第9話:観察者の領域
2035年、11月5日。
『AETHER Nexus Open』オンライン予選、Day1。
その日は、まさにデジタルな「淘汰」の日だった。一万五千を超える参加チームが、一斉にサーバーへとダイブし、一つの負けも許されないシングルエリミネーショントーナメントの荒波に身を投じた。
Blue Cometは、まだスポンサーも練習拠点も持たない純然たるアマチュアチームだ。メンバーたちはそれぞれ自分の自室から『Aether Link』を介して接続し、仮想の戦場へと集結していた。
黒川祐介は、自分の部屋のベッドに寝転びながら、タブレット端末でチームの視点映像を同期させていた。リザーブである彼には、今日、戦うべき場所はない。だが、デバイスを握っていないその手は、無意識のうちにシーツを固く握りしめていた。
一試合目から三試合目までの序盤戦。対戦相手の多くは、大会の熱狂に当てられただけのアマチュアや、急造のミックスチームだった。
「――Bサイト、セット来ます。Leonさん、モクお願いします」
Shoの鋭い声がヘッドセットから響く。
「了解だ。位置は固定。Sho、強気に出ろ」
Leonの落ち着き払った声。彼は自室の薄暗い光の中で、まるでチェス盤を眺めるかのような静謐さで戦場をコントロールしていた。
LeonのDirectorが焚くスモークは、敵の視界を物理的にも心理的にも遮断する。そこへ、Shoの放つ弾丸が吸い込まれるように着弾し、キルログが次々と青く染まっていく。
格下相手とはいえ、その蹂躙ぶりは圧倒的だった。Rikuの論理的なポジショニングとShoの爆発力が噛み合い、敵は戦術を披露する暇もなく、ただ無機質にリザルト画面の数字へと変えられていった。
しかし、四試合目、五試合目と連戦が続くにつれ、画面越しのShoの様子に微かな異変が生じ始めていた。
Aether Linkには選手のバイタルデータが一部共有される。Shoの心拍数が、本来の交戦時よりも高い数値で推移し続けていた。
「……ミッド、一人。あ、いや、二人……ごめん、一人落としたけど、カバー入られた」
五試合目の後半。Shoが不用意な飛び出しで、本来なら勝てるはずの撃ち合いに敗れた。
「気にするな、Sho。リカバーは済んでいる。配置を戻せ」
Leonが即座にフォローを入れる。Leonは、大会本番という重圧が支配するこの空気を、かつてのプロ時代に何度も吸ってきた。彼にとって、このオンライン予選の熱気は日常の延長に過ぎない。LeonのDirectorとしての立ち回りは、チームが崩れそうになる瞬間に必ず一筋の「正解」を提示し、綻びを力尽くで修復していた。
だが、祐介の眼には、Shoの焦りが透けて見えていた。
Shoはミスをしていない。むしろ、スタメンとしての責任を果たそうと必死に食らいついている。だが、その「必死さ」こそが、彼の動きから余裕を奪っていた。自分の後ろには、あの怪物的な嗅覚を持つKurosukeが控えている。自分が一度でも致命的な綻びを見せれば、その瞬間に居場所を奪われるかもしれないという強迫観念が、目に見えない錘となって彼のスタミナを削り取っていた。
「――6連勝。Day1、全試合終了です」
Rikuが、少しだけ疲労の混じった声で報告した。六試合目も13対2という一方的なスコアだった。
「お疲れ様。全員、回線を切って休め。だが、ここからが本当の選別だ」
Leonの声が届き、Blue Cometのチャンネルは解散された。明日のDay2は第7試合と第8試合のBO3。Day3は最終の第9試合、BO5が控えている。
*
21時、祐介は実家の割烹料理屋『黒川』の食卓についていた。
店は既に閉まり、良一が夜食用に焼いた鰆の西京焼きが、香ばしい香りを漂わせている。
「……祐介、疲れた顔をしてるな。またゲームか?」
良一が、湯呑みを置きながら尋ねた。
「いや……まぁ、そんな感じ。今日は少し、画面を見すぎたから」
祐介は、鰆の身を箸で解きながら答えた。
今、自分が日本最大規模の大会で6連勝を決めたチームの一員であることを、父は知らない。目の前のこの魚が、どれだけ丁寧に西京味噌に漬け込まれ、絶妙な火加減で焼かれたかということだけが、この食卓における唯一の「真実」だった。
「明日も学校は休みだろう。きちんと寝て、体調を整えておけよ」
「……分かってるよ」
良一の言葉は、いつも通りに穏やかで、いつも通りに祐介の世界とは噛み合わなかった。
十億円。世界大会への切符。プロへの階段。
それらの輝かしい言葉も、良一が守り続けてきた板場の伝統の前では、形を持たない陽炎のようなものだった。
祐介は黙々と鰆を口に運んだ。美味しい。それは間違いなかった。だが、喉を通るその味が、今の自分にはどこか別の世界の出来事のように感じられた。自分の心臓は、まだあの冷たいモニターの前で、114BPMのまま止まっていない。
*
自室に戻った祐介は、ベッドに潜り込む代わりに、Aether Linkを起動した。
Leonから共有された、明日の第7試合の対戦相手『Binary Stars』の直近の試合データ。
スタメンを外れた自分にできる唯一のことは、この観察者の領域から、戦場を解体することだけだ。
「……なるほどな」
祐介は、深夜の静寂の中で独り言を漏らした。
Binary Starsは、アマチュア界隈でも屈指の分析型チームだ。彼らは徹底的にBlue Cometを研究している。LeonのDirectorとしてのスモークのタイミング、Shoの得意な射線、Rikuのキルライン。それらすべてを逆手に取り、メタ(戦術)をメタで返す「アンチ戦術」を組み立てているのが手に取るように分かった。
もし、今の疲れ切ったShoたちがそのまま戦えば、自分たちの「正解」がすべて裏目に出る。
論理が論理に食い殺される未来。
祐介は、何度も動画を一時停止し、巻き戻した。
一分、二分、三十分……。画面の輝度が、彼の瞳に焼き付く。
「……ここだ」
祐介の指が止まった。
Binary Starsが見せている「完璧なラッシュ」。
スキルの連鎖によって敵の自由を奪い、一気にサイトを制圧する彼らの十八番。その一瞬、わずか0.5秒の「空白」。
ラッシュの開始直後、彼らは自分たちのセットを完璧に成功させるために、五人が同時にアビリティを構える瞬間がある。スモークを焚き、索敵を放ち、フラッシュを投じる。そのコンマ数秒の間、彼らの手に「銃」は握られていない。
通常のチームであれば、そのアビリティの弾幕に圧倒されて顔を出すことすらできない。だから、その隙は本来、存在しないものとして処理される。
だが――。
「……ここで強引に顔を出せば、あいつら、全員丸腰だ」
祐介の唇が、無意識に歪んだ。
それは、Leonの論理でも、Rikuの精密さでも辿り着けない、「野生」だけが嗅ぎ取れる致命的な綻び。
*
深夜3時。祐介のスマートフォンが震えた。
『まだ起きているか、Kurosuke』
Leonからのダイレクトメッセージだ。
『観ているよ、Leonさん。明日の第7試合、Binary Stars対策……面白いもんを見つけた』
数分後、祐介はLeonと二人のプライベートチャンネルに入った。二人とも、それぞれの自宅から静寂を共有している。
「Shoたちは寝かせた。奴らは明日、万全の状態でなければならない。……見つけたものとは何だ?」
祐介は、自身の端末からVODの解析データをLeonへ転送した。
「こいつら、自分たちの論理を信じすぎてます。セットの瞬間、全員が『相手はアビリティを避けるために隠れる』という前提で動いてる。だから、その瞬間に全員が銃を下げてスキルを構える一瞬の隙があるんです」
Leonは沈黙した。
画面共有された映像の中で、祐介が指摘したシーンがスロー再生される。
「……確かに。だが、Kurosuke。このタイミングで顔を出すのは自殺行為だ。フラッシュも飛んでくる、モクも張られる。並のプレイヤーなら、敵の姿を視認する前に落とされるぞ」
「普通ならそうです。でも、相手は『ここにモクがあるから、敵はこう避けるはずだ』って予測して動いてる。だったら、その予測を逆手に取ればいい。見えてるか見えてないかなんて関係ない。そこに敵が『丸腰で』居るって分かっていれば、撃ち抜くのは難しくない」
祐介の言葉は、理屈を超えていた。
それは、暗闇の中で敵の呼吸だけを頼りに引き金を引くような、純粋な殺覚。
「……フッ。お前は本当に、組織の人間には向かないな」
Leonが、少しだけ楽しそうに笑ったのが伝わってきた。
「だが、お前のその『眼』は、今の疲弊したチームにとって唯一の希望になるかもしれない。……Kurosuke、この分析データを元に、明日の朝までにShoとRikuに叩き込む修正プランを作れ。お前が指揮を執るわけではない。お前が、彼らに『牙』を渡すんだ」
「了解です」
祐介は短く答え、再びモニターに向き直った。
喉が渇いている。学校の授業よりも、実家の手伝いよりも、何倍も過酷で非効率な作業。
だが、今の彼にとって、この深夜の静寂こそが、自分を唯一「生きている」と感じさせる場所だった。
*
Day2、早朝。
オンライン予選の会場となるネットワーク上の仮想スタジアムには、昨日を勝ち抜いた猛者たちが続々と集結していた。
Blue Cometの面々も、それぞれの自宅で目を覚ます。
Shoは、昨夜の泥のような眠りから覚めても、まだ指先に重い疲労を感じていた。
スマートフォンを開くと、Leonから一つのドキュメントが届いていた。
『Kurosukeが見つけた、Binary Starsの致命的な隙だ。今日の第7試合、お前はこの一点だけを信じて引き金を引け』
ドキュメントの中身を読み進めるShoの顔に、驚愕の色が広がる。自分が昨日、何度動画を見返しても気づけなかった、あまりにも微細で、あまりにも大胆な「正解」。
「……Kurosuke、お前は……」
Shoは、自分の手の震えが止まっていることに気づいた。
スタメンの重圧、天才への期待。それらが消えたわけではない。
だが、リザーブとして自分の背中を支えてくれている少年の、その「眼」の鋭さが、Shoの心に再び闘志を灯していた。
一方、Rikuは自室の椅子に深く腰掛け、祐介のデータを冷めた目で見つめていた。
「……感情を排除した論理の結果が、このギャンブルですか。……面白いですね、Kurosukeさん。あなたのその野蛮な直感、僕が美しく成立させて差し上げますよ」
Rikuはそう呟き、最新型のAETHER製マウスを手に取った。
オンライン予選、Day2。
上位32チームへの椅子を懸けた、7試合目。
Blue Cometの物語は、戦場にいないはずの一人の少年の「咆哮」によって、新たな次元へと突入しようとしていた。
2035年。世界が熱狂する影で。
観察者の領域に辿り着いた17歳の少年は、静かに牙を剥き、その瞬間を待っていた。




