第8話:凪の咆哮
2035年、11月の風は、期待と冷笑を等分に孕んで街を吹き抜けていた。
県立高校の食堂、古びた壁掛けテレビの中では、白髪のコメンテーターが眉間に皺を寄せ、仰々しい身振りで「日本の損失」を嘆いている。
「――エースのTakeru選手が海外へ流出したことは、単なる移籍ではありません。これは日本におけるeスポーツという文化の、実質的な崩壊を意味しているのです」
その隣で、元スポーツ選手だという女性タレントが深く頷く。
「そうですよね。結局、若者が画面の中で遊んでいるだけでは、本当の意味での『国を背負う誇り』は育たない。彼は日本という土壌を捨て、より高額な報酬を求めてデジタルな亡命を選んだ。これは教育の敗北でもあります」
その放送を、黒川祐介は冷めた味噌汁を啜りながら、ぼんやりと眺めていた。
一方で、彼のスマートフォンの通知欄は、AETHER社のプラットフォームから届く、色彩豊かな速報で埋め尽くされている。そこでは、Takeruの移籍は「新時代の開拓」として称賛され、数千万人の若者たちが、彼が北米のサーバーで放った異次元のヘッドショットに熱狂的なスタンプを送り続けていた。
大人たちの嘆きと、若者たちの熱狂。
2035年の日本には、目に見えない巨大な断層が横たわっている。AETHER社の資本がどれほど街をネオンで塗り替えようとも、彼ら以外の世代にとって、eスポーツは依然として「理解不能な不健全な遊び」の域を出ていなかった。
「……なぁ、黒川。お前もやるんだろ? あの新しいゲーム」
隣の席の友人が、祐介の肩を叩いた。
「まぁ、少しは」
「だよな。お前、ゲーセンとかでも結構上手かったし。今度開催される『AETHER Nexus Open』、あれのオンライン予選、今日からエントリー開始だってよ。賞金十億、夢あるよな」
「十億ね……。俺には縁がない話だよ」
祐介は嘘ではないトーンで答えた。
彼が今、国内でも知る人ぞ知るアマチュア強豪チーム『Blue Comet』のリザーブであることなど、この平和な教室の誰も知らない。彼らにとっての祐介は、ただの「ゲームを少し得意としている、要領のいい黒川くん」でしかなかった。
*
授業中、祐介はノートの端に、昨日Leonから送られてきた『Triad』の俯瞰図を思い描きながら、視線を窓の外へと泳がせた。
スタメンから外れたという事実は、彼が思っていたよりも深く、重く、彼の精神を侵食していた。
自分よりも数千時間多く地獄を歩いてきたSho。
自分よりも遥かに完成された論理を持つRiku。
彼らが今、この瞬間も、あの複雑怪奇なマップの攻略を詰め、チームとしての精度を上げている。その輪の中に、今の自分はいない。
(……俺は、ただの練習生に戻っただけだ)
そう自分に言い聞かせるが、指先が勝手にマウスのクリックを模した動きをするのを止められない。
浮ついた心は、どこにも着地できないまま、秋の空を漂っていた。今回の『AETHER Nexus Open』は、まず膨大な参加者の中から選別が行われるオンライン予選から始まる。何千ものアマチュアチームが振るいにかけられ、その果てに辿り着く決勝トーナメント本選こそが、本当の地獄だ。
そして今の自分は、その選別を「外から」眺める側だった。
*
夕方、実家の割烹料理屋『黒川』の暖簾をくぐると、出汁の芳醇な香りが祐介を包み込んだ。
板場では、父親の良一が黙々と大根を桂剥きにしている。シュ、シュという一定のリズムで削ぎ落とされる白い皮は、芸術品のような薄さでまな板に積み上がっていた。
「……お帰り、祐介。今日は早いな」
「ただいま。手伝うよ」
祐介は二階に鞄を置く間もなく、エプロンを締めて良一の隣に立った。
良一は無口な男だったが、祐介との仲は決して悪くない。むしろ、互いに信頼し合っている。だが、そこにはどうしようもない「価値観のズレ」が存在していた。
「祐介。進路の紙、まだ出してないんだろ」
「ああ。まだ考え中」
「……お前には、この店の味を覚えさせたいと思っている。だが、お前が別の道を行きたいと言うなら、俺は止めんよ。ただな、何をするにしても、『本物』を目指せ。画面の中でピコピコやっているのもいいが、それがお前の人生を支える『芯』になるのか、よく考えなさい」
良一の声には、説教特有の鋭さはない。ただ、心からの心配が滲んでいた。
良一にとって、包丁は「生きるための術」であり、客の笑顔は「成果」だ。一方で、祐介が夜な夜な向き合っているヘッドセットやマウスは、良一の目には、単なるプラスチックの玩具にしか見えない。
どれほど賞金が跳ね上がろうとも、どれほど世界が熱狂しようとも、良一の世界において、それは「汗をかかない虚業」に過ぎないのだ。
「分かってるよ。芯、見つけてる最中だから」
祐介はそう答えるのが精一杯だった。
父の優しさが、今は何よりも痛い。
自分がスタメンから外され、プロとしてのスタートラインにすら立てていない現状を、父に説明する言葉を彼は持っていなかった。
父が作る出汁の、深く、繊細な味わい。
自分が目指している、コンマ数秒の情報のやり取り。
どちらも「極める」ためには膨大な時間がかかることに変わりはないはずなのに、その二つの世界は、決して交わることがない。
祐介は、桂剥きにされた大根の透き通るような白さを見つめながら、自分の「野生」が、この伝統的な職人の世界とどう折り合いをつければいいのか、分からなくなっていた。
*
21時。自室に戻った祐介は、Aether Linkを起動した。
目の前に広がるのは、自分が入れない「戦場」のライブログだ。
Blue Cometの本メンバー五人が、明日から始まるオンライン予選に向けた最終調整として、V2リーグ上位チームとのスクリムを行っていた。
画面の中で、ShoのストライカーがLeonの指示に完璧に同期して動いている。
先日、自分を絶望させた『Triad』というマップ。
そこには、祐介が感じたような「空白」は存在していなかった。Sho、Riku、Kai、Rin、そしてLeon。五人の意識が情報の糸で結ばれ、一つの巨大なシステムとして機能している。
「――B、セット来ます。リテイク準備。Riku、モク抜き準備。3、2、1……今!」
LeonのDirectorらしい冷静な号令とともに、画面上がスキルで塗り潰される。
敵の猛攻を、Blue Cometは正面から受け流し、鮮やかなカウンターで殲滅していった。
スタッツ、連携値、再現性。
どれを取っても、今の祐介が入る余地はない。
祐介は、自分のデバイスを握りしめた。
自分なら、あそこで右に行く。自分なら、あのアビリティを無視して突っ込む。
そんな勝手なイメージだけが脳内を駆け巡るが、それはチームとしての「正解」ではないことを、彼は前回の敗北で学んでしまっていた。
スクリムが終わり、静まり返ったボイスチャット。
他のメンバーが退出する中、Leonだけがチャンネルに残っていた。
「……観ていたか、Kurosuke」
Leonの声が届く。祐介は、不意を突かれたように身を硬くした。
「……観てました。完璧でしたね、Shoさん」
「ああ。今のシステムに、お前の不安定な嗅覚は必要ない。だがな、Kurosuke」
Leonは一度、言葉を置いた。
「システムが完璧であればあるほど、一度想定外のヒビが入れば、そこから一気に瓦解する。Nexus Openは長丁場だ。オンライン予選Day1を通過したその先……。Day2以降の強豪ひしめく環境ではお前のようなジョーカーが必要になる」
祐介は目を見開いた。
「……ジョーカー?」
「お前をスタメンから外したのは、お前が『組織』になれなかったからだ。だが、お前のあの、論理を鼻で笑うような野生の動き……。あれは、停滞した戦場を無理やりこじ開けるための、最後の鍵になる。幸い、今回の大会はメンバーを一人、マップ間で入れ替えて良いことになっている。大会期間中、いつ何時お呼びがかかっても、最高精度のパフォーマンスを出せるようにしておけ。試合に出ない間、俺たちが戦う姿を脳に焼き付けろ」
Leonの言葉には、リザーブとしての役割を超えた、ある種の「毒」が含まれていた。
お前を、普通な兵隊にはしない。
お前は、敵も味方も、そして戦場そのものを壊すための「イレギュラー」として飼っておく。
「……いいんですか。俺を出すと、せっかくのシステムが壊れるかもしれませんよ」
「その時は、俺が死ぬ気で調整するだけだ。……Kurosuke、牙を研いでおけ。お前が戦うべき場所は、もうすぐそこにある」
通信が切れた後、祐介は自分の指先が、わずかに熱を帯びているのを感じた。
ジョーカー。
組織の一員になれなかった自分に与えられた、唯一の、そして最も残酷な居場所。
*
数日後。
『AETHER Nexus Open』オンライン予選の開幕当日。
会場となる東京の特設スタジアム周辺は、異様な熱気に包まれていた。……といっても、予選は各自の自宅や練習拠点から参加するオンライン形式だ。しかし、街の巨大モニターには参加チームのロゴが並び、ネットワーク上には数十万人のアクセスが集中していた。
そこには、伝統的なメディアが報じるような「崩壊」の兆しなど微塵もなかった。
集まった数千人の観客、その大半が10代から20代。彼らはAETHER社のロゴが入ったパーカーを纏い、まるで革命の前夜のような眼差しで巨大なホログラムディスプレイを見上げている。
「――大人たちが何と言おうと、俺たちがここに居る。それが答えだ!」
会場のスピーカーから、出場するV2チームのリーダーのインタビューが流れる。
「Takeruが行ったのは、逃げじゃない。世界を獲るための挑戦だ。そして俺たちも、このオンライン予選を勝ち抜き、本選で誰にも文句を言わせない『強さ』を証明してみせる。見ていろよ、旧世代!」
地響きのような歓声が、地面を揺らした。
それは、単なるゲーム大会への興奮ではない。
自分たちの価値観を認めない社会に対する、若者たちの巨大な反抗声明。
このデジタルな戦場こそが、自分たちが唯一、対等に、命を懸けて戦える場所なのだという、切実な叫びだった。
祐介は、薄暗い自室で、AETHER製のマウスの赤い光を見つめていた。
外の喧騒とは対照的な、ひんやりとした静寂。
これからあのオンライン予選の荒波に揉まれるのは、Shoだ。自分は、その戦いをモニター越しに眺めることしかできない。
知る人ぞ知るアマチュアチーム、Blue Comet。
世界から見れば、砂粒のような存在。
だが、この回線の先に、父が言うような「芯」があるのか、それともテレビの中の大人が言うような「虚像」があるのか。
それを確かめるためには、この地獄を歩き続けるしかない。
『……Kurosukeさん、見ていますか?』
Aether Linkのチャットに、Rikuからのメッセージが飛んできた。
彼は相変わらずの、氷のような冷静さを保っていた。
『精々、特等席から僕たちの勝利を眺めていてください。オンライン予選など、通過点に過ぎませんから。もっとも、本選でもあなたの出番がないことを祈るばかりですが』
祐介は返信せず、ウィンドウを閉じた。
耳の奥には、父が桂剥きをしていた時の、あの心地よい一定のリズムが残っている。
そして手のひらには、Leonが認めた「野生」の重みがある。
2035年。
オンライン予選の幕が上がる。
自分たちの価値を、誰も信じていない大人たちへ。
そして、自分を見限った「論理」という壁へ。
黒川祐介は、深く息を吐き出し、静かに目を閉じた。
次に目を開ける時、その瞳に宿るのは、退屈な日常を焼き尽くすための、冷徹なまでの「咆哮」だ。




