第7話:選別
2035年、11月4日。
『AETHER Nexus Open』のスターティングメンバー登録締め切りまで、残り8時間。
黒川祐介は、Aether Linkの観戦画面越しに、自分の内臓が冷えていくのを知覚していた。
画面に映し出されているのは、Blue Cometの面々が慣れた手つきで守備を固めるマップ『Triad』。A、B、Cという三つのサイトを持つこの広大な戦場は、祐介が加入する以前から、チームが血を吐くような思いで練度を高めてきた場所だった。『Caelum』に慣れてきた矢先、メンバー選考最終日に立ちはだかった壁は、新たなマップというあまりにも大きすぎる壁だった。
「……まるで別ゲーだな」
祐介がポツリと漏らした独り言に、隣でモニターを見つめるLeonが反応した。
「『Caelum』は二つの変数による均衡だ。だが『Triad』は三つの変数による方程式になる。サイトが一つ増えるだけで、情報の空白地帯は倍増し、ローテーションの選択肢は二倍ではなく三乗で膨れ上がる。お前が慣れ親しんだ『Caelum』の、定石をなぞれば嗅覚で補えるような単純な幾何学とは、根本的なロジックが違うんだ」
ストライカーのSho、ヴァンガードのKai、ガーディアンのRin、エースのRiku、そしてディレクターのLeon。祐介以外の五人は、この三つのサイトの間を縫う複雑な通路を、まるで自分の庭のように闊歩している。どこにアビリティを置けば敵を足止めできるか、どこまでラインを下げればリテイクが成立するか。その「共通言語」が、祐介以外の五人の間には既に完成していた。
まずは、Shoが出場する韓国の精鋭育成チーム『Neo Zenith Youth』との一戦が始まった。
彼らの先頭に立つのは、世界中から注目を浴びる16歳のヴァンガード、Min-Jun。彼の放つ索敵アビリティは、まるで獲物の位置を事前に知っているかのように正確だった。
「来るぞ、Aメイン。ドローン壊す。Kai、Bに一人寄せて」
Shoの声は、静かだが力強かった。
Min-Junの索敵ドローンが通路に侵入した瞬間、Shoは定点の射線から一発の弾丸でそれを破壊した。間髪入れず、Kaiのヴァンガードが放った「カウンター索敵」が、突入しようとしていた韓国チームの足を一瞬だけ止める。
そこからのBlue Cometの守りは、もはや一つの生命体だった。
RinのガーディアンがBサイトに張り巡らせた感知センサーが、敵の「揺さぶり」を即座に検知する。Leonのディレクターは、味方の視界を確保しながら、敵の射線だけを絶妙な位置に焚いたスモークで削ぎ落としていった。
「Sho、次で右から抜ける。3、2、1……」
「了解。――落とした」
Leonの合図に合わせてShoが飛び出す。
Min-Junの精密なエイムを、Leonのスモークがコンマ数秒だけ遅らせ、その隙をShoが確実に射抜く。それは、何百回、何千回と繰り返されたであろう「約束された勝利のパターン」だった。
祐介は、自分の喉が乾いていることに気づいた。Shoは決して、祐介のような華やかな「野生」を見せているわけではない。しかし、彼はチームという歯車の中で、大きなミスをすることなくその役割を全うしていた。
13対11。
Blue Cometは、韓国の正解を、自分たちの正解で上書きして勝利を収めた。
*
そして、選手交代。祐介の番が来た。
Shoと入れ替わりでサーバーに入った瞬間、戦場の空気が一変した。
対戦相手は中国の育成チーム『Dragon Gate Academy』。彼らを率いるのは、圧倒的なフィジカルでV2リーグを恐怖に陥れている17歳のストライカー、Lóng。
試合開始のブザーが鳴る。
祐介は、Bサイトの防衛を任された。
しかし、マップ『Triad』の広大さが、祐介の脳を蝕んでいく。
二つのサイトなら、片方の異変を察知すればもう片方へ寄ればいい。だが三つあれば、自分が守るBから、AとCどちらのバックアップへ行くべきかの「迷い」が生じる。その一瞬の逡巡が、情報の伝達を致命的に遅らせる。
「……センター、足音……いや、Cに、スキルが……」
たどたどしいコール。
隣で守るガーディアンのRinが、苛立ちを隠せないようにアビリティを再配置する。
「Kurosuke! はっきりしろ、どっちだ!」
その隙を、Lóngは逃さなかった。
「セット」の予兆すらない。Lóngは単独で、超高速の「ラッシュ」を仕掛けてきた。
祐介の視界を、激しい爆炎と閃光が埋め尽くす。
「う、わ……っ」
いつもの『Caelum』なら、ここからでも野生の嗅覚で敵の頭を抜けたはずだった。
だが、この『Triad』の不慣れな遮蔽物、不慣れな射線の通り方が、祐介から「勝負の勇気」を奪っていく。
一発撃って、引く。
さらに引く。
気がつけば、祐介は一度もまともな撃ち合いをすることなく、サイトを完全に明け渡していた。
「Kurosuke、なぜ勝負しない! 引くのが早すぎる!」
Leonの叱咤が飛ぶが、祐介の指は震えていた。
Lóngのフィジカルは暴力そのものだった。定石を無視し、祐介が「ここに居るはずだ」と思う場所を、それ以上の速度で踏み荒らしてくる。
第10ラウンド。祐介の精神は、ついに限界を迎えた。
Lóngが再びBサイトへ突入してくる。
祐介は引き金を引こうとした。しかし、脳裏に「撃ち負ける」というイメージが、巨大な影となって張り付いた。
――負ける。勝てない。
その瞬間、祐介の指は硬直した。
彼は撃ち合うことを拒否し、遮蔽物の裏で丸くなるように隠れた。
それは、「萎縮」という名の完全な敗北だった。
「……Kurosukeさん。あなたは今、勝負を降りましたね」
Rikuの、氷点下まで冷え切った声が届く。
祐介が勝負を止めたせいで、カバーを信じて前で耐えていたKaiとRinは、背後からLóngに蹂躙された。
Leonが必死にスモークを焚き、敵のラッシュを分断しようとする。LeonのDirectorとしての立ち回りは神がかっていた。孤立したRikuを援護し、なんとか二人を道連れにする時間を稼いだが、それも「穴」となった祐介の位置から決壊していく。
5対13。
Blue Cometは、中国の暴力に、一人の少年の「萎縮」から崩れ去った。
*
サーバーから退出した後、誰も何も言わなかった。
ボイスチャットに流れるのは、祐介の荒い呼吸音だけだ。
「……Kurosuke」
Leonが、重い空気の中、言葉を発した。
祐介は、自分の指がまだ冷たいままであることに気づいた。
「今回の『AETHER Nexus Open』。スターティングメンバーはShoで行く。Kurosuke、お前はリザーブだ」
「……はい」
「お前の『Caelum』での動きは悪くなかった。あのマップなら、お前の嗅覚はShoの経験を凌駕することもあるだろう。だがな、Kurosuke。プロの価値は、得意な一点で決まるのではない。全マッププールを通した『再現性』と『期待値』の平均で決まるんだ」
Leonは一度言葉を切り、重く、論理的な引導を続けた。
「お前は『Triad』において、情報の負債をチームに負わせた。Shoは5,000時間のFPS人生を通して、三つのサイト、無数の射線に対する『正解』を体に染み込ませている。だからあいつは、俺が指示を出す1秒前に、既に味方のカバーに入っているんだ。対してお前はどうだ? お前はこのマップの構造を理解するために脳を使い、報告を出すために口を使い、その結果として、お前の最大の武器である『野生』を完全に封じ込めた。脳のリソースがパンクした結果の萎縮……。それは、お前の才能不足ではなく、単なる『経験不足』だ」
祐介は、何も言い返せなかった。
要領だけで生きてきた。努力なんて馬鹿のすることだと思っていた。
「Nexus Openは長丁場だ。相手はお前の嗅覚を潰すための戦術を、マップごとに用意してくるだろう。一つのマップでしか戦えないジョーカーを、スタメンの椅子に座らせるわけにはいかない。お前がShoから枠を奪いたければ、その嗅覚を、どんな歪な地形の上でも『無意識に』発揮できるレベルまで、基礎を積み上げるしかないんだ」
祐介は、ディスプレイの電源を消した。
暗転した画面には、蒼白な顔をした17歳の少年が映っていた。
Leonの言葉は、正論だった。感情的な励ましなど一言もない、冷徹なまでのロジック。だからこそ、祐介の胸には、これまでの人生で味わったことのない「不足」という名の痛みが刻まれていた。
「……あ、あはは……」
乾いた笑いが漏れた。
悔しい。
自分よりも数千時間、多く「地獄」を歩いてきた男に、要領だけで勝てると思っていた自分が、あまりに滑稽で、そして惨めだった。
2035年、11月4日。
スタメンを外れた練習生、黒川祐介。
彼が初めて「勝負の底」を舐めた夜。
深夜の静寂の中で、AETHER製のマウスだけが、主人の静かな怒りに呼応するように、鋭く、紅く、明滅していた。




