第6話:凪の予兆
2035年、11月1日。
世界を揺るがすニュースは、朝の冷え込んだ空気と共にスマートフォンを震わせた。
黒川祐介が寝ぼけ眼で画面をタップすると、そこには国内最大のeスポーツニュースサイトの速報が躍っていた。
【速報】Fenrir・Takeru、北米名門チーム『Astraea』へ完全移籍
「日本で勝つのではなく、世界で勝ちたい。そのために、僕はここを出る」――グループステージ敗退から一ヶ月。日本の至宝と呼ばれた男は、会見でそう言い残し、単身海を渡る決意を語った。
画面の中のTakeruは、以前のインタビューで見せたような絶望の色を消していた。代わりに宿っていたのは、退路を断った者特有の、鋭く冷たい殺気のような意志だった。
「……結局、そうなるよな」
祐介は呟き、デバイスを放り投げた。
日本一のチームにいても、世界には勝てない。だったら世界一の場所へ行く。それは、要領よく最短ルートを歩むことを良しとする祐介にとっても、極めて理解しやすい「正解」だった。
しかし、胸の奥に、言葉にできないざらついた感覚が残る。
昨夜のスクリムで味わった、あの喉の痛みと心臓の鼓動。それを経験してしまった今の祐介にとって、Takeruの離脱はただの効率的なニュースではなく、一つの時代の「敗北」の肯定のように思えた。
*
学校への登校中、街の至る所に設置されたホログラム広告が、一斉にその色彩を塗り替えた。
巨大企業AETHER社による、今季最大のオープン大会『AETHER Nexus Open』の開催告知だ。
「――賞金総額、十億円。参加チーム、一万五千。優勝チームには、V1リーグへの挑戦権、そしてAETHER社次世代デバイスのプロトタイプ使用権を付与する」
街頭のスピーカーから流れる合成音声が、eスポーツのさらなる巨大化を告げていた。今回の大会は、VR観戦席が決勝トーナメント全試合に導入され、観客は選手の「心拍数」や「マウスの軌跡」までリアルタイムで同期して体験できるという。もはやゲームは単なるエンターテインメントではなく、人類の感覚を共有する新しいインフラへと進化しようとしていた。
教室に入ると、話題はその大会一色だった。
「見たかよ? 優勝賞金だけで一生遊べるぞ」
「V1挑戦権とか、もうアマチュアの夢じゃん。Blue Cometとかも出るんだろうな」
祐介は彼らの喧騒を聞き流しながら、こっそりと自分の戦績画面を開いた。
ここ数日のランクマッチ。
祐介のスタッツは、以前とは劇的に変わっていた。
かつては毎試合30キルを叩き出し、一人で試合を壊す「Wipe Outの量産機」だった。だが今のリザルト画面に並ぶのは、15キル、10キルといった平凡な数字だ。代わりに、アシスト数は以前の三倍に跳ね上がり、勝率は驚くほど安定していた。
以前なら連勝の後に必ず連敗の波が来たが、今は2連勝、2敗、3連勝といった具合に、負けが込まず、少しずつだがポイントが積み上がっている。
(……なんでだろ。キルを取ってる感覚は、全然ないのに)
リザルト画面の下部に表示される「味方からの推薦」の通知が、絶え間なくポップアップする。
以前は「Crazy Aim!」という称賛ばかりだったが、今は「Good Comms」「Best Support」というメッセージが増えていた。
Leonに叩き込まれた情報の言語化。それが無意識のうちに、自分ではない誰かに「最高の一撃」を撃たせていた。自分が英雄になるのではなく、勝利の設計図を引く。その変化が、自分のスコアを削る代わりに、チームの勝率を支えている。
祐介はその変化に、戸惑いと、そして微かな居心地の悪さを感じていた。
ヒーローになれないのは、つまらない。
でも、負けないのは――それほど悪くない。
*
放課後、実家の割烹料理屋『黒川』の暖簾をくぐる。
いつもなら、鞄を置いてすぐにエプロンを締め、出汁を取る手伝いを始めるのが祐介のルーティンだった。しかし、この日は違った。
「祐介。今日は予約が多い。悪いが、あっちの部屋のセッティングも手伝ってくれ」
板場で包丁を握る父親が、背中で言った。
祐介は足元を見つめたまま、一瞬だけ躊躇した。
「……ごめん。今日は、無理」
板場の手が、ピタリと止まった。
「……なんだと?」
「練習があるんだ。21時から、大事なスクリムがあって。その前に、見返さなきゃいけない録画が山ほどある」
「練習って……あの、ゲームか?」
父親の声には、怒りよりも困惑が混じっていた。
何事も適当に、そつなくこなしてきた息子が、初めて何かを「優先」するために、家の伝統を拒絶した。その事実の重さに、祐介自身も心拍数が上がるのを感じた。
「……ああ。ゲームだよ。でも、遊びじゃないんだ」
それだけ言い残して、祐介は二階の自室へ駆け上がった。
心臓がバクバクとうるさい。自分でも驚くほど、声が震えていた。
要領のいい自分が、こんな非効率な衝突を選ぶなんて。
自室に入り、デスクに座る。
AETHER製のマウスの冷たい感触が、高ぶった神経を鎮めてくれる気がした。
彼は『Aether Link』を起動し、LeonとShoが待つプライベートチャンネルへと入室した。
*
チャンネル内では、祐介とShoの二人だけでVODのレビューが行われていた。
数日後に行われる『AETHER Nexus Open』のスターティングメンバー発表。Leonは「これからの数日間のスクリムの結果で決める」と宣言していた。
祐介とShoは、一つの枠を奪い合うライバルだった。
「……Kurosuke、ここ。俺、このタイミングで出るべきだったよな」
画面上のShoのキャラクターが、敵のガーディアンのトラップに引っかかって倒れるシーンで、Shoが溜息をついた。
「いや、Shoさんのタイミングは悪くないですよ」
祐介は録画を数秒巻き戻し、一時停止した。
「この時、敵のディレクターが右にモク(スモーク)を置いてる。これは『ここから来い』っていう誘導なんです。Shoさんは真っ直ぐ行きすぎ。俺だったら……一瞬待って、モクの端を擦りながら入ります。Shoさんはエイムが強いから、そこさえクリアできれば勝てるはずなんです」
祐介は、自分の「嗅覚」が捉えた違和感を、Leonに教わった論理で丁寧に説明した。
逆に、Shoは祐介に「プロの基礎」を説いた。
「Kurosuke、お前の今の報告は完璧だ。でも、ここでお前が視点を外した瞬間、俺の右側は完全に無防備になる。お前にはその『感覚』があるかもしれないけど、俺たち凡人には、お前の視点がどこを向いているか、画面を見ないと分からないんだ。もっと、自分の背後を味方に預ける動きをしてくれ」
「……背後を預ける」
「そう。お前は強すぎるから、一人で全部見ようとする。でも、それじゃチームにならない。お前の欠けてる部分は、俺が埋める。その代わり、俺が行けない場所をお前の『嗅覚』で教えてくれよ」
互いの長所を認め、短所を指摘し合う。
嫉妬がないわけではない。スタメンに選ばれたいという執念は、二人とも同じだ。しかし、それ以上に「最高のチームで、あの絶壁を越えたい」という共通の目的が、二人を奇妙な絆で結びつけていた。
「Kurosuke。どっちがスタメンになっても、恨みっこなしだ」
「……当たり前ですよ。面倒くさいのは嫌いですから」
祐介はそうそっけなく返したが、画面の中のShoの真剣な横顔――アバター越しではあるが――を見て、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
*
23時。
Leonがチャンネルに入室してきた。
全員が揃う。Riku、Kai、Rin、そして祐介とSho。
「AETHER社から正式なレギュレーションが発表された。今回の『Nexus Open』は、予選から本選の決勝まで、すべて専用のスタジアムサーバーで行われる。観客動員数は、累計で数千万人に達すると予想されている」
Leonの声には、いつになく重厚な響きがあった。
「そして、Blue Cometのスタメンについてだ」
祐介は、マウスを握る手に微かな汗を感じた。
要領だけで生きてきた少年が、初めて「結果」を恐れていた。
実家の手伝いを断り、喉を枯らし、泥を啜り続けたこの一週間。
その対価が、今、示されようとしていた。
「明日から三日間、V2のトップチーム、そして海外の練習生チームと計六戦のスクリムを行う。その内容を以て、スターティングオーダーを確定させる。Sho、Kurosuke。準備はいいか」
二人は、同時に答えた。
「はい」
「了解です」
深夜の静寂の中、AETHER製のデバイスたちが、戦いの予感に共鳴するように淡い光を放っている。
凪の時間は、終わった。
2035年。
日本の至宝が去り、世界が変革の時を迎える中で。
一人の少年は、自覚なきままに「勝負」の深淵へと、その片足を深く踏み入れていた。




