か」
「ああ」
「買いかぶりだ」
「いいや」
リディアは真っ直ぐに言った。
「黒鴉ならできる」
その名が出た瞬間。
店の空気が、ほんのわずかに重くなった。
黒鴉。
十年前、王都の裏で囁かれていた名前。
暗殺者ではない。
騎士でもない。
けれど、表の人間が手を出せない依頼を片付ける男。
人質奪還。
潜入。
証拠の奪取。
要人護衛。
誰も顔を知らず、誰も本名を知らない。
ただ黒い外套と、鴉の紋章だけが残る。
その男は十年前に消えた。
死んだとも、逃げたとも、裏切ったとも言われた。
ヴァンは笑った。
ひどく軽い笑いだった。
「懐かしい名前だな。誰だっけ、それ」
「お前だよ」
「知らんな。そんな痛い通り名、三十三歳の俺にはきつい」
「二十三歳の頃は気に入っていたじゃないか」
「若気の至りを掘り返すな。人は誰でも黒歴史を抱えて生きてるもんだ」
「黒鴉だけに?」
「帰れ」
リディアは少しだけ笑った。
けれどすぐに、その笑みを消した。
「王女は無実だよ」
「証拠は?」
「ない」
「それじゃあ無実とは言わない」
「証拠は消された。証人も消された。彼女の味方も、ほとんどが沈黙した」
「なら終わりだ」
「本当にそう思うのかい?」
「思うね。世の中には、首を突っ込んじゃいけないことがある。特に王家絡みは最悪だ。真実より面子が優先される。正義より都合が勝つ。そういう場所だ」
ヴァンは封書をリディアへ押し返した。
「だからこそ、俺はそこから足を洗った」
「妹のために?」
「自分のためだ」
「嘘が下手になったねぇ」
「昔から上手かったことなんかねーよ」
リディアは封書を受け取らなかった。
代わりに、もう一枚の紙を置く。
古びた紙だった。
そこには、ある貴族家の紋章が描かれている。
ヴァンの表情が消えた。
「……どこでそれを」
「王女エレナの親族の紋章だ」
「知ってる」
「だろうね」
リディアの声が低くなる。
「十年前、お前らに罪を着せた男。あの事件の中心にいた貴族。そいつの血縁だ」
「……」
ヴァンは黙っていた。
店の奥から、かすかにリリィが食器を片付ける音が聞こえる。
その音だけが、今のヴァンをここに繋ぎ止めていた。
「復讐しろって言いたいのか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「同じだと言いたいのさ」
リディアは言った。
「エレナ王女は、やってもいない罪で処刑される。証拠は作られ、味方は消され、民衆は嘘を信じている」
ヴァンの拳が、机の下でわずかに握られる。
「十年前のお前らと同じだよ」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
やがてヴァンは、ゆっくり息を吐いた。
「……嫌な女だな、お前」
「知ってる」
「そういう言い方をすれば、俺が断りにくいってわかってる」
「わかっているとも」
「性格が終わってるんだよババア」
「お互い様だよ」
ヴァンは椅子にもたれた。
天井を見る。
古い木目。
安いランプ。
干し肉の匂い。
奥にいる妹の気配。
十年かけて作った平穏。
血も、嘘も、裏切りもない生活。
それを手放す理由など、どこにもない。
王女が無実だとしても。
自分には関係ない。
そう言い切れたら、どれほど楽だっただろう。
「報酬は?」
リディアの目がわずかに動いた。
「受けるのかい?」
「金額を聞くだけだ。聞くだけなら無料だろ」
「金貨五百枚」
「安い。王女の命だぞ。あと俺の命もついてくる。金貨千枚」
「七百」
「千五百」
「増えたねぇ」
「俺は交渉が下手なんだ」
「八百」
「干し肉一年分もつけろ」
「本当にそれでいいのかい?」
「いいわけねぇだろ。処刑予定王女救出だぞ。立派な国家反逆罪だぞ。干し肉で足りるか」
リディアは久しぶりに声を出して笑った。
ヴァンは笑わない。
ただ、紙に描かれた紋章を見ていた。
「リディア」
「なんだい」
「王女は、真相を知ってるのか?」
「おそらくね」
「だから殺される?」
「ああ」
「黒幕は?」
「まだ確証はない」
「嘘つけ。お前が確証なしに動くか」
「名前を出せば、お前は今すぐ王都へ行く」
「いいじゃねぇか。手間が省ける」
「今のお前が感情で動けば死ぬ」
ヴァンは舌打ちした。
「年寄りは説教くさくて嫌だね」
「同世代みたいな顔をするんじゃないよ」
「俺はまだ若い」
「もう立派なおじさんだよ」
「リリィと同じ攻撃やめろ」
その時、奥の扉が開いた。
リリィが立っていた。
全部は聞いていない。
だが、何かただ事ではない話をしていることくらいはわかったのだろう。
「お兄ちゃん」
リリィの声は震えていなかった。
ただ、静かだった。
「また、どこか行くの?」
ヴァンはすぐに答えられなかった。
十年前。
彼はリリィを置いて、裏の世界にいた。
そして全てを失いかけた。
だから今度こそ、普通に生きると決めた。
妹を守ると決めた。
そのために、黒鴉という名前を捨てた。
「行かない」
ヴァンは笑った。
「お兄ちゃんは明日も店番だ。帳簿から逃げる作戦を考えないといけない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「兄ちゃん、嘘つく時だけいっつも優しい顔する」
「……相変わらず誤魔化せねーな」
リリィはヴァンを見つめた。
「危ないこと?」
「まあ、ちょっとな」
「死ぬかもしれない?」
「俺を誰だと思ってる」
「干し肉泥棒」
「もっとあるだろ」
「寝坊助」
「他には」
「私の、お兄ちゃん」
ヴァンは黙った。
リリィは一歩近づく。
「行くなって言ったら、行かない?」
「……」
「行かないでって言ったら、兄ちゃんは残ってくれる?」
その問いは、刃より鋭かった。
ヴァンは冗談で逃げようとした。
けれど、できなかった。
妹の目が、あまりにも真っ直ぐだったから。
「リリィ」
ヴァンはゆっくり言った。
「俺は、たぶん最低の兄貴だ」
「うん、知ってる」
「そこは否定しろ」
「続けて」
「でもな。昔、俺みたいに何もしていないのに全部奪われた奴がいた。周りは嘘を信じて、誰も助けなかった」
自分のことだ。
リリィにもわかったのだろう。
彼女は唇を噛んだ。
「今度も同じことが起きようとしてる」
「その人を助けたいの?」
「助けたい、なんて立派なもんじゃない」
ヴァンは苦笑した。
「ただ、見なかったことにしたら、たぶん飯がまずくなるし、昼寝心地が悪くなっちまう」
「お兄ちゃんらしいね」
「だろ」
「最低だけど」
「だろ……いや、そこは違うだろ」
リリィは小さく笑った。
けれどすぐに、泣きそうな顔になった。
「帰ってくる?」
「帰る」
「絶対?」
「絶対」
「嘘だったら?」
「店の商品、全部食って閉店してもいいぞ」
「それお兄ちゃんが得するだけじゃん」
「ばれたか」
リリィは呆れたように息を吐いた。
そして、奥の部屋へ戻る。
しばらくして、古い外套を持ってきた。
黒い外套だった。
ずっとしまっていたもの。
十年前、ヴァンが捨てたはずのもの。
「……お前、それ」
「捨てられなかった」
「捨てろよ、こんなもん」
「お兄ちゃんの大事なものだと思ったから」
「大事じゃない」
「じゃあ、必要なもの」
リリィは外套を差し出した。
ヴァンは受け取らない。
受け取れば、戻ってしまう気がした。
あの頃の自分に。
黒鴉に。
「お兄ちゃん」
リリィは言った。
「ちゃんと帰ってきて」
ヴァンは外套を見つめた。
そして、深く息を吐く。
「……干し肉、三日分包んどいてくれ」
「五日分にする」
「俺の妹、優秀」
「三日分じゃ二日でなくなっちゃうでしょ」
ヴァンは外套を受け取った。
十年ぶりの感触だった。
軽い。
なのに、ひどく重い。
リディアが静かに立ち上がる。
「出発は?」
「今夜」
「早いねぇ」
「三日後に処刑なんだろ。寄り道してる暇はない」
「腕は鈍っていないようだね」
「鈍ってるさ」
ヴァンは黒い外套を肩にかけた。
その瞬間。
ただの雑貨屋だった男の空気が、少しだけ変わった。
眠そうな目。
ふざけた口元。
だが、その奥にあるものは、十年前と変わっていない。
「だから、正面からは行かない」
「どうするんだい?」
ヴァンはにやりと笑った。
「処刑場ってのはな、見る場所じゃない」
外はもう夜だった。
町の灯りが、ぽつぽつと道を照らしている。
ヴァンは店の扉を開けた。
冷たい風が吹き込む。
「壊す場所だ」
十年前に捨てた名前が。
再び、夜の中で息を吹き返す。
黒鴉。
王都の裏社会から消えた男。
その最初の仕事は。
三日後に殺される王女を、国から盗み出すことだった。




